柴島城
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城址推定地に建つ石碑(04年7月)

 阪急千里線「柴島駅」下車、北北東へ200m弱、2丁19番の角地に石碑がある。石碑裏には、かろうじて昭和三年の文字が読める。付近は完全に住宅地に埋没し、城の地形を探すことすら難しい。東側には淀川の堤防が見える。淀川を外堀として、利用したことが、地形から読み取れる。ここよりも北へ100mほどにある柴島神社境内が、昔の雰囲気をとどめている。だが、境内にある大阪市の石柱は「柴島晒ゆかりの地」の石碑であり、柴島城址に関するものは無い。天文年間に築かれたこの城も、淀川の幾度とない氾濫に、推定するしかないのであろう。柴島神社由来でもわかるように、神社さえも移転している。城址も元は少し高台にあったものと思いたいのだが。大阪市の説明板が無いということは、特定することが困難なのだろう。まあ、名も無い古城の一つとしては、いい城址と言うべきか。

 

柴 島 城 址(大阪府全志より)

 柴島城址は詳ならざれども、南方畑地の字に本丸・城道などいへる所あり、方凡二町にして地形他より高きこと約四尺、盖し城址ならんか。伝へいふ、十河一政初めて此に築きて據り、後元和の頃稲葉氏復たえを守れりと。然れども其の興廃等の年月は之を知るに由なし。又莖渡は本地にありしといへども、其の何れの辺なりしかは詳ならず、古詠あり。

 

柴島神社由緒(境内説明板より)

昔から淀川の氾濫により流域地帯は度重なる洪水の為苦しめられていた。鎌倉時代の貞永元年(西暦一二三二年)仲秋の大洪水は、三十日余りの間大海の如き有様であったと伝える。当地域に在った仲哀天皇を祀る森は、他所より一丈(約三メートル)ほど高所であったので村人達が避難していたその処へ柴の束に乗った小祠が漂着した。時は貞永元年菊月二十七日の事である。その後、日毎に水も引き、助かった村人達が産土神(地域の守護神)としてこの小祠この地へ斎きまつったのが起源と伝えられている。当社は元、字白妙(今の淀川河川敷)に在り樹木繁茂し村社の社格を与えられ神饌幣帛料供進社に指定された。明治時代の淀川大改修工事の為、現在地(旧字調布)へ移転され仲哀天皇社も境内へ移された。明治三十四年四月二十六日の事である。宝暦五年六月正親町三条殿より三十六歌仙額並に灯籠一対奉納され、年号不詳午六月園前大納言殿より神号額並に灯籠一対奉納された。特に社宝の御神刀は室町・鎌倉時代の作と鑑定され文化財の指定をうけ博物館で保管されており当社の起源の古さを表わしている。

境内社 摂社−仲哀天皇社(仲哀天皇)

末社−住吉神社(住吉大神・稲荷大神・水波能売神)

主な祭日 歳旦祭(一月一日)・節分祭(二月節分日)・夏大祭(七月十五日)・秋例祭(十月十五日)

かっての夏祭は大変賑やかで、古文書に依れば、淀川での神輿洗いに始まり鎧武者、力士太鼓がでて幟、旗、提灯が林立し、遠近よりの参拝者で境内があふれていたという。当社の起源は「柴島」の名の起こりの一つと言はれ、故事に因んだ柴神輿は昔は毎年でていたが、現在は式年奉祝祭のみくり出される。

摂社(境内説明板より)

仲哀天皇社

御祭神 仲哀天皇

創建年代不詳。柴島神社創建以前、此地は「仲哀天皇の森」と呼ばれ産土神として信仰を集め、仲哀天皇御休息の地と伝えられる。

末社(境内説明板より)

住吉神社

御祭神 住吉大神 稲荷大神 水波能売神

創建年代不詳。明治の頃、末社「水神社」を合祀。特に昔から合祀されている「お稲荷さん」は、人々に親しまれている。