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雀 蜂
・営巣場所
崖下、樹木下の空洞、地中、軒下、くぬぎ林
・活動時期
4月から12月中旬
・体 長
オオスズメバチ :女王蜂43〜45o 働き蜂27〜40o
キイロスズメバチ:女王蜂43〜45o 働き蜂27〜41o
・食べ物
肉食性(大型昆虫を餌にする)樹液(特にくぬぎを好む)
・危険な時期
9月上旬・中旬 巣が最大規模に達し、この頃から雄蜂や新たな女王蜂が生産されるようになり気が荒くなっている。)
・危険な色
「黒」に対してはありありと敵意を見せ、最も激しい攻撃を加える。その他の色では「青」がやや多い程度で他の色については余り蜂を刺激しない。(特に白色・銀色)
・威嚇・攻撃
カチカチという威嚇音を発する。この攻撃に気づかずにいると緊急発進の合図である警報フェロモンが、毒針の先から空中に霧状に噴霧されて総攻撃状態となる。(目に入ると失明の恐れがある。) 威嚇段階 @巣への接近に対する警戒 A巣への接近に対する威嚇 B巣への間接的刺激に対する攻撃 C巣への直接的刺激に対する攻撃
・毒 性
一般の人は蜂毒で死亡することはないが、過去に刺された経験のある人、蜂アレルギー体質の人は大変危険である。死亡のケースでは刺されてから1時間以内(普通10分から30分)という短時間で起こっている。(蜂アレルギー症の人は、蜂の生息する環境で生活することは、命に関わる危険なことである。)
スズメ蜂は首がちぎれても離れない。また死んでいるものでも指で触れない。(頭や胸を取り除いても腹だけあれば1日くらいは触れると反射的に刺すことができる。)
・忌 避 剤
忌避剤がないため、次の対策をする。@巣の所在を知っている場合側に近寄らない。刺激・振動を与えない。近くで作業しない。除去する場合は専門家にお願いする。
A巣の所在が分からない場合 衣類は厚手のものを着用し黒いものを避ける。
B巣が付近にない場合 餌をとっている場所に近寄らない。ジュースを飲むときは注意する。車に入ってきた場合は窓を全開にする。(蜂は明るい方に向かう習性がある。)
・防 除
殺虫剤のうち速攻性のあるもので油剤・水和剤・乳剤のどれでも良いが、特に油剤が良い。
・まとめ
送電関係の現場業務では、山間部に立ち入ることが多く、環境変化によりスズメ蜂が人里近くや集落の人家等に営巣する例が多くなったとの報道もあることから、今回のような危険と鉢合わせする状況が今後は多くなると想定される。蜂類に刺された場合、人によってはショック(アナフィラキシーショック)を起こし、短時間の内に死亡する例もあることから、万一、同種の災害に遭遇した場合は、一刻も早く病院に急行することが肝要である。 また、蜂の生態を理解し、むやみに刺激しないことは勿論、その活動時期を知り危険な時期を心得ておく必要がある。
参考図書
書 名 著 者 名 出版社名
・スズメ蜂の逆襲 中村雅雄 新日本出版
・スズメ蜂はなぜ刺すか 松浦 誠 札幌北海道大学図書刊行会
・蜂の生態と蜂毒及びその予防,治療対策 松浦 誠 林材業労働災害防止協会
金 泉 寺
高野山真言宗金泉寺
今から数百数十年前、多良岳金泉寺に原口新太郎という
美男の寺侍がいた。当時金泉寺は女人禁制で登ることは
許されないため、娘たちは新太郎が金泉寺別院の
医王寺に下ってくるのを待ちこがれていた。
「岳の新太郎さん」はこの娘心を歌ったもので、新太郎さんが
山から下ってくるとき燈籠をあかあかとつけて迎えたが、
山へ戻るときは道に水をまき、滑って帰れないようにしたと
いう。そういう一説がある。
多良山系は古い火山帯で佐賀県との県境に位置しています。林道の金泉寺登山口から登ります。20分程登ると金泉寺に出ます。ここには、県営の山小屋が建っています。金泉寺から右へ行くと石段があり石段を登ると多良権現峰に着きます。ここには、背が低石祠があります。さらに進むと座禅岩などの大岩があり、ここを越えて前岳に到着します。ここからは眺めも良く雲仙、有明海等が見えます。さらに行くと岩場の多いやせ尾根となり、やぶつばきの茂る山道となります。しばらくいくと、黒木岳に着きます。急な坂道を下り、少し登ると一ノ宮岳に着きます。照葉樹林帯を下り、桧の植林帯を抜けると一ノ宮岳登山口に着きます。一ノ宮岳登山口から舗装道路の林道を下ると金泉寺登山口に出ます。金泉寺登山口への林道の途中にしゃくなげの群生地があります。
多良岳役の行者座像「正徳二年、江戸時代中期の建立」
役の行者は、奈良時代の初期、山岳に籠もって仏教の修行をした呪術者で修験道の開祖として崇められている。この石像が、多良岳神社上宮の鳥居の傍に安置されているということは、往時多良岳が修験道の霊地として広く知られわたっていたことを物語っている。備前石像文化の最盛期をしのぶにたる貴重な石造工芸品として注目される遺品である。
:太良町教育委員会
山小屋の利用方法
登山者の宿泊施設はもちろんのこと.夏場の避暑地としてまたは自然を満喫するスペ-スとしてまたは学生.生徒諸君の勉強合宿.合唱団.合奏団の練習スペ-スとして周囲を気にすることなくして自然のまかで時間を過ごすことの出来るスペ−スです
