喜連城
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城址に建つ如願寺本堂(10年9月)

地下鉄谷町線「喜連瓜破駅」下車、北へ数分、喜連3、4丁目にまたがり環濠集落を形成していた。環濠の北東に位置する如願寺が城址。現在、環濠は道路に化けたが、環濠の水路跡を歩くことが出来る。環濠入口には地蔵さんが祀られており、良い目印になる。南口地蔵に始まり、馬倉地蔵、東口地蔵、尻矢口地蔵、北口地蔵、西口地蔵とある。目指す如願寺は環濠の北東隅にある。境内に入ると少し高くなっており、隣の楯原神社と合わせると、城址の中心地であることが想像はつくが、何も遺構は存在しない。お寺のたたずまいが昔の雰囲気を醸し出している良い寺であり、本堂の屋根の上には鯱が鎮座する。昔の面影を残しているかのように。神社も良い雰囲気である。ただ神社の方は場所を三度ほど換えており、ここが最初からあった場所ではない。神社の説明板には、如願寺が楯原神社の神宮寺との事。境内には「息長真若中女」の石標などがある。市街化が進んだ今、ここが環濠集落であることすら、想像できない変ぼう振り。

 

喜連城址(大阪府全志より)

 其の地は平野郷町の南に接して、西は住吉・東は河内國の舊渋川郡に連る所にあれば、往時に於ては交通上の要地たりしなるべし。東北より西・西より南の一邊に繞りて濠渠の跡とも見るべき井路を存し、部落の人家は中央にありて小渠更に之を四繞せり。即ち喜連城のありし所にして、廢城の後に至り散在せし各部落の此に移轉聚團せしものなりといふ。城は畠山・三好両氏必争の所にして、天文元年には細川氏綱此に據り、玉井源秀之を補けしが、同十二年遂に畠山氏の為めに陥れられ、去りて泉州に退き、尋で桃井氏之が城主となり、後複た平井氏の據る所となりしが、同氏滅びて廢城となれり。

喜連城址(喜連村誌より)

現存せる残塁は本村西部々落民家の周囲にありて、既に其形を失ひたれども、猶高二尺餘あり、残塁も処々に存し、大なるは幅二間、深さ数尺に及び、小なる所にては幅数尺、水深を有せざる処もあり。民家の建築物に利用されたるもの多ければ、注意せざれば判明せず。本城は元高屋城の属城にして、畠山三好闘争の地なりき。天文初年、細川氏綱之に拠り、玉井源秀之を輔けて、畠山氏に抗せしが、同十二年畠山氏の為に陥れられ、泉州に退きぬ。後桃井氏之に拠り、平井氏に及びたりしが、平井氏滅びて城廃せり。