津々山城
[ ホーム ] [ 上へ ]

 

  

       廿山北古墳(13年5月)              長福寺境内より西側のピーク(13年5月)

 羽曳野丘陵の富田林市津々山台にあった。羽曳野丘陵は現在開発が進み、住宅地が広がる。楠正成が築いた砦の一つで、激しい攻防があった。場所は推定するしかないのだが、廿山地区の長福寺付近と考えられ、津々山台にある廿山古墳もその一つ。現在は公園になり、きれいに整備されており、地形は推定するしかない。墳丘を取り巻く濠が確認されており、それを堀として利用した可能性もある。もう一つ、寺の西側のピークが城址として適当な地形である。両者間は300メートルくらいの距離であり、一体化して考えてもおかしくはない。この地区は開発の外縁にあり、宅地開発から免れ、かろうじて落ち着いた昔日の雰囲気を残している。ここから、現在の羽曳野丘陵を睥睨している某教団の「平和の塔」が見える。

津々山城址(大阪府全志より)

 津々山は北方埴生山脈中の丘山なり、北は野田村大字南野田同北野田に属して東西南の三面は本地に属し、其の本地所属中の字二本木は津々山城のありし所なり。十数年前山頂より古鏡古劔青銅鏃等を発掘し、其の青銅鏃数本は郡役所を経由して奈良の帝室博物館に保存せりといふ。城は元弘二年年楠正成の設けたる城塞中の一にして、隅田氏之に據りしが、後、正平十四年十一月二十三日足利義詮は京都を発して攻寄せ、和田楠の八尾平石龍泉赤坂に築きて之に対するに際し、翌十五年二月十三日足利方の先陣二十万余は此の津々山に上りて陣を取り、丹下俣野譽田酒勾水速湯浅太郎貴志の一族五百余騎之に降り、京方大に気勢を挙げて、和田楠とて何程のことかあらんと思わぬ人はなかりしも、騎馬懸合て勝負する程のこともなく、互に野伏を出して矢軍に日を送り、寄手案内を知らざれば手負討たるゝもの多かりしが、滞陣長くなるに従ひ、部下の節制弛みて神社佛閣等に乱入して狼藉を極め、閏四月に及びけるに寄手土岐桔梗一揆の中に才覚ある老武者あり、龍泉城に守兵の少きを察し、同一揆の者馳向ひて之を攻落し天下の称歎を得んと、其の衆五百余騎之に同じ、同月二十九日の払暁忍んで山を出で、霧の紛れに龍泉の一の城戸に押寄せ喊聲を揚げけるに、細河清氏と赤松範實は之を聞くと均しく人に先んぜられたりとて、鎧取て肩に投げ懸け道々高紐を堅めて急ぎ、龍泉の西の一の城戸高櫓の下へ懸上り城内に競ひ入りて之を責落し、つづいて平石八尾赤坂も陥り、和田楠は金剛山の奥に入れり。

廿山(つづやま)北古墳(現地説明板より)

この古墳は羽曳野丘陵上にあって、標高は墳丘頂上で130メートルである。古墳の外形は方形をしていて、一辺約32メートル、高さ約7メートルの二段築成の方墳と考えられる。墳丘上には埴輪や葺石などの外部施設は認められない。また、内部構造や出土遺物についても明らかではない。もとは、古墳の周りに小さな灌漑用の溜池があって、周濠があったことを思わせる。古墳の築造年代については明らかではないが、この古墳から北東約700メートルの石川を見下ろす羽曳野丘陵東縁には、方形の外形をもつ宮林古墳があって、古墳時代前期(4世紀後半)に属することがわかっていることから、廿山北古墳も同じ年代と考えられるが、推測にすぎない。いずれにしても、市内南部の地域に勢力を誇った豪族の墳墓と考えられ、石川谷に存在する古墳のなかで保存整備され、市民の憩いの場として活用を図られた貴重な古墳である。 平成元年3月31日 富田林市教育委員会