佐賀県の警報、注意報の発表基準
警報名 警報基準 注意報名 注意報基準
大 雨
(雨量) R1 50mm以上 大 雨
(雨量) R1 30mm以上
R3 100mm以上 R3 50mm以上
R24 150mm以上 ※[多良岳200mm] R24 100mm以上 ※[多良岳130mm]
洪 水
(雨量) R1 50mm以上 洪 水
(雨量) R1 30mm以上
R3 100mm以上 R3 50mm以上
R24 150mm以上 ※[多良岳200mm] R24 100mm以上 ※[多良岳130mm]
大 雪
(24時間降雪の深さ) 平地 20cm以上
山地 30cm以上 大 雪
(24時間降雪の深さ) 平地 5cm以上
山地 10cm以上
暴 風
(平均風速) 20m/s以上 強 風
(平均風速) 10m/s以上
[佐賀 12m/s以上]
暴風雪
(平均風速) 20m/s以上
雪を伴う 風 雪
(平均風速) 10m/s以上
[佐賀 12m/s以上]
雪を伴う
波 浪
(有義波高) 北部 6m以上
南部 2.5m以上 波 浪
(有義波高) 北部 2.5m以上
南部 1.5m以上
高 潮
(潮位:TP上) 北部 2.1m以上
南部 5.1m以上 高 潮
(潮位:TP上) 北部 1.7m以上
南部 4.1m以上
表中の語句の説明
R1:1時間降水量のことです。
R3:3時間降水量のことです。
R24:24時間降水量のことです。
有義波高:ある地点で連続して観測される波のうち、
高いほうから順位1/3の個数までの波を平均した
波高のことです。有義波高は目視観測による波高
に近いとされています。統計的には1000波に1波
割合で有義波高の2倍近い高さの波が出現すると
いわれています。
TP:東京湾平均海面のことです。TP上○○mは、海抜
○○mあるいは標高○○mと同値です。
平地:ここでは標高200m以下の地域を対象としていま
す。
山地:ここでは標高200mを超える地域を対象としてい
ます。
実効湿度:木材の乾燥の程度を表す指数で、数日前か
らの湿度を考慮して算出します。
※ 多良岳の大雨・洪水に関する基準は平成15年6月
16日より運用開始
雷 雷(落雷、雷に伴うひょう、
突風など)によって、
被害が予想される場合
霜
(最低気温) 11月30日までの早霜
3月15日以降の晩霜
4℃以下
濃霧
(視程) 陸上 100m以下
海上 500m以下
乾燥 最小湿度45%以下で、
実効湿度65%以下
なだれ 積雪の深さ100cm以上で
@気温3℃以上の好天
A低気圧等による降雨
B降雪の深さ30cm以上のいずれか
着氷 気温-2℃〜2℃の条件下
で降雪量15cm以上の場合
着雪
低温 夏 期(平均気温):
平年より3℃以上低い日が
3日続いた後、さらに2日
以上続くと予想される場合
冬 期(最低気温):
平野部で-3℃以下
記録的短時間大雨情報
記録的短時間大雨情報とは、数年に1度しか起らないような短時間の激しい雨を観測もしくは解析した場合、より厳重な警戒を呼び掛けるため発表する情報です。
佐賀県の発表基準
1時間降水量 110ミリ以上
佐賀県の三角点
経ヶ岳(多良岳) きょうがだけ(たらだけ) 1076 熊本15−3 多良岳 鹿島市・太良町・大村市 三角点
脊振山 せふりさん 1055 福岡12−3 脊振山 福岡市早良区・背振村 三角点
天山 てんざん 1046 福岡16−2 古湯 佐賀市・多久市・唐津市・小城市 三角点
多良岳 たらだけ 996 熊本15−3 多良岳 太良町 標高点
井原山 いはらやま 982 福岡12−3 脊振山 佐賀市・前原町 三角点
金山 かなやま 967 福岡12−3 脊振山 佐賀市・福岡市早良区 三角点
雷山 らいざん 955 福岡16−1 雷山 佐賀市・前原市 三角点
羽金山 はがねやま 900 福岡16−1 雷山 佐賀市・前原市 三角点
作礼山 されいざん 887 福岡16−4 相知 唐津市 三角点
黒木岳 くろきだけ 881 熊本15−3 多良岳 太良町 標高点
蛤岳 はまぐりだけ 863 福岡12−2 中原 東背振山村 三角点
九千部山 くせんぶやま 847 福岡12−2 中原 鳥栖市・那珂川町 三角点
彦岳 ひこだけ 845 福岡16−2 古湯 佐賀市・小城市 三角点
一ノ宮岳 いちのみやだけ 827 熊本15−3 多良岳 太良町・諌早市 標高点
国見岳 くにみだけ 816 熊本14−4 古枝 嬉野町・東彼杵町 標高点
浮嶽 うきだけ 805 福岡16−3 浜崎 七山村・二丈町 三角点
白石山 しらいしやま 794 福岡16−2 古湯 佐賀市 三角点
国見山 くにみやま 776 長崎1−4 蔵宿 伊万里市・佐世保市 三角点
八幡岳 はちまんだけ 764 熊本13−3 多久 武雄市・唐津市 三角点
椿山 つばきやま 760 福岡16−4 相知 唐津市・七山村 三角点
石谷山 いしだにやま 754 福岡12−2 中原 鳥栖市・みやき町 三角点
