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[ エルツビシェフェ フォン ザルツブルク ]


ザルツブルク大司教たち

 

 

約1000年もの間、ザルツブルクとその教区に属する広大な領土を支配したのは、カトリックのザルツブルク大司教(Erzbischof von Salzburg [エルツビショフ フォン ザルツブルク])と呼ばれた人たちでした。神聖ローマ帝国の中でもその地位はたいへん高く、何につけても教会権威を後ろ盾にすることができました。

 

ザルツブルク大司教と言えば、泣く子も黙る大権力者!!

 

カトリックの高位聖職者でありながら、広大な領地を治める国王に匹敵する権力も持ち合わせていました。

しかもザルツブルク教区は塩(当時はメチャクチャ高価だった)や鉱山の採掘&輸出で、黙ってても莫大な富が懐に転がり込む仕組みで、まさにこの上ない富と権力をほしいままにしていました。

 

1803年の神聖ローマ帝国廃止まで神聖ローマ帝国の侯爵を兼ね、そのため侯爵司教(Fürsterzbischof)の称号を有していました。

 

歴代の大司教は、たいていが各地の王国や公国貴族の次男坊、三男坊でした。ザルツブルク大司教の地位は世襲ではなく、選挙によって選ばれたので、誰もが自家に箔を付けるための目標として掲げていました。

 

 

■ザルツブルク大司教の仕事

 

大司教の仕事は、聖職者として荘厳なミサをあげたり、全領民の魂の救済などといった宗教的な役割はもちろん、経済、土地の管理、軍備、建築、醸造、娯楽…大司教の日課は、税金の徴収からミサをあげること、パンやワインの価格決定、愛妾のための宮殿建築に至るまで、さまざまなことが含まれていました。

 

大司教職には既に10世紀より、「ローマ教皇直属の遣外使節」として、切迫した事情のある場合はローマ教皇の決断の代わりに教区の中で必要な決断する権限が備わり、破門宣告をすることもできました。

皇帝の選挙の際にも絶大な発言権を持っていたので、ローマ教皇や皇帝からも重んじられ、領民が権限を持ちすぎたと思えば、いつでも自分に都合のいい命令を出して、その活動を抑えつけることができました。

 

 

■選出方法

 

ザルツブルク大司教の選出方法は、枢機卿によるローマ教皇の選出方法に似ており、司教や貴族出身の教会役員からなる『司教座聖堂参事会会員』による選挙で行われていました。参事会員の中には、遠方に住む者もあり、当時は旅行をするのも大変だったため、大司教がまだ存命中に集まることもありました。

 

選挙の際は、まず市門全てが閉鎖され、見張りが二人ずつ立てられます。番兵に囲まれた参事会場では、参事会員たちが論争や駆け引き、妥協を繰り広げ、その間は商取引は禁止され、商店も閉店します。

 

大司教の候補者は、ローマ教皇によって推薦された3名の聖職者の中から選出することもあれば、参事会会員がそれぞれ聖職者を候補に挙げ選出することもあり、決定するまで何度も投票するという方法でした。

 

会議場の外では市民が見守っており、時折、真っ赤に焼けた石炭を入れた鉄の平鍋が運び込まれました。これは投票用紙を燃やすためのものです。

 

新大司教が決定すると、参事会場の窓が開け放たれ、参事会員の一人が「我らが大司教に幸あれ!」と叫び、選挙に勝った聖職者は、ラッパや太鼓が鳴り響く中を、二列に並んだ参事会員に導かれて、大聖堂に向かいます。

 

大聖堂では厳かに大司教の座に就く儀式が執り行われます。この間に市門が開かれ、馬に乗った使者が、この重大ニュースを伝えるべく、遠くの各教区に走り去っていきます。

 

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歴代ザルツブルク統治者 (司教、大司教、行政長官)

ルーペルト・フォン・ザルツブルク (司教/聖ルーペルト修道院長)

Rupert von Salzburg

(生没:650年頃~718年. 3月27日歿)

(在位:696年~716年)

(享年68?/在位20年)

 

宗教都市としてのザルツブルクの創始者ともいうべき人物。

696年、バイエルンのテオドール大公によりザルツブルクに招聘される。

この頃のザルツブルクは『ザルツプルフ(Salzpurch)』と呼ばれていた。

テオドール大公は、ルーペルト司教の才覚を聞き及んで、自国のカトリック教会布教のためにザルツブルク周辺の領地(西はキームゼーから南はザルツアッハ上流)を寄進し、司教区管轄地とする事を認めた。

ルーペルトはこの地に聖ルーペルト修道院(聖ペーター寺院)を創設した。

異教徒に悩まされたばかりでなく、キリスト教徒も苦しめたため、とうとう町から追い出されてしまった。死後何年かの後、功績を認められ聖人として祭られる。

ルーペルトの名はHruodpertus、Rupertus、Robert、St.Peterなどと様々に記されている。

http://www.geocities.jp/kim39570741/00/Hochformat/Vitalis_von_Salzburg.jpg

ヴィタリス・フォン・ザルツブルク (司教/修道院長)

Vitalis von Salzburg

(生没:不詳~728年 10月20日歿)

(在位:716年~728年 10月20日)

(享年?/在位14年)

 

716年、ルーペルト司教の後継者として聖ルーペルト修道院長として就任。 

http://www.geocities.jp/kim39570741/00/Hochformat/no_image.JPG

フローブリーギス (司教/修道院長)

Flobrigis

(生没:不詳~737年歿)

(在位:730年?~737年)

(享年?/在位7年?) 

 http://www.geocities.jp/kim39570741/00/Hochformat/no_image.JPG

ヨハンネス1世・フォン・ザルツブルク (司教/修道院長)

Johannes I. von Salzburg

(生没:不詳~746年? 747年? 6月10日歿)

(在位:739年?~746年?747年? 6月10日)

(享年?/在位6年?7年?)

