観音寺城
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「観音寺町」バス停南側公園の石碑(02年10月)  石津川畔の顯家慰霊碑(03年4月)

和泉市民病院を東方向、泉北高速「和泉中央駅」に向かう道筋、登り坂の差し掛かる所。北側、西側共に開けた所、背後に丘陵地を控えている。遺構は何も無い。地形から昔日を偲ぶのみ。石碑背面には以下の碑文あり。

延元三年五月二十二日鎮守将軍陸奥守北畠顕家観音寺城を発進す、石津川畔に陣を敷ける足利方武将和泉國守護細川顕氏の軍を敗り阿倍野まで進出し高師直の軍と一戦を交ふ激戦の末、大敗を喫し顕家は無残戦死す時に齢二十一才、麾下の兵は敗走して一旦はこの城に集結し再挙を計りたるも勝に乗じて攻め寄する敵に抗すべくもなくあへなく敗れて城陥り城兵南方の山づたいに逃走せり、爾来六百有余年特に近年時勢の変遷にて山容一変し旧態を留めず城跡亦荒廃して昔を偲ぶ術なし、村人史蹟の壊滅を惜しみてこの碑を建つ

顯家戦死の地、石津川太陽橋南詰めに石碑がある。表は「南無阿弥陀佛」裏面左は「正徳三癸巳年四月建之」裏面中央は「行家」とある。この石碑が一番古い。顯家が戦死したという伝説地に「行家」と刻まれているが、顯家に従った奥州の武士、何某の行家の可能性が高い。正徳といえば1713年、行家の子孫が建てたものかも。行家を「源行家」とする説には賛成しかねるがこの石碑も謎。その右に大正八年大阪府が建てた「此附近北畠顯家奮戰地」の石碑がある。中央には五輪の立派なものがあり、道路沿いに説明文を書いた石碑がある。この五輪塔と説明石碑は同じ時期に建てられたようである。五輪塔の表は右に「源顯家公」中央には「殉忠遺蹟供養塔」左に「南部師行公」とある。又説明文の全文は下記に。しかし残念なことに、石碑右上が欠けており、判読不可。それと左真中辺も欠けており判読不可。

 

 石碑碑文

○○○○守府大将軍源顯家公ハ村上天皇ノ皇子具平親王第十二世ノ孫准后源親房公ノ○○○ル、延元二年顯家公勅命ヲ奉ジ逆賊足利高氏ヲ討ッテ京都ヲ奪回セント奥州糠部郡ノ精兵ヲ率ヰテ再ビ西上ノ途ニ就キ各地轉戰シテ賊軍ヲ破ッタ、然ルニ翌三年三月十六日摂津阿倍野ノ戰ニ惜シクモ敗レ、僅カニ棧兵ヲ率ヒテ和泉ノ國観音寺ニ據ラレタ、ヤガテ五月十六日賊将高師直ノ軍堺浦ニ陣シタノデ、二十二日官軍ハ進撃シテ激戰數刻ニ亙ッタガ利ナク顯家公ヲ始メ武石高廣名和義高村上義重公等石津ニ壮烈ナ戰死ヲ遂ゲラレタ、顯家公時ニ年二十一    甲州波木井梅平ノ城主南部師行公亦東奥ノ精兵二千ヲ率ヰテ従軍シタガ顯家公ノ戰死ヲ知ルヤ僅カニ殘ル一族郎党百八人ト共ニ敵陣ニ斬リ入ッテ亦悲壮ナ戰死ヲ遂ゲラレタ   此ノ戰賊軍一万八千、官軍僅カニ三千、思ヘバ去年八月國ノ出テカラ行軍三百五十里十月長キニ亙ッタ後テアッタガ将兵ヨク戰ヒ遂に力竭キ石津ノ原ニ護國ノ神ト鎮リ給フタノデアル今年ソノ六百年ニ當リ追福ノタメ町有志志ハ塔ヲ造立シ今日身延山法主望月大僧正御親脩本宗大阪府下寺院参加ノ下ニ開供養ト六百回忌大法要ヲ執行シタ  昭和十二年六月二十七日 長三十六世 行三十三世  男爵南部日實書(赤字は推定文字、○は不明文字)(南部師行は奥州八戸根城を築城した)

 

鎭 守 屋 敷(源顕家の墓)(大阪府全志より)

石津川太陽橋の南詰なる紀州街道の側に鎭守屋敷といへるあり、東西貳間・南北四間にして、高さ參尺饐の角石に「南無阿彌陀佛」と題し、背面中央に「行家」、側面に「正徳三年癸巳年四月十七日」と刻せり。其の地は從來除地たりし所にして、浄念寺所藏延寳七年三月八日の檢地帳に、「八歩東西貳間南北四間鎭守宮屋敷、但し宮建なり、是は文祿四年柴田新兵衛檢地にも除候に付、往古之通除之」とありて、小祠の存せしこと見ゆるも、寛政四年領主に提出したる明細書に、「鎭守屋敷東西貳間南北四間、此反別八歩」とあるのみにて小祠のこと見えざるは、正徳年中颶風の爲めに倒壊せしに依る。當時建祠取締の嚴なる際なりしを以て、祠は終に再建に至らず、祠と共に風に倒れし塚上の老松を賣却して建てられしは即ち現在の碑にして、其の記せるが如く行家の墓なりと里傳し來りしも、塚は行家の墓にあらずして顯家の墓なるを、村民に一丁字なく、顯家のあを行家のゆに誤りて、かくは行家の墓なりと傳へしものなりとの説あり。思ふに本地附近は顯家戰歿の所なれば、其のいへるが如く顯家の墓なるべし。之に關し星野文學博士の意見あれば、左に其の全文を掲記して讀者の參考に資せん。

 

 石津の民話(浜寺石津小学校PTA発行)

 第七話「十一の溝」の中に興味深い記述がある。要約すると・・・・・・・

北畠顯家が石津河畔で戦死する時、腹心の家来「行家蔵人」に「一旦は逃れ、再挙して戦い、天皇を守れ」。行家は顯家の命令を実行するため、付近の農家に潜んでいたが村人に密告され、他の十名とともに処刑された。その場所が太陽橋より少し上流の左岸で、「十一の溝」と言われている。その後哀れに思った村人は、行家蔵人ら若者の霊を祀るために、地蔵尊を建立した。その地蔵尊も時が経るうちにわからなくなったが、昭和九年の室戸台風で堤防が崩れた時出てきて、手厚く祀られている。そして行家が捕らえられたという場所に墓が村人達の手で建立されたのが、太陽橋南詰めにある行家塚だという。

北畠顯家と言う武将(公家)には私事ながら関心がある。そもそも顯家の子あるいは孫北畠天童丸が故郷天童の名前の由来伝説有り、天童丸も南朝側として、足利勢力と戦っている。顯家は京都から奥州に下り、奥州の兵を率いて京に帰るが、奥州の兵にとって、ほとんどが故郷に帰ることは無かったであろうと思われる。私も故郷を出て、大阪に来たが、観音寺城、石津川畔とも近くで暮らした事がある。これら碑文を見る時、帰れなかった奥州の兵の気持ちが、痛いほどわかるような気がする。

推薦図書 → 北方謙三著「破軍の星」集英社刊。浜寺石津小学校PTA発行「石津の民話」。

所在地 → 和泉市弥生町1