女岳 めだけ 748 福岡16−3 浜崎 七山村・二丈町 標高点
帆柱岳 ほばしらだけ 742 熊本15−3 多良岳 太良町 三角点
亀岳 かめだけ 740 福岡16−2 古湯 佐賀市 三角点
ヅーベット山 づ−べっとやま 729 福岡12−4 広滝 背振村 三角点
高山 たかやま 728 福岡12−3 脊振山 佐賀市 三角点
八天岳 はってんだけ 707 長崎1−4 蔵宿 西有田町・佐世保市 三角点
笛岳 ふえたけ 698 福岡16−1 雷山 七山村 三角点
女山(船山) おんなやま(ふなやま) 695 熊本13−3 多久 唐津市・多久市 標高点
青螺山 せいらやま 618 長崎1−2 有田 伊万里市・西有田町・山内町 標高点
虚空蔵山 こくぞうざん 609 長崎2−1 嬉野 嬉野町・川棚町・東彼杵町 三角点
烏帽子岳 えぼしだけ 596 長崎1−3 楠久 伊万里市 三角点
権現山 ごんげんやま 585 福岡16−2 古湯 小城市 三角点
大通山 だいつうさん 579 長崎1−3 楠久 伊万里市 三角点
頭野山 かしらのやま 576 福岡12−4 広滝 佐賀市・背振村 三角点
牧ノ山 まきのやま 553 長崎1−2 有田 西有田町・伊万里市 三角点
仏ノ辻山 ほとけのつじやま 552 福岡12−4 広滝 背振村 三角点
十坊山 とんぼうやま 535 福岡16−3 浜崎 七山村・二丈町 三角点
千石山 せんごくさん 528 福岡12−2 中原 東背振村 三角点
苔谷山 こけたにやま 518 福岡12−4 広滝 佐賀市・背振村 三角点
眉山 びざん 518 長崎1−1 伊万里 伊万里市・武雄市 三角点
大高山 おおたかやま 516 福岡12−4 広滝 神埼町 三角点
黒髪山 くろかみざん 516 長崎1−2 有田 西有田町・有田町・山内町 標高点
腰巻山 こしまきやま 514 福岡12−4 広滝 佐賀市・背振村 標高点
三方山 さんぽうざん 505 福岡16−4 相知 唐津市 三角点
金立山 きんりゅうざん 502 福岡12−4 広滝 佐賀市 三角点
琴路岳 ことじだけ 501 熊本14−4 古枝 鹿島市 三角点
浄土山 じようどやま 501 熊本14−4 古枝 鹿島市 三角点
城山 じょうやま 498 福岡12−2 中原 鳥栖市 標高点
国見岳 くにみだけ 496 長崎1−3 楠久 伊万里市・松浦市 三角点
腰岳 こしだけ 488 長崎1−4 蔵宿 伊万里市 三角点
鬼原山 おにはらやま 487 福岡12−4 広滝 佐賀市 三角点
三継山 みつぎやま 475 福岡12−4 広滝 背振村 三角点
権現山 ごんげんやま 452 福岡12−2 中原 東背振村 標高点
神六山 じんろくやま 447 長崎2−1 嬉野 武雄市・山内町 三角点
徳連岳 とくれんだけ 444 熊本13−4 武雄 多久市・北方町 三角点
高取山 たかとりやま 441 熊本13−1 小城 佐賀市 標高点
鬼鼻山 おにがはなやま 435 熊本13−4 武雄 多久市・北方町 三角点
土器山 どきやま 430 福岡12−4 広滝 背振村・神埼町 三角点
人形石山 にんぎょういしやま 427 長崎1−3 楠久 伊万里市・松浦市 標高点
金敷城山 かなしきしろやま 426 福岡12−4 広滝 佐賀市 三角点
大野岳 おおのだけ 424 長崎1−1 伊万里 伊万里市 三角点
聖岳 ひじりだけ 416 熊本13−4 武雄 多久市・大町町 標高点
唐泉岳 とうせんざん 410 熊本14−3 鹿島 塩田町・嬉野町 三角点
城古岳 じょうごだけ 404 長崎1−1 伊万里 伊万里市 三角点
基山 きざん 404 福岡8−3 二日市 基山町 三角点
鷹取山 たかとりやま 403 福岡12−2 中原 みやき町 三角点
契山 ちぎりざん 403 福岡12−1 不入道 基山町 三角点
雲野尾峠 くものおとうげ 400 福岡12−2 中原 鳥栖市 三角点
愛宕山 あたごやま 397 熊本13−1 小城 小城市 三角点
城山 じょうやま 378 福岡16−3 浜崎 唐津市 三角点
黒岳 くろだけ 368 長崎1−2 有田 伊万里市・武雄市・山内町 三角点
両子山 ふたごやま 366 熊本13−1 小城 多久市 標高点
金山岳 かなやまだけ 352 長崎1−2 有田 有田町 三角点
蓮花石山 れんげいしやま 350 長崎1−2 有田 有田町 標高点
城山 しろやま 345 長崎1−3 楠久 伊万里市 三角点
犬山岳 いぬやまだけ 342 熊本13−4 武雄 武雄市・白石町 三角点
白岩山 しらいわやま 340 熊本14−3 鹿島 白石町 三角点
笠頭山 かさがしらやま 338 熊本13−1 小城 多久市・小城市 標高点
大平山 おおひらやま 331 長崎1−1 伊万里 伊万里市 三角点
蓮莱山 ほうらいやま 330 熊本13−4 武雄 武雄市 三角点
幕ノ頭 まくのとう 320 長崎1−4 蔵宿 西有田町・有田町・佐世保市 三角点
家石山 いえいしやま 318 福岡12−4 広滝 佐賀市 三角点
