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日本のビールのルーツ


アーレンダール
あまり知られていない話ですが日本のビールのルーツは オスロから254km南に行った風光明媚な港町アーレンダール(北緯58度28分/人口3万9000)から始まりました。
正確に言うと、日本のビールの基盤を作ったヨハン・マルティニウス・トーレセンが、1834年1月10日に7人兄弟の長男として生まれた町です。
昔の横浜によく似ているこの町の起源は、1723年に始まります。
当時の古い建物は、市庁舎、ホテルとして今も使われています。

アーレンダールから北東に12km行ったトロム島に1100代に建てられた教会があります。
1751年には白い十字架状の背の低いトロム島教会として増築され、5月18日にトーレセンはそこで幼児洗礼を受けました。
教会には今も1100年代の壁、1300年代の石の台座、1600年の聖水盤があり、トーレセンの洗礼に使われたものです。
父は靴屋で、母は助産婦でした。

1838年に家族はアーレンダールから南に40km行ったリレサンの町(人口8400人/中心地は4500人)に引越しました。
道路沿いにトーレセンが少年時代を過ごした白い木造の家があります。
ノルウェーでは1度家を建てると、もちが良く、この家も単純に計算しても150年以上も昔に建てられたものですが、とてもそんな古さを感じさせません。
家主の老人と話をしましたが、残念ながら、日本のビールの元祖が住んでいたという認識はありませんでした。

14歳の時に堅信礼(キリス教信者として信仰を固める儀式で、現在は日本の成人式にあたります)をリレサン中心地から1.5km離れたヴェストレ・モーレン教会(1600年代の教会ですが、19791年に木造の十字架状の教会に増築されました)で受けました。
その後5年間、トーレセンはドイツ人からビール醸造を学びました。
どこの醸造所で学んだかは記録がないので断定はできませんが、地理的なことを考慮すると1973年まであった旧アーレンダールのビール醸造所と思われます。

初来日
当時のノルウェーは貧しく、多くの人がアメリカに移住しました。
トーレセンはウイリアム・コプランドと名前を変え、横浜港が開港して6年目、1864年に初来日しました。
ノルウェーからアメリカ、アメリカから日本に行った経緯は不明です。
1866年、横浜外国人居留地(山の手137)の商事会社に出資して経営に参加しました。
商事会社といっても3人だけで、横浜牧場の牛乳の販売と運送業を行っていました。

スプリング・ヴァレー・ブルワリー
会社解散後、コープランドは運送業を引き継ぎ資金をため1869年(明治2年) 山の手123、現在のピサザケ通りにスプリング・ヴァレー・ブルワリー(醸造所)を設立しました。

幕末の1859年には横浜、長崎からビールが日本に入ってい来ましたが、スプリング・ヴァレー・ブルワリーは日本で最初のビール醸造所になりました。
当時居留地の外国人向けに販売していたビールを日本人好みの味にして売り出しました。
事業は順調に展開しました。
同時に競争相手が出ましたが、品質の向上に努めたコープランドに勝てず、1年ほどで手を引いてしまいました。

1872年11月にノルウェーに戻り、15歳のアンネ・クリスティネ・オルセンと、堅信礼を受けた同じ教会で結婚式をあげました。
1570年以来の記録が保存されているクリスチャンサンの県立公文書館には、幼児洗礼と結婚式の時の記録が保存されています。
几帳面な手書きの斜体に書かれた記録の最後に、若すぎる花嫁に関して「国王から特別に結婚許可をもらった」と記載されています。
その後、順調にいっていた事業も陰りが見えはじめ、借金を抱えるようになりました。
また、結婚後わずか7年で妻を病気で亡くしました。
結局醸造所を手放すことになり、それを麒麟ビール社が引きついだようです。

1889年に勝俣ウメと結婚、グアテマラに行き事業を興すが失敗しました。
病に倒れ、8年後病気が回復しないまま日本に戻り、1902年に亡くなりました。

世界をまたにかけ波乱の人生を送ったコープランドは第2の故郷、横浜の外人墓地に永眠しています。
ウメは1908年に亡くなり、夫と同じ所に埋葬されました。
現在のアーレンダール・ビールは醸造所は町から山の手の方向に移り 年間1万5000キロリットルを生産し、主に地元で消費されています。

つづく