
高知ネットの皆様お早うございます。今日から10回くらいベトナム、カンボジアの旅行記を送ります。少し内容もシリアスになっていると思います。
日本にとってベトナムも、カンボジアも、アジアの小国と言う印象しかありませんでした。
しかし今回の旅を終えて、日本の歴史、とりわけ20世紀からのアジアをどうみてきたかを、振り返るきっかけになりました。

雪深い我が家を後にして
2005年3月5日(土)、雪に埋もれた我が家を後にして、千歳に向かった。いつものようにリック一つの身軽な旅姿、ああ8日間の旅を終えて我が家にたどり着く頃には、この大雪もかなり影を潜め、発寒川のせせらぎも聞こえるかもしれない、もちろん軒下の3メートルの雪は2メートルまでになっているだろうとと、淡い期待を抱いて出発したのであった。
「阪急トラピックス」に応募した24名の熟男熟女の集団、40代は誰もいないようである。旅慣れた男女が多いようであった。
中には80才にもなる単独参加のおじいちゃんは、「あと行ってないのはイラクくらいで、是非行きたいのだけど、国から許可が下りないのです」と言う。「零戦」に乗っていたという方だけに、背筋が伸び、朗々たる声の張り、みるからに矍鑠たるものである。
ベトナムと聞いたら何を連想するであろう。我々の世代より上の80代の人たちには、フランスの植民地時代の仏印(フランス領インドシナ)、我々の時代から50くらいの人たちには、ベトナム戦争、ベ平連、そしてそれ以下の世代には、ポートピープル、ベトチャン位であろうか。
カンボジアはどうであろう。最近にわかに脚光を浴びだした、アンコールワット、アンコールトムの巨大な遺跡群ということになろうか。両国の関係がどうなのか、どんなものを食しているのであろうか。何も知らないのでは恥ずかしい。少しは事前学習をして旅発った。
メコン川の中州へ
全長4000キロメートルのメコン川、悠々と流れる大河は5カ国を貫流している。最初はメコン川クルーズから始まった。ココナツ、モンキーバナナ、
パパイヤ、ドーリアン、そのほか名も知らぬ熱帯果樹園に生い茂る果物畑を通り、アオザイを身にまとった、ほっそりしたベトナムの女性の案内で、果物を食べながら、彼女たちの合唱を聴いた。
ベトナムの少女たちは、にこにこと純朴そうな表情で、あまり押し売りもせず、媚びることもなく、果物、焼酎、飾り物など売っている。
私も何か友人に買って行かねばと、サソリの入った焼酎を一本購入した。サソリはこのベトナムには多く生息しているのであろう。小瓶にサソリと朝鮮人参のようなモノが入っているのを購入した。飲んだらどんな反応が顕れるのか楽しみである。友人のWさんは、コブラの入った大瓶を購入していた。彼は1昨年も同じような蛇酒を購入して、まだ一口も飲んでいないようである。それなのにまた買った。
やがて4人ずつのグループに分かれて、カヌーに乗り込んだ。大河メコンの支流に浮かぶカヌーは一体どれほどの数なのであろう。行き交うカヌーだけでも100艘はあったろうか。
椰子の葉の木漏れ日を通って、川幅10メートルほど、行き交うカヌーは僅かであったが、みな表情がいい。ベトナム戦争が終息したのは、ちょうど30年前の1975年であった。
わが裡にベトナム戦争遙かなり 30年経てけふ訪ねきぬ

ホーチミン市の市内観光
日本語の達者なガイドの女性ウエイさんの熱心な話が続く。
「ベトナムの人口はおよそ8000万人、このホーチミン市はおよそ820万人、ますます人口は増えていくでしょう。近くの農家から出稼ぎにきた若者は、もう田舎に帰ろうとしない。バイクを購入してそのバイクでバイトをするのです。
バイクはやはり人気ナンバーワンは、ホンダです。ホンダ、ヤマハは人気があり70CCから100CCクラスのバイクが一般的ですが、高価なバイクには美人の視線が注がれるのです。美人をゲットするために、高いバイクを無理して買う若者もいるのです。
このホーチミンの土地は世界で7番目に高く、家を買うのは大変です。WCもキッチンも共同で使用する所は沢山あります」とウエイさんのガイドが続く。
ホーチミン市のバイクの数の多さには驚きであった。ちょうど中国の自転車の大群が迫ってくるように、バイクの群れが、一見して街路を数百台疾走している。交通法規はあってないようなもの、センターラインをお構いなしに追い越したり対向車がすれすれで通り過ぎたり、交通事故死が毎日20人くらいとか、これでは交通事故が起きるのも無理はない。
