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スポーツ


ヨハキム・ハンセン
2005年9月に、オスロ在住の格闘技の選手、ヨハキム・ハンセンのインタヴィューがありました。
ノルウェーにも格闘技の選手がいるとはつゆほども知りませんでした。
書類を読むとまだ26歳で第6代修斗ウエルター級チャンピオンなど、さまざまな経歴が書かれていました。

合ってみると、170cm、70kg、ノルウェー人としては小柄でどこにでもいるような人のよさそうな「あんちゃん」という感じでした。
刺青をしていて怖い顔をしているので、怖いふんいきをかもしだして撮影をして欲しいと無茶なリクエストありました

一日中一緒にいると、全く正反対でいろいろ私たちのために気配りをしてくれたのには恐縮しました。
練習を始めて見ました。
打撃、パンチ、蹴り技、膝蹴り、肘打ち、頭突き、顔面踏み付けなどなど何でもありです。
スポーツというよりほとんど喧嘩です。
私がひところ夢中になっていた柔道ではとても彼らにはかなわないと思いました。
もちろん、全く別種の競技なので戦うことはありませんが。

さて刺青ですが、ここ数年やたらと刺青をしている若者を見かけます。
ヨハキムも片腕のほとんどと、胸にはキリストと十字架の刺青をしていました。
やはり、知らない人が見ると「ちょっと危険な男かもしれない」という印象でしょうが、どうもただの流行のようです。
簡単に消すことのできない刺青を、いとも簡単にする若者にはどうも納得できません。
歳を取って消そうと思っても、消しゴムでは消えないと思うのですが。

このインタヴィューの後、数日後に日本でトーナメントに参加するそうです。
インタヴィューの質問の中には愚問、思いつきの質問、 ノルウェー語には訳のできないのがあります。
例えば「勝つ自信があるのか」という質問の時には彼は本当に困った顔をして「負けに行く人はいない、勝ちに行くのは当然」と答えてくれました。
当たり前のことですね。
負けに行く人は負けるのに決まっています。

引退後の方が長い
長野冬季五輪、その前のリレハンメル冬季五輪の時には日本から、多くの視察団が来ました。
ノルウェーに「オリンピッアトッペン」、つまり「オリンピック・トップ」というプロジェクトがあります。
オリンピックでメダルを獲得するためのための組織です。
人口わずかに460万のノルウェーのような小国が、なぜ、ごっそり、メダルを独占するのか、という秘訣を探りに、日本から五輪組織の団体が来たことがあります。

私は通訳として同行しました。
日本側から「なぜ、ノルウェーは強いのか」という質問に、ノルウェー人からの答えは、「選手生活より引退後の方が人生は長いのです」「引退後、社会復帰できるように選手をケアーして、将来の不安を取り除き、心身供に競技に打ち込ませる」という答えでした。
日本の視察団はその答えには満足はしていないようでしたが、私は想像もしなかった答えが返ってきて、なるほどと心底感心しました。
超一流の選手は引退後、協会で仕事をしている人もいますが、多くの選手は、普通の人に戻らなければなりません。

セカンドキャリヤ
2007年3月5〜7日まで、筑波大学から、スポーツ選手引退後のセカンドキャリヤについての視察団がきました。
私は通訳として同行しました。
その時の話です。

世界の人気スポーツのチャンピオンであれば、賞金などで十分な収入を得られますが、では「普通の選手はどうなのか」と言われると、どうも心もとないようです。
前記したように、人生は選手だった時より、引退後の方が長いのです。

オリンピアトッペンでの説明では、スポーツ選手の1日は、スポーツ、家庭、仕事、教育、休養、社会によって構成されています。
言われるまでもなく、誰もが知っていることです。
それではその理想に向けての手段です。
視察中、一環して説明を受けたのは、教育のことです。
一流の選手は比較的自分の希望する大学などに入れますが、入ってからは一般の学生と同じ待遇をうけます。
試験が免除になるとか、採点があまくなることは全くありません。
強いて言えば、試合があるので試験日を変えてもらうか、ローンの支払いを少し延期してもらえる程度です。

