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[ ケーニゲ フォン バイエルン ]


バイエルン国王たち

 

 

 

現在、ドイツ連邦共和国を構成している16州の中で、最大の面積をもつバイエルン州。この地は神聖ローマ帝国を構成するひとつの公国として1180年からヴィッテルスバッハ家という一族が治めてきました。1806年から王国に昇格し、1918年までバイエルン王国(Königreich Bayern / ケーニックライヒ バイエルン)とよばれていました。

 

ヴィッテルスバッハ家 [Haus Wittelsbach]は、ドイツのバイエルン地方を発祥とするヨーロッパの有力な君主、諸侯の家系、バイエルンの君主の家系として有名ですが、その他にもプファルツ選帝侯(ライン宮中伯)、ブランデンブルク辺境伯(選帝侯)、スウェーデン王の家系として続いていました。また神聖ローマ皇帝やボヘミア王、ハンガリー王、ギリシャ王も一族から輩出しています。

 

1329年以降はバイエルン系とプファルツ系に分かれ、別々に統治していきますが、1777年、バイエルン選帝侯マクシミリアン3世ヨーゼフが世継ぎを残さず崩御したため、バイエルン系は断絶してしまいます。

 

そこで遠戚でプファルツ選帝侯カール4世フィリップ・テオドールが、バイエルン選帝侯も継承することにより、再統合されました。(バイエルン選帝侯としてはカール・テオドール)

 

マクシミリアン3世ヨーゼフ

カール・テオドール

 

生没:1727~1777

在位:1745~1777

 

無嗣断絶

http://www.geocities.jp/kim39570741/00/Koenige_von_Bayern/Ba-Maximilian_III_Joseph.JPG

 

生没:1724~1799

在位:1777~1799

 

無嗣断絶

http://www.geocities.jp/kim39570741/00/Koenige_von_Bayern/Ba-Karl_Theodor.JPG

 

しかし、カール・テオドールも世継ぎがないまま1799年に崩御したため、その遠戚にあたるマクシミリアンがバイエルン及びプファルツ両選帝侯を継ぐことになりました。(バイエルン選帝侯としてはマクシミリアン4世ヨーゼフ)

 

 

1800年のナポレオンの侵攻により神聖ローマ帝国が崩壊すると、選帝侯マクシミリアン4世ヨーゼフは、ナポレオンの承認を得て近隣の領土を併合した上で、ライン同盟に加盟、バイエルン王国を興し、1806年1月1日、自らバイエルン王マクシミリアン1世として即位しました。

 

バイエルン王国は、ライン同盟に加盟していた王侯国々の中でも最も重要な国で、マクシミリアン1世はナポレオンとの同盟をライプツィヒの戦いの直前まで維持しましたが、オーストリア帝国に

 

マクシミリアン4世ヨーゼフ

後のマクシミリアン1世

地位と領土が保証されたことで反ナポレオン側に回り、1815年には一時手放していた旧ライン・プファルツ選帝侯国を回収・併合した後、ライン同盟を脱退し、ドイツ連邦に参加しました。

 

↓1812年のライン同盟版図

 

1815年のドイツ連邦と

バイエルン王国(水色)

 

 

 

 

 


1871年1月18日、プロイセンのホーエンツォレルン朝のドイツ帝国が成立する際にも、バイエルン王国は維持したまま、帝国の一領邦となりました。

 

1918年、ドイツが第一次世界大戦で敗北すると、混乱の中で勃発したドイツ革命により、ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世はオランダに亡命し、ドイツ帝国は11月9日をもって崩壊しました。バイエルン王国も混乱に陥り、11月13日、国王ルートヴィヒ3世が退位・亡命し、バイエルン王国は終焉しました。

 

王権を手放し、共和制のドイツ連邦の一州となったバイエルンで、ヴィッテルスバッハの家系は現在も続いています。

 

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歴代バイエルン王 / 摂政 / 王妃

マクシミリアン1世・ヨーゼフ (選帝侯→初代国王)

