大坂奉行所
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           東町奉行所跡石碑(11年4月)        西町奉行所石碑(11年4月)      西町奉行所石碑マイドームおおさか玄関前(11年4月)

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 東西奉行所は地下鉄谷町線「天満橋」駅下車、東へ約100mの大阪合同庁舎1号館植え込みの中に石碑がある。石碑には「東町奉行所址」とあり、何の説明板も無い。通りの奥には大坂城乾櫓が見える。大坂城の三の丸内にあたるのか。現在でも付近は府庁や府警本部などの官庁が立ち並んでおり、昔のまま。ただし、遺構は地下の中に眠る。幕府直轄地の大坂では、老中支配の大坂町奉行で警察・司法・行政の任にあたった。元和五年合同庁舎1号館の付近に東西両町奉行所が並んで置かれたが西町奉行所は、享保九年の大火後、本町橋二丁目の「マイドーム・おおさか」がある現在地に移った。「東町奉行所址」石碑前の道を西に向かうと800メートルくらいで東横堀川に出合う。これが大坂城惣構の堀。高麗橋から南へ平野橋、大手橋(思案橋)、本町橋。本町橋の東側一帯が西町奉行所跡である。現在はマイドームおおさか・商工会議所・ホテルが建っている。マイドームおおさかの正面と駐車場入口に二つの石碑と説明板がある。もちろん遺構など無いが、マイドームおおさか建設時の発掘調査において、奉行所跡や大坂城惣構の跡が発掘されている。当時の奉行所の建物も凄かっただろうが、現在の「マイドームおおさか」も権力の象徴みたいな建物だ。ちなみに大手橋東には義侠「天野屋利兵衛」の石碑がある。江戸時代の高麗橋西詰め両側には高札場や民間の二層櫓があり、三井呉服店がある繁華街。

 

大坂城惣構跡  西町奉行所跡  史跡 大阪府庁跡(初代)(現地説明文より)

 文禄三年(一五九四)豊臣秀吉は 大坂城と城下町を大きく取り囲む 延長八キロメートルに及び城壁を築いた これは大坂城惣構と呼ばれ 町を防御し城の守りを更に固めるために作られた軍事施設で 小田原城や伊丹城など ごく一部の城にしか見られない珍しいものである  昭和六十年十二月 当地を発掘調査した結果 地下四メートルのところから溝で囲まれた建物や広場がみつかり 惣構の一部が砦になっていたことがわかった この惣構に沿う東横堀川に本町橋がかっている上でとりわけ重要な場所とされ 慶長十年九年(一六一四) 大坂冬の陣において豊臣方の侍大将塙団右衛門が この橋を渡って徳川方に夜討ちをかけたことで有名である 江戸時代になると 大坂は幕府が直接支配するところとなり ここには浜の御蔵と呼ばれる米蔵や代官所が建てられた やがて大坂城で使う味噌を醸造するところとなり 春屋(大豆を細かくつぶす所) 麹室(発酵をさせる所) 土蔵(味噌を貯蔵する所)などが設けられたこれらを御塩噌蔵とよんだ。 享保九年(一七二四)には 妙知焼といわれる大火により このあたりはすべて灰燼に帰した この焼け跡に移ってきたのか 西町奉行所(敷地は九六○○平方メートルに及ぶ)である 明治になると大阪鎮台営所(軍司令部) 大阪裁判所として使用されたが すぐに初代大阪府庁となり 庁舎は奉行所の建物がそのままつかわれた 明治七年年になると大阪府庁は西区江の子島に移転  更に大正十五年 東区大手前之町に移され現在に至っている なお当地は初代大阪府庁跡として 昭和四十五年二月二十日 大阪府文化財保護条例により 史跡第一号に指定された     昭和六十二年九月       大阪府教育委員会

駐車場側の石碑側面の文

西町奉行所は 享保九年(一七二四)からこの地におかれ 庶民との関係が深かった 明治時代には市内随一の楽園大阪博物場がここに設けられた