石山本願寺
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大阪城六番櫓北にある推定地石碑(01年11月)      雁木坂東にある石塔(01年10月)

推定地東の井戸(01年11月)                               蓮如上人袈裟懸けの松根(01年10月)

大阪と言ったら大阪城、しかし今更という気持ちが強い。大阪城の地は三代の城址である。信長と長い戦闘を繰り広げた石山本願寺を一代とすると、信長の夢を引き継いだ、秀吉の築いた大坂城が二代目、更に天下は徳川の世になったことを宣伝するために、家康が築いた大坂城が三代目となるのであろうか。天守閣だけは、昭和六年に大阪人が築いた太閤様式の天守閣がある。それも徳川天守台に太閤天守閣をのせた、奇妙なものとなっている。 大阪市教育委員会の説明にもあるとおり、石山本願寺の跡は特定できない。大阪城内であろうと言われているが、大阪市の推定している地は六番櫓北側にある古井戸一帯である。だが京橋口から本願寺のものと思われる瓦が出土している。もう一つは、雁木坂近くにある、蓮如上人袈裟懸けの松の古根である。津村別院が推定しているもので、なにかしら伝説があったものと思われ、一概に否定しきれない。いずれにしろ地中に潜っていることは間違いない。昨今、地中から次々に秀吉時代の大坂城が姿を見せている。近い将来、石山本願寺の姿も見える日が近いのでは。  もともとこの地は前方後円墳ではなかったのかという説がある。縄張り図を見ると、よくにている。私もこの説に賛成である。そうするとかなり大きな古墳であったことが想像できる。

 

石山本願寺推定地(推定地石碑脇の説明文)

  明応五年(一四九六)に、本願寺八世蓮如が生玉庄の大坂に大坂坊舎を建立した。これは現在のところ「大坂」の地名が史料上に現われる初例である。  「天文日記」によると大坂坊舎は生玉八坊のひとつ法安寺の東側に建立されたといわれ、当時は小堂であったと考えられる。  その後細川氏をはじめとする諸勢力との権力闘争の中で大坂の重要性が増すとともに、天文元年(一五三二)に六角定頼と法華宗徒により山科本願寺が焼き打ちされるに及んで、本願寺教団の本拠である石山本願寺に発展した。  石山本願寺周辺は、山科と同様に広大な寺内町が造営された。この造営が現在の大阪の町並みの原型となったと考えられる。  その後十一世顕如の時代に、信長との石山合戦に敗れ、石山本願寺を退去した本願寺教団は、鷺森、貝塚、天満を経て京都堀川に本拠を移転する。   一方、石山本願寺跡には豊臣秀吉によって大坂城が建設される。この時に、大規模な土木工事により地形的にかなりの改造が加えられたと考えられる。さらに大坂夏の陣ののち徳川大坂城が建設されるに際して、再び大規模な土木工事が行われた。   このような状況のため、石山本願寺跡の正確な位置や伽藍跡についてはいまだ確認されていないが、現在の大阪城公園内にあたることは確実と考えられている。   大阪市教育委員会

 

蓮如上人袈裟懸の松(写真右下の説明板より)

  本願寺第八代蓮如上人は明応五年九月この地をえらんで一宇の坊舎を建立し明応八年二月まで居住す。天文元年八月第十代証如上人は山科より本願寺をこの地に移し大坂(石山)本願寺と称す。ここに本願寺は大いに繁昌し道俗男女群集した。永禄十三年(元亀元年)織田信長本願寺に難題を申し入れ遂に石山合戦の発端をなす。而して十一年間攻防の末天正八年三月勅によって和議なる。天正十一年豊臣秀吉大坂城を築く。のち時代は変れども蓮如上人袈裟懸の松の根のみが残りわずかに往昔を偲ぶ。    本願寺津村別院誌(抜粋)

   袈裟懸之松由来(上の説明板隣に)

後土御門天皇明応五丙辰年本願寺中興之祖蓮如上人八十二歳之時茲建世呼称石山御坊去實蓮如上人袈裟懸之松四百八十三年当時之俤存者此袈裟懸之松之根在而己

  昭和五十四年七月