社会主義の国にありがちな、国家公務員の給料は安く、利権をたてに贈収賄が横行しているようである。カンボジアではもっと凄い、教員の給料が安すぎて、クラスの子どもたちが毎日寄付をしているという。中国でも公務員の贈収賄は日常茶飯事であったが、日本では考えられないことである。
夕食会場の「北国の春」
ベトナム料理といっても、とりたてて書くほどのことこともない。貧しい生活の明け暮れの中で必死に生きてきたベトナム人、米飯が主で南ベトナムでは三毛作で米を栽培している。のどかな田園風景、水牛が耕耘機を引き、アヒルが水田を泳ぎ回る姿も見られた。
夕食の会場ではアオザイを着た若い女性の奏でる楽器で、日本の曲を演奏していた。会場にはおよそ70人ほど、ほとんど日本人であった。
隣の席には富山県から来たという若い女性たち、
14,5人の団体であった。かつてこのホーチミン市の日本企業で働いていて、5年ぶりのベトナムだという。
「あの頃とは町の様子も、人々の暮らしぶりも大きく変わりましたね。日本企業も多くなったし、暮らしが楽になった様子が分かります」という。
懐かしい日本の曲が演奏されている。「北国の春」の楽の音が会場に流れ出した。札幌シニアネットのカラオケクラブでも、下手な歌を歌いシニアライフを楽しんでいる。いつの間にか友人と二人で「兄貴も親父似で無口な二人が、たまには酒など飲んでるだろう・・・」と声も朗々と会場一杯に響いていた。
昨日までは、あの雪深い札幌の地で過ごしていたのに、一夜明けると、もうここベトナムで日本の歌を歌っている、という地球の狭さを感じながら、ベトナムの夜を楽しんでいた。日本人には体験できない他国からの侵略、中国から1000年、フランスからも長い統治下にあったベトナム人は、ようやく人間らしい生活が始まったようである。
アオザイの少女ら奏でる楽の音は 耐えし千年をとけゆく調べ

ベトナム戦争の記憶も遠ざかったが
ベトナムの2日目の観光は、ベトナム戦争の激戦地、ホーチミン市に近いクコの地下トンネルの観光であった。
ベトナム戦争、これに関する書籍は数え切れない、アメリカで制作された映画もずいぶん見た。1960年代初頭から、1975年4月30日までの、およそ15年にも亘る長く熾烈な戦争、アメリカ兵は5,8000人の戦死者、南北ベトナム人は約200万人の死者と伝えられている。
そして大量に空中から散布された枯葉剤、そのダイオキシンの後遺症は今なおその災禍が伝えられている。当時日本はイラク戦争のように軍隊派遣?は無かったが、厚木空港などを基地として後方支援をしていた。
ベトナム戦争では、何と言ってもベトコン(南ベトナム解放戦線)のゲリラ戦がアメリカを敗戦に追いやったのだということがわかる。
現地のベトナム人の根強い抵抗、幼い子から老人に到るまで、ベトナムの国を挙げてのレジスタンスが続けられ、ついにアメリカはベトナムから兵を引き上げるに到ったことが、このクチトンネルの様相を見て実感することが出来た。
私もそのクチトンネルの中にも入ってみた。トンネル内の行進はほんの一部であったが、とても息苦しくて進むことは難しかった。
この地下トンネルには、延長200キロに、病院、学校の公共施設をはじめ、日々
の生活に困らない程度の施設が敷設されていたようであった。
ベトコンの抵抗1
アメリカの圧倒的な物量にものを言わせた軍備、惜しげもなく湯水のように使った軍費、ベトナムはこれにまともに対抗できるわけはない。突然背後から襲ったり、ジャングルの中である地点を通ると、大きな石が落ちてきたり、落とし穴は至る所に掘られ、その穴に落ちれば竹槍で串刺しになるようにできている。
また落とし穴にもグレイドがあり、単純な串刺しだけから、身の毛もよだつような行程をとおり、死に至るような仕組みもあった。現地で購入した資料の写真集には、子どもたちが殺戮道具の竹槍を、にこにこ顔で作成しているのもあった。女の子が竹を鋭利
な刃物で削り、男の子がそれを、落とし穴の中に組み立てているのであった。
しかしこの戦争で、南北ベトナムで200万人ものベトナム人が、死に追いやられたのである。彼らは煉獄の地獄の中でどう抵抗したのであろう。
世界一強大で強力なアメリカ軍は「全てを燃やし、全てを焼き尽くす」を目標にこのクチ(CU CHI)地帯に強大な兵力、火力を用いてこの地を砂漠にしようとした。そのアメリカに抵抗したベトナム人民、とりわけこのクチの人民の協力体制は、ガイドの話を聞けば聞くほど、調べるほど調べるだけ強力なことが分かった。
