宮里城
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槙尾川の橋から見る城址(13年3月)

国分町が黒石町と接するあたりに位置する南池田第二保育園が城址。字名が「城山」と呼ばれ、最近における和泉市の推測地。前には黒石からの旧街道が通り、槇尾川の急峻な流れが天然の堀。以前から切坂城址と同じ城址ではと言われていたが、最近の研究で、宮里と切坂は違うと言われ出している。私も切坂城の項では「同じ城」という意味のことを書いている。切坂と同じような立地である。ただこちらは何の痕跡もない。戦国期も利用された切坂城のような土塁あとらしき物も見当たらない。独立峰でもない。河岸段丘の一部で背後には山裾が広がり、背後の防御には弱い地形である。前面の街道を来る敵に対しては、防御効果も期待できる。槇尾川も急峻な断崖が両側に迫るが、はたして昔日はどうであったろうか。地形は時代と共に変化しているので、現在の地形で判断するしかない。切坂城はそのいい例で、今は独立した峰になっているが、当時は峰続きであったろう。槇尾川も水量が豊かだったことが想像できる。神武天皇伝説にあるごとく、この辺までは小舟で遡上できたのだろう。延元二年(1337)四月、槇尾寺の南朝方に対して北朝方は宮里城に立て篭もり、横山からこの付近にかけて戦いが繰り広げられている。もともと城の名前からして、和田氏家臣「宮里四郎左衛門」の持ち城か。南朝方の天野山金剛寺や槙尾寺、松尾寺の寺社を守る前哨砦的なものが槙尾川沿いに数ケ所存在していたものの一つなのだろう。数度の戦いでとったりとられたりの、繰り返された戦いがあったことが想像できる。