ヴィルギリウス・フォン・ザルツブルク(修道院長/行政長官/司教)

Virgilius von Salzburg

(生没:700年頃~784年 10月27日歿)

(在位:747年~784年 10月27日)

(享年84?/在位37年)

 

747年に聖ルーペルト修道院長就任。749年に司教就任。

アイルランド出身で、故郷を捨て海峡を渡り、宣教の旅をした。

大胆な科学研究家でもあり、「地球は丸い」と主張したといわれている。当然ながら当時はこのような説が受け入れられず、バイエルン地方の聖職者ボニファティウスからは激しい非難を受けた。

ザルツブルクで聖ルーペルト修道院長に就任後は、最初の大聖堂を建築する。

他にも教会や僧院、一般家屋なども建築している。

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アルノ・フォン・ザルツブルク (司教/修道院長/司教→大司教)

Arno von Salzburg

(生没:740年頃~821年 1月24日歿)

(在位:785年~821年 1月24日)

(享年81?/在位36年)

 

優秀な学者で、ザルツブルクに図書館を設立した。

798年、ローマ教皇レオ3世から大司教に推挙され、ザルツブルクは大司教区に昇格し、宗教的・世俗的にも重要性を増すことになった。

現存する教区教会(聖ミヒャエル教会)が建てられ、一般市民の居住地域には市場が設けられ、ザルツアッハ川には木造の橋が架けられ、対岸の居住区と結ばれた。

これ以降1803年の政教分離まで、一部を除き、大司教が治世を担うようになる。

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アダルラム

Adalram

(生没:不詳~836年 1月24日歿)

(在位:821年 10月23日~836年 1月4日)

(享年?/在位15年)

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リーウプラム

Liupram

(生没:不詳~859年 10月14日歿)

(在位:836年~859年 10月14日)

(享年?/在位14年)

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アダルヴィン

Adalwin

(生没:不詳~873年 5月14日歿)

(在位:859年~873年 5月14日)

(享年?/在位14年)

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アーダルベルト1世

Adalbert I.

(生没:不詳~874年 7月30日歿)

(在位:873年~874年 7月30日)

(享年?/在位1年)

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テーオトマール / ディートマール

Theotmar / Dietmar

(生没:不明~907年 7月4日歿)

(在位:874年~907年 7月4日)

(享年?/在位33年)

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ピルグリム1世・フォン・ザルツブルク

Pilgrim I. von Salzburg

(生没:不明~923年 10月8日歿)

(在位:907年~923年 10月8日)

(享年?/在位16年)

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アーダルベルト2世 / オーダルベルト

Adalbert II. / Odalbert

(生没:875年以前~935年 11月14日歿)

(在位923年~935年 11月14日)

(享年60?/在位12年)

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エギロルフ

Egilolf

(生没:不詳~939年 8月22日歿)

(在位:935年~939年 8月22日)

(享年?/在位4年)

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ヘロルド

Herold

(生没:不詳~967年頃)

(在位:939年~955年亡命)

(享年?/在位16年)

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フリードリヒ1世・フォン・ザルツブルク

Friedrich I. von Salzburg

(生没:不詳~991年 5月1日歿)

(在位:958年~991年 5月1日)

(享年?/在位33年)

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ハートヴィク

Hartwig

(生没:950年頃~1023年 12月5日歿)

(在位:991年 12月8日~1023年 12月5日)

(享年73?/在位33年)

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ギュンター・フォン・マイセン

Gunther von Meißen

(生没:不詳~1025年 11月1日歿)

(在位:1024年~1025年 11月1日)

(享年?/在位1年)

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ディートマール2世 / テーオトマール

Dietmar II. / Theotmar

(生没:不詳~1041年 7月28日歿)

(在位:1025年~1041年 7月28日)

(享年?/在位16年)

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バルドヴィン

Baldwin

(生没:1000年以前~1060年 4月8日歿)

(在位:1041年 10月25日~1060年 4月8日)

(享年?/在位19年)

ゲプハルト・フォン・ヘルフェンシュタイン

Gebhard von Helfenstein

(生没:1010頃~1088年 6月15日歿)

(在位:1060年 7月30日~1085年亡命)

(享年78?/在位25年)

 

ドイツ王ハインリヒ4世と、教皇グレゴリウス7世の、いわゆる叙任権闘争に巻き込まれた時、教皇側に加担した。ところがハインリヒはイタリアのカノッサに赴き教皇と和解してしまったため(カノッサの屈辱)、ゲプハルトは報復を恐れ、1077年にホーエンザルツブルク城塞の建設を開始した。

 

ハインリヒ4世はイタリアからの帰途、ザルツブルクや敵対的な諸侯を避けて帰国したが、のちの1085年にベルトルト・フォン・モースブルク司教を新たな統治者に任命し、ゲプハルトは廃位に追い込まれ、亡命した。

 

亡命後は、彼がホーエンザルツブルク城塞と同時期に築城したホーエンヴェルフェン城(ザルツブルク南東部に位置)に隠遁し、そこで亡くなる。

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ベルトルト・フォン・モースブルク (司教)

Berthold von Moosburg

(生没:不詳~1106年以降歿)

(在位:1085年~1106年追放)

(享年?/在位21年)

 

イタリアのカノッサから無事に帰国したドイツ王ハインリヒ4世によってザルツブルクの統治者に任命される。

前任者のゲプハルト大司教に代わってザルツブルクを統治するが、小規模の内乱が続き、たびたび退去疎開を余儀なくされる。

 

亡命していたゲプハルトが1088年に亡くなると、再びザルツブルクの統治権を手にする。1090年にティーモがザルツブルク大司教に選出されるが、ベルトルト派とティーモ派での対立が生じ、1097年、バイエルン南東部のザールドルフで衝突。

ティーモ大司教を退去させ、再びザルツブルクを統治するが、1106年、大司教に選出されたコンラート1世・フォン・アーベンスベルクによって追放される。

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ティーモ・フォン・ザルツブルク

Thiemo von Salzburg

(生没:1040年頃~1101年 9月28日歿)

(在位:1090年 3月25日~1098年退位)

(享年61?/在位8年)

 

バイエルン出身。ベネディクト会修道士として、バイエルン南東部のニーダーアルタイヒ修道院に身を置く。

1077年にザルツブルクの聖ペーター修道院長に就任。

 

ゲプハルトの死後の1090年3月25日にザルツブルク大司教に選出されるが、ザルツブルクを統治しているベルトルト司教と対立。

1097年、バイエルン南東部のザールドルフで衝突。ベルトルト司教との争いで敗れ、ザルツブルクを逃れる。

 

第一回十字軍(1096-1099)の後の『1101年の十字軍』に参加するが、トルコのコーロサン(Khorosan)で殉教する。

コンラート1世・フォン・アーベンスベルク

Konrad I. von Abensberg

(生没:1075年頃~1147年 4月9日歿)

(在位:1106年 1月7日~1147年 4月9日)

(享年72?/在位41年)