何と言ってもこの地域の人たちの「鋼鉄の意志」が支えになっていたのであろう。米軍の不発弾から戦闘用の爆弾をつくり、米軍の廃棄された戦車の鉄を利用していろいろな道具も作っていた。弱者の智恵と行動は「鋼鉄の意志」に支えられていた。
枯葉剤になべて散りたる野や山は 年月巡りて樹樹は戦げり

ベトコンの抵抗 2
このクチトンネルは、住民が30年間掘り続けたと言われているから、ベトナム戦争開始前の15年も前からこの作業があった。ベトナムがフランスの植民地になっていた頃から始まったのであろう。アメリカ兵の廃棄した戦車を住居にしている写真、子どもたちが戦車の片隅で勉強している姿なども散見される。
アメリカ軍の多くの戦車は、地雷で爆破された。その地雷の爆薬もアメリカ軍の砲弾の残りから作られたと言う。
神出鬼没のゲリラは、藁でつくった大きな帽子のようなものをかぶり、敵陣ににじり寄って行ったし、幼い子どもたちも竹槍を削りアメリカ兵を串刺しにするための道具作り、勇敢な少女は前線に立って砲撃を続け、何人ものアメリカ兵を死に追いやった。彼女隊の武運には、功労賞を授与している写真もある。
前線のベトナム兵に自転車で食料の米袋を運ぶ女性たちの写真も見られる。老いも若きも、国民が一つになり抵抗してきたのであった。
このようにいつどこからともなく、忍び寄るベトコン、仕掛けられている恐怖の罠、落とし穴、次第にアメリカ兵は戦意を喪失し、軍隊そのものの士気の低下をもたらし、ついにアメリカ軍はベトナムから引き上げることになった。時に1975年、いまからちょうど30年前のことであった。
長い歴史の中で、中国から1000年にもわたり侵略され、統治下にあったし、19世紀にはフランスの植民地になり、圧政、搾取に悩まされ続けた。ようやくベトナム人が平和な生活を送れるようになり、人間の尊厳を取り戻すことが出来るようになったのは、この10年くらいのことである。
アメリカ観光客の一行
ベトナムでの最大の激戦地、このクコの地を訪れているアメリカ人が多かった。この地で夫を亡くした妻もいるのであろう。この地で父を喪った人もいるのであろう。30年前、枯葉剤で焦土と化し、木々の緑は消え、小鳥のさえずりも聞こえなくなったこのクチの地帯であったが、この日訪れた3月7日の空は抜けるように蒼く、30年前に何事もなかったように、木々の葉は戦ぎ、空には小鳥のさえずりも聞こえた。
大勢のアメリカ人が、現地ガイドのベトナム人にガイドされていた。戦勝国が負けた国の人たちに詳しい説明をしているのであろう。アメリカ人はどんな気持ちで聞いていたのであろう。
皺の深くなったアメリカの老婦人がしばらく佇んで、瞑想している場面もあった。また若いアメリカ人男性が、「この地でわがアメリカ軍は殲滅したのです」と、林のなかに木霊するような大音声を張り上げていた人もいた。
戦争のもたらす惨禍は計り知れないが、戦いが終わり平和が戻ると、このように観光客が多く訪れて、父や兄がどんな思いでこの地で果てたのか、それを追体験しようと訪れてくるのであろう。
アメリカ人と話をする時間の余裕も無かったし、団体行動ではそういう事も出来なかったが、アメリカ人の心中を聞いてみたかった。
この地にて夫を喪ひしか老婦人 顔伏せしまま黙はつづけり

カンボジアへ
カンボジアは全く未知、無知の世界であった。アンコールワット等の巨大な遺跡群が忽然と現れたこと、ポルポト政権の大虐殺、シアヌーク殿下の名前くらいしか知っていなかった。
出発前札幌シニアネットの友人から、ともかく暑いし、日射病に気をつけてと言う注意があった。日本からカンボジアへの航路は無い。ベトナム同様ビザも必要である。外国旅行の時、ビザが必要な国は自分で領事館へ行って、取得することにしているが、札幌には領事館などなかった。
ホーチミン空港から約1時間のフライト、カンボジアのシェムリアップ空港に着いたのは、空港の遠くに椰子の木が並び、その背後に日が沈む頃であった。同室のOさんは札幌市シニアネットの囲碁クラブで知り合った人であった。シニアネットの皆さんは、お互いにどこでどんな仕事をしていたかなどと、一切詮索しない、前歴がどんなにお偉いさんであろうと、会員皆平等の立場であるから大変つきあいやすい。
さあいよいよカンボジアである。なんといっても今回の旅行の白眉、ハイライトは、アンコールワットなどの巨大遺跡群である。
アンコールワットの遺跡 1
