毛人谷城
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毛人谷城址全景(10年11月)

近鉄長野線「富田林西口」駅北へ約500メートル、昭和町1交差点付近から墓地にかけてが城址。楠正成城砦群の一つで地元の富田七郎、八郎兄弟が守備していた。戦前の皇国史観時代には公園となり、富田兄弟の像があったという。現在は自動車学校と墓地に変貌している。歴史が時代に翻弄された一つの例なのかも。そんなことなので遺構は何も無い。地形が物語るだけである。地元の民話の中で、富田兄弟が活きているだけかもしれない。毛人谷の漢字を見て、最初は土蜘蛛伝説に近いものかと思ったが、読み方が「えびたに」と知り、蝦夷からの転訛という、大阪府全志説がぴったり。

毛人谷城址(大阪府全志より)

 本地は古来石川郡に属し、毛人谷(ゑびたに)村と称す。字地に谷川といへるあり。村名の毛人は蝦夷ならん、景行天皇以来蝦夷の俘となりしもの、又は其の内附を請ひし者を諸国に分ち居らしめしことあり、地名に依りて考ふるに、此の地或は上古蝦夷人の居住せしことありて、此の地名を為せしにはあらざるか。毛人谷城の址は西方高地にあり。城は楠正成の設けし城塞中の一にして、富田氏の兵の據りし所なり。今は雑木林となる。

日本家系協会出版部(昭和49年7月限定400部)より抜粋

河内国丹比治郡富田庄の地名を負う富田氏は橘姓楠木氏が族葉なり。広厳寺の楠木一族霊碑に富田七郎正武と載する人なり、湊川にて戦死す。石川郡毛人谷城(富田林町毛人谷)は正成の設けし城砦群の一つにして、のち富田氏が居城となれりという。