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エーバーハルト1世・フォン・ビーブルク

Eberhard I. von Biburg

(生没:1085年以前~1164年 6月22日)

(在位:1147年~1164年 6月22日)

(享年79?/在位17年)

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コンラート2世・フォン・バーベンベルク

Konrad II. von Babenberg

(生没:1115年頃~1168年 9月28日歿)

(在位:1164年 6月29日~1168年 9月28日)

(享年53?/在位4年)

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アーダルベルト3世・フォン・ベーメン

Adalbert III. von Böhmen

(生没:1145年~1200年 4月8日歿)

(在位:1168年 11月1日~1177年退位)

(享年55/在位9年)

 

前任者コンラート2世はアーダルベルト3世の母方の叔父にあたる。

コンラート2世の死に伴い、満場一致で後継者に選出され、11月1日に領主大司教として就任する。

 

1177年退位するが次期大司教コンラート3世退位の後、再度就任する。

コンラート3世・フォン・ヴィッテルスバッハ / 初代枢機卿

Konrad III. von Wittelsbach / Kardinal

(生没:1120/25頃~1200年 10月25日)

(在位:1177年~1183年 9月18日)

(享年80? 75?/在位6年)

 

1181年、ローマ教皇により枢機卿に任命される。1183年に退位しマインツ大司教としてドイツのライン川沿いの都市マインツに異動する。

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アーダルベルト3世・フォン・ベーメン

Adalbert III. von Böhmen

(生没:1145年~1200年 4月8日歿)

(在位:1183年 11月1日~1200年 4月8日)

(享年55/在位17年、通算26年)

 

復位

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エーバーハルト2世・フォン・レーゲンスベルク

Eberhard II. von Regensberg

(生没:1170以前~1246年 12月1日歿)

(在位:1200年 8月?~1246年 12月1日)

(享年76?/在位46年)

 

ザルツブルク大司教在位は46年と、歴代の中では最長。『ザルツブルク領民の父』と渾名される。

 

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ブルクハート1世・フォン・ツィーゲンハイン

Burkhart I. von Ziegenhain

(生没:不詳~1247年 8月23日もしくは25日歿)

(在位:1247年 2月25日~1247年 8月23日もしくは25日)

(享年?/在位7ヶ月)

 

 

前任者の死去にともなって行われた選挙では数名の有力候補がいたが、ローマ教皇インノケンティウス4世の意向により大司教に任命される。

 

即位後の3月に教皇の呼びかけにより、リヨン会議に出席するが、リヨンからザルツブルクへの帰途の際、ドイツ南部のボーデン湖で溺死体となって発見される。事故か暗殺かは不明である。

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フィリップ・フォン・スパンハイム

Philipp von Spanheim

(生没:不詳~1279年 7月22日歿)

(在位:1247年~1256年退位)

(享年?/在位9年)

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ウルリヒ・フォン・ゼッカウ

Ulrich von Seckau

(生没:不詳~1268年 7月6日または7日歿)

(在位:1256年~1265年退位)

(享年?/在位9年)

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ヴラディスラフ・フォン・シュレージエン

Wladislaw von Schlesien

(生没:1237年~1270年 4月27日歿)

(在位:1265年 10月6日~1270年 4月27日)

(享年33/在位5年)

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フリードリヒ2世・フォン・ヴァルヒェン

Friedrich II. von Walchen

(生没:不詳~1284年 4月7日歿)

(在位:1270年 ~1284年 4月7日)

(享年?/在位14年)

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ルドルフ・フォン・ホーエネック

Rudolf von Hoheneck

(生没:不詳~1290年 8月3日歿)

(在位:1284年 ~1290年 8月3日)

(享年?/在位6年)

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コンラート4世・フォン・フォーンスドルフ

Konrad IV. von Fohnsdorf

(生没:不詳~1312年 3月28日歿)

(在位:1291年 1月26日~1312年 3月28日)

(享年?/在位21年)

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ヴァイヒャルト・フォン・ポルハイム

Weichart von Polheim

(生没:不詳~1315年 10月6日歿)

(在位:1312年 4月1日~1315年 10月6日)

(享年?/在位3年)

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フリードリヒ3世・フォン・ライプニッツ

Friedrich III. von Leibnitz

(生没:不詳~1338年 3月30日歿)

(在位:1315年 10月24日~1338年 3月30日)

(享年?/在位23年)

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ハインリヒ・フォン・ピルンブルン

Heinrich von Pirnbrunn

(生没:不詳~1343年 7月29日歿)

(在位:1338年 4月~1343年 7月29日)

(享年?/在位5年)

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オートルフ・フォン・ヴァイセネック

Ortolf von Weißeneck

(生没:不詳~1365年 8月12日歿)

(在位:1343年~1365年 8月12日)

(享年?/在位22年)

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ピルグリム2世・フォン・プフハイム

Pilgrim II. von Puchheim

(生没:1330年頃~1396年 4月5日歿)

(在位:1365年~1396年 4月5日)

(享年66?/在位31年)

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グレゴリー・シェンク・フォン・オスターヴィッツ

Gregor Schenk von Osterwitz

(生没:不詳~1403年 5月9日歿)

(在位:1396年 6月6日~1403年 5月9日)

(享年?/在位7年)

 

1396年6月6日任命、10月1日叙階

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ベルトルト・フォン・ヴィーンゲン

Berthold von Wehingen

(生没:1345年~1410年 9月7日歿)

(在位:1404年 2月6日~1406年 1月13日退位)

(享年55/在位2年)

 

1381年にミュンヘンの北東約35kmに位置するフライジンク教区の司教に任命される。

ドイツ南部のベルヒスガーデンを巡る混乱のさなか、エバーハルト3世・フォン・ノイハウス大司教と対立する神聖ローマ皇帝ヴェンツェル(ボヘミア王ヴァーツラフ4世)によってザルツブルク大司教に任命される。

 

エバーハルト大司教が周辺国との混乱に忙殺されていたため、ベルトルトはザルツブルクの統治者として一般的に受け入れられていた。

1406年にローマ教皇インノケンティウス7世(イノセント7世)によって、再度フライジング司教に任命され、同時にオーストリアのハプスブルク家の公爵と宰相に任命された。

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エバーハルト3世・フォン・ノイハウス

Eberhard III. von Neuhaus

(生没:不詳~1427年 1月18日歿)

(在位:1403年 5月25日~1427年 1月18日)

(享年?/在位24年)

 