朝8時にバスは出発した。路傍の家並み、舗装の状況などは一見してベトナムとは異なる。極貧国という言葉通り、貧しさがその家並みにも、道路の整備にも顕れていた。
内戦に次ぐ内戦、地雷の埋蔵はいまだに数知れないほど多い。帰国した翌日、NHKのアジア&ワールドで、地雷撤去の様子が描かれていた。撤去した土地は自分のモノになると言うから、撤去作業にも力が入るであろう。
このアンコールワットはじめアンコールトムの遺跡群が発見されたのは、1858年、フランス人の学者であり探検家だったという人に発見された。
9世紀から15世紀の間に建造された遺跡は約130にもなるけれども、そのうち公開されているのは、30ほどだという。中でも最大の遺跡はアンコールワット(Angor Vat首都の寺院の意)である。その当時カンボジアはクメール文化の精華をほこり、クメール王たちは現在のベトナムからベンガル湾、中国の雲南に到るまで広大な範囲で
勢力を広めていた。
このクメール文化の精華を誇るアンコールの遺跡群は、15世紀のはじめ国の衰退と共に放置されて、そのまま後世に語り継がれることもなく、森の中深く
眠りについたようである。
ガイドの話が面白い。近い将来カンボジアのガイド協会の社長になる予定であると言うだけに、風呂敷も大きいけれど、熱弁が冴える。
「この遺跡群は、400年後発見されるまで、虎とコブラがこの遺跡を守っていたようです。何か遺跡があるようだと分かっても、猛獣や毒蛇がいて近づくことは出来なかったのです。」、、、と。
盲目になりし男ら奏でゐて 弦の音かそけく樹樹わたるくる

アンコールワット 2
しかしどうして400年もの間、放置されたまま、発見されなかったのであろう。空から見ればすぐ分かりそうだと思っても、当時、飛行機も、バルーンもヘリコプターもない時代、この壮大な遺跡群は放置されるうちに、樹木は生い茂り、大木となり、昼なお暗きジャングルとなり、外部からは発見できないようになったのであろう。
虎が棲みつき、毒蛇のコブラがどこにでも現れるようになれば、どんな勇敢な若者でも、森の中には入っていけなかったのではないか、とガイドは説明する。
そのアンコールワットにやってきた。
今回の旅行、最大の目玉である。アンコ
ールの廃都からおよそ400年に亘り放置されたまま、大自然の浸触、人為的な破壊、盗掘されるまま、長年の内戦の危機に瀕していたこの大寺院を、つぶさに見る機会がやってきた。まずアンコールルワットの正面の65メートルの大建築物が屹立している。
12世紀に建てられたアンコール王朝の権力の象徴、見事な建築物が眼前に迫ってきた。
1992年ユネスコの世界遺産に指定されてから、国連の支援のもと日本もカンボジアの平和維持活動に貢献している。
ガイドの説明が懇切を究める。仏教の話もあまり理解できないまま、一つ一つの彫刻の説明が続く。何と言っても精巧を極める彫刻のすばらしさが、このアンコールの遺跡群の特徴である。
一体あの高さの建造物にどのように
彫刻をしたのか、もちろん足場を作っての作業であろうが、危険きわまりない作業であろう。
アンコール遺跡群の彫刻は、そのほとんどがヒンズー教にヒントを得て、クメール文化風に塗り替えて、建造物を造っていったのであろう。

アンコールの遺跡群と日本の関わり
翌日もアンコールワット、トムをはじめ、王様の療養の地(ハンセン病であったらしい)を訪ねた。将来カンボジア観光協会のお偉いさんになると自己紹介があったガイドさんの説明が、38度は越す炎天の中で延々と続く。
「はい、この文字をご覧ください。この文字は日本からきた森本右近太夫さんの文字です」後日調べたら、アンコールを訪れた最初の日本人は、上記の日本人、1632年アンコールワットの回廊の柱に墨で「数千里の海を越え」と感激の想いを書いている。
森本はカンボジアの首都プノンペンの西に、日本人ウドン村がありそこに住んでいたと思われる。江戸時代の当時は鎖国、しかしその禁を破って海外に探訪に出かけた日本人は少なくなかった。今回の同行の日本人のグループも、そろそろ疲れてきたようだ。焼け付くような炎熱、そよりと風も吹かない、ガイドは名調子で、ヒンズー教と仏教にまつわる彫刻の話を延々と続ける。宗教にあまり興味のない私は、木陰を求めて何回も避難したが、やはりシニアは炎天は堪えるのか、大勢の同行の人も休んでいた。