ローンに関しては、説明が少し必要ですが、学生であれば生活費を国から借りることができます。(学費は無料)
そのローンは学業を終えた後、国に利子つきで返さなければなりません。
その返還期日を延長してもらうのが可能です。
ローンの仕組みを説明するには、項を改めて書かなければ分かってもらえないと思いますが、ここではこれ以上書くのを控えます。

ノルウェーの教育の仕組みは日本とは違うので、説明がしにくいのですが、学校で得た単位、資格は、学校、年齢に関係なく評価されます。
つまり資格さえ取れば、年齢に関係なく、それに適合する職につけます。
この教育の仕組みが日本とはまた違います。
スポーツ選手と教育と言われても、日本では一流のスポーツ選手で大学に籍さえあれば自動的に卒業ができますが、ノルウェーではそれは不可能です。
ですから学校で得た資格はそれなりの重みがあるのです。
例えば、30歳になってやっと大学で資格を取り、そして資格に合った職を見つけることができます。

セカンドキャリヤに焦点が当たり始めたのは、シドニーオリンピック頃からです。
日本では今まで企業のクラブで選手生活を続けていた人たちが、廃部になり選手を吸収する受け皿がなくなってきています。
それではそのような選手のセカンドキャリヤはどうなるのかと言う問題があります。

ノルウェーと同様にするのには、教育の仕組みから変えていかなければなりません。
だからと言って手を拱くわけにはいきません。

ここに一つの例があります。
1996年アトランタオリンピックに参加したノルウェー女子サッカーチームが銅メダルを取りました。
その時のメンバーの一人にインタヴィューをしました。
大柄な女性が多いノルウェーではごく普通の女性でした。
サッカー選手として活躍していた時は医学部の学生で、勉強とサッカーを並行してやっていました。
どんなにスポーツを一生懸命やっても、教育が優先するという確固たる信念を母親から教えられたそうです。
本人もそれに全く同感だったということです。

話を聞くと、朝食を取った後10kmの道のりを、教科書と大きなパンを入れたリックサックを背負い学校まで自転車で行き、放課後はサッカーの練習を2時間してまた同じように自転車をこいで帰宅です。
帰宅して時間が惜しいので食事抜きでそのまま勉強を2時間してそしてベット着いたそうです。
彼女は睡眠時間は8時間必要だったので、睡眠時間を削ってまでサッカー、勉強はしなかったそうです。
食事を抜いたおかげで、病気になったそうですが。

ノルウェーで医学部に入るのには、高校時代の成績が全科目最高点でなければいけません。
学校ではスポーツ選手だからと言って特別待遇はありません。

「随分頑張りましたね」と言うと、「若い頃は心身共に過酷な境遇に耐えることができます」
と当たり前のような顔をして言いました。
確かにそうですね。
彼女はスポーツから引退し、今は小児科の医師です。
家庭を持ち3歳?の息子がいる今の方が大変だそうです。
サッカーで得たものは、今は付き合いがないサッカー仲間、そして膝の怪我、銅メダルと政府から10万円の報奨金で、「そこから税金を50%払いましたと冗談ぽっく」言いました。大仕事した割りには手取り5万円とは少ないですね。
もっとも本人はお金は当てにはしていなかったそうですが。
最後に、「日本に4−0で勝ちました」と言いました。
おかげで日本はメダルを逃したのでしょうね。

ディター・トーマ
2月6〜7日'03日、ノルウェー第3位の都市で開催されたジャンプワールドカップで、ドイツの元オリンピック選手ディーター・トーマ/Dieter Thoma(1969年10月19日生、リレハンメルオリンピック、団体金、ノーマルヒル銅メダル)にインタヴィユーをする機会がありました。
ジャンパーにとって、何が大切かという質問に対して
選手には、幾人ものコーチは必要ではなく、一人の信頼できるコーチ。家族的なチームワーク。
現役引退後の保障が必要条件という話でした。
1997/8年の日本チームは完璧だったという前置きの後、現在の日本チームの不振に対しての発言が前記の話でした。

