『今宵、帳(とばり)に風は吹きしか』  1  山の中腹にある茶畑には、荒々しい蝦夷風が吹く。 村から続く野道を駆け十分足らず。谷底から吹き上げてくる 強い流れに身をまかせ、ただ瞳を閉じる。 ここだけが、少年に残された、たった一つの安らげる場所だった。  アイヌには、八つの王室がある。 レプンクル、チウプカンクル、シュムンクル、メシナウンクル、 ホレバシュンクル、メシナシュンクル、ウショロンクル、エミシュンクル。 少年は、そのうちシュムンクル家の跡継ぎ、俗に王子と呼ばれる立場の 人間であった。シュムンクル・サンクス・正宗。  16世紀のはじめ、アイヌ王国を建国したはじまりの王、 『シュムンクル・サンクスアイヌ・チコモタイン』を筆頭に シュムンクル家は八つの王室の中でも目立った存在感をそなえている。  トナカイの紋をもち、権力争いには加わらず、ただ豊かな大地のごとく 確かな実力をもって信頼を得る。一体何人の王子が、この血の中に生きている のか。彼は知らず、また、それは考えるのもおかしな話だ。  王家の血は、常に流れ続けている。 平成という時代を迎え、八王家のうち四つの王家が滅んだ。 「正宗様ーっ!!」  山のふもとから響く声に、少年は顔をあげる。 ピジョンブラッドの赤い両眼に濃い紫の髪。喉のつけねでざんばらに揃えられた 髪は、葉をすべる強風にも動じず、静かに揺れている。 一見するだけで、少年が日本国の人間でないことを理解するのは容易であった。 赤い瞳の少年など、その国には存在しなかったし、なによりも。 少年の頭身の高さは、際立っている。 170センチの身長は、けして本国でもめずらしい部類ではない。 だが、どう観察してもつくりから違う。腰の位置が高く、足が長く、 全体的なバランスがひどく整う。 華奢な体つきにまとう、中学の制服。ブレザーの上着ははためき、 健康的な素肌をのぞかせる。紺のズボンは、足の長さと胴回りが比例しない らしくベルト無しにはずりおちてしまいそうだ。 茶葉を一枚詰み、その匂いを楽しんでいたらしい少年は、その一枚を ゆっくりと手のうちにしまいこみながら身を乗り出した。 「リルケ!お前、修行はもういいのか?」  レプンクル・遠藤・リルケ。残り四つの王家を継ぐ、四人の王子のうち 一番幼く、また素早く、明るくあどけない王子が茶葉を見下ろしていた正宗に むかって大きな動作で振り返る。蜂蜜色の甘い髪をこめかみで二つに結わえ、 牛の骨で作ったアクセサリーでまとめている。少し背が伸びたらしい。 ぴょんぴょんと嬉しそうに跳ねているその足は、細いながらにすらりと 長さを増していた。遠目に見れば少女のような、みんなの弟分。 その久々の登場に、心が浮かぬほどシュムンクルの王子は冷淡ではない。 「奥義の習得にてこずっていると聞いているが?」  てのひらを口元に寄せ、声を発する兄貴分。 その声を聞き、リルケはますます、野うさぎのように飛び跳ねる。 「終わったんです!父様が、明日僕を正式に跡継ぎにしてくださるって!!」 「そうか!ついに、レプルンクルをお前が継ぐのか!!」 「はい!兄者も、今夜の杯は受けてもらいますからねーっ!!」  杯。修行を終え、王子から王、つまり村を治める頭領に任ぜられた者が 先輩である年上の王子に注いでもらう申請な酒の儀式が迫っているらしい。 リルケは数え年で11歳。正宗は15歳。 14の時、四人の王子で争った際、一番の強者として冠を受けた正宗は 早くして「村の頭領」の座をいただいていた。まさかリルケが、最年少と 名高いその年齢を超えて自分に挑んでくるなんて。 それは、正宗にとって、少しくすぐったく、わくわくするような企みだった。  杯をいただいた王子は、指名する王子の一人と戦うことができる。 そして勝てれば、各々の王家の名を受けることができるのだ。 メシナシュンクルの王子、藤臣を倒して手に入れたシュムンクルの名。 そして、明日。杯を受け、リルケが正宗と手合わせをする。 女ばかりが生まれ、王子の誕生しにくい血筋の中で、たった四人の男なのだ。 兄弟よりも兄弟らしくいとおしく思っている。 そのリルケが、王子から王へ羽化する。  ふるふるっ……。正宗の背を、武者震いが駆け抜ける。 「なにを言う!私に勝てなければ、また山へ引き戻されるのだぞ!」  ふざけて張り上げた声は、既に笑っていた。 日本国は朝廷に、出された一つのお触れがある。 それは「アイヌ王家の王子を捕獲せよ」というものだ。 いにしえ、平安時代に朝廷と争った蝦夷の頭領「アテルイ」と、 その従者「モレ」。その肉を食べた天皇が、千年の間命を永らえたという伝説。 蝦夷に値する民族はとうに滅び、不老不死伝説は消えかけていた。 ところが、だ。ある日、朝廷の民の一人が、王家の一つ、 エミシュンクル家の王子の死体を手にいれ、その肉を食べてみた。 するとたちどころに、今まで不可能とされていた秘術が完成し、 『転生極地』という秘術により、死んだはずの天皇が蘇る 奇跡が起きたという。 朝廷はやっきになって、我先にと他の王子を狩りだした。 アイヌはめずらしいけだもの。 神話にあるように、その血を飲み、肉を食らえば永らえることのできる獣。 欲しい。欲しい。食ろうて不死となりたい。 その噂に踊らされ、何百何千の人々が、八王家と対立し その半数を口にした。すする血の音、びちゃびちゃという咀嚼音。 表向きは領土の問題として攻め入りながら、彼らはただ一つ。 王子たちの血肉を欲して軍をさしむけたのだ。 ……百年も昔。王子狩りに危機感をつのらせた王家の人間たちは、 影武者をたて、ニセの王家を表に出し、本物の王子たちを 北海道の奥地、この山奥の農村に隠した。それが今の八王家の あり方なのだ。表向きは、日本人たちの村。 とるにたらない、さびれた田舎村。 素性を隠し、ニセの王家と朝廷を戦わせ、用意した偽りの王子を 食らわせ「不死の効果は消えてしまった」と思わせること一世紀。 ようやくやんだ攻撃に耐え、残る四王家はひっそりとこの村で 助け合いながら生きてきた。 その最後の王家の一つ、レプルンクルの王子、リルケの即位。 これ以上に嬉しいことがこの世にあるだろうか。 即位さえすれば、子が作れる。新しい王子が産める。 それは、王家の復興を願う正宗たちシュムンクルにとっても吉報である。 「へっへー。兄者になんて負けるもんか!  レプンクルは元々、争う王家。シュムンクルには負けません!」  山の中腹から山のふもとまでには、ごうごうと唸る風が巻く。 なのに、二人の少年はその音を気にもかけずに会話を成立させていた。 距離にして約50メートル。丘に近い小山とはいえ、それはやはり、 王家の実力を示すなによりの証拠でもある。 自然は彼らを邪魔しない。 あまりに外界からの攻撃が激しいため、彼らは非常に仲間を大切にしていた。 冬の寒さに耐えるには、仲間で身を寄せ合うしかない。 高波に怯える朝には、仲間でそれに抗うしかない。 おおらかで、木漏れ日のように暖かく、まぶしい。 それが隠れ里の八王家だ。 肉としてしか見られることのなかった、王家の希望。 「……では、今夜!」  ぱたぱたとものすごい勢いで走り去ったリルケの後姿と、その後を ついていく黄金色の髪の毛をながめながら、正宗はそっと目を細めた。 十五歳にしては、あまりに大人びた笑み。 その笑みは、四人の王子でバトルロイヤル勝ち抜き戦をやったその日も、 彼の口元をほころばせていた。 シュムンクル・サンクス・正宗十五歳の秋。 頭領の名を受け、村をおさめはじめて半年がたとうとしていた。 この村では、まだ若く幼い正宗に皆が頭を下げる。 それが決まりで、永遠に続いていくと思われたしきたりであった。 何も知らぬ王に、老いた者達が知恵をさずけ、 王はそれを粛々と受け入れて、大きくなる。 死してなお、人々が土に戻るように。 王家の理知はそうして、王から王へと受け継がれていく。 正宗は、にやにやと笑いながら「最初に教わったことはなんだったろう」と 想いをめぐらせた。ああ、そうだ。あれは、唯一の禁忌のこと。 『アテルイのようになってはいけない』。 それだけが、王子たちに課せられた使命だった。 いにしえ、今で言う東北地方を支配していた獣の王、アテルイは 無謀にも朝廷に抗い、みじめに敵の将軍に負けた。 それどころか命を救ってもらい、情けないことに敵の将軍に 騙されて都まで連れて行かれ、わざわざ敵の本拠地で、 嘲笑されながら斬首されたという。 敵の将軍に命を助けられるなど、恥だ。 そして、その者を信じてたばかられるなど、愚かとしか言えない。 そんなことは正宗にもよくわかっていた。 蝦夷とアイヌは別の種族なのに、同じく北方に棲むという理由だけで 朝廷はアイヌを攻撃した。何千、何万の民が殺されたのだ。 アテルイさえいなければ。 アテルイさえ、もっと賢く鋭き男であれば。 年老いた人々が吐き捨てる台詞を聞くたび、募った思いがある。 ……なぜ、彼はその男を信じたのだろう。 この山は、正宗にとって唯一心やすらぐ場所だ。 蝦夷風が吹くという伝承から、人々はこの場所を好まず、 むしろ避けてしまう。なのに、なぜだろう。 ごうごうと鳴るだけで、うるさいこの風に吹かれている時だけ、 正宗は単なる十五歳の少年に戻ることができるような気がしていた。 なにか、偉大な者に守られているような……。 大きな誰かのふところで、雛鳥のように抱かれているような安堵を感じる。 (私も大概子供だな……)  うっそうと茂る緑に手をかざし、ぐっと手のひらを握り締めると、 茶葉の先がやたらに皮膚を傷つける。 染み出す血の色は赤だ。 しかし、この血を舐めることで命が延びる人々が確かに存在している。 赤い血を持ちながら、人ではない何か。 (……ふん)  少し唇をとがらせ、意地の悪い顔つきをしてみせてから、正宗は ばさばさと音をたてているワイシャツごと、拳をズボンに差し込んだ。 (来てみろ。その時、お前らを全員なぶり殺してやる)  坂上田村麻呂に騙されたアテルイのようにはならない。 それが、正宗の信条だ。 王家の頭領として、村を守る強き者として、私は。 今度こそ、朝廷を倒してみせる。その将軍ごと。 「リルケが攫われた」  午後八時。川での鍛錬を終え、村で二番目に大きなかやぶきの屋敷に 戻った正宗が、庭の井戸から水を汲んでいる時。彼の父親であり、 最も美しく淫らな王として有名だった父、時宗がそう告げた。 父とはいうものの、年はすでに九十を越えている。七十五を過ぎてから 正宗を作り、育てた豪傑の肌はすでに枯れて水気を失い、大木の皮のように ひきつり乾いている。眼光だけが鋭く、いまだに背筋をぴんと伸ばし、 縁側に腰掛けていた。最後の子供である正宗を、厳しくまた優しく育てた勇者。 いつもの風景に、見当たらないのは鳥の鳴き声だけだった。 指笛で小鳥をてなづけるのが父の趣味だったし、それを覚えて、 鳥も父を愛した。山の向こうへ日が落ちると、小鳥と父は密会をする。 それを遠くに聞きながら、井戸水を浴びるのが、正宗の日課だった。 「リルケが?」  今から、身を清めてレプンクルの屋敷に赴こうとしていたその刹那のこと。 リルケ失踪のニュースは、どうやら正宗だけが知らぬ事実であったらしい。 いつもなら夕飯をつくっているはずの、父の六人の嫁と十人小間使いの気配が 消えていた。……おそらく、兵としてレプンクルに集められたのだろう。 我が家最強の先代王、シュムンクル・サンクス・時宗が一人こうして 自分を待っていたのには理由がある。