Maximilian I. Joseph

(1756. 5/27~1825. 10/13)

(国王在位1806. 1/1~1825. 10/13)

(享年69/在位19年)

 

バイエルン選帝侯としてはマクシミリアン4世。

プファルツ選帝侯も兼ねた最後の選帝侯。

 

バイエルン公国は、1777年ヴィッテルスバッハ・バイエルン系(本家)の血筋が絶えてしまい、遠縁のカール・テオドールを迎えるが、そのカールも世継ぎを遺さず1799年に亡くなる。そこでもっと遠縁のマクシミリアンに白羽の矢が立つ。1799年よりバイエルン選帝侯(~1805)、プファルツ選帝侯(~1801)を引き継ぐ。プファルツの地(飛地)は一度手放すが、1815年に回収・併合する。

 

ナポレオンの侵攻に伴い、ライン同盟に加盟&協力した結果、バイエルン選帝侯国を王国に昇格させることに成功し、初代国王に就任する。

 

神聖ローマ帝国崩壊により、世情不穏な時期にあって、娘のアウグステ・アマーリアをナポレオンの養子ウジェーヌ・ド・ボアルネに嫁がせるなど、巧みな外交能力で数々の難問を乗り越えた。オーストリア帝国のウィーンではバイエルンの独立を脅かすどのような取り決めにも強く反対した。新たに成立したドイツ連邦がゆるやかな主権国家連合の形態となったのは、ドイツの領邦君主に完全な主権を認めるべきであるとするマクシミリアンの主張によるところが大きい。

 

1803年から教会財産の国有化と学制改革、1807年-種痘の予防接種導入(世界初)、1812年-地方警察(地方治安警察)の創設、1817年-ローマと政教条約、1818年-バイエルン初の憲法発布。

マクシミリアンは1825年10月13日、ミュンヘン郊外のニンフェンブルク城で崩御した。

アウグステ・ヴィルヘルミーネ・マリア (選帝侯妃)

Auguste Wilhelmine Maria

(1765. 4/14~1796. 3/30 / 結婚1785. 9/30)

(享年30)

 

マクシミリアンの最初の妻。ヘッセン・ダルムシュタット方伯家から輿入れする。

ニ男三女をもうけるが、30歳で夭折。

長男は、第2代国王となるルートヴイヒ1世。

カロリーネ・フリーデリケ・ヴィルヘルミーネ (選帝侯妃→王妃)

Karoline Friederike Wilhelmine

(1776. 7/13~1841. 11/13 / 結婚1797. 3/9)

(享年65)

 

マクシミリアン1世の二番目の妻。バーデン大公家から輿入れする。

マクシミリアンとの間にニ男六女をもうけるが、男児は二人とも夭折。

長女と次女、三女と四女はそれぞれ双子。

ルートヴィヒ1世 (第2代国王)

Ludwig I.

(1786. 8/25~1868. 2/29)

(在位1825. 10/14~1848. 3/20退位)

(享年81/在位23年)

 

マクシミリアン1世と最初の妻アウグステの長男。父王の崩御に伴い39歳で即位。名付け親がフランスのルイ16世で、そのブルボン王朝崩壊の遠因であるナポレオンを嫌っていた。(ルイはドイツ語でルートヴィヒ)

 

美しいものが大好きで、ミュンヘンを世界に通用する芸術都市として発展させた。レジデンツの完成、バイエルン王立図書館建設、勝利の門建設、アルテ・ピナコテーク建設、ケーニヒ広場造営など、芸術・建築を奨励する一方、ルートヴィヒ=マクシミリアン大学をランツフートからミュンヘンに移転し、マイン川とドナウ川の間にルートヴィヒ水路を作る事業を始めた。1835年にはドイツ初となる鉄道を国内のニュルンベルクとフュルト間に敷設するなど、工業化も推し進めた。そのためミュンヘンは『イザール河畔のアテネ』と呼ばれるほど美しい街に変貌する。