アンドレ・ゴルドバーガー
アンドレ・ゴールドバーガー/Andreas Goldberger(1972年11月9日生、1994年リレハンメルオリンピック、ラージヒル、団体共に銅メダル)はオーストリアの童顔の人気ジャンパーへのインタヴィユーです。
やはり、前記のワールドカップの時のことです。
現在ワールドカップ20勝、数々の輝かしい成績を残している選手です。
現在31歳(インタヴュー当時)、ほとんど引退を考えたらしいのですが、肩(?)の手術後、引退を思い止まったそうです。
ジヤンパーとしては、いつ引退してもおかしくない年齢にさしかかっています。
しかし、長くジヤンプをやっていられる秘訣は、「ジャンプが好きだから」と明快な回答が返ってきました。
「これからも引退する予定はない」とその時は言っていましたが、2005/2006年のシーズンを目の前にして引退しました。


2007年FIS ノルデイックスキー世界選手権札幌大会 2月22日〜3月4日
夏見円選手(なつみ まどか、1978年7月2日生)が2月22日女子クロスカントリースキースプリントで5位入賞です。
そのせいか、NRK(ノルウェー国営放送)のTVのコメンテーターは結構日本選手のことについて話をしていました。
通常はなさけないぐらい、クロスカントリースキーの大会では日本選手のことは話題になりません。

しかしジャンは別です。
最近の日本ジャンプ陣は目を覆いたくなるほど、絶不調です。
それでも、ノルウェーではどんなに不調でも日本のジャンプは一目置かれています。
もう随分古い話しですが、特に1972年札幌オリンピックの笠谷幸生選手の金メダル以来、日本のジャンプは強いというイメージがノルウェー人に染み付いています。

23日にラージヒルの予選がありました。
その時に、すでに引退した原田雅彦選手(はらだ まさひこ、1968年5月9日生)のことが話題になりました。
アンウンサーが、コメンテーター、エスペン・ブレーデセン/Espen・Bredesen(1968年2月2日生、1994年リレハンメルオリンピック、ラージヒル金、ノーマルヒル銀メダリスト)に「原田は日本のジャンパーの中では一番人気がある。彼に会ったことがあるが 本当にいいやつだ」と何度も繰り返して言いました。
多分、コメンテーターは話題を変えたかったのでしょう。
「ところで、あんた日本語を話せるの」と返しました。 「Hummm..通訳を通してだけでも。。」と急に原田選手の話題はどこかに飛んでいきました。(ほとんどの日本選手は英語が得意ではありません。外国のメデイアは日本選手へのインタヴーは通訳を介さなければなりません)

私は今までに、オリンピック、世界選手権、ワールドカップでNHK,民放の仕事でジャンプに接して来ました。
しかし、私自身はジャンプをやったことがありません。
子供のころ、ジャンプをやり、とんでもない転び方をして以来、ジャンプから早々と引退しました。。。「まあ、そんなことはどうでもいいです」

雪合戦
2007年FISノルデイックスキー世界選手権札幌大会の様子はノルウェーまでノルウェー国営放送局NRKを通して中継されていました。
競技の放送の合間をぬって、地元、つまり札幌と日本を紹介する番組がありました。
これは特に今回に限ったことではなく、大きな国際大会では当たり前のことです。
その紹介番組の中で「雪合戦」がありました。
以前にも「雪合戦」のことは日本で放送されていたのを思い出しました。
NRKが札幌の「雪合戦」をノルウェーで放送した時は、なんだか凄く冗談めいていて、変な気持ちでした。
つい先日、NRKでノルウェーの「雪合戦」の模様がTVで放送されました。
言葉は、日本語そのものを使い「YUKIGASTUSEN」です。
参加者の話では今度ヨーロッパ選手権を開くと息巻いていました。
びっくりしてTVを見ていましたが、本当に「雪合戦」がノルウェー人に受け入れられるのでしょうか。

