佐野城
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      旭町の舘跡(10年2月)         春日町の春日神社(10年2月)

第二阪和道(国道26号)を南進し、泉佐野市内へ。先ずは佐野城跡の南海本線ガード下に行ったが痕跡すら無し。強いて言えば、旭町の第三小学校敷地辺りがそれらしいが。その後、春日町の春日神社へ。想像以上に大きな神社で元禄年代の古い灯籠などもあり。神社境内を取り囲むように流れる川が、堀の痕跡かも。ただし、信長が掘ったものではなく、それ以前からあるのでは?古い神社だが、信長が利用したとすれば、焼き討ちにした後、ここに陣所を置いたのだろう。附近の道路は工事中で歩くこともままならず。直ぐ商店街も開け、以前はここが佐野の中心地だったのかも。この神社にも何の痕跡も無し。見事に消滅した例を二つ見た。室町時代に郷士多賀氏が構えたのが旭町、信長が陣を置き、その後信長が築城を命じた砦が春日町と推定する。御互いに場所は近いので、時代的に少し移動した可能性もある。前者が多賀氏の居館城とすれば、後者は戦闘的な砦だったのかも知れない。はっきりとした確証の無い城址である。

佐野城の址(大阪府全志より)

佐野城のありし所なり。天正五年二月雑賀征伐の途に上れる織田信長は、同月十八日本地に陣を移して、同二十二日紀州との境なる志達(信達なり)表に陣を進め、雑賀衆降伏しければ、陣払して翌三月二十六日本地に要害を構ふべき旨を命じ、佐久間・羽柴・惟任・荒木摂津守・池田勝三郎等を残し置き、城の出来せし時には定番として津田太郎左衛門に杉の坊を差添へて籠置かる。此の津田太郎左衛門は紀州那珂郡吐前城主津田監物算正ならん。紀伊続風土記・和歌山縣誌には、津田監物算長の子監物算正は織田家に仕へ、雑賀征伐に功ありて平の姓を授かり、泉州佐野城を与へられて一万石を領し、後徳川家康に属して小牧の役に従ひ、豊太閤南征の時に所領を没収せらると記せり。

春日神社(大阪府全志より)

社記に依れば、光仁天皇の宝亀年間三笠山の春日神社を坂上苅田丸の勧請せしもの当社の起原なり。後亀山天皇の天授二年坂上正澄社殿を造営せしが、後小松天皇の応永六年領主大内義弘の敗るるに及び、拝殿・倉庫・平城寺等悉く兵焚に罹り、神殿のみ僅に災を免る。天正十三年までは五座各別殿なりしも、同年根来の亂に復た焼失せしかば、其の後同殿祭祀となれり。