飯盛山 いいもりやま 318 熊本14−3 鹿島 塩田町・白石町 三角点
篠岳 しのたけ 314 熊本14−3 鹿島 塩田町 三角点
石倉山 いしくらやま 311 長崎1−3 楠久 伊万里市・松浦市 三角点
岸岳 きしたけ 310 唐津4−2 徳須恵 唐津市 等高線
赤穂山 あこやま 306 熊本13−4 武雄 武雄市 標高点
陣の山 じんのやま 304 福岡16−4 相知 唐津市 三角点
竹古場山 たけこばやま 303 長崎1−2 有田 武雄市 三角点
虚空蔵山 こくぞうざん 288 熊本14−3 鹿島 塩田町・武雄市 三角点
日ノ高知山 ひのこうちやま 288 長崎1−1 伊万里 唐津市 三角点
鏡山(領巾振山) かがみやま(ひれふりやま) 284 福岡16−3 浜崎 唐津市 三角点
烏帽子岳 えぼしだけ 281 福岡12−4 広滝 佐賀市 三角点
夕日山 ゆうひやま 273 福岡16−4 相知 唐津市 三角点
大平山 だいひらやま 270 熊本13−2 牛津 小城市・江北町 三角点
大陣岳 だいじんだけ 269 長崎1−1 伊万里 伊万里市 三角点
石高山 いしたかやま 264 唐津4−1 唐津 唐津市 標高点
黒尾山 くろおやま 263 熊本13−4 武雄 武雄市 三角点
野高山 のだかやま 260 唐津4−1 唐津 唐津市 三角点
勇猛岳 いみょうやま 259 熊本13−4 武雄 北方町 三角点
今岳 いまだけ 254 長崎1−1 伊万里 伊万里市 三角点
御岳山 おたけやま 243 熊本13−2 牛津 江北町 三角点
柏岳 かしわだけ 239 熊本13−4 武雄 武雄市 三角点
番所ノ辻 ばんしょのつじ 238 唐津3−4.7−2 波戸岬 唐津市 三角点
大平山 おおひらやま 218 長崎1−1 伊万里 伊万里市 三角点
高尾山 たかおやま 218 唐津4−2 徳須恵 唐津市 三角点
日岳 ひだけ 212 唐津4−2 徳須恵 唐津市 三角点
霧差山 きりさしやま 210 唐津4−2 徳須恵 唐津市 三角点
御船山 みふねやま 207 熊本13−4 武雄 武雄市 三角点
水ノ元山 みずのもとやま 207 唐津4−2 徳須恵 唐津市 三角点
大山 おおやま 202 唐津3−4.7−2 波戸岬 唐津市 標高点
群石山 むれいしやま 201 福岡12−2 中原 鳥栖市 三角点
鎮西山 ちんぜいさん 200 福岡12−2 中原 上峰町 標高点
飯森山 いいもりやま 197 福岡16−4 相知 唐津市 標高点
城山 しろやま 196 福岡12−4 広滝 神埼町 三角点
辧天山 べんてんやま 195 熊本13−2 牛津 江北町 標高点
蟻尾山 きびざん 192 熊本14−3 鹿島 鹿島市 標高点
三岳 みたけ 190 唐津4−2 徳須恵 伊万里市 等高線
丈高山 たけたかやま 184 唐津4−1 唐津 唐津市 三角点
陣平山 じんだいらやま 178 長崎1−2 有田 武雄市 三角点
国見岳 くにみだけ 177 長崎1−1 伊万里 伊万里市 三角点
帯隈山 おぶくまやま 175 熊本9−3 佐賀北部 佐賀市 標高点
八ノ尾ノ辻 はちのをのつじ 174 唐津3−4.7−2 波戸岬 唐津市 三角点
高岳 たかだけ 165 唐津4−2 徳須恵 伊万里市 標高点
衣干山 きぬぼしやま 163 唐津4−1 唐津 唐津市 三角点
峰山 みねやま 158 熊本13−1 小城 小城市 標高点
遠見岳 とおみだけ 153 唐津4−3 高串 唐津市 三角点
湯ノ峰山 ゆのみねやま 153 熊本14−4 古枝 鹿島市 三角点
飯盛山 いいもりやま 152 唐津4−4 今福 伊万里市 三角点
日の隈山 ひのくまやま 150 熊本9−3 佐賀北部 神埼町 等高線
天狗岳 てんぐだけ 146 唐津4−3 高串 玄海町 三角点
牧島山 まきじまやま 136 長崎1−3 楠久 伊万里市 三角点
城山 しろやま 134 熊本13−1 小城 小城市 標高点
鏡山 かがみやま 134 熊本13−1 小城 小城市 三角点
朝日山 あさひやま 133 福岡12−2 中原 鳥栖市 三角点
鈴隈山 すずくまやま 133 熊本9−3 佐賀北部 佐賀市 三角点
猪熊山 いのくまやま 131 熊本13−4 武雄 武雄市・北方町 三角点
早稲熊山 わさくまやま 120 熊本9−3 佐賀北部 神埼町 等高線
天童岳 てんどうだけ 112 唐津3−2 呼子 唐津市 三角点
岩森山 いわもりやま 101 唐津4−3 高串 唐津市 三角点
黒崎山 くろさきやま 100 唐津4−1 唐津 唐津市 等高線
権現山 ごんげんやま 90 唐津4−3 高串 唐津市 三角点
桜ヶ岡 さくらがおか 41 熊本13−1 小城 小城市 標高点
都道府県 山 名 標高m 2万5000図
北海道 大雪山(旭岳) だいせつざん 2290 旭岳
青森 岩木山 いわきさん 1625 岩木山
岩手 岩手山 いわてさん 2038 大更
宮城 蔵王山(屏風山) ざおうざん 1825 蔵王山
秋田 秋田駒ガ岳(男女岳) あきたこまがたけ 1637 秋田駒ガ岳