 

また、ルートヴィヒはギリシャ独立戦争も支援し、次男オットーを1832年に初代ギリシャ国王オソン1世として送り込んだ。

 

もともとリベラルな考えを持ち、芸術や学問を奨励し、自主独立運動にも理解を示す人だったが、1830年代から徐々に反動的な徴候が現われ、神の恩寵を受けた君主としての立場を堅持して、民主化要求をはねつけるようになっていった。

 

1846年、ミュンヘンにやって来たアイルランド出身スペイン系女性ダンサーのローラ・モンテスに熱をあげ、愛人にして寵愛した上、ランツフェルト伯爵婦人なる称号まで与えた。それどころかローラは、(ルイ15世の愛妾の)ポンパドゥール夫人よろしく政治にまで口を挟むようになり、それに国王が言いなりになってしまい、内閣改造までしてしまうなど失政相次ぎ、革命の火の手が上がり、もはや退位しないことには収拾がつかなくなってしまった。民衆はローラの邸を取り囲み、追放を叫ぶなど大混乱を起こした。

 

1848年3月20日、退位し王位を長男マクシミリアンに譲った。

◆ローラ・モンテスの画像

テレジア・シャルロッテ・ルイーゼ・フリーデリケ・アマーリエ (王妃)

Therese Charlotte Luise Friederike Amalie

(1792. 7/8~1854. 10/26 / 結婚1810. 10/12)

(享年62)

 

ルートヴィヒ1世の妻。ザクセン=ヒルトブルクハウゼン公女。

4男5女をもうける。長男は後のバイエルン王マクシミリアン2世、次男は後のギリシャ王となるオットー(オソン1世)、三男は後の摂政宮となるルイトポルト。

 

ルーヴィヒ1世は、美しいものが大好きで、踊り子のローラ・モンテスとの恋仲など、夫のスキャンダルに悩まされた。

晩年は、退位した夫とともに、居館で日曜の度に遊びに来る孫たちをたいへん可愛がり、一緒に遊んだ。

1854年、コレラにかかり急死する。

 

マクシミリアン2世 (第3代国王)

Maximilian II.

(1811. 11/28~1864. 3/10)

(在位1848. 3/21~1864. 3/10)

(享年52/在位16年)

 

ルートヴィヒ1世の長男。父王の退位に伴い37歳で即位する。

科学と建築に興味を持ち、『王でなければ科学者になっていた』と言っていた。学問を推奨し、ドイツ工業博覧会の第一回目をミュンヘンで開催し、シンポジウムを定期的に主催していた。

 

また、マクシミリアンは北ドイツに留学していたことがあり、その方面の学者や、文人とも親交が深かった。

どちらかというと病弱で内向的な性格で、子供たち過ごすことも少なく、愛情をもって接することがほとんどなかった。見かねた家臣が、マクシミリアンと息子のルートヴィヒを散歩に出したが、『何を話したらいいかワカラン!』と言って帰って来てしまった。

 

最期は持病のリウマチが悪化し、父よりも先に、ミュンヘンのレジデンツで52歳の生涯を閉じた。

マリー・フリーデリケ・フランツィスカ・ヘトヴィヒ (王妃)

Marie Friederike Franziska Hedwig

(1825. 10/15~1889. 5/17 / 結婚1842. 10/12)

(享年63)

 

マクシミリアン2世の妻。ベルリンのプロイセン王家、ホーエンツオレルン家公女。

二男をもうける。

 

バイエルン最初の女流登山家といわれるほど山が好きで、息子たちともよく登山やハイキングをした。また、誰でも気軽に登山ができるよう、身軽な登山装などを考案した。◆登山装姿のマリー

 

マリーは庶民的な人柄で、内向的な夫に代わり国王を助けながら、公衆の前にも積極的に出るようにしていたため、国民からとても慕われていた。

 

ルートヴィヒ2世 (第4代国王)

Ludwig II.