それはわかる。 が、桶を手にした今も、その意味がつかめなかった。 「……朝廷に、ということですか」 「そうだ。おそらく、もう生きてはいまい。  リルケが攫われて半刻。朝廷より祝いの金を出せという矢文がきた」 「祝い……まさか、」 「ああ。古代の天皇が転生したらしい。  リルケの肉を使ったとしか思えない」 「天皇……。二人目の天皇……?」  数年前のことだ。朝廷が、最後のアテルイの肉を使って、姫の一人を 無理やり転生させ、天皇として崇め奉っているという話を耳にした。 その時、織物を都に送らせたのが、正宗の頭領としての初仕事だったのだ。 外交もまた、民を守る刃。言われて、しぶしぶ着物を献上した。 一冬の間、民が必死に織った布。一織りごとに心のこもった綺麗な色の反物。 それを、見たこともない姫に捧げるという。強く不服に思ったその心を 無理に閉じ込めて命令を出した。誰一人、正宗を責めなかったことを覚えている。 全国から、ありとあらゆる人々から貢がれる無数の反物。 果たして、その姫様とやらが袖を通すものかどうかはひどくあやしかった。 どこか遠い絵巻物でしかなかった物事が、今、正宗の中ではっきりと 一本の線となりつながる。リルケが攫われた。そして、天皇が即位した。 リルケの肉を使って。  ぞわ……。全身の毛穴が、一度に開くような悪寒に震える。 「リルケが……」 『兄者!』  空耳が、脳髄をやさしく痺れさせる。それは絶望の序章だった。 「正宗。次に狙われるのは、若いお前だ。  さすがに、俺が近くにいると知り、やつらも手は出さなかったようだが  リルケの父は策に長けた男だったからな。力では勝てると踏んだらしい」 「……」 「いいか正宗。都の人間は奇怪な術を使うという。  都の人間を見かけたら、攻撃される前に殺せ。いいな」  冷たい水しぶきが、つまさきから正宗の足元を濡らす。 次のまばたき、時宗の視界には空の井戸しか映らない。 音もたてずに消えた息子を目で追うのをやめ、彼は無言のうちに 己の顎を撫でた。井戸の下の柔らかな肥えた土。その一箇所に、 正宗のかかとの跡がついていた。  小気味良く駆け抜ける野道の途中。一つの影とすれ違おうとして、 正宗ははだしの足を止めた。時宗と比べ、ひどく小柄な老人が一人、 お供もつけずに一枚の羽織をかぶり、とぼとぼと進んでいるのである。 違和感に止めた足が、じゃり……っと砂を踏みしめる。 「ウタリ様ではないですか」  白髪にして、背を曲げた老人のはウタリ。彼こそ、今失われ、 正宗が取り返そうと走っていたリルケの父。レプンクル家の現王に他ならない。 (王が一人で、こんな夜道を!?)  疑い、乱暴に羽織をはぎとる。と、そのうぐいす色の羽織から、 なつかしい匂いがした。日干しにした藁の匂い。リルケの匂い……。 「う、ううう……」  レプンクルの王、ウタリは道端にしゃがみこんだかと思うと、すぐに 湿った土の上に膝をつき、顔を覆って泣き出した。 「正宗様。正宗様、リルケが……」  しわくしゃの指の間から、ぼたぼたと大粒の涙がこぼれ、 それを止めようとした正宗の指を濡らす。 正宗は、はじめて見る老人の涙に目を見開き、そして静かにつぶやいた。 「!……ウタリ様、大丈夫です。今、私がゆきます。  この身と刺し違えてでもリルケを取り戻して参ります」 「無理です……おそらく、リルケはもう……」  正宗が、王の仕草にならって土に膝をつき、うつむいているウタリよりも 低い姿勢をとる。声をあげ、赤子のようにひいひいと泣きじゃくる老人の 手首をつかみ、ゆっくりと目から腕を離す。 「私が必ず」  ウタリは、正宗の腕からリルケの着物をひったくると、それに顔をうずめて それから肩を震わせはじめた。何を聞いてもぴくりともせず、小さな背を強張らせる。 「ウタリ様?ウタリ様!」  肩をゆすぶっても、まるで頑固に顔をあげない。 地蔵のように縮こまって震えている。 (そうか。リルケが攫われようとするその時……この方はそこにおられたのか……) 正宗はしばらく押し黙った後、自分が着ていたブレザーの上着を ウタリの痩せた肩に広げ、そのまま口笛を吹いた。 ピィーーーッ。長く、静謐でまっすぐ空を断つ高音。すぐにも聞きつけて、 村人が駆けつけるに違いない。どうせウタリのところへ行こうとしていたのだ、 手間がはぶけたと思おう。うなずき、正宗は集まってきた鷲や鷹に唇をよせ、 なにかをぼそぼそとささやいた。猛禽類たちは、ウタリの足元に翼を広げ その身体を覆うようにして数羽、また数羽と周囲を旋回する。 「すぐに皆が来ます。私は行きます!」  たっ。再び地面を蹴り、正宗が闇にまぎれて消える。 それでもなお、ウタリはがくがくと身体を震わせていた。 もはや自分では、己の身体が制御できないとでも言ったように。 しかし、彼は最後の力を振り絞り、着物から顔をあげて叫ぶ。 「正宗様!」  叫び声を包み込むのは、生ぬるい闇。 数秒して、ウタリは一際大きな声をあげ、地面に伏せった。 それは獣があげる断末魔のように、里に響く泣き声……。 「あれ?正宗様は?」  大人の拳に満たない小さな足が、仏像のようにみじろぎもせず 木彫りの熊のように皺深い老人の前に出る。 顔の大きさほどもある毬を手に、こめかみで髪を 編みこんでいる少女は、着流し一枚で縁側に腰掛けている老人の 顔をのぞきこむと一回り大きな声で繰り返した。 「頭領、正宗様はどこ?」 「シュムンクルの坊なら、リルケを追って外界に出た」  若い頃は「素手で熊すら殺す」と詠われた男も、半世紀もたてば こうなるという見本のような爺だった。王家の中でも一番美しく、 最も多くの女を孕ませ、王子作りに精を出し枯れた。 里の鈴蘭こと、シュムンクル先代王は、まるで巨木のように その巨体を揺らし、かっかっ、とかすれた声で笑う。 ひきつれ、水気を失い幹皮のように色を失った肌には、 それでも消えないいくつもの傷が浮かんでいる。 「もう間に合わん。あいつは無駄骨よ」  少女は、レプンクル家の懐刀の一人、リルケの十人の妹のうちの一人だった。 それを聞いて、すぐに袖をひるがえし消える。 「……それでも追うのか」 身体に合わない着流しからのぞく胸には、刃傷も数え切れない。 なのに、不思議と穏やかな日の光を思わせる。 好好爺といえば好好爺。人殺しといえば、人殺し。 先代王は、都内であれば数億を下らないであろう日本家屋の さびれた軒下でトマトをかじっていたらしい。 膝の上には木綿のハンカチを引き、そこにヘタだけ取っておく。 緑の王冠が、いくつもハンカチの白を彩っていた。 食べている途中で、何か思案していたらしい。 それから数分、こうしてほとんど動かずにいたのだ。  とたたたた、と土煙をあげながらはだしで駆けていく少女の背に、 己の若き日を夢見ながら。老人は、目を細め、真似して足をぶらぶらと させてみた。 「正宗、のう……」  百人以上の子供をつくり、男はただ二人。 そのうち一人は、十五になる前に朝廷に食われて死んだ。 百人産んで、赤い両眼の息子はたった一人だけだった。 はじまりの王と同じ目をした少年。 老人は、親指のつけねから手首までを走る刀傷に唇をよせて、目を閉じた。 これでは、レプンクルの王が涙する理由もわかるではないか。 殺すか。殺さぬか。  先ほどから、ずっと考えている。 ウタリから飛んできた正宗の鳥。一羽の鷹が告げる。 『朝廷が攻めてくる』。  運良く、朝廷と入れ違いに正宗は外界に出られたらしい。 今回の戦いに、我が子を巻き込むことは考えられなかった。 だが。考えるべきは次の乱のこと。  朝廷の者にかかり、ひどいやり方で殺されるのならば、 いっそこの手で正宗を殺してやるべきではないのだろうか。 その血が孤高の誇りを保てるうちに……。 『父様の傷を、俺が治してあげられればいいのに……』  微笑む姿だけ、妻に似て美しい少年だった。 老人のてのひらを、指先でなぞる時にだけ、曖昧に笑う。 いとしい我が子を、朝廷が狙っている。 「で、おまいさんたちは何やね」  プッ、と最後のヘタを吹き出す。 のほほんと言った一言に、頭上のかやぶきが少し湿った。 誰かが踏んだせいで、昨日の夜露が染みたのだろう。 「お気づきでしたか」  しっとりと、濡れた声だった。女の声かと思っていれば、それは違う。 あきらかに、かやぶきの音が男の重みに濡れぼそっている。 リィィィン……鈴の音と共に、それは屋根から降ってきた。 花びらのように、舞う音もなく。風を知らぬがごと、ただまっすぐ。 そして同時に、部屋の中から畳のきしむ音。 「僕達、元々戦う人じゃないですけど。ね、兄ちゃん」  にいちゃん。聞こえはするものの兄弟には到底思えない。 声から滲む音の、まったく違う二人組だった。 首の付け根で、髪を一つに結っている弟(?)と、ざんばら髪の兄(?)。 背丈は……確かに兄の方が上。だが、力量は……。 二人の少年が、面妖な衣装のままで一人の老人の前に立つ。 「アロハシャツにルーズソックスとは……」 「僕はパーカーですよ」 「そのぱぁかぁの少年が、みすぼらしい老人に何の御用かな?」  好々爺の、奥まった瞳は狂気に灯っている。 小鹿程度なら、眼力で射殺せるのが王家の王だ。 が、効かぬ。少年二人は、たおやかな仕草で手を伸ばした。 すると、今時のパーカーとアロハが、みるみるうちに法衣に変わっていくではないか。 周囲を染め上げる、紺色の夜。その色よりもなお濃く、溶ける漆黒。 「ほう。しかも、二人ではないと」 「?」  二人ではないのか。言った瞬間、ほんの一秒。 パーカーが空を見上げた。そして、アロハの少年と目を見合わせる。 そして、ぎし……ぎし……。爆発的に、増える足音。 十人……二十人。目に見える、眼前の少年二人と同じく、闇色の法衣をまとった 少年達が屋根の上に舞い降りる。 その様相はまるで、残飯をあさりに群がるカラス達の羽に似ている。 汚き者達。 その音を耳にして、パーカーはなぜか。 声に焦りを含み、強い口調で言った。 「王子を……渡していただきたい」 「朝廷か」  朝廷の下には、いくつかの仏教組織が存在する。 どうやら、王子を渡さぬ王家にじれて、兵隊を送り込んできたのだろう。 法隆寺、延暦寺、鳳凰堂……。念仏系の延暦寺ならまだしも、 この力量。あきらかに法隆寺と思われた。 暗殺に重きを置き、表舞台には出てこない戦闘流派『法隆寺』。 でなければ、延暦寺の空海クラスの化け物だろう。 (四天王が俺ごときに出てくるはずもない。やはり法隆寺の末端か) 「僕らは貴方に御用はない。けれど。  邪魔をするなら容赦はいたしかねます!」  一振り。数珠が四倍の大きさになる。 どうやらあれが武器になっているらしい。 王子を攫いにきたのなら、まさに好都合であった。 ここで一番の実力者を摘んでおけば、正宗を隠すこともできやもしれぬ。 わかっていたが、それよりも。 「一戦お相手つかまつる!」  老人の胸に宿るは、幸福。 その指先に光るは、閃光。 『兄者の髪は、いつまでたっても伸びないねぇ』  不思議そうに、小首をかしげならリルケはよく、正宗の毛先に触れた。 細い細い、折れてしまいそうな指先で。 『僕やメシナの藤臣、時宗のじっちゃんだって、みんな髪が長いのに。  知ってる?エロい人間は、髪が伸びるのが早いんだよ。  子作りが仕事なのにエロくないなんて、それって頭領失格だよねーうんうん』  バカをいうな、と頭をぐしゃぐしゃにかきまわしてやると、 やめてよー、と水をかけられた猫のように頭を振ってみせる。 