山形 鳥海山(新山) ちょうかいざん 2236 鳥海山
福島 燧ガ岳(柴安ー) ひうちがたけ 2356 燧ケ岳
茨城 八溝山 やみぞさん 1022 八溝山
栃木 白根山 しらねさん 2578 男体山
群馬 白根山 しらねさん 2578 男体山
埼玉 三宝山 さんぽうやま 2483 金峰山
千葉 愛宕山 あたごやま 408 金束
東京 雲取山 くもとりやま 2017 雲取山
神奈川 蛭ガ岳 ひるがたけ 1673 大山
新潟 小蓮華山 これんげさん 2769 白馬岳
富山 立山(大汝山) たてやま 3015 立山
石川 白山(御前峰) はくさん 2702 白山
福井 二ノ峰 にのみね 1962 二ノ峰
山梨 富士山(剣ガ峰) ふじさん 3776 富士山
長野 奥穂高岳 おくほたかだけ 3190 穂高岳
岐阜 奥穂高岳 おくほたかだけ 3190 穂高岳
静岡 富士山(剣ガ峰) ふじさん 3776 富士山
愛知 茶臼山 ちゃうすやま 1415 茶臼山
三重 大台ガ原山(日出ガ岳) おおだいがはらやま 1695 大台ケ原山
滋賀 伊吹山 いぶきやま 1377 関ケ原
京都 皆子山 みなこやま 972 花脊
大阪 大和葛城山 やまとかつらぎさん 959 御所
兵庫 氷ノ山 ひょうのせん 1510 氷ノ山
奈良 八経ガ岳(八剣山) はっきょうがたけ 1915 弥山
和歌山 護摩壇山東の1382m峰 ごまだんざん 1382 護摩壇山
鳥取 大山(剣ガ峰) だいせん 1729 伯耆大山
島根 恐羅漢山 おそらかんざん 1346 三段峡
岡山 後山 うしろやま 1345 西河内
広島 恐羅漢山 おそらかんざん 1346 三段峡
山口 寂地山 じゃくちざん 1337 安芸冠山
徳島 剣山 つるぎさん 1955 剣山
香川 龍王山 りゅうおうざん 1060 讃岐塩江
愛媛 石鎚山(天狗岳) いしづちさん 1982 石鎚山
高知 三嶺 さんれい・みうね 1893 京上
福岡 釈迦岳 しゃかがたけ 1230 豊後大野
佐賀 多良岳(経ガ岳) たらだけ 1076 多良岳
長崎 雲仙岳(平成新山) うんぜんだけ 1486 島原
熊本 国見岳 くにみだけ 1739 国見岳
大分 九重山(中岳) くじゅうさん 1791 久住
宮崎 祖母山 そぼさん 1756 祖母山
鹿児島 宮之浦岳 みやのうらだけ 1936 宮之浦岳
沖縄 於茂登岳 おもとだけ 526 川平
※最高地点と最高峰(ピーク)が異なる場合は、最高峰を採用。
※福岡県最高峰・釈迦岳の標高は福岡・大分県境上ピーク(本釈迦)のもので、大分県側ピーク(普賢岳)の標高は1231b。
備考 : 佐賀県側の水源
多良岳水源の森は,多良川,糸岐川の上流部に位置し,この森一帯は古くから「多良岳」として広く知られた山岳で,故事来歴も大井.水源の森の一角には町営のキャンプ場もあり,標高996mの山頂までの登山道も整備されています. この水源の森は,すべて天然林であり,町民に良質な飲料水と,豊富な農業用水を供給しています.また,動植物の種類が豊富で,春の新緑,秋の紅葉,冬の霧氷等四季折々の自然の美しさが,人と自然とのふれあいの場となっています.
1191年 茶栽培の発祥の地 東背振村・霊仙寺
日本のお茶栽培は、1191年臨済宗の開祖栄西禅師が佐賀県の東脊振村の山腹に宋の国から持ち帰った種を播いたのがはじまりです。栄西は明恵上人に3粒のお茶と種と栽培や製造方法を伝授。これが後の宇治茶につながり、また、駿河(静岡)にも広まりました。
1504年 釜炒り茶発祥地、嬉野町
明の陶工が焼き物文化と同時に自家用のお茶の栽培を嬉野町にもたらしました。1504年には、陶工、紅令民が明から釜を持ち込み、南京釜による炒り葉製茶法を伝えました。これが嬉野式の釜炒り茶のはじまりです。
1593年 豊臣秀吉の茶室、佐賀県鎮西町にあり
桃山時代、秀吉が鎮西町名護屋城に建てたのは、わび、さびを追求した簡素な「草庵」でした。博多の商人の日記には「御座敷四畳半、柱もその外みな竹なり」との記述が残ります。秀吉の野望と共にわずか数年でその姿を消した、謎の多いこの城で、茶がたてられていたことだけははっきりとしているのです。
1600年 鍋島藩の茶道 「藪内流」
関ヶ原の戦いで豊臣方についた鍋島藩のお家とりつぶしを救ったのは、西本願寺と円光寺、そして京都の茶商上林之人です。鍋島藩はお礼に、上林を藩おかかえの「永世用達」茶所にし、また、西本願寺の推薦する茶道藪内流を藩の流派に決めました。
1651年 嬉野茶の父、 吉村新兵衛
吉村新兵衛は嬉野町不動山の山林を拓いて茶樹の栽培を奨め、茶業の発展に努めました。茶樹の生育に適した嬉野は茶の一大産地となりました。不動山の「大茶樹」は吉村新兵衛が植えたと伝えらっれ、国の天然記念物に指定されています。
1736年 煎茶の祖は、佐賀生まれの風流人 売茶翁
「ただ飲みも勝手、ただよりはまけもうさ」京都で茶店「通仙亭」という日本発の喫茶店を開き、庶民に煎茶を広めた「売茶翁」は佐賀市の蓮池町の出身。当時位の高い人の飲み物だったお茶を広く流行させました。