元ジャンパー原田雅彦選手のエピソード
.螢譽魯鵐瓮襯リンピック失速ジャンプ

1968年5月9日生
1993年ファルン世界選手権、 ノーマルヒル金
1994年リレハンメルオリンピック、 団体銀
1997年トロンハイム世界選手権、ラージヒル金、ノーマルヒル銀、団体銀
1998年長野オリンピック、団体金、ラージヒル銅
1999年ラムソー世界選手権、団体銀、ノーマルヒル銅
ワールドカップ9勝

リレハンメルオリンピックのジャンプ団体戦の時に、私は会場にいました。
原田選手が普通に飛ぶだけで金メダルが手に入るのが、ご存知のように失速ジャンプです。
大入りの会場からは一斉にため息のコーラスです。
私も唖然として立ちすくんでいましたが、それがTVの画面にしばらく映し出されていたらしく後で知り合いが「ぼうっとした顔が写っていたよ」と言われました。
さて、話は私の唖然とした姿ではありません。

原田(以下選手を省略)が飛ぶ前に、ドイツのジャンパーのイエンス・ヴァイスフログ(1964年10月19日生、1984年サライエボオリンピックで、ラージヒル金、ノーマルヒル銀、団体銀。1994年リレハンマルオリンピックでラージヒル金、団体金)が「原田に優勝おめでとう」と言ったらしいのです。
そをれを聞いていたのがノルウェーのジャンパーエスペン・ブレーデセン(1968年2月2日生、1994年リレハンメルオリンピックラージヒル金、ノーマルヒル銀)がマスコミに「ヴァイスフログがよけいな事を言ったので原田が萎縮して失敗してしまった」と言ったのです。
おかげでヴァイスフログはいまだにノルウェーでは人気がありません。
当時、原田は悲劇のヒーロー扱いでした。

その後、NHKの「クローズアップ現代」で原田の特集がありました。
その時にブレーデセンへのインタヴィューを頼まれました。
個人的にあの原田の失速ジャンプの事を聞きましたが、あまりに話が大きくなり過ぎたのか、答えを濁しました。
原田自身は飛ぶ前に話しかけられた事は関係なかったと言っていました。

■隠坑坑掲トロンハイム世界選手権、天ぷら事件
ノルウェー人の多くの人と私も含めて原田はリレハンメルオリンピックの失速ジャンプから立ち直れず、このまま引退かなーと思っていました。
ところが、1997年トロンハイム世界選手権のラージヒルで金メダルを取りました。
オリンピック後成績があまり良くなかっただけに驚きました。

優勝しますと、共同記者会見があります。
当然原田も会見にのぞんだのですが、通訳がいません。
残念ながら日本選手の多くは、英語が苦手です。
そこで急遽ボランティアのノルウェー人の女の子が少し広島弁が分かるというので、通訳をしました。が、期待するほど日本語が分かりません。
ある記者が原田に「あなたは天皇陛下のようになりたいのですか」と英語で尋ねました。
原田は目立ちたがり屋なのでこんなわけの分からない質問が出たらしいのです。
ボランティアの女の子は天皇という日本語がでてきません。
そこで英語でエンペラと言ったはずが、和食の「天ぷら」に変わりました。
会場はシーンとしています。

その時、 原田は本当に驚いた様子で「エー」と言いながら半分腰を浮かしました。
しかしすぐに座り直して、天ぷらはどうのこうのと話し出しました。
私も会場にいたのですが、これはまずいと思い、手を振りながら「違う違う、天皇、天皇」と言った覚えがあります。
私にはあまりにもおかしかったので今でもその時のことを鮮明に思い出すことができます。
しかし、原田はもうそんなことは忘れているでしょうね。
きっと。

D耕逎リンピックとノルウェーでの原田の人気
あの原田の失速ジヤンプから4年、長野でまた団体戦の1本目は失速です。
そして2本目の大ジャンプで日本は金メダルを取りました。