まるで子供のような弟分。腰までの髪を満足そうに結わえて、 自慢げに櫛でといていた。見せ付けるようにして、きらきらと日に透ける その髪を手入れしながら、いたずらっぽく笑う。 リルケが正宗に勝てたのは、髪の長さだけだった。 これから越えていくのだと。髪はそのさきがけなのだと。 つっかかった後で、笑う正宗の頬をつねる。 『兄者、くやしいんでしょー。一人だけ、いつまでも短いから〜!』  膝の上によじのぼってきては、顔を近づけて、生意気に笑う。 その鼻に鼻をつけて、わしわしと耳をもんでやるのが好きだった。 たしかに、正宗の髪は喉のつけねで伸びるのをやめてしまっていた。 頭領として示しがつかないと、父に嘆かれることも多い。 けれど、私は。 ……正宗は、夜風にたなびく髪をおさえながら、声を秘めては 胸の奥でぽつりとつぶやく。 身軽なこの頭が気に入ってたんだ。リルケ。 そしていつか。負けたよって言って、お前に頭領の座を与えてやりたかった。 お前が頭領だって言って。な、今も、兄ちゃんの髪は短いだろうって言って。 全てをお前に捧げたかった。 なにも惜しくないんだよ、リルケ。 わがままで、自分勝手で、かわいい弟。 『今夜の杯、受けていただきますからねっ!』 最後のわがままを残したままで、いなくなるつもりなのか? ……正宗は山の中腹に戻り、そこから村を見下ろした。 山間の小さな村だ。ここが王室だなんて言って、誰が信じるだろう。 自分が王子だといわれて、嬉しいと思ったことはない。 恥ずかしいと思うばかりで。 見た目も不器用で、繊細なところもなく。すでに大人びていた自分よりも、 リルケの方がどれだけ「王子」だっただろう。 リルケがすねれば、皆が笑った。 リルケがだだをこねれば、皆が困った。 お前は村の、希望の全てじゃないか?  山の中腹まで戻って、やっとわかった。 理解できた。  リルケはもうこの村のどこにもいない。 もう戻ってこない。  リルケの、藁の匂いは完全に途絶え、どれだけ追っても 尾の一つもつかませてはくれない。走り出したいのに、 どの方向へ行けば彼が見つかるのかも、わからない。 苛立ちだけが、身体の中をかきむしり、走れ走れとあらぶっている。 「くそ……くそっ!!なんで!!」  腕で葉を乱し、無茶苦茶に引きちぎる。 茶の葉の匂いが、正宗のまわりにたちこめ、むせかえった。 「リルケ……!」  胸にいっぱいの空気を吸い込んで、吠える。 びりびりと山を揺らし、夜空から星を落とす咆哮。 蝦夷風は、リルケを見送った時と同じように、ごうごうと この身を抱いて切り裂いていく。 自分で自分の身体をきつく抱きしめ、正宗は空を見上げた。 星ひとつなく、厚い雲が全てのきらめきを隠す夜。 「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ……!!」  吠える声は、村中に届き。その音を拾う、全ての者の瞳を濡らした。 それは暗い、長い戦いのはじまりの産声に他ならない。  正宗の呼び声に答えるように、空は揺れ、雨の一滴がその頬に、 髪に、首筋に流れていく。ざあざあとうるさい涙の中で、 しかし正宗はみじろぎもしなかった。 ただ、不遜に下界を見下ろすだけ。 その瞳から滲むのは、血色の輝きだけ。 長いまつげが、雨水の重みに負けて次第に下りていく。 ひたひたに濡れた顔をぬぐい、正宗はくっ、と。 そのてのひらを口元にとどめ、噛みしめた。 『兄者のその、赤い瞳が好きだよ。  はじまりの王もそうして、いつも  瞳に血の色をうかべていた。  僕らの歴史は悲しみの歴史。  荒れる海、吠える月、襲う風。  全ての自然を従え、戦ってきた僕らが  都の人間になんて負けるわけない。  そう思わない?兄者』 朝廷。 『悲しい思いをすればするほど、僕らは  透き通ってキレイになってくの。  そしていつか、この山を駆ける風になりたい』 「わああああああああああっ!!リルケ!!リルケ!!」  胸を打つ、蝦夷風。アテルイ公なら平気なのだろうか。 自分を慕い、全てわかっていて自分に着いてきた、 従者のモレが首をはねられるのを見ても。 それでも敵の将軍を信じて、祈りでも捧げていたのだろうか。 へらへらと笑い、正気を失った両眼で。 その血を浴びていたのだろうか。 大事なものはどこにある? ずっと、己の隣に寄り添っていたのではなかったか? なぜそれを守れなかった。 なぜ、みすみすと。 朝廷にそれを奪われたのだ……!! 「アテルイ公……お答えくださいっ……!」  両手で顔を覆い。しかし、きつく閉じた瞳からは なにもこぼれない。乾いた皮膚をなぞる指先。 「あなたはどうして……」  背をすべり、雨水は腰まわりまでを静かに冷やしていく。 「アテルイ……!!」 もちろん、その問いに答える風はなく。 びじゃびじゃと、汚い音をたてて雨は村を支配していく。 「……」  足を止めようとするように、重く、鬱陶しく、履物は水を吸い。 足枷のように正宗の足取りを遅くする。一歩ごとに、泥に刀をつきたてるような 鈍く耳障りな音が響いた。ぐぢゅ、ぐぢゅ、ぶちゅ……。 力なく、ふらふらと屋敷の前まで戻ってきた正宗は、そこで立ち止まり、 すっかり濡れて色を濃くした己の髪に腕を置いた。 既に染みた水が、腕をつたい路へと垂れていく。 一晩。凍える身体をそのままに、山で立ちすくんでいた。 何のお供しない隠れ里、その景色の全てを刻んでいた。 (皆になんと言えば良いのか……)  目を伏せ、また一歩。進んだところで、それに気付いた。 「助けてください!助けてくださいっ……!」  声がした。 「誰か、誰か助けて……!お願いですっ、誰かあっ!!」  女の人の声だった。それも、すごく透き通った、綺麗な声。 声だけでわかる。その声は濡れていて、ぽたぽたとこぼれおちている。 「?」  ここは、アイヌ王家シュムンクル家の庭先だ。 その庭先で助けを求めれば、家政婦だとか、父様の6人の嫁様だとか、 そう。父様だって助けてくれるはずなのだ。 それなのに、気付いてみれば家からは何の物音もしなかった。 家は、奇妙なほどに、静まり返っている……。 「ああっ……しっかりして、兄ちゃん。死んじゃやだよう、兄ちゃん……!」  鶏の鳴き声一つしない。気付いた瞬間、足がすくんだ。 『兄ちゃん』。  次に狙われるのはお前だ、正宗。  都の人間をみかけたら、迷わず殺せ。 父に告げられた強い警告。それを打ち消す、その言葉。 「兄ちゃんっ……!」 『兄者!』  振り返り、進んできた道を見渡す。 そして再度きびすを返して気がついた。 人を呼ぼうとしてみて、はじめて理解する。  わかる。みんな、家の中にいる。 いるけど、いない。 みんな死んでる……!! 「……!!」  ぞくぞくっ。ぴりぴりと皮膚をすべる微弱な電流に、腰のあたりが落ち着かない。 何かが、シュムンクル家を襲ったのだ。そして、今泣いている人もおそらく その何かに襲われて……。 「大丈夫ですか!?」  恐怖よりお告げより、助けなければという気持ちが強かった。 女の人なら、守らなきゃ。もうこれ以上人が死ぬのはイヤだ。 みんな死んだ。父も、弟も、村人も。 「どうなさったんですか!?」  家を出て、すぐわきの小道に入る。と、そこには橙色のパーカーを着て、白いズボンを 履いた細身の少女がいた。髪の毛は一つに結わえて。反対の髪には綺麗な金の髪飾り。 はっとするほど、美しい少女だった。 ただ、その少女の白いズボンは真っ赤な鮮血に濡れている。 はらはらと音がするような涙をぬぐうその表情。 それは出来すぎたくらい、リルケの表情に似ていた。 『兄者!兄者!足が痛いよう……!』  修行の途中。切り株に足をひっかけて、派手に転ぶとリルケはいつだって、 正宗の前でぽろぽろと涙をこぼした。 『うえええん、兄様ぁ……!』 見つめすがら、ふいに涙がこぼれて、そんな自分にたじろいだ。 『いたいよう、にいさまぁ……!!』 こみあがるとはこのことだ。 今までこらえていた涙の全てが、一度にまぶたから流れ出し、 せきとめようとしてもその川の流れは強く、制御できない。 「兄ちゃん!!」 目の前が一瞬暗くなった。 「っ……!!」  正宗は、拳をつくりゴン、と手加減なしで己の額にうちつける。 それでも涙は止まらない。雨の日の川岸のように、全てのものを押し流す。 少女は、一人の少年をかばうように抱いている。 (怪我をしている……!)  その少年のわき腹には、少女と少年の手が二つ重ねられている。 が、そんなことで止まる血ではなかった。派手な上着に染み、そのまま少女の指を ひたひたに染める鮮血。正宗は駆け寄り、少女に話しかける。 「どうした……!」  少女は、大きな瞳を潤ませながら、正宗の身体にすがりつく。 なんて軽い重みだろう。蝶が足にとまったほどにしか、体重も体温も感じることは できなかった。少女は、頬にかすめた血の色を、正宗の服の白にうつしながら叫ぶ。 「兄ちゃんが怪我をしてるの。お願いします、手当てを。  でなければ、手当てが出来る場所を。お願いします……!」 「だが……」  迷い、逡巡する。その一瞬、眼下で少年がうめいた。 「う、ぐうっ……!」  少女の手をはらいのけ、少年の肩に触れると身をよじる。 苦しそうな声だった。  抱き起こそうとして、少年の傷の深さに肩が震えた。 袈裟切りにされたアロハシャツ。その中の白いシャツ。 その二つの向こうの、肉の色が見えていた。 野熊か敵か。その一撃は、あまりに深くおびただしい。 おそらく身をよじって、胸への一撃を避けたのだろう。 致命傷ではなさそうだが、随分血を失ってしまっている。 早く止めないと命に関わるだろうことは、正宗にもよくわかった。 「手伝ってください。早く……!」 「ああ、とりあえずうちへ……」  抱き上げてから気付いた。 そうだ、うちには誰もいない……。 動きをとめると、後ろで少女がなにかをつぶやいた。 それと同時に、家の庭から誰かが飛び出してくる。 「正宗様!どうなすったんですか!?」 「え?」  それは、気配も感じなかった父様の二番目の奥方の姿だった。 「みんな心配してたんですよ。帰りが遅いから!」 「みんな……?」  疑問符に答えるように、わらわらと庭先で気配が増えていく。 (何故だ?今しがた、確かに感じた……あれは死の匂いだったのに……?)  深く考えようとした瞬間、ぐっと胸を少年がつかんだ。 ワイシャツのボタンが二つ外れる。 「悪い……すまねぇな……村のひと……」 「い、いえ」  抱きなおし、そのまま急いで庭先にかつぎこむ。 そして、二人の怪しい法師は、我が家に忍び込んできた。 「へえ、お前って強いんだな」  包帯で半身を巻かれたまま、ぐるぐると右腕をまわし、少年はふいに そんなことをつぶやいた。それをたしなめるもう一人の少年。 少女だと思っていたのは間違いで、彼らは兄妹ではなく兄弟だったらしい。 そう思えば確かにそうで、なぜ少女に見えたのか不思議なほど、 少年は透き通ったまなざしをしていた。 男ならばさしたる弊害もない。正宗は、この家の軒下にやってきては 見目麗しい少年に嫉妬して去っていく村の娘達に、いちいち「彼は男だ」 と教えてやっていた。無論、数人はむくれた顔のまま「嘘つかんでくだせー!」と その手を振り払い逃げてしまう者もいたが。 やはり、男と女では大分違いはある。  女子を家に泊めるなんて、正宗様はあの女人を嫁にもらうつもりかしら。 ひそひそと交わされる噂話を、笑い飛ばせるから。 (怪我をした兄に付き添う弟を、迎えてなにが悪いのだ)  そう思い、ふとため息をついてみたりする。 濡れた身体をぬぐい、服を替え。タオルで乱暴に髪をかわかしながら「ふう」。 ぎゃあぎゃあとうるさい村の少女たちを帰すのに、まさかあれほどの労力が必要になるとは。 怪我の手当てをし、旅人の一人を看病しながら一晩。 夜が明け、また次の朝がきたことを知り、正宗は白い着流しの着物を脱ぎ、 そそくさと服をさがしていた。いくら山奥の村とはいえ、アイヌであることが ばれてはまずい。日本人のように、そういう服装をすべきだと思ったのだ。 眠る時は着物なんですね、と問われてごまかした。 ……ええ、まあ。そういう年頃なんです。 いいですよ?そのままで。 言われて、少しどきっとした。 己のおさがりの着物を着せてやった相手が、一瞬妖艶な色気を放つような気がしたからだ。 白い素肌をさらし、少年はくすくすとおかしそうに笑った。 つくりもののように美しい少年であることには、かわりはなかった。 (男相手に色気など)  頭をふって、正宗は白い着物の少年の言葉を聴いていた。 だって、カッコイイじゃないですか。 セクシー?だし?  なんですかその疑問系。ツッコミをいれてから、眠った。 リルケを失った悲しみをやわらげるのに、旅人の訪問はひどく 役に立った。人の前では泣くことはできない。 正直、彼らがいなければ、自分は立ち直れたかどうか。 強がりが悲しみを消す一番の薬だと、はじめて昨晩私は知った。 正宗はそう思いながら、毛布一枚で居間に寝転がっていた。 「どうしてですか?私は弱いですよ、一番」  衝撃的な出会いから一晩。 気分を取り直して、正宗は居間に二人を住まわせていた。 父様はレプンクルの王のところへ泊まりにいったらしく、不在で それがますます正宗の気持ちをくつろがせる。 朝廷のリルケ狩りから一夜。 こうして、家の者がみな無事でいること。 メシナ家に敵がこなかったこと。 それから判断して、危機は去ったと嫁さまは言った。 父の一番目の嫁。気が強く、聡明な嫁様がいうのなら、と ようやく息をついて安堵しているところである。 さすがに毎日毎日、先代王に見張られている生活は息苦しい。 年相応の男の顔を見せたいと思うのも、また事実だろう。 にこ、と微笑んでみせると、怪我人が、目を細めてにひひひ、と笑い返す。 「いや。剣道とか柔道とかの賞状がすげーあると思って。  これ、お前のだろ?相当の力量だとお見受けするぜ」 「……そんなの、誰でもとれますよ」  褒められて、驚く。そんなことはここでは普通なのに。 「でもそれ、俺のほんとの名前じゃないんです。  ほんとの名前は誰にも言っちゃいけないから」  うっかり口をすべらせると、二人は朗らかに笑い、目を合わせてまた笑った。 「俺たちもそうなんだ。お前が何でかは聞かねーけどさ、  俺たちはアーティストなの。琵琶で食っていこーと思ってるの。  だから、ほんとの名前はデビューと同時に捨てたのさ」  琵琶法師。高らかに宣言されて、正宗はふっ、と表情をゆるめた。 「琵琶?聞いたことないですね、そんなの」 「でしょ。だからいいの。ウケるぜー、琵琶!  なんでも一番最初が、俺は好きよぉ?」  豪快に笑い、足を崩す。崩した足の一本にもたれかかりながら、 やけに嬉しそうにアロハの少年が正宗を見上げた。 「そうおもわねーか?」 「いますぐ食事を作りますね。食べれますか?」  おどけて言うと、もう一人の少年が目配せしてくれる。 「だいじょぶです、僕が食べさせますから」  居間は、八畳ほどの大きさで、中央に本格的な囲炉裏がある。 京から来たという二人には、囲炉裏がものめずらしいものであるらしい。 怪我をしている少年が、鍋を吊るす鉄をつついて揺らしていた。 最澄と空海。  古のお坊さんの名前をもらって、琵琶ユニットをしているらしい。 グループ名は?と聞くと、恥ずかしそうに「延暦寺」と笑う。 「最澄と空海で延暦寺?もうめちゃくちゃじゃないですか」 「でしょ。おっかしーでしょ。兄ちゃんが考えたんだよ〜!  僕は、もっとかっこいいのがいいって言ったのに〜!」  年頃が同じで、どことなく弱そうな二人に心はすぐ開けた。 年老いた人々といるより、はるかに楽しい。 正宗はよく笑い、鮭を丸ごと一匹調理しながらも数回噴き出した。 笑っていないと、まだ気がめいる。 ふとした瞬間に泣き出しそうになるから。  切った身を鍋にいれ、その他の具材も流し込んで、煮る。 豪胆な鮭鍋が、この家のもてなし方だった。 火打石で火をつけ、そのまま二人とは対角線上に座る。  最澄と空海。 (この人たちも、本名は秘密なのか……)  そう思うと、どことなく親近感さえある。 ことことと煮える鮭鍋。味見して、おわんをとりに行く。 テキパキと働きながら、正宗はふいに聞いてみた。 「やっぱり、歴史上の人物で一番最澄が好きなんですか?」  すると、最澄は「いーや?」と割り箸を割りながら言う。 「どっちかっていうとキライ?ほら、坊主とかってダサいっしょ。  天皇がいなきゃなんにもできねーし。それより」 「それより?」 「俺はアイツが好きだな」 「アイツって?」  囲炉裏のそばに膝をつき、うやうやしく鮭をよそう。 空海がのぞきこんで、手伝いますか?と聞くのを手で制して、 いそいそと盛り付けていると最澄が、正宗の顔を正面から見て 一声でつぶやく。 「アテルイ」 「!」 「北海道人じゃわかんねーかな?東北のすっげーつえぇ戦士。  坂上田村麻呂と一緒に、京都に来てくれたらしくてよー。  俺、好きなんだよな。つえーヤツ。強さでいったら信長なんかより  断然アテルイっしょ。アイツ素手だぜ。素手で四万の兵とかやっちゃうんだぜ。  鉄砲でも槍でも持ってこーいってカンジ?」  饒舌に、まるで暗記してきた文章を読むように、最澄が話す。 それにあわせて、空海が二の句をついだ。 「僕は田村麻呂の方がいいな。けど、どっちでもいいや。  でも、僕も空海は嫌い。生臭坊主って最低でしょ」  ね、とにっこりしてみせる。正宗は、鍋をよそうのも忘れて、顔色を 明るくしてみせた。わ、私も。私もアテルイが好きです、と。 それは、誰にも言えない秘密を明かすに等しく、 正宗はうつむき、ただ少しだけ嬉しそうに口元をほころばせる。 「君も兄ちゃんと一緒で、アテルイが好きなのかぁ。  じゃあ、最澄と空海は嫌いでしょ?」  頬を染めている正宗のかわりに、慣れた手つきで空海が鍋をとりわけはじめる。 長い前髪をパチン、と髪留めで止めて三人にいきわたるように手配し終えると、 いただきまーす、と見ている方が幸せになるような声で言った。 長く観察していても、再び見る度に、はなぜか上品に見える。 空海は、少しだけ落ちた後れ毛も気にせずに、ささやかな仕草で箸をつまんだ。 「どうしてですか?」  ゆっくりと、ただ過ぎていく時間の果て。霞みのかかった縁側を見ながら、 正宗はあ、すみませんすみませんと椀を受け取る。 パーカーの裾が、長すぎる。空海は指先だけを袖から出して、ちまちまと 何を食べるか悩んでいるようだった。それと対称的に、最澄はどっかと あぐらをかいている。餌を与えてもらう子雛のように、空海の方を向きながら。 あーん、なんて言いつつ口をあけて。 「あのな。天皇っちゅーのはあんま頭良くないわけよ。  政治のこととか、結構なんもわかってないわけ。  そしたら、やつらどうすると思う?」 「頭のいい人に聞く?」 「そう。最澄と空海は、派閥は違ったけどどっちも当時のでかい開祖でね。  表沙汰にはしねーけど、朝廷のやつら、時々知恵をもらいにきてたわけ」  パキン、と割り箸を割って、魚のアラをすくっては息をふきかける。 そのまま最澄に食べさせながら、空海が続けた。 「アテルイどうする?って聞かれたの。  悪いやつじゃないみたいだし、田村麻呂も気にいってる。  でも野放しにしておくと怖いって。  そしたら彼らは言った」  正宗は、空になった椀に二杯目の鍋をよそおい、楽しそうに雑学を 披露している空海の横顔をながめていた。 世間話。それでしかないからだ。 歴史に詳しくない自分は、年上の二人が語る日本史に感心していた。 それだけだったから。 「それから?」  今日、二人が眠る部屋を、どれにするか悩んでいたくらいで。 「『殺して』って」  だが。  『殺してって』。その冷たい字面は、空海の優しい声から発するのが 間違いみたいに鋭く、正宗の胸をドキンと高鳴らせた。 それはあまりに、空海の雰囲気からかけはなれた単語ではないか。 「こ、殺すって」  思わずぎょっとして、箸を止める。三杯目に取り掛かる前に、 少し嫌なことを聞いてしまった、と思った。 誰だって、自分の好きな人物を嫌う人間の話は好まない。 「『麻呂様はあのけだものの甘い唾に、我を忘れていらっしゃる。   あれはけだものです。めずらしいけだもの。   情けをかければ、すぐにでもまた朝廷に刃向かうでしょう』。  ね、ひどいでしょ。坊主が殺生を望むなんて」 「はは、それは……非情な……」  なぜだろう。正宗は、しめつけられるような痛みを胸に感じて、 箸を止めることしかできなかった。 「胸がいたい?」  空海の笑みは、絶えない。 最澄は、勝手に土間に下りて酒を見つけ、それを手に 正宗の隣に腰掛けた。そして、「開けてくれ」と手渡す。 瓶の口をのぞきこもうとして、出来なかった。 空海は、ゆっくりと、髪留めを外しながら小首をかしげる。 「それはね正宗。本当は、兄ちゃんは怪我なんかしてないからだよ。  怪我をしてるのは、君だ。小道に入った時に、気付かなかったかな?  僕、君の胸を貫いてみせたのだけど」 「そう。俺たちは、お前を攫いにきたのさ。正宗」 ……まさむね。その聞きなれた単語を耳にした瞬間、 正宗は酒瓶を手にとびすさっていた。ずざざざ、と壁の前で摺り足で止まる。 正宗は、一度も彼らに名前を告げたことはない。 それどころか、賞状やトロフィーに書かれていた偽名を教えていたのだ。 確かな違和感に、また一度ずきりと胸がきしんだ。 「お前らか」  酒瓶の口をもって、構えなおす。 「お前らが、この家を襲った『何か』……!?」 それはまさに、獣の威嚇に等しかった。 奥歯を噛みしめ、正宗が唸る。 「そう。本当は、貴方の家族はみんな死んでるの。  僕達じゃないよ。僕達は、あなたのお父さんと少しばかりやりあっただけ。  すぐに援軍が来て、僕らはなにもしていない。  みんなは、時宗様の殺害がメインだったからもう帰っちゃった。  今頃お鍋のパーティーでもしてるんじゃない?  でも、僕達の目的は違うんだ。僕らもびっくりしちゃったよ。  京都から二月もかけて、ここにきたのにさ。  なあんだ、みんなワープできるんじゃないか、って」  昨晩感じた、色気にひるむ。 少年は、楚々と微笑を浮かべながら、既に昨晩の少年ではなくなっている。 全然違う何か。何が違うかは、わからないけれど。 「まあ、わかっていて。別行動をとったんだけど。  僕、嫌いなんだ。あのひとたちのこと」 「どうしてかわかるか?なぜ、そのままお前をやらなかったか」  問う最澄の手のひらが、鈍い光を放ち始める。 空海は、お椀をすすって美味しい、と一言だけささやいた。 とても美味しい、兄ちゃん。 うううううう。 正宗の噛んだ奥歯の向こうから、熊の唸り声がはじまる。 うううううううう。 目の前にいる細身の少年二人に、ひけをとる気はしなかった。 一撃で葬れる。