甲斐源氏小笠原氏支流。小笠原長経が阿波国三好郡に居住し三好を称するようになったという。
室町時代から守護細川氏に従い、応仁の乱の際に畿内に進出し、摂津国西軍の守護代となった。
元長は細川晴元を擁し、足利義維を立て堺に幕府を作るが、晴元と対立し戦死。子長慶は足利義輝と晴元を追放し畿内を制圧。
病死後義継と三好三人衆が義輝を暗殺し、足利義栄を擁立して権力を握ったが、1573年織田信長に破れ義継が敗死して本家は滅んだ。
阿波三好氏は1577年、讃岐三好氏は1586年にそれぞれ滅亡した。

三好長慶みよしながよし
千熊丸・孫次郎・利長・範長・修理大夫・筑前守・御供衆・相判衆
1523〜1564
摂津国芥川城主。1532年に父元長が一向一揆に攻められ自害した為に10歳で家を継ぐ。
1534年細川晴元の内衆となり出仕。1539年に幕府御領所河内17ヶ所を要求するが認められなかった為に晴元打倒の兵を挙げ、摂津半国守護代となり、越水城主となった。
1542年3月17日、遊佐長教と結び、河内太平寺にて木沢長政を破るが、その後長教と不和になり、1547年これを破り幕府における地位を確立。その後和睦。
1549年6月24日に、兄弟4人(三好義賢・安宅冬康・十河一存)と三好氏と長教・畠山高政・細川氏綱と結び、三好政長を摂津江口で敗死させ晴元政権を倒し、7月に入京。
それ以降、足利義輝・細川晴元・六角義賢等と京都近辺で幾度となく交戦し、1552年1月に義輝と和睦し、将軍御供衆となる。
しかし、翌年にはまた不和となり、8月1日、京都霊山城にて義輝・晴元を近江朽木に追放し、摂津国芥川城を本拠に畿内の独裁的政治(三好政権)を確立した。
後、山城・摂津・丹波・和泉・淡路・阿波・讃岐及び播磨・伊予の一部を細川氏綱・松永久秀・同長頼・三好義賢(実休)・同(安宅)冬康・十河一存ら一族諸将を配して治めた。
自らの名で裁許状を出し、幕府の全権益を継承。人夫役徴収・段米・棟別銭賦課なども行った。
1558年義輝と講和して京都を明け渡した(室町幕府復興)。
1560年には河内国も支配下に置き、幕府相伴衆に列した。翌年晴元を普門寺に幽閉。
1563年8月嫡子義興が病死(毒殺?)し、十河一存の子熊王丸(義継)を猶子としたが、失意の為病状が悪化。
1564年5月9日、弟安宅冬康を飯盛山城追手門で謀殺。
7月4日河内飯盛城下屋敷で病没。死因? 松永久秀に殺されたという説もある。

三好三人衆みよしさんにんしゅう
三好長逸みよしながゆき
長縁・孫四郎・日向守・従四位下
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山城国飯岡城主。長則の子。三好三人衆の一人。
早くから三好長慶に従う。
1550年7月14日、十河一存と共に入京し細川晴元と戦う。1552年に芥川氏を助けて美嚢郡を攻略。
1555年9月に丹波多気郡八上城の波多野晴通を攻めるが失敗し、和議。
1558年6月京都勝軍山に城を築き足利義輝の入洛を阻止した為、6月4日、義輝・晴元と京都鹿ケ谷で交戦。
その後、山城国飯岡城主となり、山城南半国を支配。
1565年に長慶が病死すると、猶子義継の後見人となり、一族の最長老となった。
翌年5月、松永久秀等と共謀して将軍義輝を暗殺するが、11月には久秀と決裂。足利義栄を擁し、1568年7月に入京。
しかし翌年、義継が離反し久秀と同盟したことにより、奈良で戦う。
そして織田信長の入洛に際し、六角氏と同盟するも戦わずに安房へ逃亡。
翌年再び入京して足利義昭を襲撃するが失敗。
1570年7月挙兵、摂津中島城により本願寺と同盟を結ぶが、1573年敗走。
その後の消息不明。

松永久秀まつながひさひで
弾正忠・弾正少弼・霜台・道意
1510?〜1577
京都の商人出身や百姓説など諸説があり、三好家に使える前は不明。
三好長慶に仕える。1553年長慶が将軍足利義輝を追放し京都を掌握してからは家宰として台頭。
1556年摂津滝山城を預けられ、1559年大和方面の軍事を委任されて信貴山城主となる。
この天守閣は我国最初のものとされる。
伊勢氏を滅亡させ長慶の弟三好義賢を讒言により兄弟仲の亀裂を深めさせ、安宅冬康を謀殺。
1563年には長慶の嫡子義興を毒殺したとされる。嫡子の急死により悲嘆した長慶が世を去る(これも久秀が殺したという説がある)と、1565年5月に三好三人衆と謀り将軍義輝を暗殺し、足利義栄を擁立するが、その後三好三人衆と対立。
翌年交戦により東大寺大仏殿を焼き払った。
しかし、1568年に織田信長が上洛すると、久秀は名器「九十九髪茄子」を献上して降伏。
大和一国を安堵され、朝倉攻め・本願寺攻め等に加わるが、将軍義昭が信長と不和になり、武田信玄上洛の報が届くと久秀は信長に叛き、信玄病没後再び信長に降伏して大和を安堵されるが、更に1577年8月の石山合戦の際、上杉謙信の上洛を聞くと信貴山城に籠城する。
信長の大軍に城を包囲され、「平蜘蛛茶釜」を献上すれば許すという信長の案を無視し、10月10日、奇しくも彼が大仏殿を焼いた日から丸10年、「平蜘蛛茶釜」とともに爆死。
中風封じのツボにお灸をそえていたそうだ。北条早雲・斉藤道三と並んで下克上の代表とされる。