スポーツ大好き人間のノルウェー人は真夜中でも日本からの中継放送を見ていました。
あの喜びのあまりの泣き顔もTVに写りました。
そして翌日、NRK(国営放送)で原田の本当に短い(多分1分ぐらい)特集がありました。
私のノルウェー人の友人がTVの字幕をつくっていました。
主に、英語からノルウェー語にですが、日本語の放送になると私がよばれます。
そこで2人で日本語からノルウェー語に訳をします。
その原田の特集に原田は愛妻家であるという字幕を流しました。
はっきりそうは言っていなかったのですが、なんとなくそういう雰囲気でしたので、「まあ、いいか」と、愛妻家と書きました。

オリンピック期間中は毎日、TVで今日のヒーローというコーナーがありました。
つまり3人の選手が対象になり今日は誰がヒーローかというのを視聴者が電話で選ぶのです。
この日は、ノルウェー人のバイアスロンの選手、オランダ人のスケートの選手、そして原田です。
私の愛妻家の字幕が効いたのか 、この日は原田は断トツのヒーローでした。
私がノルウェーでの原田人気の仕掛け人です。と書くと「それがどうした」と言われそうですが、冗談です。
原田はそれ以前から人気がありました。

ち換馮任凌景垢ら
札幌の世界選手権の期間中は日本を紹介する記事がたくさんありました。
そのなかで、大きな見出しで「Har du det bra, HARADA?」(「原田元気?」とでも訳ができると思います) 内容は喜怒哀楽を正直に出す人気者という記事でした。
全記事を訳すにはちょっと時間がかかるので止めますが、原田の笑い顔と青いジャケットそして白い手袋を挙げている写真入りです。

元複合荻原健司選手のガッポーズ
1969年12月20日生
1992年アルベールヒルオリンピック団体金
1994年リレハンメルオリンピック団体金
世界選手権1993年、97年金。1995年団体金
ワールドカップ個人総合、1993、94、95年優勝、通算19勝

2005年12月2〜5日までリレハンメルでジャンプと複合のワールドカップがありました。
オリンピックが近づくと、有望種目のレポートが放送されます。
今回はトリノオリンピックを控えていたのですが、残念ながら今回のジャンプ、複合は素人の私でも予想ができるほどの不調です。
ワールドカップも同様に期待が持てませんでした。

それでも、日本テレビのコメンテイターとして元複合のスター、荻原健司氏がきました。
もともとはトロンハイムで開催されるはずのワールドカップが雪不足のために、リレハンメルに急遽変更になりました。
雪不足で仕方がないのですが、コーデイネイターをしていた私はすべての手配をやり直さなければならず、大変な思いをしました。
まず免許は持っていますが、普段は運転しない私が車の運転をしなければいけませんでした。
今思い出しても、随分危なかしい運転だったと思います。
何しろ私はすごい方向音痴なのです。
案の定何度か道を間違えました。
後部座席の荻原氏たちは怖くて死んだまねをしているのか、リラックスしているのかよく分かりませんでした。
さて、ワールドカップは想像通りまるで駄目でした。

仕事を終え、ホテルでスタッフの人たちと食事を取りました。
試合のことはあまり話題にはならず、雑談ばかりでした。
皆で食事の時にワインを飲みました。
酒が入ると多少は話題にはずみが出てきます
荻原氏の選手時代の話になりました。
「荻原選手のジャンプは失敗がない」と言われていたほど、安定感がありました。
その後どうしたことか、ジャンプがスランプに陥いり、何をやっても成績が向上しなくなりました。
その時のことを聞くと、あまりいじくりまわさず、楽しんで飛んでいた時の方が飛べたそうです。
好調の時は飛ぶ前にどこがカメラ位置かを確認して、すでに今日のガッポーズを決めておいたそうです。
よっぽど調子が良かったのでしょうね。

「一緒に仕事をしていると、こんなことまで話していいの」ということが本人からまた回りのスタッフから入ってきます。
まあ、そのようなことはここでは、と言うよりどこにも書きません。

つづく