1760年 江戸時代にお茶の輸出
嬉野茶はオランダ商社によって長崎から輸出されました。横浜港開港により日本茶輸出が正式に始まる100年も前のことでした。
1853年 長崎の女性貿易商、嬉野茶を世界に売り込む
大浦慶は長崎油町の茶商。オランダ人テキトルを通じ、嬉野茶の見本をイギリス、アメリカ、アラビアに送りPRしました。3年後には、イギリスから60トンという大量の注文を取り付けました。
栄西が中国から佐賀に持ち帰ったお茶。
お茶を普及するため、その効用を綴った『喫茶養生記』は20世紀になって次々と科学的に実証されてきました。おそるべし栄西。そして、現代の生活習慣病を予想するかのように、日本型食生活にしっかり取り入れられたお茶。先人の知恵にただただ敬服するばかりです。
栄西著(1211年)喫茶養生記
茶は末代における養生の仙薬であり、人々の寿命わ延ばすによい方法である。養生の秘訣は五臓(肝臓・肺臓・心臓・脾臓・腎臓)を健全に維持するにある。心臓を健全にしておく方法は、茶を飲むことが最もよい。茶を飲めば酒をさまし、また眠らないようにする。茶をできるだけ長く飲んでいると精神は高揚し、その心は喜びと希望にあふれる。茶はいろいろな傷を治し、利尿をよくし、便通を正し、病気の予防効果がある。茶を喫すれば疲労感を軽減する。
1.嬉野茶550年の歩みと歴史
1440年(永亨12年)頃、長崎平戸に渡来した中国人が不動山皿屋谷に陶器を焼くため 居住し、自家用にお茶を栽培。さらにその後、1505年(永正元年)頃、明の紅令民という人が南蛮釜を持ち込み、釜炒り茶の製法を伝授・・・これが嬉野茶の始まりです。 嬉野茶550年の歩みと歴史は、お茶の木が好む霧、清流の多い嬉野盆地で生まれ育まれたものです。
2.お茶の種類
製造工程と発酵で分類すると、日本茶は不発酵茶。中国茶は半発酵茶。紅茶は発酵茶。発酵することなく、茶葉を蒸しもみながら乾燥させて製造される日本茶は、ビタミン類を残し世界でも数少ない栄養の高いお茶です。
3.お茶の成分と効果
◎ アルカリ性飲料・身体のバランスを保つのに適しています
◎ ビタミン類・・特にビタミンC(レモンの5倍以上)が多く、肌の細胞を活性化し老化を防ぎます。
◎ カフェイン・・・・・利尿作用があり体内の毒素や老廃物を排出。目を覚ます作用もあり頭の中 をスッキリとさせ脳の働きをよくします。リフレッシュ効果抜群です。
◎ カテキン(タンニン)・お茶の渋み成分。細胞膜の酸化を押さえるため、がんの予防に効果的と言われています。また、コレステロールの調整、動脈硬化、老化防止。 虫歯菌の繁殖を防ぐ。 その他、カロチン、アミノ酸、ミネラル、食物繊維などたくさんの有効成分が含まれ ています。
4.おいしいお茶の入れ方
◎ 適切な温度・・・玉露で50度、煎茶で80度、番茶は100度が目安。
急須も湯のみも暖めておくのがポイント。
◎ 大事な水・・・・水道水は数分間沸騰させるか、前の晩に水を汲んでおき
カルキ臭さを抜く。又急須も湯のみも暖めておくのが肝心。
5.お茶の保存方法上手な保存で色、香り、味を守りましょう。
◎ 高温・多湿を避ける為、お茶の袋の中の空気を抜き冷暗所に保存しましょう。
別の物が入っていたものを茶筒に再利用する時は、茶殻を入れて匂いを抜
いてから 使いましょう。
6.お茶の楽しみ方
◎ お茶を食べる・・・お茶の成分は、全体の約40%が水溶性、残りの約60%が
不溶性の成分とに分けられます。この60%は茶がらとして捨てられているわ
けです。 この中には、ビタミンAやビタミンEなど不溶性の重要な成分が
含まれています。 そこで日本茶を、丸ごと食べようという工夫も最近進んでいます。
◎ 水出し冷茶・・・・冷水用のポットに茶葉と水を入れ冷蔵庫で一晩冷やして
おきます。その間にお茶の成分が溶け出してくるのです。渋みが少なく、
きれいな緑色のお茶です。
鍋島藩の嬉野茶
関ケ原の戦いで豊臣方についた鍋島藩のお家とりつぶしを救ったのは西本願寺と円光寺、
そして京都の上林之人です。鍋島藩はお礼に、上林を藩のおかかえの『永世用達』茶所にし、また西本願寺の推薦する茶道藪内流を流派に決めました,その後も鍋島直澄は嬉野茶の栽培にも力を灌ぎ 現在の鍋島藩の嬉野茶に伝わっています。
鍋島藩の嬉野茶
嬉野茶の条件
佐賀県または長崎県において生産された原料を使用し仕上げ加工した茶を統一銘柄「嬉野茶とする」
鍋島藩嬉野茶の条件
鍋島藩が支配した佐賀県内の限られた地域で生産された原料を使用し仕上げた茶を「鍋島藩の嬉野茶」とする。
美白効果も抗ガン作用も、、、 日本人の体も心も癒します。