(1845. 8/25~1886. 6/13)

(在位1864. 3/11~1886. 6/13)

(享年40/在位22年)

 

マクシミリアン2世の長男。父王の崩御に伴い18歳で即位。

狂王、夢想王、メルヘン王などとよばれる、世界で最も有名な王様。

美しい自然とのどかな環境で過ごし、ゲルマン神話と騎士伝説などの物語を読んで育った。

 

父王の崩御により、帝王学も受けないまま18歳でいきなり国政に投げ込まれる。

191cmの長身と美貌に恵まれ、国民の期待も多く、ルートヴィヒはその期待に答えるべく懸命に政務に取り組むが、醜い現実に失望してしまう。

 

王太子時代に観劇した音楽家ヴァーグナーのオペラに心酔し、即位後はヴァーグナーを宮廷に呼び寄せ、莫大な支援をするかたわら、幼い頃からの夢であった騎士伝説を実現すべく、ノイシュヴァンシュタイン城など豪華な建築物に力を入れるようになった。

その他にもリンダーホーフ城や、ヴェルサイユ宮殿を模したヘレンキームゼー城などを建設し、更にファルケンシュタイン城や中国風宮殿まで造ろうとしていた。

 

王家の借金は莫大な額にのぼり、肝心の王は公務に出て来ない状態が続き、王国は危機的状況に陥り、国力は傾く一方…。

 

内閣と王家は、王に公務に復帰させるべく委員会を結成。1886年6月12日の朝、ノイシュヴァンシュタイン城にいたルートヴィヒ2世は、委員会の一団によって捕えられ、ミュンヘン郊外のシュタルンベルク湖畔のベルク城に移送・幽閉される。翌13日の夕方、主治医のグッデンと散歩に出たまま帰らず、深夜にグッデンと共に水死体で発見された。自殺か他殺かは今もって謎である。

 

オットー1世 (第5代国王)

Otto I.

(1848. 4/27~1916. 10/11)

(在位1886. 6/14~1913. 11/5廃位)

(享年68/在位27年)

 

マクシミリアン2世の次男、ルートヴィヒ2世の弟。兄王の崩御に伴い38歳で即位。

陽気で活発な性格で、ルートヴィヒ2世の治世には、ひきこもりがちな王の代わりに叔父のルイトポルトと一緒に王の職務を代行することもあった。

 

18歳くらいから少しずつ精神に異常をきたすようになる。精神異常は年々酷くなり、1871年末には家族からも将来を諦められるにいたり、ニンフェンブルク城に篭り、療養していたが、1880年からはフュルステンリート城で過ごす。1886年、兄のルートヴィヒ2世が没すると、翌日その自覚もないまま王位に就けられた。公務はいっさい手がけず、摂政宮のルイトポルトが代行した。

 

1912年、摂政宮ルイトポルトが没すると、その息子ルートヴィヒ公が摂政宮に就くが、一年後、憲法改正に伴い、合法的に退位させられる。

1916年10月11日、盲腸炎で亡くなる。

ルイトポルト・カール・ヨーゼフ・ヴィルヘルム (摂政宮)

Luitpold Karl Joseph Wilhelm

(1821. 3/12~1912. 12/12)

(摂政在位1886. 6/10~1912. 12/12)

(享年91/摂政在位26年)

 

ルートヴィヒ1世の三男、マクシミリアン2世の弟。65歳で摂政宮就任。

高潔かつ誠実な人柄で、1848年に父王ルートヴィヒ1世退位の折には、兄のマクシミリアンではなく、ルイトポルトを推す声もあった。

 

ルートヴィヒ2世の統治の際は、人前に出たがらない甥ルートヴィヒ2世王の代わりに何度も職務を代行してきた。

ひきこもりや城館建設、オペラなどにうつつをぬかし、国政を蔑ろにしている国王ルートヴィヒ2世に業を煮やした内閣や王家は、ルイトポルトに摂政に就くよう懇願した。

 