1403年5月25日に大司教に選出されるが、ドイツ南部のベルヒスガーデンを巡る混乱に忙殺される。対立する神聖ローマ皇帝ヴェンツェル(ボヘミア王ヴァーツラフ4世)によってベルトルト・フォン・ヴィーンゲンがザルツブルク大司教に任命され、ベルトルトによってザルツブルクは統治される。

 

1406年にベルトルトはザルツブルク大司教を辞し、フライジング司教として異動する。

エバーハルト3世は、1406年4月4日に叙階を受け、正式に統治大司教として就任する。

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エバーハルト4世・フォン・シュターレンベルク

Eberhard IV. von Staremberg

(生没:1360年~1429年 2月8日歿)

(在位:1427年 2月4日~1429年 2月8日)

(享年69/在位2年)

 

1427年2月4日選出、6月1日叙階。

短い統治期間のさなか、ザルツブルク領地内で小規模な内乱が続き、沈静、解決に苦慮する。

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ヨハン2世・フォン・ライスベルク

Johann II. von Reisberg

(生没:不詳~1441年 9月30日歿)

(在位:1429年 2月22日~1441年 9月30日)

(享年?/在位12年)

 

1429年2月22日選出、6月12日叙階。

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フリードリヒ4世・トゥルーフゼース・フォン・エンマーベルク

Friedrich IV. Truchsess von Emmerberg

(生没:1393年~1452年 3月3日?4月4日?歿)

(在位:1441年 9月30日~1452年 3月3日)

(享年59/在位11年)

 

1441年9月30日選出、1442年1月28日叙階。

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ジギスムント1世・フォン・フォルカースドルフ

Sigismund I. von Volkersdorf

(生没:1395年頃~1461年 11月3日歿)

(在位:1452年 4月10日~1461年 11月3日)

(享年66?/在位9年)

 

1452年4月10日選出、8月6日叙階。

ブルクハート2世・フォン・ヴェイスプリアッハ / 2代目枢機卿

Burkhard II. von Weißpriach / Kardinal

(生没:1420年または1423年~1466年 2月16日歿)

(在位:1461年 11月16日~1466年 2月16日)

(享年46? 43?/在位4年)

 

1461年11月16日選出、1462年5月9日叙階。

 

大司教に就任する前年の1460年3月5日にローマ教皇ピウス2世によって枢機卿に任命される。

 

大司教に就任して間もなく領地で農民紛争が勃発した。

また、オーストリア南部から東部に位置するケルンテンやシュタイアーマルクがメフメト2世率いるオスマン帝国軍の脅威に晒される。

そのためホーエンザルツブルク城塞に鐘楼や見張り塔、鍛冶屋の塔などを建設し、また市内の城壁も増強、拡張した。

ベルンハルト・フォン・ローア

Bernhard von Rohr

(生没:1421年~1487年 3月21日歿)

(在位:1466年 2月25日~1482年 1月14日退位)

(享年67?/在位16年)

 

1466年2月25日選出、6月8日(?)叙階。

ヨハン3世・ベッケンシュラガー

Johann III. Beckenschlager

(生没:1427年~1489年 12月15日歿)

(行政長官在職:1481年 11月29日~1487年 3月21日)

(大司教在位:1487年 3月21日~1489年 12月15日)

(享年62/行政長官在職5年、大司教在位2年)

 

1481年11月29日大司教補佐(行政長官)に選出、1487年3月21日大司教就任。

フリードリヒ5世・フォン・シャウベルク伯

Friedrich V. Graf von Schaunberg

(生没:1439年 6月13日~1494年 10月4日歿)

(在位:1489年 12月19日~1494年 10月4日)

(享年55/在位5年)

 

1489年12月19日選出、1490年5月2日叙階。

 

神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ3世との密約を通して大司教に選出され、その選出に関しては、まるで茶番、道化芝居のようだったと記録がある。

 

聖職者でありながら愛人を持ち、また統治に関しても側近に任せっきりで、ザルツブルク史上もっとも無能な大司教とされている。

 

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ジークムント2世・フォン・ホーレネック

Sigmunds II. von Hollenegg

(生没:不詳~1495年 7月3日歿)

(在位:1494年 10月16日~1495年 7月3日)

(享年?/在位6ヶ月)

 

1494年10月16日選出、1495年2月8日叙階。

 

前大司教(フリードリヒ5世)の職務を代行することが多かった。

ジークムントは頭脳明晰で人望も厚く、前任者の時代から次期大司教の誉れが高く、前大司教没後すぐの1494年10月16日に新大司教に選出される。

 

財政をはじめとする抜本的な改革に取り組むものの、上流階級の抵抗にあい、また高い税金をかけられた農民階級からも反感を買う。

 

1495年3月、神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世がヴォルムス(ドイツ西部の町)で帝国会議を招集、ジークムント2世も帝国会議に出席するが、病に倒れ、7月3日、帰路のミュールドルフで亡くなる。

わずか10ヶ月足らずの短命統治だった。

レオンハルト・フォン・コイチャッハ

Leonhard von Keutschach

(生没:1442年頃~1519年 6月8日歿)

(在位:1495年 7月7日~1519年 6月8日)

(享年77?/在位24年)

 

1495年7月7日選出、1496年4月24日叙階。

 

市民権を要求する中産階級を抑圧し、教会権威を最大限に利用した。そのため領民の評判は、あまり良くなかった。

 

古いローマの街道を修理したり、ワイン蔵や醸造所を設立したりした。行政手腕は素晴らしいもので、金庫は常に満たされ、その資金を不動産や塩、金などに再投資した。

 

自らの権力の象徴としてホーエンザルツブルク城塞の拡張を行い、市内のレジデンツが戦乱に巻き込まれた場合に備え、城塞内にも豪華な居館を設けた。レオンハルトが手がけた部分は58箇所にも及び、城塞内の建築箇所には58個のレリーフが飾られている。

 

レオンハルトはケルンテン(現在のオーストリア南部)の小貴族の出身で、紋章は白いカブであった。これはレオンハルトが少年の頃、農場主の父に、「土を耕すのはイヤだから僧侶になりたい」と言うと、父は怒ってカブを投げつけたという出来事からきているという。

 

→肖像画集

 

 

マッテウス・ランク・フォン・ヴェーレンブルク / 3代目枢機卿

Matthäus Lang von Wellenburg / Kardinal

(生没:1468年~1540年 3月30日歿)

(在位:1519年 6月28日~1540. 3月30日)

(享年72/在位21年)