最近、日本茶の良さが再評価され始めているようです。栄養学的にも、医学的にもその高い効果に注目があつまっています。中国茶や紅茶と比べ、ビタミンCやEが豊富。これは肌の黒ずみの元になるメラニン色素生成の抑制効果 にもつながるのだとか。女性にはうれしいこうかです。一方、渋みのもととなっているタンニンはには老化防止や抗ガン作用もあるとか、特に愛煙家の方は、ニコチンによって消耗するビタミンを補い、ガンの防止という意味でも、心がけて お茶を飲むようにしてほしいもの。また、そういうお茶の効果を、手軽にどこででものめるような缶入飲料も数多く出回っている様子。やっぱり日本人には、味覚的にはもちろん、体にも、お茶がいちばん合っているでしょう。爽やかな味わいが好まれる嬉野茶。今も昔ながらの製法が守られています。嬉野始まりは永亭12(1440)年。平戸に渡来した唐人が陶器を焼くかたわらでお茶を栽培し自家用にしたことがそもそものルーツだと言われています。その後、南京釜が伝わり、今の製法に続いています。嬉野茶は2つの種類に大別されます。釜炒り茶と呼ばれる嬉野独自のお茶は唐の時代の製法のまま、熱く熱した鉄釜で茶葉を炒る製法のこと、強く、長く残る香りはこの釜炒り段階でうまれるものです。これをもむことにより、高級茶の条件ともなる、細く引き締まった弓状の形を作ります。俺れたお茶は濃い金色になり、喉ごしがさっぱりとするのがこの製法ならではの特徴です。また蒸製玉緑茶と呼ばれる種類のものは、茶葉に蒸気で熱を加え、さらに熱風の中で乾燥させたもの。こちらは渋みが弱く、清涼感があるのが特長。どちらにしても、嬉野茶は爽やかな味わいで、多くの日本人に愛されています。まろやかで適度なにがみがあり、後口がさっぱりとしているのが特長。天ぷらや洋食、中華料理など油っこい料理にもよく合うと言われている。
肥前藩・鍋島藩ともいい,江戸時代に肥前国佐嘉地方におかれた外様藩。35万7,000石。もとは戦国大名龍造寺氏の領国であったが,1584年(天正12)龍造寺隆信が戦死した後龍造寺領国体制は動揺し,龍造寺の家臣であった鍋島直茂が領国支配権を委任された。その後,1587年(天正15)豊臣秀吉によって龍造寺政家が佐賀30万9,000石の領地を安堵されたが,3年後,政家は豊臣秀吉によって隠居させられ,朝鮮出兵の際の軍役は直茂に命じられた。1600年(慶長5)関ケ原の戦いでは豊臣方に属したため,戦後,徳川氏に謝罪し,西軍に属した筑後柳川の立花宗茂を討伐することで罪を許され本領を安堵された。その後,積極的に公儀普請役を遂行することで,鍋島佐賀藩の地位が保障された。佐賀藩では鍋島直茂はまだ龍造寺の家督を譲られていなかったので「藩祖」とされ,勝茂と初代に以後,光茂・綱茂・吉茂・宗茂・宗教・重茂・治茂・斎直・直正・直大と11代つづいて明治維新にいたった。1607年(慶長12)龍造寺高房の死去により龍造寺の本家は断絶し名実ともに鍋島佐賀藩が成立した。当時佐賀藩では高房の幽霊が夜中の城下を駆けめぐる噂がたって人々を恐怖させたというが,“鍋島バケ猫騒動”はこの話が発展したものである。龍造寺本家は断絶しても龍造寺一族は健在で,一門4家(多久・諌早・武雄・須古)だけで佐賀藩領の石高の20%を占め,藩の蔵入地(直営地)は15%にすぎなかった。蔵入地の稀少性と公儀普請役の遂行,それに福岡藩と隔年の長崎御番などの出費が重なり,佐賀藩はその初期から厳しい財政窮乏に悩まされた。勝茂の代,1611年(慶長16)には家中一同の三部上地を行い,1621年(元和7)には龍造寺一門4家だけ再び三部上地を行って龍造寺一門4家の所領を半減したので,蔵入地は倍増したが,龍造寺勢力に対抗する鍋島一門,諸家の所領拡大・取り立て,さらに3支藩(小城・蓮池・鹿島)の分立が実施されて,実質的蔵入地の拡大にはならなかった。上地と並行して家中からの出米・新田開発などを行ったが借銀は増すばかりで窮乏打開にはいたらなかった。佐賀藩では家中の地方知行が最後までつづいたので,貧窮のため知行地に在郷して農業に従事する武士が多数みられ,18世紀になると知行を抵当にする借銀法も始まった。2代光茂の時代は将軍綱吉の文治主義の時代で,佐賀城内に聖堂が建てられ,多久聖廟(国指定の重要文化財)もこのとき建てられた。また殉死の禁令なども出した光茂であるが,その財政は放漫で乱脈財政のため,財政窮乏はさらに深刻化した。光茂につかえていた山本常朝の口述を筆録した『葉隠』は〈武士道とは死ぬ事とみつけたり〉ということばで有名である。『葉隠』は文治主義に対する批判でもあった。4代吉茂は冗費を節約し参勤道中の供立も極端にへらし,また,御国桝をつくって年貢増収をはかったが,1726年(享保11)佐賀城が焼失し城下も広く焼かれ,1732年(享保17)には享保大飢饉にあい,藩財政の再建は失敗した。8代治茂は,国産振興のため六府方(ろっぷかた,山方・牧方・陶器方・搦方・貸付方・講方)を設置したが,なかでも搦方による有明海の干拓に力を入れ,藩営の干拓のほか民間の干拓も奨励し,伊万里湾でも町人資本の干拓も行われたが,そこから得られた新田畑は700石ほどで藩財政の再建にそれほど役立たなかった。9代斎直の代,1808年(文化5)フェートン号事件がおこり斎直は責任を問われ逼塞(ひっそく)を命じられた。10代直正は,小農民確保のための均田制,殖産興業のための国産方の設置,洋式軍事工業の推進などの藩政改革を実施し,なかでも,日本初の西洋式反射炉を設け大砲鋳造に成功し,諸藩中最大規模の軍事力を創出するにいたった。この藩政改革の成功により佐賀藩は,薩摩・長州・土佐とともに西南雄藩として明治維新の主導力となり,維新政府の要職にあって活躍した。江藤新平・副島種臣・大隈重信・大木喬任らの人材を生み出した。