カンボジアのこの地シェリマップの人たちの現在約7割の人が、アンコールの遺跡に関係する仕事に従事しているという。宿泊施設、商店、ガイド、遺跡修復作業員、そのほか多くの仕事があるらしい。何と言ってもこの国のただ一つの世界文化遺産である。 国連の支援の元に、日本も平和維持活動に着手し、1994年から早稲田の中川武教授を団長とする「日本政府アンコール遺跡救済チーム(JSA)が組織された。それ以来、現地の人たちの遺跡の重要箇所の保全修復作業の技術指導にあたっている。
ご来光を見に
アンコールワットの大遺跡の背後から、朝日が昇る景
観が素晴らしいという。その景観を見に、朝5時半頃ホテルを出た。外はまだ漆黒の闇、シエリマップのホテルから、およそ10分ほどで現地に到着した。
道すがらガイドが語る、「この道路はポルポトの大虐殺のあった当時、この街道の両脇から幽霊が出没し、それを見た人が何人もいるのです。だから日が暮れてからは、誰もこの道を通らないのです。」ありそうな話である。ポルポトの件はまた別のページに書きたいと思う。
日の出を参拝する場所に着いた。あいかわらず日本人が多い。それも若者の小グループである。昨日夕日の沈む丘で会った日本の若者の自称「風太郎くん」もいたようである。
やがて予告の時間のとおり、アンコールワットの一番高い尖塔の横に、大きな太陽が昇ってきた。日本で見る太陽と違う色である。橙色である。その映像を何枚かの写真に収めた。日本では見ることの出来ない異様なシルエットの背後から登ってくる太陽が美しかった。カンボジアの将来はこのアンコールワットをはじめとする巨大遺跡の観光事業である。遺跡群を歩いても、いまにも城壁が崩れてきはしまいか、天井が崩れ落ちるのではないかという不安がつきまとった。これらの遺跡の修復に日本は支援しているが、これから世界からの観光客がどんどん訪れるであろう。ホテル建設も急ピッチである。大きなサッカー場も造られていた。
橙々の巨き太陽登り来る アンコールワットのシルエットを背に

ポルポトは何をしたのか
今回の旅行で、カンボジアの大虐殺が事実はどうであったのか。いろいろな本を読んでも、明確な事実が明らかになってこなかった。今回のカンボジアの旅程の中には、ポルポトの話はあまり出て来なかった。
中国では毛沢東の文化大革命の失政に、人民は触れたがらないように、カンボジア人にとっても、あの忌まわしい大虐殺に触れることは御法度なのであろうか。僅かにガイドの人から、「このあたりは夜になると、ポルポトによって虐殺された、その亡霊が出てきます」という説明くらいであった。
ポルポトは少年時代、裕福な農家に生ま
れ、恵まれた家庭生活を送りながら、温厚で、思慮深く正直な少年期を過ごしたと言われている。ポト家は王家に出入りを許されるほどで、王家に娘を嫁がせるほどの家柄であったようである。どうしてあのような何百万人も大虐殺を行うような人間になったのであろうか。その背後に何があったのか。大虐殺は本当に彼が命じたのか。
フランスに留学したポルポトは、フランスで共産主義思想を学んだ。帰国後、1950年代にフランス語の教職に就いた。教員時代から地下活動をして、1960年に、インドシナ共産党から独立したカンボジア共産党(クメールルージュ)を結成した。
当時のポルポトは、正直で気取りが無く、人間味があり尊敬を集める人物であったといわれている。
毛沢東の文革の方法を下敷きにして
いることは間違いない。当時のカンボジ
アの社会、人間の改造を行うために、中国へ行って、直接毛沢東から学んだ方法をそのまま引き継いだのである。
つまり、農村を重視した社会主義である。徹底的に農民を主人公にした平等社会の建設、西欧文明に毒された知識階級は抹殺、都市住民は狙われた。メガネをかけているのは、知識階級だから殺す。このようなやり方で次から次へと自国の民を虐殺していった。学校、寺院、文化的な施設を徹底的に壊滅させた。一説には170万人の虐殺と言われているが、ガイドの話は違う。
カンボジアのガイドの話(中国系華僑)
謎に包まれた部分があったので、カンボジアのバスガイドに聞いてみた。彼は「将来はカンボジアの観光協会の会長になる」と公言している人であるから、弁舌も爽やかであるし、カンボジアの事は何でも知っているようである。
ポルポトについては、こう語る。
シアヌーク殿下の執政に反対する、アンチシアヌーク派が出現してきたとき、彼はポルポトを利用した。シアヌーク殿下の奥さんはベトナム人であったから、ベトナム人とカンボジア人は昔から仲が悪い、奥さんは根っから、カンボジア人を好きでなかったから、隠れポルポトといわれる人たち(ベトナム人)がカンボジア人を虐殺したのです。その数800万人、虐殺を逃れるために、多くの人はタイに、中国に、欧米に逃げ延びたのです。、、、、といういままで聞いたこともない話をしだした。