 

1512年4月5日次期大司教に任命される。

1519年6月28日任命、1519年9月25日叙階。

 

アウグスブルク出身。

神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世の許で頭角をあらわし、次代皇帝マクシミリアン1世には最も信頼された人物。

教養高く、節度と自制心を持ち、聖職者たちの自堕落な生活ぶりを戒めた。

グルク司教(オーストリア:在位1505-1522)、カルタヘナ司教(スペイン:在位1510-1540)を経て次期ザルツブルク大司教に任命される。

皇帝カール5世の許では首席大臣を務め、国際交渉の場でも活躍した。

 

初期には比較的寛大だったが、宗教改革が進む中、彼の古い信仰への固執が領民には不評で、次第に領民と対立するようになる。1525年6月5日、ついに農民一揆が起こり、多数の農民が市門を破り市中に押し寄せて来た。マッテウスはホーエンザルツブルク城塞に逃れ、農民は城塞を包囲した。

援軍が到着するのを待ちながら、農民との膠着状態は3ヶ月にも及んだが、城塞は難攻不落を実証、やがてシュヴァーベン同盟軍により、マッテウスは、農民の反乱軍から解放された。

 

その後、厳しい報復手段を講じ、27人の反乱首謀者を処刑した。

城塞には大砲を据え付け、新たに強力な塔と堡塁を建設した。

1535年、イタリアの教区であるアルバーノの司教枢機卿に任命される。

 

→肖像画集

 

バイエルン公・エルンスト (領主・統治者)

Ernst Herzog von Bayern

(生没:1500年 6月13日~1560年 12月7日歿)

(在位:1540年 10月10月~1554年 4月16日退位)

(享年60/在位14年)

 

バイエルンを統治するヴィッテルスバッハ家の出身。ザルツブルクの地を14年にわたり治めたが、大司教位を持たず、聖職者でもなかった。

 

1525年の農民一揆の際、兄のヴィルヘルムとルートヴィヒにより、バイエルンから援軍を送り反乱集団を鎮圧したことにより、統治権を得て、マッテウス大司教没後にエルンストが統治者として送り込まれる。

 

聖職者になる決心がつかず、1554年、ローマ教皇の名で大司教選挙が行なわれ、ミヒャエル・フォン・キューエンブルクが選出される。エルンストは彼に大司教と統治者の権限を譲り、グラーツに隠居する。

 

→肖像画集

ミヒャエル・フォン・キューエンブルク

Michael von Küenburg

(生没:1514年 10月10日~1560年 11月17日歿)

(在位:1554年 7月21日~1560年 11月17日)

(享年46/在位6年)

 

1554年7月21日選出、1555年1月6日叙階。

 

キューエンブルク家はケルンテン(オーストリア南部)の貴族の名家で、多数の政治家や高位聖職者を輩出しており、一族からは三人のザルツブルク大司教が輩出されている。

ミヒャエルはインゴルシュタット(バイエルン中部)の大学で学び、1538年、24歳でパッサウ(バイエルン東部)の大聖堂参事会員となる。

 

ザルツブルクでは1540年からバイエルン公エルンストが統治しており、彼は大司教の位を持っておらず、権力闘争を避けるためにできるだけ早く統治権を持つ大司教を選出する必要に迫られていた。

神聖ローマ帝国皇帝、ローマ教皇、バイエルンの大臣、それぞれ推薦する人物が候補者となり、思惑の交差する中、ミヒャエルが統治権を持つ大司教として選出された。

 

高潔で思慮深く、行動的で、聖職者の改革を一貫しておこなう。

 

ミヒャエルは狩りが好きで、1560年の秋にバイエルン公アルブレヒト5世の元を訪問し、イノシシ狩りに出掛けたが、ザルツブルクの帰路に脳卒中にかかり、亡くなった。

 

→肖像画集

 

ヨハン・ヤコプ・キューエン・フォン・ベラーズィ

Johann Jakob Khuen von Belasi

(生没:1517年頃~1586年 5月4日歿)

(在位:1560年 11月28日~1586年 5月4日)

(享年69?/在位26年)

 

1560年11月28日選出、1561年2月17日叙階。

 

南チロル出身。

先代のミヒャエル・フォン・キューエンブルクと家名が似ているが、縁戚関係はない。

ミヒャエル大司教が亡くなってすぐに大司教に選出される。叙階は1561年2月17日。

 

国の防衛を強化するべく城塞や城壁の増築をおこなう。

ホーエンザルツブルク城塞と同時期に築城されたホーエンヴェルフェン城(ザルツブルクの南約40km、ホーエンザルツブルク城塞と同じくゲプハルト大司教によって築城)に大規模な増築・補強工事を行う。

 

1579年に脳梗塞で倒れ、精神障害と麻痺を伴う後遺症が残り、統治不能となったため、次期大司教となるゲオルク・フォン・キューエンブルクが職務を代行した。

 

→肖像画集

 

ゲオルク・フォン・キューエンブルク

Georg von Küenburg

(生没:1542年 5月22日~1587年 1月25日歿)

(在位:1586年 5月4日~1587年 1月25日)

(享年44/在位7ヶ月)

 

1584年7月18日次期大司教に任命。

1586年5月4日任命、10月5日叙階。

 

先々代のミヒャエルの甥にあたる。

1579年、ヨハン・ヤコプ大司教が脳卒中で倒れ、執務が困難になったため、大司教選挙が行なわれ、1580年7月18日に次期大司教として選出される。

 

1582年3月より大司教代理として執務を代行し、1586年、ヨハン・ヤコプ大司教死去に伴い、正式に大司教に就任するが、就任後わずか7ヶ月で没する。

 

→肖像画集

ヴォルフ・ディートリヒ・フォン・ライテナウ

Wolf Dietrich von Raitenau

(生没:1559年 3月26日~1617年 1月16日歿)

(在位:1587年 3月2日~1612年 3月7日退位)

(享年57/在位25年)

 

1587年3月2日選出、10月18日叙階。

 

高貴な家系の出身で、ローマで教育を受け、鋭い知性と文化に対する旺盛な関心を持っていた。

 

ザルツブルクを立派な建築と広場を有する美しい街にしようと尽力した。壮大な王室厩舎、カプチン派修道院、参事会会場、古いレジデンツを取り壊し、新たに建設を開始した。大聖堂が火災で焼け落ちたため、新たに大聖堂建築計画を立てた。

 