なのに、どうしても目の前で二人の笑顔がちらつく。 (やらなきゃ……敵だ、敵だ、やらなきゃ……!!) 正宗の爪が、畳をかいてきつい半円を描いた。 『僕達も、ほんとの名前は秘密なんだ』 『アテルイが好き』 思うのに、畳は削れ、研いだ爪は迷っている。 (畜生……敵なのか……!!)  同時に、その赤い両眼からなにかが流れ始める。 それは瞳の色に良く似た、血の涙だ。 虐げられてきた王家の、王子にのみ流れる悔しさだ。 敵と認めた相手にのみ、見せる逆襲の予告! 短い髪が、風もないのにふわりとひるがえる。 それは、攻撃直前の親猫のような激しさで。 「俺たちは、お前に用がある」  しゃうッッ!!左足で畳を滑ると、そのまま、突いた右腕の先で、 酒瓶が最澄のこめかみに触れる。完全にとらえたはずの一撃。 酒瓶が砕ければ、二撃目を入れようとしていた。 なのに。 「『転・生・極・地』!!」  しかし、最澄の熱い手のひらは”後頭部に”触れた。 「ねえアテルイ。駄目だよ」  気付けば、空海は正宗の目の前で、静かに祈りを捧げていた。 何の祈りかはわからない。ただ、後頭部が、熱い。 皮膚がただれて、焼け落ちそうに熱い……! 「君はそうして、まっすぐすぎて。何度も何度もひどい目にあうのさ」  口をおさえるが、遅い。 吐瀉物を撒きながら、畳に倒れるその瞬間。 正宗の目に映っていたのは、ただ一人の法師。 黒い法衣をまとい、毒々しい原色の橙の霧をまとう、一人の法師だった。 (幻術……!?) 「僕の名前は姫蠍(ひめさそり)、空海。  そしてこちらが」  もう一人の法師が、うやうやしく膝をついてなにか念仏を唱えている。 唱えては正宗に触れ、また唱えてはその指を話し、まるで詠うように……。 「毒蜥蜴(どくとかげ)、最澄」 「あああああああああああああっ、わああああああああああっ……!!  いやだあああああああっ、やだああああああああっ!!」  最澄の手から逃れ、動こうとするが無駄だった。 正宗の身体に、這うのは蠍か蜥蜴か。 黒い何かが。尻尾をもった何かが、手首に巻きつき首を舐める。 全身に向かって、それらはうぞうぞとねばりつくようにからまって……。 入って、くる。 全身の穴という穴から、虫や蜥蜴が入り込んでくる……!! 己を侵食する、冷たい舌に、怖気がとまらない。 最澄と、空海……!! 『殺してください。アテルイは、けだものです。  あの獣臭さには耐えられない。僕は美しいものがすき。  あれは、穢れ。汚いけだものではないですか』。 『けだものなんだ、火が怖いだろう?  ほら。火をくべてやろう。憎しみの火を!!  吠えろ。鳴け。苦しみながら毛皮よ燃えろ!!』  くすくすと。袖を含み、笑う二人の姿を覚えている。 千年前、首を斬られるその瞬間。最後に見た景色。 己の首を飛ばそうと振り下ろされた刀の向こうの炎。 阿修羅像の前の、二人。  最後の蜥蜴が、喉の奥にすべりこむ。 それを吐き出そうとしても、犯すようにそれはしつこく しつこく、胸の中を泳いだ。 「あ……ッ」  声をあげることすら出来ずに、意識は薄れていく。 最悪の二日間のはじまり。 シュムンクルの王子、正宗がついに、他人の手に落ちた。 「時宗様を殺すつもりはなかったんだよ、正宗」  空海が、崩れ落ちた正宗を見下ろし、はじめて笑顔をやめる。 常にその口元に浮かんでいた笑みを消すと、残るのは 凍りつくような、寒々とした表情だけだった。 見るもの全てを平伏させるような、威厳。 底冷えするような氷の肌にまとわりつく、黒い布。 「僕らは、できれば。  君だけを迎えにきたかったんだ。  信じてもらえないかもしれないけど……」 「空海様」 後ろから最澄が、空海の首に腕をからめる。 そして、そのまま、その額を空海の肩口にそっと乗せた。 いたわるように、なぐさめるように。 最澄の前髪は、さらさらと空海の肩をすべり、細い肉の上を 通り過ぎていく。どれほどそうしていただろう。 「空海様。仕方のなかったことです」 「……そうだね……」  苦しがり、嗚咽する正宗の口元を、法衣の袖でぬぐう。 空海は正宗の頭を抱き、ごめんね、とささやいた。 すでに正宗には意識はなく、ただ肉体の反射をもってびく、びく、と 痙攣するのみにまでおちている。直に、彼には耐え難い痛みと憎しみ、 悲しみ、苦しみ、こらえきれないほどの欲情が訪れ、身体を焼くだろう。 喉の渇き。性への飢え。それは目覚めにして、終わりの日の再現だ。 燃える肉体の果てに、残るは炭か炎か。 それは二人の法師にも、知りがたい未来であった。 「どうしても、こうするしかなかったの」  その目は、なにも映してはいない。 己のまぶたを閉じさせようと、目の前を覆う、 ……最澄の手のひらがつくる闇以外は、何も。 「最澄……」  詠うようにささやいた言葉が、遠い雨音にかきけされていく。 そう。リルケがいなくなった夜からずっと。 雨は、やんではいなかったのだ。 2 「……己ほど、弱音の虫のつきやすい男も、そうはいまいよ」  あれはいつの頃であったのだろう。齢八つを数えるばかりの幼子の台詞に、 宮の者は皆、楚々として笑いを含んだ。布地の袖を口元にあてて、ほほ、と 鈴を転がし口にする。一人、帳の向こうにあって、庭を見下ろし少年は言う。 「人は死んだらどこへゆくのか。そればかりを病み、とくと眠れぬ」  美しい、白い肌を持つ少年の世迷言。絹か更紗か、少年の首筋は、鬼瓦より 屋根をつたい、甘露となって落ちてくる雨の名残に濡れている。 柔らかな産毛を、夜の風にさらす豪奢さよ。 皆の者が館にて、毬の手入れにやっきとなっている間中、少年は目を伏せ、 物憂げに囁いていたものだった。 「幾月を越えて、立派となり、老いて死に土へ還る。  誰もがそうであるべきなのに、まだわかろうとせぬ」  容姿とは相反して、荒れた足の裏を軒下の板に添え、その肩膝を抱きながら 夜鳴鳥を呼び、風鈴を鳴らし、誰にも気付かれないようそっと。 本当にそっと。 「……死にたくない」  少年は、咲き乱れる、土の上の草花に語りかけている。 月にかかる群雲を、誰より嫌う男であった。 朝の日を浴び、花の開くのを、誰より悲しむ男であった。  少年は、頭上に広がる暗黒の空を見上げては、聞き取れぬほどの吐息を洩らす。 問いには誰も答える術がない。 わかっていて、ふざけて問うている。 死の向こう側など、見て戻った者は一人とて無い。 ならば己は、死者と会話しているのだろうか。 そう考えると、とてもおかしな気持ちになった。 「永遠に、この夜が続けば良いのになぁ……」 立てた膝に顎を乗せ、ゆっくりと揺らして見せながら、少年は一晩中、 そうして風と話している。宵を終え、皆が置き出す頃になるまで、 一人で歌を詠んでいる。木片をなぞるでもなく、刻むでもないその戯言は、 横たわる皆の耳をくすぐり、甘い響きだけを流すにとどまる。 一睡もせず、日が照ると寝付く彼の姿を、ふざけてよくよく呼んだものだ。 鬼の子、今宵も帳に風は吹きしか? 「ああ、浦々歩き通したものだが、やはり京こそ鬼の在り処よ」  振り向きもせずに言い放つ。  大人の胸にも満たぬ背丈で、五十も生きたかのような口ぶり。 庭に点在する、小さな湖面を映し出すためだけにその瞳はあり。 秘術だと言い、難なく鳥を呼ぶがためだけに唇はあった。 身体は、あまりに重いので。そこまでささやき、全てを閉ざす。 彼こそが、後の征夷大将軍。坂上田村麻呂その人であった。 彼は自らを指してよく言う。 私が一番よわい。私が一番、とるにたらない。 だから俺は怖い。この身体すら信じられない。  幾百の敵を滅した後にも、彼は常に一人で在った。 岩の上、館の隅、都の陰、人々の中。 いつも膝を抱え、寒さに耐える姿をしていた。 麻呂様はいかにありしか。  問われなくては、見つける気にもなりはせぬ。 かくれんぼうのうまいひとだと、戦場で人々は噂した。 まるで鬼達に、見つけてもらおうとしているかのごと。 3  上目遣いにこちらをうかがう。そう耳にした時に、 頭の奥で想像するものとは真逆の視線が、こちらを見ていた。  深く黒みを帯びた両眼。口元は確かに微笑んでいるのに、 双眸は一切の光を吸い、墨で塗りつぶしたようにさらりとしている。 ぬめりもしない。輝きもしない、醒めた瞳。 そんな目を間近に見るのは、初めてだった。 ……夜だ。そう感じた。だが、その眼球は、夜に失礼なほど、 何の色も見せてはくれない。もし指をさしいれれば、そのまま どこかへ通じていそうな目。虚(うつろ)の一文字を、お前にやろうじゃないか。 アテルイは、はじめに。そう言って、彼をからかった。 (これが、「明けぬ夜」と噂の……新しい将軍か)  798年。東北地方を制圧しようとした朝廷が、蝦夷の反乱軍により滅ぼされて数年。 朝廷の征夷大将軍、坂上田村麻呂が桓武天皇の命により蝦夷の頭領アテルイを滅ぼす。 史実にそう記されることになる一戦が、終わった瞬間だった。  時間にしてたった数分の戦い。 両腕の腱を切断され、手首から血の雨を降らせていたアテルイの目が、 ゆっくりと。ゆっくりと見開かれていく。 混ぜきった白い水飴を、更にかきまわそうとするような時間が流れ。 小山すら一足でまたぐと言われた巨人の身体が、浮かび上がる。 四万の軍が、一人の男に壊された。 いや、今までに失った仲間の数は、それこそ。 都に住む人間の半数にも上るであろう数だった。 どれだけの兵を集めて赴いても、アテルイは全て殺してしまう。 腕の一振りで十人を殺し、足を地面に叩きつければ二十人が吹き飛ぶ。 彼から逃げようと必死に走れば、アテルイの腹心モレの率いる弓兵たちが、 怯え叫ぶ人々を打ち抜いた。 狡猾にして卑怯。見慣れぬ飛び道具を使い、嵐を起こす蛮族。 蝦夷討伐。それ以前に、この争いは仇討ち。 坂上田村麻呂が、アテルイのみぞおちに肘を突く。 そして濡れた地面に踏み込み、そのまま衝撃で吹き飛ばす。 「ぐっ……!」  己もそのまま、アテルイの中枢へと飛び込みながら田村麻呂は 肩の痛みに片目を閉じた。つかまれただけだ。その大きな手のひらに、 肩をつかまれただけだ。なのに肉は溶かされ、ぐずぐずに混ざり合っている。 骨は砕かれ、身体は軋み、肉は血となり半身を舐める。 固体を液体にかえるほどの圧力をもった指。 その指先が、己の頭狙い振りあがっている!  避けるには、離れるしかなかった。 なのに彼は、更に強い力をアテルイの腹に叩き込む。 四万の兵のうち、生き残った者は数人いるかどうか。 その数人を守るためには、アテルイを遠くへ飛ばさなくてはならない。 「はあっ……!!」  ぐるん、と軸足を変え、そのまま勢いをつけて一撃を放った。 ズパン! 今度こそ、と眼下の谷底を見下ろす。 蝦夷達の住む場所から、ここは数里離れていた。 底の見えぬ死者の谷。そこまでアテルイをおびきよせ、そこへ 彼を突き落とす。それしか勝機はない、との仰せに、反対したのもまた田村麻呂である。 罠、それだけのために。一体何万の人々を餌にするおつもりか。 だがしかし、悩みの末にそれを了承したのも彼。 アテルイを野放しにしていては、やつら蝦夷が都へ攻めてくるかもしれない。  まるで蟻の大群をつぶしてまわり、その汁を土にこすりつける桓武天皇の無邪気な 笑顔のように、四万の兵はすぐ消えた。全ての兵力を使い終え、谷まで半分も 彼を進めることができない。最後の砦として機を待っていた田村麻呂が、 ここまでやっと彼を追い込んだのだ。 考えていたよりも、ずっと強い。  