カンボジア人のガイドにしてみれば、自国のポルポトの命じた大虐殺にはしたくない。憎いベトナム人の所業にしたいのであろうか。彼の言葉をそのまま飲み込むわけにはいかなかった。170万と800万では虐殺された人数があまりにも違いすぎる。いずれにしてもポルポトは哀れな末路を辿り20世紀の最後に、一人の少年兵に看取られながら、生涯を終えたと言うことになっている。
少年兵ひとりに看取られポルポトは 草葺き小屋に一生を

ハロン湾の観光
カンボジアのアンコールワットの所在地、シェリマップからベトナムのハノイに飛んだ。北ベトナムのハノイと南ベトナムのホーチミンでは、他国のような違いがあるという。
3月26日、札幌の国際協力事業団(JACA)の講演会、会食会に参加した折、ベトナム生活の長かった獣医さんと話をした。
「共産主義と資本主義の違いでしょう、その体制の違いは全く別の国のような感じがします。ハノイの北ベトナムは、官僚的風土、ホーチミン市(元のサイゴン)は自由な雰囲気です」と言われた。香港と中国のような違いはないにしても、それに近い違いがあるのであろう。
ハノイからおよそ3時間半のバスに揺られて、
ハロン湾に向かった。道中さまざまな風景点描が見られる。ハロンとは龍がおりる土地という意味だそうである。 一番不思議に思ったのは、小さなバイクで豚を運んでいる風景であった。後で聞くと、牛一頭もバイクで運ぶそうであるから、よほどバイクの性能がイイのであろうか。なにしろ一番の人気はホンダである。豚が仰向けにくくられて運ばれていた。やがて屠殺湯に運ばれるという。
ハロン湾の周辺にはベトナムの少数民族が1000年も住み着き、貧しい生活の明け暮れの中で生活してきた。
山岳地帯に少数民族が住み、民族間の交流も少ないようである。少数民族はつねに日の当たらない生活である。1000年もの長きに亘り、山岳地帯に住み、痩せた土地に黍と芋を植え命を繋いでいるのであろう。
ハロン湾は桂林の山容にそっくりであ
る。湾内に数え切れない程の大小幾
千もの奇岩や小さな島があり、その島々を観光客船が縫うようにはしる。観光客船の船上に座りながら点在する島々の景観を楽しんでいた。するとこの船を目指して、モーターエンジンの音を上げながら、一艘の果物を満載した小舟が近寄ってきた。船上には小さな子ども、まだ学齢前のような子どもが一人、母親の懐に抱かれているのは、私の孫のような年頃の幼子である。漸く14年ぶりに孫に恵まれたということもあり。その母親からモンキーバナナを買った。
ホーチミン廟の前で
ハロン湾の観光を終えて、ふたたびハノイの街に戻ってきた。夕食前、ガイドはホーチミン廟へ案内した。救国の父ホーチミンに抱くベトナム人の崇拝の気持ちは計り知れない。生涯妻をめとらず、独身生活の不便な明け暮れの中で、ベトナムの民族独立のために、ベトナムの民衆の幸せをもとめて、生涯を終えたこの救国の父、ホーチミンの話に耳を傾けることができた。
しかし時間も迫っており、零戦に搭乗して日本の兵士として奮戦していた古老の方から、まず、「やめて欲しい」という声があがり、何人かの同行者からも「やめて欲しい」という声があがった。私はメモをとりながらガイドの声を聞いていたので、大変残念な結果に終わってしまった。ガイドの話には日本を批判するような言動も見られたのは事実、歴史の上でこれは仕方のない事であった。
1940年から45年までの、日本の仏印進駐の事実も知らない日本人が増えてきたかもしれない。参加者の「零戦」の操縦士の古老にとってはそれを知っているからなお、「やめて欲しい」と言ったのかもしれないが。
救国のホーチミンを讃えいる ガイドの声の高まりゆけり

ベトナム人はどんな民族なのか
カンボジア人と同じ人種だろうか、体型は、肌の色は、何一つ正確な知識をもっていなかったが、このベトナムと、カンボジアの地を訪れ、直接両国の人たちに会い、ガイドの話を聞くうちに、両国の長い歴史のなかでの両国の抗争、支配、被支配、専制と隷従の関係からの反目、憎しみの歴史がよく分かってきた。
ベトナムでガイドの女性にこう尋ねた。「ガイドさんはカンボジアに行ったことは
ありますか」と。
「いいえ、あそこは何も見る物のない貧しい国ですから」とそっけない。