また商人の娘サロメ・アルトと恋に落ち、彼女の為に豪華な宮殿アルテナウ(後のミラベル宮殿)を建設した。

しかし、製塩権と関税を巡ってバイエルン公国との争いに敗れたのを機に1612年、大司教の座を追われ、ホーエンザルツブルク城塞の牢獄に幽閉され、1617年歿。

 

→肖像画集

 

マルクス・ジッティクス・ホーエネムス伯

Markus Sittikus Graf von Hohenems

(生没:1574年 6月24日~1619年 10月9日歿)

(在位:1612年 3月18日~1619年 10月9日)

(享年45/在位7年)

 

1612年3月18日選出、10月7日叙階。

 

道楽、遊興好きでプレイボーイだったが、聖職者としてはよく働いた。

毎日のミサを立派に務め、敬虔な聖職者団体をつくった。

前大司教のヴォルフ・ディートリヒを捕えてホーエンザルツブルク城の牢獄に幽閉、その愛人と子たちを追放した。

 

治世わずか7年の間に、さまざまなことを手がけ、前任の大聖堂建築案を廃棄し、かわりに防火規則に基づいた新しい計画を建て礎石を築き、レジデンツの一翼と新館を完成させ、サロメ・アルトのアルテナウを改装しミラベル宮殿と改称、さまざまな仕掛けのあるヘルブルン宮殿を建設した。また演劇と音楽の愛好家で、1617年にはイタリアオペラを初めてドイツ語圏で上演した。

 

→肖像画集

パリス・ロドロン伯

Paris Graf von Lodron

(生没:1586年 2月13日~1653年 12月15日歿)

(在位:1619年 5月23日~1653年 12月15日)

(享年67/在位34年)

 

マルクス・ジッティクス大司教の要請により、1618年11月13日に大司教に選出され、マルクス・ジッティクス大司教存命中の1619年5月23日に叙階される。

 

高潔な平和主義者で、『祖国の父』と渾名される。

カトリックとプロテスタントの対立から始まった30年戦争(1618~1648)の最中にあって、中立を守り、ザルツブルクが敵を作らないように尽力した。領民の信仰の自由を保障し、領土を守るため、頑丈な城壁や城門、塔を建設し、戦争の難を逃れてきたカプチン派の尼僧たちのためにロレート教会を建設した。それに対し軍隊は、敵・味方の区別なく、大司教領内に入ることを許さなかった。

 

また、カトリックの学校が大学に昇格(1623)、大聖堂の完成(1628)、ロレート教会完成、レジデンツ完成と、戦争が終結した時は、焦土と化した中央ヨーロッパにありながら、ザルツブルクはむしろ発展し、平和と豊饒のオアシスのように輝いていた。

 

→肖像画集

 

グイドバルト・トゥーン=ホーエンシュタイン伯 / 4代目枢機卿

Guidobald Graf von Thun und Hohenstein / Kardinal

(生没:1616年 12月16日~1668年 6月1日歿)

(在位:1654年 2月3日~1668年 6月1日)

(享年51/在位14年)

 

1654年2月3日選出、9月24日叙階。

 

怪力の持ち主で、食欲旺盛、活力に満ちた大男だった。

噴水が好きな大司教で、適当な空き地を見つけると、必ず南国ムード満点の噴水を造るように命じ、中でもレジデンツ広場の噴水はアルプス以北では最も大きくて豪華なものの一つである。また、馬も好きなものの一つで、冬期騎馬学校を設立した。

 

彼の時代には何度か大きな天災に見舞われ、市内を流れるザルツアッハ川が氾濫し、ハライン付近の渓谷が水に浸かったり、ハリケーンが襲ったりした。

 

1667年、枢機卿に任命される。

最期は、ヘルブルン宮殿の小川で魚に餌を与えていた時、小さな橋板を踏み抜いてケガをし、そこから雑菌が入り、壊疽を起こして亡くなった。

 

→肖像画集

 

マックス・ガンドルフ・キューエンブルク伯 / 5代目枢機卿

Max Gandolph Graf von Küenburg / Kardinal

(生没:1622年 10月31日~1687年 5月3日歿)

(在位:1668年 7月30日~1687年 5月3日)

(享年64/在位9年)

 

1668年7月30日選出、11月12日任命。

 

ミヒャエル、ゲオルクに続き3人目のキューエンブルク家出身の大司教。

プロテスタントの大弾圧を行い、多数のプロテスタント教徒を迫害、処刑した。

就任した翌年の1669年7月16日、メンヒスベルクの山崩れが起こり200人以上の死者が出た。

 

ウィーンではトルコ軍がウィーン包囲、避難してきた裕福なウィーンの貴族たちを受け入れ、形式的だったがウイーンに武器と軍隊を送った。

 

カイエターナ教会、ミュルン教会の塔の建設を手がけ、またホーエンザルツブルク城塞に大規模な稜堡を建設し、これは『キューエンブルク稜堡』と呼ばれている。

1686年9月2日、枢機卿に任命される。

 

→肖像画集

ヨハン・エルンスト・トゥーン=ホーエンシュタイン伯

Johann Ernst Graf von Thun und Hohenstein

(生没:1643年 7月3日~1709年 4月20日歿)

(在位:1687年 6月30日~1709年 4月20日)

(享年65/在位22年)

 

1687年6月30日選出、11月24日任命。

 

先々代のグイドバルトの異母弟で、建築面で大きな功績を残す。

トゥーン家はティロル出身の貴族で、多数の高位聖職者を輩出した。

 

偉大な建築家フィッシャー・フォン・エルラッハと親しい間柄で、コレーギエン教会、ウルスリーネン教会、聖三位一体教会、ミラベル庭園の改装など、ザルツブルクで最も有名な建築をいくつも手がけた。また、レジデンツ新館の塔にはグロッケンシュピュール(鐘楽器)を設置した。更に市内の古い城館を取り壊し、その跡に巡礼者や聖職者、貧しい人々を収容する保護施設の聖ヨハネ病院と礼拝堂を建てさせ、開院式の祝典には、大司教自らが最初の巡礼者の足を洗っている。

 

精力的で、意思の強い禁欲主義者だったが、有能な実務家でもあり、オランダの東インド会社に投資して、巨万の富を得ている。

 

→肖像画集

フランツ・アントン・ハラッハ侯

Franz Anton Fürst von Harrach

(生没:1665年 10月2日~1727年 7月18日歿)

(在位:1709年 4月20日~1727年 7月18日)