戦いで血を浴びたことなど、今までになかった。 それがどうだ。四万の兵の血で空気は霞み、真昼だというのにあたりは暗い。 漂う瘴気に胸が焼ける。 そして、最後の一歩を踏み外してなお、その男は笑っているのだ。 「おいおい、俺一人死ぬわけにはいかねぇんだよ。  お前も一緒に来てくれるんだろ?」  ぞっとして、跳ねるようにアテルイの足を蹴った。 が、その指先が田村麻呂の足元をがっちりとつかんで離さない! 「麻呂様!麻呂様っ……!!」  下半身を失った部下の一人。その一人の伸ばした手の意味を、一瞬迷った。 (共に落ちるというのか、この俺が……!?) 「谷の底まで案内するぜ!?」  とろけるようだ、と思う。 彼の指先に触れられると、生き物はみなどろどろに溶けて形を失う。 熱い指先。足が溶けて消える幻覚を、振りほどくために頭を振った時には もう、身体はアテルイともども宙に投げ出されていた。 死ぬ。その言葉が胸を過ぎ、はじめて田村麻呂の表情が崩れた。 「……!!」  打ち付けた黒漆の剣の表面に、白光がすべる。しかしその刀も、 アテルイに追撃を与えることはできなかった。 ぶわっ……。信じられないスピードで、落下していく。 身体どころか魂までもが、谷底に吸い込まれていく。 刀は手を離れ、はるか上空に舞った。 「道連れ……道連れに、田村麻呂様が道連れに!!」  遠く聞こえる悲鳴も、すぐになくなる。 死。まだ若く、老いの影すら見当たらぬ青年の視界を塗りつぶす闇。 剣を無くし、次に掴める岸をなくし。白い羽織が、次に舞う。 その鮮やかな真白を把握する前に、意識が飛んだ。 最強の敵。 その一言を飲み込んで、どれくらい時がたっただろう。  ちちちち、と。小鳥の囀る声がする。 「……」  腰のあたりが冷たい。さらさらと耳元で水が流れ、後ろ髪が重かった。 激痛をこらえ、状況を把握しようと身じろぐ。それだけで、燃えるように 命がこぼれていく。気を失いそうになるのを、歯を噛みしめてこらえた。 「ぐ……あ、くそっ……!」  数刻過ぎて、やっと右肩を上げることができた。半分つぶれている瞳は、 どうやら死に行く途中であるらしい。大体、まぶたが腫れて目が開かない。 ゆえに耳をすまし、意識を研いでまた数刻。 (川……俺は川に落ちたのか……)  それにしたって、石や水面に叩きつけられている。 どれほどの損傷を負ったのかは、数えることもできなかった。 「つ……!」  ガサ。すぐ隣で、何かがこすれる音がした。 布……だろうか。獣のようにうなり、その音はすぐに消えた。 「アテルイ……?」  どうやら互いに、激しく削れて死の間際にいるらしい。 田村麻呂は最後の力でばしゃん、と水に肘をつき、ずりずりと、 ゆるやかな水流に逆らって川を上った。 すぐに指先に、ざらざらとした獣の皮が触れる。 彼らは獣から布をつくり、それを着ている。 確信し、その布を引いた。 生きているなら殺さなくてはならない。 それはあちらも同じだったのだろう。 アテルイらしき者は、少し田村麻呂の腕から逃れようとして、 その次に田村麻呂の首に指先をあてた。 ジっ……。火を押し付けられたかのように、肉が焦げる。 「うっ……!」 「田村麻呂……か?」 「ああ」  砂を噛むように、苦しそうに一言答える。 アテルイの身体をたぐりよせ、よじのぼる。どうやら仰向けに倒れている らしい巨人は、少ししてからその指先を離してしまった。 ぱしゃ。軽い水音がして、彼の笑い声が聞こえる。 「殺すのか、俺を」 「ああ」 「今日は……死ぬにはいい日だな。  わかるか?この谷に、光が降り注いでいる。  ここは俺たちの聖地なんだ。  まあお前らは、死の谷だとか呼ぶけれど」 「聖地だと?どういうことだ」 「みなのために戦って、死んでいく蝦夷はみな。  この谷で祝福されて、新しい国へいく」 「新しい……国」 「そう。お前らみたいなけだもののこねぇ、  最高の国さ」 「けだものとは、よう言う。獣はお前じゃ、アテルイ……!」  ずり。首のあたりまでのぼりつめた瞬間、足をすべらせて真横に落ちる。 「お前ら朝廷は、どこへ行くんだ?死んだら……」  目をこする。けれどどうしても、何も見えない。 目は開いているのに、白く。目の前はただ白一色にしかならずにいた。 田村麻呂は、足首を濡らす水の冷たさに、きつく目を閉じ吐き捨てた。 「わからない。知りたくもない」 「お前、強いなあ。俺は強いやつは好きだぜ。  ははっ……他の誰とやりあっても、つまらなくてよ……。  おかげで、気分良く死んでいける……」  アテルイの笑みに、含むところは見受けられない。 田村麻呂は、少し自由がきくようになった手で、己の頭を撫でてみた。 ああ、将軍の証。烏帽子は流され、この有様だ……。 「なぜ、殺した」 「お前らこそ、なぜ殺したんだ?」 「なぜ、罪も無い人々を、」 「お前らが最初に来たときに。俺の三番目の……息子が死んだ。  まだ生まれて間もない赤子さ。あいつが一体何をした?」 「蝦夷が、朝廷を襲うから……っ」 「朝廷が、蝦夷を襲うんだ」  長い沈黙。顔を下げると、水がまぶたを冷やしてくれる。 石の絨毯に額をついて、田村麻呂はつぶやいた。 「くだらないな」 「ああ、くだらねぇな」 「蝦夷の王よ……。一つ、約束してくれないか」 「なんだ」 「もう、都の人々を殺めぬと。  代わりに俺は、都の人々に言おう。  もう、蝦夷を、殺すなと……」 「ハッ、そんなこと……」 「俺もはじめてだったんだ。本気でやりあえたのは。  ははっ……初めて思った。死ぬかもしれないと」  顎をそらし、空の方向に顔を向ける。そしてようやくわかった。 白いのは、光か。太陽の光は蝦夷の谷ではこんなに明るいのか。 「俺たちは、殺してしまったよな。たくさんの人を」  田村麻呂の声に、アテルイは笑うのをやめた。 そして低い声で、牽制するようにうめく。 「……俺はお前らの兵を、お前は俺たちを?」 「違うよ。俺は俺たちを。お前はお前たちをだ。  守ると決めたのに、守れなかっただろ?」 「……」  アテルイの声は、熊のうなりによく似ていた。 なのにどうだろう。寄せた鼻先からは、花の匂いがする。 それはこの谷に咲く花の匂いか。それとも、蝦夷の匂いだろうか。 「おお」  アテルイが目を開く。すると、すぐ隣で、田村麻呂が水に浸され 自分を見上げているのに気がついた。ああ、こんなに小さいのか。 そう思い、また目を閉じる。 俺の拳よりもまだ頭が小さい。 「おお、はこちらの台詞だよ」  田村麻呂が目を開く。その瞳に映りこむのは、一人の。 ただの男の横顔だった。 「お前が人であることすら、俺は忘れていたんだ」 そりゃあ、身体がでかい。 熊の毛皮も羽織っている。獣の皮でできた服を着ている。 けれど、間近に触れれば。その口元は、鼻筋は、輪郭はただの。 少年の顔つきではないか。 (もしかしたら、こやつは俺より一回り若いのかもしれぬ)  目を閉じる。爽やかな谷底の空気を吸い込む。 どうせ俺は死んだことになっているだろう。田村麻呂はそっと微笑んだ。 ただの男になって、こいつのいう新しい国を見てみたい。 もしかしたら。 そしたら、死ぬのが怖くなくなるかもしれないじゃないか?  「アテルイ様!アテルイ様!」 よちよちと、まだ立ち上がって日のない幼子が、彼の膝にへばりつく。 あれから数ヶ月が過ぎた。都の将軍だと一言。アテルイ自身が告げれば、 俺はすぐにも処刑されていたに違いない。腹心として、二番目の猛者。 鬼人の右腕と伝えられていたモレが、まるで少女のような姿をしていた時に、 ああ、と思った。ああ、俺達は、本当のことを何も知らずに、 頭の中で思い描いた化け物たちを、敵にしていた。 『だってこの人、将軍でしょう!?殺さなくちゃ!』  叫んでいたのは、矢を全て使い果たし、矢筒と弓だけを背負った幼い少年だ。 小麦色の長い髪を二つに結わえて、それをキレイな小石でまとめている。 『こいつは田村麻呂じゃねえ。新しい、俺たちの仲間だ』 『そんなこと。本気で言ってるの、アテルイ!』  蝦夷一の弓の名手。この者の手にかかれば、たとえ後ろをむいていたとて、 迫り来る敵を捕らえることができるという。一矢が刺されば、その痛みと 苦しみに、大抵の兵は我を失う。矢こそ最大の飛び道具であり、朝廷の知らぬ 未知の武器である。それを自由自在に操る豪傑。 その正体が、こんな。かぼそい腕の。  驚きで言葉をうしない、アテルイの上着の袖で口元を覆っていると、 手招きされた。どうしていいのかわからずに、おろおろしていると がっ。腕をつかまれて、ひょい。そのまま抱きかかえられてしまう。 『俺の言うことが嘘だと思うか』  戦っていた時、あれほど恐れた指先は。仲間にとっては単なる大きな指。 片腕で俺を抱え、反対の腕をぶんぶんと振って腕ならし。 そのまま無理やり、村に連れ帰ってしまった。 「おい」 「あぁ、はいはい。なんですか」  回想を中断し、向き直る。俺が建てた城を、奪って使っていたことも あるくせに、本当のいどころは猪程度の住処に見えた。 まず汚い。座るところがない。うろうろしていたしもべたちに さあ、はよう座るところを用意してくれ、と言ったら小突かれた。 『お前はもう貴族様でも将軍様でもねぇんだ。お前が片付けるんだよ!』 『え、ええええ〜』 『なんだその顔は。そんな顔もできんだな、おめぇ』  仕方ないですねー、と拳の風圧で全て吹き飛ばしたら、喧嘩になった。 あの時の殴り合いは忘れない。 「今夜はうちのもんが、全員狩りに出る。  飯は作れるのかと聞いたんだ」 「はぁ、飯。飯とは作るものなのですか」 「……あのなあ。作らないでほいほいどっかから  出てくるわけねーだろ」 「はあ……そうですか」 「お前な……」  ぺち。額に手のひらをあてて、苦悩する。 「おりゃあ、頭領だぞ。飯なんぞ作れるかよ」 「蝦夷の頭領よりは……私の方が地位は上ですし」  吐き捨てられる言葉に、のんびりと言い返してみると、 キッ。噛み付くように歯をむいて、キーキーと文句を言っている。 「女みてーなのは、顔だけか将軍!」 「あのですねえ。大体、朝廷には女の人はあまりいませんよ。  完全なる男社会です。だからまあ、そういうことはありますけど」 「そういうこと?」 「あらら。そういう意味ではない?」  かみ合わない会話の終わり。べち、と膝を叩いてアテルイはうーむと 眉をひそめてみせた。俺とお前じゃ、食えそうなものが作れそうにねぇな……。  アテルイという『人間』は、実に端整な顔立ちをしていた。 これで体躯の寸法が通常ならば、さぞかしよかっただろうに、とぼんやり 考えてみることも多い。あのー、と夜中こっそり聞いてみると、やはりそうらしい。 『その大きさでは、子作りに支障が出るのでは?』 『ご名答だな、将軍。いやなところに気がつくぜ』  足音はどすどす。座る時にはどっかとあぐら。怒ると髪の毛が少し逆立つ。 威嚇する時は、野良犬のように歯をむく。喜怒哀楽のわかりやすい表情。 笑う時には、地面を揺らすように笑う。泣くときは、手でぬぐってもぬぐっても 泣き止まぬ。怒るときは、実際雷が落ちたほどの地響きがビリビリと足元を走る。 そして。 「そーだそーだ。俺よぉ、秘密の畑を山に持ってんだ。  嫁の数人に作らせたんだけどさ、その畑の近くに山菜が生えてる」 「嫁につくらせた時点で、秘密ではないですよねぇ〜」 「うっせえな!それむしってきて、川で鮭でもとってきて煮りゃ、  それなりの飯になるんじゃねーか?」 「俺はイヤですよ。