新堀城(堺)
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新堀城址の今池と高層マンション(11年6月)

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 石山本願寺派の新堀城は天正3年4月、信長勢にかこまれて落城。三好一族の大将香西元成、十河存保、三好政長が戦死。この戦いで近くの華表神社、愛染院、白王寺が焼失。この戦いを期に三好一族の堺地区における支配は終わりを告げ、かわりに今井一族が台頭してくる。城跡は地下鉄北花田駅の南東、新堀町にある五箇荘中学校から今池にかけてと想像できる。今池は城址の高台に築かれた溜池。南を長尾街道が通り、西を狭間川が流れ、当時は小高い丘になっており、街道を監視するには絶好の位置。長尾街道は堺の町と山手「高屋城」を結んでいる。ほぼ真っ直ぐに伸びる街道がここで妙に湾曲している。もとは真っ直ぐな道が、この城造りで曲げられたのか、元は真っ直ぐ城の中を通っていたのかも。大阪市内にも同じ新堀城がある。どちらが本当の新堀城なのかは確定していない。地形的には大和川が開鑿される以前の地形を見るべきで、開鑿後の現在の地形を見ると誤る可能性があり、私はここ、堺の方を押したい。ここ五箇荘も村の周囲に濠を巡らせた環濠集落。

 

華表神社由緒

社記によれば素盞鳴尊は仲哀天皇九年十二月神宮皇后筑紫に凱旋あり翌年摂津國難波に至り給ひしときに鎮座あらしめ給ひ宇賀御魂命は嵯峨天皇の弘仁元年五穀成就の為め沙門空海之を勧請し後、後醍醐天皇の元享元年山城國男山若宮八幡を勧請して供料三百石を寄せられ勅願所となれりと。東光山薬師寺を稱する神宮寺の外多聞院東之坊明王院威徳院西之坊乾坊無量壽院の七僧坊ありて榮えたりしが織田信長に至り供料は没収せられて衰微せり、明治維新後の神佛分離に際し寺は廢絶し社は同五年村社に列せらる同四十一年附近の數社を合祀せり。(神社説明板より)

五箇荘中学校角にある長尾街道説明文

長尾街道は、古代には大津道あるいは丹比道、江戸時代には大和街道とよばれ、堺と河内・大和地方を結ぶ最も重要な東西道でした。花田口から大豆塚町・船堂町・南花田町を経て、奈良県当麻町長尾で竹内街道に合流しました。(石柱説明文より)