(享年61/在位18年)

 

1705年10月19日次期大司教に任命。

1709年4月20日就任。

 

1685年にパッサウ司教座教会聖堂参事会員となったのを皮切りに、各地の聖職録を受け、1702年にウィーン司教に就任する。

しかし、1705年にザルツブルク大司教ヨハン・エルンストから大司教代理に指名されるとウィーン司教を辞し、その職務に傾注し、ヨハン・エルンストが没すると、大司教に選出された。

 

前大司教の意向を引き継ぎながら、好みの芸術家を登用し、ミラベル宮殿をバロック・ロココ様式に改修、天使の階段と大理石の広間を設える。

 

彼の時代は対外的にも安定しており、さらに経済発展をさせるために貿易の促進を試み、ヴェネツィアや地中海地域との交易に力を注いだ。

 

→肖像画集

レオポルト・アントン・エロイテリウス,フィルミアン侯爵

Leopold Anton Eleutherius Freiherr von Firmian

(生没:1679年 5月27日~1744年 10月22日歿)

(在位:1727年 10月4日~1744年 10月22日)

(享年65/在位17年)

 

1727年10月4日選出、12月22日任命。

 

その醜悪な所業のために、後世に至るまでその名を知られることになる。

ずる賢い司教尚書(クリスチアーニというイタリア人)にそそのかされ、プロテスタント教徒を大目に見ているとローマ教皇のご機嫌を損ねると考え、大司教領を『徹底的、かつ神政主義的なカトリックの地』にするべく、1731~32年にかけて、多くのプロテスタント教徒を教区外に追放した。

 

政治手腕の評価は低く、金銭に無頓着な人物だったらしく、大司教区に多額の債務を作った。

 

狩猟が好きなことから、「狩人」と渾名される。

「鴨狩りがしたい」と言って湖を造らせ、後にその湖のほとりにレオポルツクローン城を建築した。

 

時計が好きだった。

 

→肖像画集

ヤコプ・エルンスト,リヒテンシュタイン=カステルコルン伯

Jakob Ernst Graf von Liechtenstein-Kastelkorn

(生没:1690年 2月14日~1747年 6月12日歿)

(在位:1745年 1月13日~1747年 6月12日)

(享年57/在位2年)

 

1745年1月13日選出、3月4日任命。

 

ゼッカウの司教(1728~1738年)、オロモウツの司教(1738~1745年)を経て、ザルツブルクの大司教に選出される。

 

就任時、ザルツブルク教区には前任者が作った多額の債務があり、その完済を急務とするべく、鉱山からの収益の増加させ、市議会議員や宮廷従事者たちの給与を削減し、歴代大司教がおこなっていた豪華な建造物の建設をやめるなど、質素倹約で財政再建に取り組もうとした。

 

聖職者としては経験豊富で熟練した人物だったが、ザルツブルク大司教就任時には55歳目前と、歴代大司教の中では比較的高齢で、病弱かつ身体に障害があったため、あまり多くを期待されず、就任から2年半ほどで亡くなった。

 

→肖像画集

アンドレアス・ヤコプ・ディートリヒシュタイン伯

Andreas Jakob Graf von Dietrichstein

(生没:1689年 5月27日~1753年 1月5日歿)

(在位:1747年 9月10日~1753年 1月5日)

(享年63/在位6年)

 

1747年9月10日選出、6月1日叙階。

 

スマートな体型で、陽気で慈悲深い性格だった。また、化学や物理学にも関心を示しており、自ら化学実験を行うこともあった。

 

化学実験の途中で偶然、水銀に似た毒物を作りだし、それが元で皮膚に大ケガをした。この傷を治療するために全身を金箔で覆うように進言された彼はそれを実行したり、無意味な治療に手を出したため、かえって衰弱し、亡くなってしまった。

 

→肖像画集

ジギスムント3世・クリストフ,シュラッテンバッハ伯

Sigismunds III. Christoph, Graf von Schrattenbach

(生没:1698年 2月28日~1771年 12月16日歿)

(在位:1753年 4月5日~1771年 12月16日)

(享年73/在位18年)

 

1753年4月5日選出、12月16日叙階。

 

その寛大な所業のために、後世に至るまでその名を知られることになる。

当時は音楽家を単なる召使いとしてしか見ていなかった時代にあったにもかかわらず、宮廷に仕えていたモーツァルト親子を尊敬し礼遇した。

 

土木工学とその技術を駆使して、ノイトア(新しい門)を建設→メンヒスベルクの岩盤を貫いたトンネルで、これにより、ザルツブルクの街と外部のリーデンブルク地区とが結ばれるようになった。ただ、治世・実務面に関しても寛大すぎたため、大司教区の財政は傾きつつあったといわれる。

 

→肖像画集

ヒエロニムス・フランツ・ヨセフ,コロレド=マンスフェルト伯

Hieronymus Franz Josef von Colloredo-Mannsfeld

(生没:1732年 5月31日~1812年 5月20日歿)

(統治在位:1772年 3月14日~1803年 2月11日退位)

(大司教在位:1772年 3月14日~1812年 5月20日)

(享年79/在位31年)

 

1772年3月14日選出、4月14日任命。

 

世俗君主を兼ねた最後の大司教。モーツァルトと決別したことでその名を残す。

 

大司教選出には5日間が費やされ、13回の投票が繰り返された。

彼はウィーンの帝国副宰相の次男であったため、ウィーンの宮廷が最終選挙の際に圧力をかけ、半ば強制的にコロレドを選ばせた。

地元で人気のあった聖職者が選出されなかったため、ザルツブルクの人々は失望した。

 

18世紀の啓蒙時代にふさわしく、厳格で思慮深く、贅沢を好まない知識人だった。皇帝ヨーゼフ2世を信奉し、ザルツブルクにおける政治や文化の改革を行い、諸税を統制する布告を出して、傾きつつあった大司教区の財政を安定させた有能な人物だったが、それまで独立した地方都市の生活になじんでいた市民に理解されなかった。

 

1800年にナポレオンのフランス軍がザルツブルクに侵攻した時にはウィーンに亡命した。しばらくは亡命政権の状態だったが、1803年2月11日、ザルツブルク統治者を退く文書に署名し、ザルツブルクは完全に政教分離された。

 