「アンコールワットがあるじゃないですか」
「いやそれほど見たいとも思いません」
おかしいなと思ったが、両国のガイドの話、店で
の対応、その他総合しても犬猿の仲などという生やさしいものではなく、カンボジア人がベトナムに抱いている怨念の深さは、凄まじいものであった。
ベトナム人は54の民族からなる。そのうち90%を占めるキン族(ベトナム人)に53の少数民族である。中国の漢族と同じように、圧倒的に優位を誇るベトナム人は、自分たちを都人と称していたそうである。中国の93%漢族と54の少数民族に大変似ている。
中国と接しているので、中国文化はすぐ伝わってきたようである。ベトナム人は国内の少数民族を蛮族として見下しているのも、中国の漢族が中華思想で、周辺の民族を、ケモノ、ムシケラ、日本人はコビトとして見下していたのによく似ている。そしてベトナム人は南の中華思想をもった国として長い歴史があった。
そしてキン族といわれるベトナム人は、
少数民族と交流するのことは滅多にない。大多数の少数民族は山岳地帯に住み、山岳人として生活していたようである。ベトナムは10世紀頃から1000年間の長きに亘り中国の支配下にあった。そして19世紀からのフランスの植民地である。この長い支配下におかれたら国民性も変わってくるのであろう。
戦争に明け暮れたベトナム
世界中で、ベトナムほど長い戦争の歴史をもった国は無いと言われている。日本のように、北方領土をロシアに横取りされた歴史に比べると、世界中の国々が長い歴史のなかで、国境の線引きが変わってきた。日本は例外であろう。
中国とフランスに支配された1100年以上の桎梏の歳月、これが漸く解き放たれて、長い15年のベトナム戦争。1970年から約10年間、約百万人のボートピープルがでた。
この事件は世界に衝撃を与えたが、長い間の戦争の惨禍による、経済的な破綻はもとより、ベトナム人の精神の荒廃がボートピープルとなったと言われている。
長い間の戦争により、多くの肉親、親戚の死を目の当たりにしてきた。この国に住むのは地獄、100に一つの奇跡があるのならそれに賭けよう。中国にも、フランスにも、アメリカにも理不尽な戦いを挑まれ、多くの人命を失い、国土は荒廃した。どこか別の土地に行こう、もうこんな悲惨な国にはいたくない、故国ベトナムには未来がないと、逃げだしたのがベトナムのボートピープルであった。
ようやくベトナム人が、精神的な平和の気持ちを迎えたのは、この十年くらいであろう。
水牛の曳く稲田のはるかにも あふるる光に日は沈みゆく

カンボジア人はどんな民族なのか
ベトナム人とカンボジア人では一見してその違いが判る。ベトナム人よりさらに体型は小さく細身である。肌の色も褐色である。民族はクメール族(カンボジア人)が90%、チャム族、ベトナム人、華僑が続き、2003年の調査では1310万人と言われている。
ポルポト時代の大虐殺前には、4000万人ほどであったとガイドが語っていたけれども、虐殺、餓死、病死、国外逃亡などで人口は激減したのも事実である。あの壮大なアンコールワットの大遺跡群を造った、クメール文化の華開いていたアンコー
ル朝の頃(9世紀から14世紀くらいまで)は、現在のベトナム全土、ラオス、南はマレー半島、西はタイの中心部まで領土を拡大していたという。
クメール人(カンボジア人)は手先が器用で、アンコールワットの遺跡の彫刻の繊細で優美な作業ぶりには舌を巻く。それだけ芸術的表現力、造形力に富んだ民族も珍しい。
あの壮大な遺跡のほとんどに、繊細な彫刻が施されているのであるから、建築当時どれほどの人々が、この作業に携わったのか想像しただけでも、気が遠くなるような作業量である。
17世紀からタイや、ベトナムに蚕食され、1834年にはベトナムの軍隊に占領され、ベトナムの風俗習慣も強要された。その頃から両国の反目の歴史が始まる。カンボジアのガイド(将来はカンボジア観光協会会長と自認)の話による
と、ベトナム人の横暴な併合により、結
局フランス人に助けを求めてフランスの植
民地になった。いまでも両国の反目は続き、両国間の人の往来はほとんど無いという。
カンボジアの将来展望
今回の旅で、このアンコールワットの遺跡群を目のあたりにする事が出来た。
ギリシャ、ローマの石造建築に肩を並べられるんのは、このアンコールの遺跡群だけだと思う。だからこの地にやってくる世界の観光客を見込んで、ホテルの建築、道路整備なども急ピッチである。立派なサッカー場も完成していた。 観光客の来訪で国も豊になってきたようであるが、まだ極貧国という印象はぬぐえない。まだまだ圧倒的に貧しいのである。学校の先生の月給が僅かに20米ドル位、毎朝教室で、子どもから寄付をいただくという。