諫早一揆
諫早藩(諫早家)は佐賀藩(鍋島家)の支藩であったが、両者の関係は良好であったとはいえない。
諫早藩三代藩主のとき32500石にもおよぶ知行地の没収、享保11年(1726)の佐賀城火災にさいしての諫早藩士への重課税、また寛政元年(1748)の数年前から実施された「掛り物」と称した規定額以上の年貢の徴収など、本藩の経済的困窮はすぐに支藩である諫早藩へのしわよせとなってあらわれていた。
寛延元年、佐賀本藩の鍋島宗教が、参勤交代で江戸に上ると、支藩蓮池藩主鍋島直恒が、江戸城登城をしばらくさしひかえるようにとの幕府老中の意を伝えてきた。
これは実は鍋島直恒が筆頭老中酒井雅楽頭に働きかけ、藩主鍋島宗教の意に反して、佐賀本藩の世嗣に自分の弟である主膳を擁立しよとする陰謀であった。
しかし計画は未然に発覚し、翌年1月には酒井雅楽頭は老中罷免となり、その後間もなく鍋島直恒も急死してこの一件は落着した。
ところが、この直恒の陰謀に諫早藩主諫早茂行が加担していたということで、「不調法」と称して、本藩から知行高一万石の没収と茂行の蟄居を命じてきた。
この所領没収によって本藩に対する諫早領民の日頃の不満が一気に爆発し、15石以下の地侍は連判状をつくり本藩の処置に反対を表明し、これに共鳴した農民たちも各地に集結し暴徒化する気配をみせばじめた。
この背後には、足軽ではあったが儒者若杉春后がおり、反対運動を画策し、指導的役割りを演じていた。
春后の草案になる直訴状は、長崎奉行・日田代官所(大分県日田市)へ二度にわたって提出されようとしたが、二度とも失敗に終わった。
耐えかねた領民は寛延2年5月29日朝より太良(佐賀県太良町)に結集しはじめ、 2日後にはその数13000人余にも達し、一里半にもおよぶ列となって佐賀へ出発した。
しかし本藩への抗議は家老三村惣左衛門の説得にあい、やむなく中止された。
事態の深刻さを知った佐賀藩は、武力によって鎮圧策にきりかえ、若杉春后をはじめとする連座者を逮捕した。10月末ころより逮捕者の処刑・追放が行なわれ、指導者若杉春后は10月26日嘉瀬の刑場で磔(はりつけ)に処せられた。72歳であった。
犠牲者は藩士5名・農民18名・町民2名におよび、俗にいう諫早一揆は農民側の敗北に終わった。
一揆がこれほどまで拡大化したのは、所領の没収が農村居住の地侍たちの不安をかきたて、地侍と共通の感情をもった農民たちが集まってそれに輪をかけたからであった。
若杉春后の霊は明和6年(1766)に若杉霊神として正林稲荷神社のかたわらに祀られた。現在は高城神社(諫早市)の境内にある。
諫早の大洪水
多良岳に源を発し諫早市街地をへて有明海にそそぐ本明川は、何度となく氾濫の歴史をくりかえしてきた。
市内の慶厳寺境内に建ちならぶ溺死者の供養塔が如実にそれを物語っているが、年代が明確なものだけでも、元禄12年、正徳元年、文化5年、同7年の水害があげられる。
ことに元禄12年8月13日におこった大水害は、諫早の町並みを変えてしまうほどの大被害をもたらした。 諫早藩の「日新記」によると、8月12日雨天、13日大雨降、14日雨降とあって、8月12日に降り出した雨でしだいに本明川の水量が増し、翌13日の大雨によりついに河水は氾濫し、町中に濁流となって流れこみ、大参事となった。雨は明けて14日まで降りつづいた。
水害より7日後の検分使の報告によると、死者487名におよび水損の田地570町余、生産高にして3930石余にも上った。当時の生産高の34パーセントが水害にあったことになる。
水害の状況は、当時家臣団の居住地域であった宇戸・笹神町方面の被害がひどく、ほとんどの家屋が流出した。
被災後、本小路、袋小路等の土木工事がすすみ、この界隈に170坪余の屋敷割りが行われたため、家臣の居住地域はしだいにこの方面に移動していった。現在の諫早市の中心地一帯である。
時の藩主諫早茂晴は、この翌年に大旱魃にも見舞われたこともあり、500名に近い溺死者の供養と、今後の領内の息災を祈って五百羅漢の彫刻を発願し、本明川上流の富川の壁面にその工事をおこした。
500体にもおよぶ壁面への彫刻は、藩空前の大事業であり、年々の継続事業として9年間の歳月を要し、宝永6年2月に完成した。
本明川の氾濫によっていくどとなく橋が流出しているが、現在諫早公園に移されている鏡橋のもとの位置のすぐ下手に、石橋がかかっていた。しかしこれも文化7年の洪水により崩壊し、人びとは渡河にながらく困難を感じていた。それより約30年後の天保9年5月に、長崎のアーチ橋にならって目鏡橋の建設に着工し、翌10年8月に完成した。
これは諫早町と北諫早をむすぶ唯一の橋として利用度も高く、毎年の洪水にも崩壊することなく、昭和32年に記録的豪雨に見舞われた諫早水害のおりにも、微動だにしなかったのである。
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