→肖像画集 

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ザルツブルク大司教侯の長い歴史は、フランス皇帝のナポレオンにより、あっけなく終末を迎えることとなりました。1800年、モロー将軍指揮下のフランス軍がザルツブルクに侵攻した時、この大軍を相手に戦おうという者は誰もおらず、時の領主大司教ヒエロニムスは、そそくさとウィーンに逃亡してしまいました。その後ザルツブルクは略奪を受け、破壊されてしまいました。

 

住民たちもかつての支配者に倣い、大挙してこの街を捨てていきました。1801年のリューネブルク条約でザルツブルクは世俗化されることとなり、1803年には大司教の統治は終了し、イタリアのトスカーナの領地となりました。その後1809年に一時期オーストリア帝国領に入ったのち、翌年にはバイエルン王国に編入されたりして1816年、ウィーン会議の決議に従って最終的にオーストリアに併合され、繁栄を誇っていた姿は、過去のものとなっていきました。

 

今日でもザルツブルクには大司教がおり、市内のレジデンツに住み、昔と同じようにローマ教皇遣外使節とされています。しかしその権力は宗教上のことに限られています。

 

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ジークムント・クリストフ・フォン・ツァイル=トラウハブルク

Sigmund Christoph von Zeil und Trauchburg

(生没:1754年 8月28日~1814年 11月7日歿)

(在位:1812年 5月20日~1814年 11月7日)

(享年60/在位2年)

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レオポルト・マクシミリアン・フォン・フィルミアン

Leopold Maximilian von Firmian

(生没:1766年 10月10日~1831年 11月12日歿)

(在位:1814年 11月7日~1822年 1月18日退位)

(享年65/在位8年)

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アウグスティン・ヨハン・ヨーゼフ・グルーバー

Augustin Johan Joseph Gruber

(生没:1763年 6月23日~1835年 6月28日歿)

(在位:1823年 2月16日~1835年 6月28日)

(享年72/在位12年)

 

1823年2月16日選出、1824年3月25日任命。

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フリードリヒ・ヨハネス・フォン・シュヴァルツェンベルク / 6代目枢機卿

Friedrich Johannes von Schwarzenberg / Kardinal

(生没:1809年 4月6日~1885年 3月27日歿)

(在位:1835年 9月23日~1850年 5月20日頃退位)

(享年75/在位15年)

 

1835年9月23日選出、1836年5月1日叙階。

1842年1月24日枢機卿に任命。

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マクシミリアン・ヨーゼフ・フォン・タルノーツィ / 7代目枢機卿

Maximilian Joseph von Tarnóczy / Kardinal

(生没:1806年 10月24日~1876年 4月4日歿)

(在位:1850年 10月24日~1876年 4月4日)

(享年69/在位26年)

 

1850年10月24日選出、1851年6月1日叙階。

1873年12月22日枢機卿に任命。

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フランツ・デ・パウラ・アルベルト・エダー

Franz de Paula Albert Eder

(生没:1818年 1月30日~1890年 4月10日歿)

(在位:1876年 5月27日~1890年 4月10日)

(享年72/在位12年)

 

1876年5月27日選出、10月22日叙階。

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ヨハンネス・エヴァンゲリスト・ハラー / 8代目枢機卿

Johannes Evangelist Haller / Kardinal

(生没:1825年 4月30日~1900年 5月5日歿)

(在位:1890年 5月20日~1900年 5月5日)

(享年75/在位10年)

 

1890年5月20日選出、8月10日任命。

1895年11月29日枢機卿に任命。 

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ヨハンネス・バプティスト・カッチターラー / 9代目枢機卿

Johannes Baptist Katschthaler / Kardinal

(生没:1832年 5月29日~1914年 2月27日歿)

(在位:1900年 5月10日~1914年 2月27日)

(享年81/在位14年)

 

1900年5月10日選出、1901年1月13日任命。

1903年6月22日枢機卿に任命。 

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バルタザール・カルナー

Balthasar Kaltner

(生没:1844年 4月12日~1918年 7月8日歿)

(在位:1914年 4月2日~1918年 7月8日)

(享年74/在位4年)

 

1914年4月2日選出、7月5日任命。

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イグナティウス・リーダー

Ignatius Rieder

(生没:1858年 2月1日~1934年 10月8日歿)

(在位:1918年 8月12日~1934年 10月8日)

(享年76/在位16年)

 

1918年8月12日選出、12月15日任命。

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ジギスムント・ヴァイツ

Sigismund Waitz

(生没:1864年 5月29日~1941年 10月30日歿)

(在位:1934年 12月10日~1941年 10月30日)

(享年77/在位7年)

 

1934年12月10日選出、1935年1月27日任命。

アンドレアス・ローラッハ

Andreas Rohracher

(生没:1892年 5月31日~1976年 8月6日歿)

(在位:1943年 10月10日~1969年 11月30日退位)

(享年84/在位26年)

 

1943年2月3日選出、10月10日任命。

エドゥアルト・マッハイナー

Eduard Macheiner

(生没:1907年 8月18日~1972年 7月17日歿)

(在位:1969年 10月9日~1972年 7月17日)

(享年64/在位3年)

 

1969年10月9日選出、11月30日任命。

カール・ベルク

Karl Berg

(生没:1908年 12月27日~1997年 9月1日歿)

(在位:1972 12月26日~1988年 9月5日退位)

(享年79/在位16年)

 

1972年12月26日選出、1973年2月25日叙階。

ゲオルク・エダー

Georg Eder

(生没:1928年 3月6日~2015年 9月19日歿 )

(在位:1988年 12月21日~2002年 11月23日退位)

(在位13年)

 

1988年12月21日選出、1989年2月26日叙階。

アロイス・コートガッセル

Alois Kothgasser

(生没:1937年 5月29日~ )

(在位:2003年 1月19日~2013年 11月18日)

 

2002年11月27日任命、2003年1月19日就任。

2013年に退任後、次期大司教が就任するまでローマ教皇の管理者として大司教区の管理を代行。

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フランツ・ラックナー

Franz Lackner

(生没:1956年 7月14日~ )

(在位:2014年 1月12日~ )

 

2013年11月18日任命、2014年1月12日就任。

 

世俗化以来、様々な困難や紆余曲折はあったものの、ザルツブルクは再び栄光を取り戻し、今日、ザルツブルク市内を中心に存在する城、宮殿、広場、噴水、洗馬池、カタコンベ、劇場、大聖堂、教会、修道院の数々は、この地を治めた司教、大司教たちの貴重な文化遺産として、また天才音楽家モーツァルトの生誕地として、音楽の都として、我々を楽しませてくれています。

 

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