大饗城
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大饗城址にある城岸寺本堂(03年9月)     濠を埋めて出来た公園(03年9月)

埋め立て前の濠と建替え前の本堂(美原のあゆみより)

阪和自動車道下、府道36号線「北余部北」交差点を北進、700メートルほど行くと城岸寺がある。この寺が大饗(おあい)城址の中心地。別名城岸寺城というのもこのへんから来ているのか。境内には石臼が多数あり、門前の説明板を読まないと異様な感じがする。本堂右手には墓石が集められているが、古い五輪塔もあり、戦乱の犠牲者を祀るものか。寺のまわりの濠は埋め立てられて、公園や児童館になっている。上右写真は公園の入口が封鎖されており、発掘調査中。覗くと、穴の中は埋め立てた廃材が顔を覗かせていた。もう少し掘り下げたら、濠の底に到達するらしい。下のモノクロの写真は公園になる前の写真である。城岸寺本堂も古いものであり、昭和五十六年以前に撮影されたものと思われる。

 

     大饗 城岸寺城跡 (城岸寺門前の説明板より)

  別名大饗城ともいう。 大饗の地名は称徳天皇の頃、(約千二百四十年前)丹比行宮の饗宴場であったことに起因すると伝えれる。城岸寺城は南北朝の頃、楠公の一族である和田和泉守が城ヶ峯と称する周囲濠をめぐらした要害の地に城塞を築いたとされており、現在この濠は昭和五十六年に埋立てられ、城岸寺公園、児童館が設置された。   和田氏は楠左衛門尉成康の二男、太郎親遠から始まり河内から泉州和田村に居城を構え和田氏を名乗った。(現在の岸和田城)その子、四郎高遠、その孫、正遠(正成の甥)その子孫、高家、正武等が城岸寺城に居を構えた。正平七年(約六百六十年前)和田助氏の軍忠状(自分の手柄を記した書状)に大饗城の名が見えることは大阪府史、狭山町史に記載されている。その後、元享年間(約六百九十年前)に融通念仏宗、中興の祖、法明上人が河内の国、念仏勧進の際、病気平癒のため、当城岸寺を建立し、現在当寺に伝わる通称「たくまはん」と呼ばれる阿弥陀如来来迎図があり信仰を集めている。「たくまはん」はその昔、一世を風靡した狩野派、巨勢派(巨勢の金岡は金岡神社の祭神)と並び称された宅磨派、宅磨判眼良賀の作といわれている。昭和五十六年に現在の本堂が建立された時、発掘調査が行われ南北朝の頃(約六百七十年前)と推測される建物跡が発見された。 尚、境内植込の石臼は前の本堂建立の際(約百九十年前)に基礎石として、使用されていたものである。     無量山  城岸寺

正平六年二月、淡輪助重(北朝形から南朝方になる)が大饗城を攻めている。当時、大饗城が和田氏の城で南朝方ではなかったのであろう。

 

城岸寺城址 (本堂回廊下に転がしてある古い説明板より)

 古名は城が峰と稱し    周囲濠をめぐらして    城岸寺と号した    楠氏の一族和田和泉守    の領となってから城塞を        に属する名刹である。

  美原町教育委員会    美原町郷土研究会

大饗(おわい)城(狭山町立郷土資料館だよりNO.6より)

 南北朝期、楠木氏と行動を共にした和田氏の本拠地と伝えられている。南北三七m、東西四八mの方形の城跡が残っている。ただし、今は城岸寺の境内となっている。城跡の北方には城ヶ池(溜池)があり、他の三方にも堀が巡っていたという。 近年、美原町教育委員会の発掘調査によって、城跡内より小規模な礎石建物跡や焼土層が検出された。

所在地 → 大阪府堺市美原区大饗