川に入ると濡れますから」 「じゃあ見てろ。俺上手いぜ!鮭とんの!!」  ……嬉しいときは、見ている者の方が笑ってしまうような顔で目を細める。 おおげさに、両腕をつかって「これくらいの鮭」と示してみせる。 「……ふ」 「何がおかしい。俺の顔になんかついてるか?」 「いや。蝦夷の頭領は、何に乗って移動するものかと、ずっと不思議でな。  そうか鮭か。お前たちは鮭に乗って移動するのか」 「あのなぁ」  ぽりぽりとこめかみをかきながら、立ち上がる。 「アテルイ様。ちょっといいですか」 「どうしたモレ。お、そーだ。お前も残れよ。  そんで鮭と山菜とってきてくれ」 「……その人と一緒なんだったら、イヤです」  顔をそむけ、わざと俺を見ない仕草をする。 あらあら、と言いながら扇子を広げてみせる俺を一瞥すると、 べっ。舌を出してアテルイの背に隠れてしまった。 「モレとやら。気にするでない。俺は気さくな方だ」 「遠慮してるんじゃないよ!!あんたが嫌いなんだってば!!」 「ほっほっほ。照れておる。愛いヤツ愛いヤツ」 「ちーがーうー!!」  ぴょこ。顔だけ出して、面妖な顔つきをしてみせる。 ゆるりゆるり。扇子で起こした風に都の香りを感じながら、 俺も続いて立ち上がった。 「ぬしには断る権利なぞないぞ」 「なんでだよっ!!僕はあんたより先輩だしっ!!  新入りの上、敵だったくせに偉そうな口きかないでっ!!」 「ほっほっほ」 「理由はないのかよ!?」  キー。すぐにキーキー言うところは、まったくアテルイに似ていた。 「いいよ!わかったよ!僕が作りますよ!!  この人にまかせて、アテルイ様が病気にでもなったらたまらないし!」  いつも激昂している。見るたびに赤くなったり、青くなったり忙しい。 そして、最後には文句を言いながら、よく尽くしてくれていた。 「モレや」 「なんだよっ!!」  鍋を片手にキーキー。片腕を振って俺をアテルイから遠ざけようとする、 その腕をつかんでぐいっと引き寄せる。 「ありがとう」 「……っ!」  手を振り払い、うつむく。 「あんたのためにやってんじゃないんだけど!」  そしてどたどたと、主と同じ音で土間に歩いていく。 心優しき民たちだと感じた。 うすうす、気付いていたに違いない。 私が坂上田村麻呂だと。 自分達の仲間を殺した、朝廷の人間だと。 モレのお下がりを着せてもらっていても、やはり匂いが違う。 俺の身体からは、あの花の匂いはしない。 言葉遣い。動作。アテルイから学び、なんとか蝦夷を装うものの、 アテルイ自身が気を許すと、俺に「なあ将軍!」などと言う。 ……ばればれ。  そしてまた数日。手合わせをしたい、と申し込まれて数時間拳で語り合った のち、気がつけば全ての民が眠りにつく時刻になっていた。 二人で、川に飛び込み汗を流してからびちゃびちゃ濡れたままで屋敷の 門をくぐった時だった。仁王立ちのモレが、鍋を抱えたまま、 怒髪天を突いた様相で俺たち二人をにらみつけていた。 「すまんなモレ。つい夢中になった」  手をあげ、笑顔で言い訳するその顔に、鮭鍋がぶつかる。 ごいん。ものすごく鈍い音と同時に、鍋の中身がアテルイにぶちまけられる。 「……ぶわっ!!なんだこりゃ、つめてぇ!!」 「本当だ。冷めているな」 「アテルイ様のバカっ!!」 「すまないことをしてしまいましたねぇ」 「風呂は沸いてます!もうみんな寝てますから!  おとなしく寝てください!!それでは!!」  どすどすどす。眠る子全てを起こそうとしているかのような足音。 アテルイは手首をぺろぺろと舐めながら「お、うまい」とか言っていた。 「俺は土間で待っているから、風呂に入ればいい。  話はまた、その後にしよう」  俺は、そう言ってアテルイを見送る。  屋敷は、さすがに頭領の屋敷だけあって、質素ながらに立派なかやぶきに なっていた。囲炉裏で物を焼き、煮て、暖をとるだけに土間に火の絶えることはなく、 煤が屋根の裏にてかりを与えている。真っ黒な、煤の色に塗られた天井。 時折、はらはらと落ちる煤を、手で払うのが好きだった。  葉が擦れ合い、風がかたかたと戸を揺らす以外に、何の音もしない。 土間の戸を引き、夜風を浴びながら俺は思った。 (すぐ近くで、何人もの人間が眠っているとわかるからだろうか?  都で感じた恐ろしさ、いたたまれなさはここにはない)  死ぬのが怖いと震えて夜を明かす。そんなことはここでは許されない。 日が沈めば床につき、日が昇る前に一斉に置きだして畑に出て行く。 物憂げに膝をたて、鈴虫の声に耳を傾けるほど暇ではなく。 俺の話をまともに聞いてくれる人もいない。 あなたが何を言っているかわからない。 そんな風に、小首をかしげ。目を見合わせて、アテルイの嫁たちは そそくさと飯炊きに戻ってしまう。最初はその教養のなさに呆れ、 一人でむくれていたものだったが。  都で学んだことなど、生きるのにどれほど必要だったのだろうと今は。 「隣、いい?」  気配を感じていたから、さしたる動きもなく。俺は振り返りもせずに、 いいよ、と答える。モレはいそいそと俺の隣まで近づいてくると、 腰かけようとはしないで近くの窓枠に手をかけた。 「……あんた、この前の戦。出来る限り蝦夷を傷つけるなって。  言ったらしいね」 「結局、そうはいかなかったがね。  アテルイが強すぎたのか、俺が弱かったのか」  表情は、見えなかった。二人で庭を見つめ、距離をあけたまま会話している。 遠く、アテルイのたてる水音が、ざああああ、ざああああ、と波打っていた。 「僕、それを教えてくれた人を殺したよ。  それでも僕を許せる?  あんたを疑って拷問して、殺したんだ。  それでもあんた、自分を許せる?」 「怖かったのか。アテルイが騙されていると思って」  きし。窓枠に体重をかけ、モレは長い前髪をくるくると指先にまきつけた。 「……わかんないや。あんたが悪い人じゃないのはわかる。  だけど、みんなの魂がちゃんと空に溶けるまでは、  俺だけはみんなのそばにいようと思ったんだ」 「魂が、溶ける」 「うん。死んで二十日たつと、蝦夷の人間は新しい国へいくんだ。  ……見て」  指さす方向を見て、それからモレの方へ向き直る。 すると、彼はおだやかな表情で静かに、と唇だけでささやく。 「真夜中なのに、小鳥達が集まってきている。  アテルイ様に最後の挨拶をしにきたんだ」  もう一度目をこらすと、確かに見えた。 庭の木々だと思っていたのは、枝に止まる鷹の羽だった。 生まれたばかりの子鷹の群れ。 時に広げ、すぐにおさめ。爪で枝に乗り、くちばしをずっとこちらに向けている。 数百羽。うっそうと茂る緑のかわりに、灰色の、茶の、黒の羽根がさわさわと ざわめている。モレが両腕を窓の外に差し出すと、ああ、夢のようだ。 鳥達は、その両腕に舞い降り、二つの腕に口付けをする。 数十羽ごと、順番に。モレの腕をついばみ、次の鳥へゆずる。 人の言葉がわかっているかのように、賢い目をした鳥達だった。 「みんなありがとう。アテルイ様には伝えておくよ」 と、全ての鳥達は一斉に、名残惜しそうに飛び立っていった。  あとには、土の上に落ちた羽しか残らない。 その羽根も、すぐに風に流されて消えてしまった。 「あんたを信じていいの?」  強い口調だった。それは、戦う者の強き瞳。 俺は少したじろいで、言葉を選ぶ。 都の人間で、これだけ澄んだ目をする人間がいただろうか。 あの日、小脇を流れていた小川のようにさざめく、美しい瞳。 「……俺は、そんなに強くないんだ。  最も弱い……人間だよ」 「黙ってうなずけよ。信じたいんだ」  なんと強い、瞳。  それから一刻。ただ、隣でたわいの無い話をした。 好きな食べ物はなんなの、だとか。昨日食べた昼飯のあれは、 木の実だったんだよ、だとか。アテルイが戻る頃には、 モレは初めて。俺に向かって「バーカ」と言いながら笑ってみせた。 「お、どうした。随分仲がいいじゃねえか?」  白い着流しをひっかけて、アテルイが半分裸で土間を覗き込む。 「なんでもありません。アテルイ様、今日の夕食ですけど。  もう一つ余計に作ってしまったので、この人にでも温めてもらってください」 「火、か。こいつ、火に好かれている。炎を起こすと、必ず髪を焦がすんだ」 「じゃあ、貴方がなんとかしてやってください。……ぼ、僕は知りませんからね」 「まかせろって」  鼻歌を歌いながら、着物を着込む。アテルイは慣れた手つきで鍋を運んで、 囲炉裏に火を起こしてみせた。その姿がいとおしいのか、モレは薬味をふりかけ、 うまくいくように鍋を混ぜてくれる。 「そうだ。一度だけなら、僕。この人と一緒に畑へ行ってもいいですよ」 「そうかそうか。じゃあ明日行こうな」  くしゃくしゃ。アテルイに頭をつかまれ、モレがくすぐったそうな顔をした。 鍋を煮ながら、俺たちはここのところ毎日交わしていた議題について、 意見を交わす。モレにすら聞かれないように、場所を変え、人々の気配をうかがって 問い交わしていた、ひそひそ声での会話。  ことことと煮える鮭鍋の味には飽きていたが、今年は異常に鮭がとれて 仕方が無いと聞いている。椀によそおい、箸をつかってかつかつと音をたてて味わう。 すぐ熱くなる二人だった。 言い争いになる。それでも、しなくてはいけない話だった。 『アテルイ、京に来てはくれないか』。  見つめあい、対峙して放った一言。 アテルイは静かに。ただ静かに、問い返した。 『俺は朝廷に狙われている。知っているよな?』 『俺が殺されたとなれば、桓武はすぐにでも次の将軍をたてる。  永遠に終わらない戦いに、人々を巻き込むのはもうやめよう』  途方もない話だった。だけど、俺は。 バカみたいに、それを繰り返した。 『お前とモレにはそれなりの地位を用意させる。  だから、どうか。蝦夷が無抵抗であることを。  ……獣ではないことを、教えてやってほしい』 『村を離れろというのか?戻れない旅に出ろと?』 『皆が理解すれば、戻れる。必ず戻す』  話の続きをするのに、あまりに今夜はいい夜過ぎた。 二人きりで、囲炉裏を囲み向かい合って鍋をつつく。 じりじりと、腕を伸ばすと指先を炎がかすめた。 「アテルイ」  名を呼ぶのに、次の言葉が出なかった。 もしも桓武様がわかってくださらなかったら? そう思うと、怖くてたまらなかった。 (怖いだって?この俺が?)  じじじじ。アテルイは三杯目の椀を床に投げ出すと、 そのまま膝をたてて炎をみつめていた。赤い炎に照らし出される横顔は、 小川で見つけたあの、整った顔立ちのままだ。 「……麻呂」  椀と、それをつかむ指先だけがあたたかい。 照らされた部分だけが明るく、夜は確実に。この部屋をとりかこんでいた。 アテルイは、一度膝に唇をつけ。それから顔をあげて、俺に手をさしのべた。 それがどういう意味か、とっくにわかっていた。 声の響き。半端に開いた指先。そしてその、目に映る炎の照り。 「都では、こういうことはねえか?」  自分で言っておきながらすねたように唇をとがらせる。 すぐに顔色を変える人だった。炎が邪魔さえしなければ、 その顔色を笑い飛ばせたのに。 「来いよ」 「駄目なんだ」  俺は、そっと。雑な音をたてないように、椀を床におく。 そして、一歩下がってぐっ……。着ていた着物を大きくずらしてみせる。 「もう、人間じゃない」  アテルイは俺の身体を、なんの感情もなく見下ろし。そしてふっ、と 口元をほころばせてみせた。 