遺跡群の見学の後、カンボジア人の住む村を訪問した。真裸のこどもが高床の階段を下りてくる。毎日が30度を越す気温、下着も一切つけていなかった。アメリカの婦人が珍しそうにシャッターを切っていたが、スッポンポンの子どもを見たのはいままでに記憶にない。
首都プノンペンや、アンコール遺跡のあるシュムリアップには、国際的な高級ホテル(一泊100米ドル以上)もあるというし、大型の高級ホテルも続々と建築のラッシュである。リゾート滞在型のホテルなども建築中である。
熱帯地方の民族にありがちな、怠け者が多いといわれ、そのためベトナムにもタイにも蹂躙されたが、アンコール大遺跡群の出現によって雇用も増え、国全体が見事に変わろうとしている。あの忌まわしいポルポト時代は遠ざかり、クメール文化が花開いた時代の豊かな国に変貌していく日も遠くないと思われる。

この旅を終えて日本を振り返る
JICAの人たちとの会話から
旅から帰って3月26日に国際協力機構(JICA)の会合のおり、会食会でベトナム帰りの獣医さん、アフリカをはじめインド、アジアへの派遣の経験のある人たちと話をした。
アフリカ、インドの国民は全く日本と異質、しかし日本の国に近くなればなるほど、親近感が湧くという、ベトナムでも、カンボジア、ラオス、ミヤンマーなど国名を上げてその国民性を語っていた。これはその根っこに宗教が絡んでいるのではないかという。アジア人としての親近感、同じ黄色人種としての親近感を感じるのかもしれないが、日本の歴史とこれらの国々との辿ってきた歴史は全く異なる。
日本は鎌倉時代、フビライの元寇が壱岐、対馬に押し
寄せ博多に迫った。まだ子どもの頃、担任の先生から「日本は戦争に負けないのです。元寇が来たとき、二度も神風が吹いて、敵を撃退したのです。だからこの太平洋戦争はいざというとき、神風が吹くから、日本は負けないのです」と語っていたことを思い出す。
敗戦の色濃くなった時、大本営発表も嘘っぱちではないかと思っていた。
そして1945年8月6日と9日に、天からどでかい雷が落ち、日本の敗戦を迎えることになった。
今回旅をしてきたベトナム、カンボジアと日本の歴史を比べても、隣国との攻防、ヨーロッパ列強の支配など日本は全く経験していない。わずかに前述の元寇、太平洋戦争の時、アメリカ軍の沖縄の本土上陸があっただけで、外国からの侵入は無かった、世界でもま
れにみる恵まれた国である。
戦後60年、このような日本は平和とい
う安逸を貪り、いつのまにか平和惚けして、その平和惚けにも気づかない若者も増えてきた。
度重なる戦争に虐げられた国民の感情、ベトナムのように世界で最も長い外国の支配の中で暮らしてきた国民は、容易に心を開放しようとしなかった。漸くここ10年くらいの平和な生活の中で、心を開くようになってきたのだと思われる。
これからの日本は
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、日本は脱亜入欧を国是とし、世界の列強の仲間入りをしたつもりで、ずいぶん近隣のアジアに迷惑をかけてきた。
中国での生活、8日間という僅かな日数であったが、今回のベトナム、カンボジアの旅行を通じて見聞したことで、日本と言う国をあらためて考えるきっかけになった。
中国の残留孤児を詠んだ歌に下記のような歌があった。
捨てし父母を恨むにあらず恋うるのみ
と ことば少なに面伏せる孤児「父親(フーチン)」と中国語にて泣き縋る 戦争孤児の皺ふかき顔銃剣に刺されし傷が帰国孤児 母娘をあわす証しなりとは
その哀切が胸に迫ってくる。何の罪もなく中国に置き去りにされた残留孤児、フイリピンにも、日本の父親に会いたいと願う子どもたちが多い。
昭和30年代のころから日本は著しい経済成長をなし、世界から目を見張るような国になった。しかしこれは日本人の一生懸命さ、和の精神、教育の力などの集積の結果であるが、次第に日本人のもっていたすぐれた国民性が失われてきた。特に自分が教職に身を置いていたから、日本の教育が心配である。「教育は国家百年の大計」という言葉は、いつの世も不変である。
カンボジアの内戦でほとんどが盲目となった青年たち
カンボジアの青年たちの踊り、夕食会場にて
ハロン湾の観光、桂林の風景に似ている