ルイトポルトは高齢を理由に断っていたが、国政が滞るのを憂い、ルートヴィヒ2世統治末期に摂政に就任する。その3日後に、捕らえられたルートヴィヒ2世が亡くなったため、その弟のオットーを国王に据え、摂政を続ける。しかしこの交代劇で『ルイトポルトは国王を引きずり下ろし死に追いやった上、精神病で統治不能だったオットーを国王にまつりあげ、権力を手にしている』と映り、当初は非常に国民の不評を買った。

 

ルイトポルトは老骨にムチを打ち、さまざまな批判にもくじけず、バイエルン王国の建て直しに全力で取り組んだ。この頃の王国は対外的には安定していたため、内政に力を注ぐことができた。国王の代理人の立場を強調し、国王専用の部屋には住まず、積極的に民衆の前に出るように務め、前国王の残した借金を返済し、誠実に政務をこなした。

その結果、内政も安定し、晩年には国民からも『最も重要な人物』と称えられた。

 

ルイトポルトは健康に恵まれ、26年間摂政を務め、91歳まで生きる。最期は気管支炎のため、ミュンヘンのレジデンツで眠るように穏やかな表情で大往生を遂げた。

アウグスタ・フェルディナンダ・ルイーザ・マリア・ジョバンナ・ジュゼッピーナ(妃)

Augusta Ferdinanda Luisa Maria Giovanna Giuseppina

(1825. 4/1~1864. 4/26 / 結婚1844. 4/15)

(享年39)

 

ルイトポルト公の妻。イタリアのトスカーナ大公女。(ドイツ名Augusta Ferdinande Luise Marie Johanna Josepha/アウグスタ・フェルナンデ・ルイーゼ・マリア・ヨハンナ・ヨゼファ)。三男一女をもうける。

 

病弱な体だったため、後の夫ルイトポルトは結婚に対し、周囲から反対されたという。しかしルイトポルトは周囲の反対を押し切って結婚する。

 

病気がち(肺を病んでいた)だったが、夫のルイトポルトはアウグスタをとても大切にした。39歳で没する。

 

ルートヴィヒ3世 (摂政宮→第6代国王)

Ludwig III.

(1845. 1/7~1921. 10/18)

(摂政在位1912. 12/13~1913. 11/4)

(国王在位 1913. 11/5~1918. 11/13退位)

(享年76/摂政在位11ヶ月/国王在位5年)

 

摂政宮ルイトポルトの長男。バイエルン王国最後の王。66歳で摂政宮就任、国王廃位に伴い67歳で即位。

 

父の死後、オットー1世の摂政を務めるが、長年、国王が民衆の前に姿を出せないことを憂いて、翌年改正された憲法の規定にのっとり、オットー1世を廃位し、議会の承認を得て自身がバイエルン国王に即位した。(しかし即位に対して国民からの批判が多かった。)

バイエルンの経済発展に力を注ぐが、1914年から第一次世界大戦が始まる。

1918年、第一次世界大戦でのドイツの敗戦による混乱の中で、ルートヴィヒは家族とともにミュンヘンを逃げ出し、11月13日にクルト・アイスナーが起草した退位宣言書に署名した。1919年にアイスナーが暗殺されると、混乱を嫌ったルートヴィヒはリヒテンシュタインへ、さらにはハンガリーへと向かい、その地で亡くなった。

マリア・テレジア・ヘンリエッテ・ドロテア (王妃)

Maria Theresia Henriette Dorothea

(1849. 7/2~1919. 2/3 / 結婚1869. 2/10)

(享年69)

 

ルートヴィヒ3世の妻。モデナ公家(ハプスブルク家)。

叔父モデナ公フランチェスコ5世の死によって、1875年にジャコバイトが支持するところのイギリス王位を得ていたため、稀にイングランド女王メアリー3世などと呼称される場合もある。四男九女をもうけた。

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