「お前こそ子作り、どうしてんだよ」 「けして服は脱がない。これが、なかなか難しいんだ」 「麻呂」  アテルイは、指先をひっくりかえして、俺を手招く。 「いいから」  動かない俺に近づき、眼前に両膝をつく。 そして両腕で、着物の衿をつかんで開く。 一片の躊躇もない動作で。 「おめぇほどの武人が、誰かに一撃もらうわけねぇよな。  それとも俺が、一番よええのか?」  そっと。指先で、俺の肩の傷をなぞる。 えぐれた肩の肉を形どるように。 「これだけは、俺のつけた傷だな」 新しく、輪郭を定めようとしているように。 盛り上がり、くぼんだ肉をやさしく撫でる。 「……自分でやったのか」 「死ぬのが怖いんだ。  夜になると耐えられない」  見られたものではない。 傷だらけの肉体。 傷なんて生易しいものではない。 変化した、腐る暗色の肉のかたまり。 「痛いよ」  噴き出すべきだと思った。この男を利用するなら。 蝦夷と朝廷の争いを止める、駒にするなら。 だのに、俺は、顔をあげたまま、されるがままにしておいた。 己で見ても、ぞっとする。水で洗うだけで、そのまま放っておいた 傷口の表面は、ぶつぶつと凹凸をつけて奇妙に水疱を含んでいる。 まるで蛆が傷から顔を出しているような、醜い姿。 何度腕ごと切り落としてしまおうと思っただろう。 腹の傷もそうだ。足の傷もそうだ。 俺からするのは血の匂いなんかじゃないよ、とささやく。 腐った肉の匂いだ。 アテルイの顔が、肩に近づいてくる。 見たければ見ればいい。思い、次の瞬間驚いた。 ぺろ……。 彼は、何も思っていないようなそしらぬ顔で、 俺の傷を舐めていた。ざりざりと音が止まるのは、はたして。 彼の舌が悪いのか、俺の肩がけばだっているせいか。 「アテルイ、」  強く掴まれた肩が、痛い。 俺は最後の抵抗をした。 「死ぬのが怖いよ……」 5    脂汗が固まり、目を開こうとするとばりばりと乾いた音がした。 口の中がひどく乾く。舌の根の感覚がない。 「う……」 「お目覚めかい、正宗」  自分が何者なのか、ここはどこなのか。 見失ったまま、つぶやく。 「麻呂は?」 「千年も前に」 「痛っ……!」  ズキン。目の裏を走る激痛に、片目を閉じる。 「空海……」 「いかにも」  目が覚めてはじめに見たのは、幽玄の輪郭を持つ美丈夫。 白いてぬぐいを濡らし、その端で己の口元をぬぐう指先。 甘い吐息の届く距離で、ぼやけた視界をふりほどこうとする。 が、腕も。首すらも満足に動かせなかった。 それになんだ?この、重さ。粘つき、頬を伝う汗すら垂らさず、 首元や胸元にへばりつく蔦のような感覚は。 「……髪、が……」  両腕は布に巻かれ、眼下に封じられている。布を巻き取る、いくつもの 巻物。黒皮のベルト。手の甲で破ろうとしても、それはとても叶わず、痛みだけを強くした。 濡れてはりついたシャツから、清かな井戸水の香りがする。 身じろぐと水音が跳ねた。おそらく、絶えず桶から冷水を浴びせ続けられたものと見ていい。 その証拠に、ほら。ひざまづいて私の世話をしている空海の後ろで、空の桶をつかんだ 最澄がいるじゃないか。彼はどこか物憂げな表情で、私をただ見下ろしている。 捕らえられる、という真の意味を教えてくれる二人だ。 見える場所にない両足も、おそらく似た方法で封じられているはずだ。  土の匂い。汚れた顔で、見上げた世界は、『あの日と同じく』真白の光の渦の中にある。 『なあ、麻呂。俺が死んだら、思い出してくれよ。  俺は風になる。そして、必ず。夜になるたび、お前の帳を揺らそう』 「髪が、気になりますか?」  空海の両腕が降りてくる。彼は井戸にもたれかかった格好の私の首に手をかけると、 そのひややかな指先で何かをかきわけた。するすると胸元を離れ、結わえられていくなにか。 ああ。 それがなにかは、わかってたんだ。 「リルケは、私の……短い髪が好きだって」 「うん」 「麻呂は、ずっと、震えてて」 「そうだね」  全てを失ってしまった。 「空海様、手が汚れます」 「いいんだ」  吐き捨てるように、投げかけられた言葉に。 なにが、彼の美しい指を濡らすのかと。こちらも胸で吐き捨てた。 紫の長い髪が、腰のあたりまで伸び。 私は全てを失った。 「最澄、もうこの子は大丈夫。封を解いておあげ。  すぐに旅に出よう。準備は出来てるね?」 『カタカタ音がしたら、呼んでくれ。俺の名前。  よもや、忘れたなんて言わせねえぞ。  肩が痛めば、それが俺の合図』  リルケが朝廷に攫われた。坂上田村麻呂は、もういない。 あれほど死ぬ事を恐れた人間ですら、いずれは死に、そしてあるこの平成。 最後の瞬間、アテルイはそこにいられただろうか。 その日、あの人は。どんな顔で、夜霧にかかる群雲を追ったのか。 老いた背中を曲げ、きっと、両手で抱こうとしてくれる。 思い通りにならない体で、膝をつき、病床から這い出して叫ぶ。 やっと来てくれた。 会いたかった、アテルイ。 もういやだよ。 一人で生きるのに、平安時代は暗すぎる。 つれていってくれ。 つれていってくれ。 『そばにいるよ』  リルケ。父様。 呼ぼうとして、出来なかった。 新しい希望に気がついて、目を閉じることもできないんだ。 「空海。麻呂は、麻呂はどこにいる……?  『俺』が『ここ』にいる。『あいつ』は『どこ』に?」  つかみかかるように吠える声が、もう。 喜びに震えてるんだ。 空海の胸に、肩をぶつけて。震えながら叫んでるんだ。 「会いたい……っ」  この手の中に、一つの光もなくなって。 夜が来たなら、探しに行きたい。 約束したから。 『将軍様、今宵は帳に風が吹きますか?』  おどけて、後ろから声をかけると。 振り返りもせずに、笑うんだ。 『ああ、カタカタと』  リンコーン、と腑抜けたベル音がする。その後、すぐに坂上御幸が顔を上げた。 コンビニのカウンターに一人でいるのは好きだ。御幸は、一人そう思う。 肉まんの保温器を壁にして、椅子に腰かけて週刊マガジンを読む。 保温器の後ろにいると、監視カメラには俺の後頭部しか映らない。 手元が隠れるいい死角なのだ。 パイプの椅子の余った部分に、スニーカーのかかとを乗せる。 片方の足だけをあぐらにして、モップを抱いたまま鼻歌を歌っていた時だった。 客の到来を知らせる、自動ドアのベル音。 「らーっしゃいませー……」  気の抜けたお出迎えを、声でだけ。しょーがねえなー、とマガジンを閉じて、 レジの下にねじこんでおく。もちろん、客の捨てたレシートで栞はつけておいて。  コンビニのバイトは、いつも真夜中から早朝だ。昼間にやってると、知り合いが 来て「今なにやってんの?」だとか聞かれてウザいし、客多いし、ダルイ。 それになんだか、早寝早起きとか気持ち悪いってのもあった。 暗くなったらハイ寝ましょーって、ショーガクセーじゃねーんすけどみたいな。 夜が明けてから、お日さん背負ってチャリをこぎ。誰もいねー家に戻って、 階段上の俺の部屋。まぶしー光を額に受けながら、仮眠。 起きたらそこらへんブラブラして。本屋でサーフィン情報立ち読んで。 誰が見たって、超地に足着かない生活で。 そーゆーのが、好きだった。 バイトのシフト以外は、どこにだっていける。 ブラっと海岸出てもいいし、仲間とつるんで酒飲んでもいい。 決まったメンツは作らないから、常に居酒屋集合、好きなとき解散。 カラオケ行ったことあるやつ、何百いっかわかんねえ。 大体のワカモノと一度は飲んでるかもって思うけど、 昼間街で会ってもわかんねーかなってのは、思う。 名前とか聞かないし、聞いても覚えらんねーっていうのがあって。 あとは、そだな。街にいて、街灯によっかかって、カップル見るのもスキ。 仲良さげな男と女が、手をつないでアーケードの下くぐってくのとか。 いいなーって。  仙台は気候もおだやかで、ただ風が強い。 冬とかシャレになんねーくらい、ごうごうと嵐みたいに吹き上がってくる。 コートがまくれあがって、マフラー飛んでって。 そんで、制服の女の子とかが「キャー」とか言ってさ。 「ゴミ、収集してきやーす」  缶ビールだのペットのジュースだのが並ぶ、冷えた棚の裏側。 バックヤードでエロ本読んでる先輩に会釈して、俺はぶらぶらと ズボンから紐垂らしつつ進む。 リンコーン。ドア前マットを踏むと、開く自動ドア。 横凪に強く吹く風に、目を細める。 さあああ、と耳を裂いて後方へ流れる濁流。  風って、超好き。 サーフィンにせよ、スノボにせよ。 ありえねースピードで風切って飛んでく俺に、大抵のヤツは目玉ひんむく。 お前って死ぬのゼンゼン、怖くねーんな。 テクがあるわけでもない。頭良くない。 そんな俺の乗り方は、いつも、速さまかせのクレイジーロケットだ。 もっともっとって、欲しがってるとさ。 ある瞬間、体が意識失って真っ白い世界に飛ばされる。 あれ?俺、今ボード蹴ってる?とか笑えてきちゃって。 波とかもうどうでもよくね?とか噴き出しちゃって。 なんにもなくなって、完全フリー。  んで、終わるといつも寂しくなるのな。 いくら金つぎこんでも、その一瞬求めてるとすぐ消えるだろ。 ああ、次、いつ飛べンのかなって思うと、いきなり体重くなって、 とべねー人間って自覚するんだ。だから、真昼はいっつも、 重りつけられて、猫背でずりずり歩くしかなくて。  ふいに思うんだ。 生きてることって、意味あんのかって。 死ぬとかやり方わかんねーし、そこまでするほどいやでもねーけど、 だからって「僕生きてます!」みたいな充実?はないよね。 「うわっ、飲みかけで入れんなよな、クソっ!」  カン・ビンのボックスを開けた瞬間手がべたつく。 ぬるい糖分を、ビニール袋でぬぐおうとすると最悪。 更にビールの飲み残しがこぼれてきた。 「だーっ、クソ!死ね!」  ガン。ボックスを蹴り上げて、両手を離す。 誘蛾灯の青い光。玄関を照らす白い光。中から洩れる暖色の光。 どこ見ててもいらつくこの気持ち、わかんだろ? 「……」  夜明け前の、いっちゃん闇が濃い時間帯。 午前三時あたりが俺の世界だと思う。 自動ドアなんて無駄だよ。隙間から揺すぶられて、ガタガタ 風は入り込んでくる。ちっぽけな人間の欲望の展覧会を、 アホかって感じで嘲笑う。 宝箱にいっくら文明つめこんでも、お前らサルだろって。 言われてるみてーで超好きなんだ。 確かに、俺も飲むよ。ファンタオレンジ。 焼き蕎麦とかも、フツーにパックよ。 でも、いつも思い描くのは。 一面の自由。 どこまで走ってっても、果てなんか無くて。 どんだけ回転しても、人のつくった建物なんかなくて。 一面の畑だ。 山もねえ。なんもねえ。ただ、枯れた麦だの米だのが茂ってて、 超野性みたいな。道路もなくて、俺はそこをかきわけて走ってく。 どこまでも、どこまでも。 一面の青空と、無限の米畑と、あとは豪風だ。 最後の瞬間は、そうやって思い切り。心臓止まるまで走って、 いつのまにか溶けて消えちまいたい。 うわーって。日本すげー、なんもねーって思いながら。 昇天するみたく、溶けて消えたい。 そんなんないってわかってるから。  カタカタと、自動ドアの硝子戸が鳴ってる。 ゴミ袋の端っこつまんで、ずりずり引きずり出しながら。 俺、なんか、すごい思ってたんだ。 『そばにいるよ』 ……お前だけだよなって。 俺に最後まで、ついてきてくれたん。 ボード乗ってっときも。サーフでひっくりかえっても。 こうして真夜中、星空見上げてても。 バカやってても、落ち込んでても。 お前だけ、俺からはなれねーんだよ。 豪風。