
北九州市小倉南区大字上長野
わが国最大の連続竪濠
長野城跡

長野城跡
長野庄
長野庄は古代規矩郡にあった長野郷内に成立した宇佐宮領である。「宇佐大鏡」には東西南北の境界である四至が次のように記されている。
東限 田原野〔山ともある〕 南限 山 西限 牟礼浦 北限 大道
「宇佐大鏡」には、長野荘は初め諸国散在の常見名田の一つであったと記される。常見名田は新しい開墾地、治開田、甲乙領主の寄進田から構成された
宇佐宮領である。しかも元来は仮名を大安という大宰府領〔府領〕であった。大安名を管理、所有したのは大宰府官人であったと思われる中原氏一族の
可能性が大きい。さらに「宇佐大鏡」には、永保年中〔1081〜84〕、大宰権師 藤原資仲によって、長野にあった大宰府の佃〔直営地〕11町歩からの
所当〔年貢〕65石が、国家安全祈願のために一切経を読む法会〔一切経会〕料として宇佐官へ寄進された。
次いで保延6年〔1140年〕大宰師 藤原顕頼によって、金剛般若経を転読するための仏聖燈油料所として水田が、不輸の神領として寄進されたと記録される。
大宰府長官達によって長野荘が成立したのである。
長野荘の地頭
長野荘には大宰府官人に連なる有力者があったが、治承5年〔1181年〕4月21日の摂政内大臣家〔近衛基道〕政所下文によると、中原助光なる人物が
地頭に任命されている。しかも中原助光は、代々の官符や政所下文、さらに大府宣〔大宰府長官の庁宣〕に基づいて任命されたというので、
長野荘内の古来からの実力者で、しかも大宰府の府佃管理を行った官使であつたことが推測される。
おそらくこの中原氏が後世、規矩郡に勢力を伸張した長野氏の祖であると考えられる。
南北朝時代にも中原〔長野〕助豊が活躍している。
以後、長野荘関係の史料が見当たらないが、鎌倉時代には地頭長野氏が平家滅亡とともに雌伏して事蹟を伝えないことが、原因であろう。
長野城跡
小倉南区大字上長野の城山〔標高209m〕にある。東西250m 南北550mの広さをもつ。
3つの郭群を100本以上の堀切、竪堀が取り囲み防備している。
豊前古城記〔大分県立図書館所蔵〕に
「規矩郡長野城ハ保元2年〔1157年〕左大臣平時盛ノ六男修理判官康盛為 豊国司 築 規矩郡長野城 居 之、長野苗字自 是始」
とするのは信じ難い。
長野氏の本姓は
長野氏を伊勢平氏とするには伊勢平氏系図との異同、出入りが大きすぎて否定。
鎮西平氏の一流に擬する説が生まれた。
九州における平氏には鎮西平氏、薩摩平氏があるが、鎮西平氏は大宰府府官に多く、府の大・小鑑などに補任され
藤原、紀、中原氏などと並ぶ中央下りの有力府官であった。
以下資料は郷土史より抜粋

廃城となった城


長野城郭見取り図
郷土史より
長野山(企救郡誌)
今云長野山は砂山にして、厳所々に在り。今は著場の湊も岡と成、直入山の往還も小道となり、
往来の人も稀になりにき。豊後に同名在。
万葉 明日よりはわれは恋なむ直入山岩踏みわけて君か越なは 詠人しらず

長野城跡



館と長野城
遺構配置図
北九州市埋蔵文化調査室資料(抜粋)
平成13年・14年度に東九州自動車道建設工事に伴い、10.280uの発掘調査が行われた。
遺跡概要
遺跡は東西に分岐し北に伸びる丘陵上に立地し、東側丘陵には縄文・弥生・中世の遺物が所在、箱式石棺を中心とする8基の弥生時代の特定集団墓が確認された。
又、弥生前期の初頭の住居跡から翡翠製の勾玉が出土した。
西側丘陵には弥生・奈良・中世の各時代の集落が所在して、14・15世紀の長野氏関連の館跡や奈良時代の工房跡に特徴がみられ、ガラス勾玉の鋳型が出土。

鋳型は土製鐸を反転した形を呈し、藤田等氏分類の脚付環形花形複数体鋳型にあたり、
類例として大阪府茨木市東奈良遺跡の4点があり九州では初例。
高さ3.8p、胴部最大径5.4p、底部最大5.8pを測り中央が穿孔され、勾玉型は頭を右に
背を外に向け時計回りに5個上端部に型押しされている。
勾玉型は全長15o、頭部幅6o、尾部幅3o。
ガラス勾玉鋳型と翡翠の勾玉

長野氏一族館跡 発掘調査の後、自動車道工事により
道路の基礎部分となり埋められた。写真中央の附近一帯。

廃棄された宴の器
門のある屋敷跡
長野城跡三の郭に続く西側の登り口にあり、谷奥の高台に位置し、三方は谷に面し特に西と北は深い谷と、川で遮られ、南は人為的に造成した急な崖を築く要害の地である。
山裾を削り約2.000uの平坦な造成地を築いている。
中世の掘立柱建物8棟、土坑46基、溝状遺構8条、石垣一基、集積遺構45基、祭祀遺構3基、土器廃棄場5ヶ所など検出する。
最も重要な遺構は14世紀後半から15世紀の建物群で、北は堀、西は溝、東は石垣、南は切岸で囲まれた方形区画752uに主屋と副屋が配置されている。
主屋は4間×4間の面積約68.8uの建物で、3間×4間の総柱建物に1間×3間の板間か土間が付き、柱間は2.0mと2.4mで一定である。副屋は2間×2間の建物。
北側に堀と櫓門が築かれている。建物西側で饗宴に使用された、大量の杯や小皿を廃棄した場所が見つかった。又輸入陶磁器などが出土し有力者の屋敷跡だと分かる。
14世紀の作である『一遍上人絵伝』に筑前の武士の館が描かれている。
「屋敷は溝で区画され廻りにはめ板堀を巡らし櫓門があり、櫓門の上には屋形を設け警固のため弓と楯を備えています。屋敷内には門の突き当たりが主屋で
右手に切妻作りの副屋、その裏に厩が配置され、主屋は床張りに縁を持っています。門と主屋の間には庭(空間)があります。」
この屋敷跡は『一遍上人絵伝』に描かれた筑前武士の館を髣髴させる。
武士の館
〔豊前古城記〕長野城
規矩郡に有。保元二年平左大臣時盛の六男修理判官康盛、豊前の国司と成て下向し、規矩郡に在城。長野に城を築き、是より長野の名字を始む。
八代豊前守種盛の時、大三岳、小三岳、下長野、丸口、福相、稗畑、椎ノ城、皆長野氏の父子兄弟居城とせり。規矩掃部頭が代々居城蒲生の城も、
天文の頃より長野の城となりぬ。

長野氏については播磨屋さんのホームページに詳しく記載されています。
Google Earth (http://earth.google.com/)Free Version により作成





本丸跡


本丸跡より曽根方面を望む
竪濠の跡

二の丸跡

二の丸の頂上付近
二の丸の竪濠跡
二の丸下(階段状に段差の続く台地)
二の丸
本丸
三の丸





城跡への道
2005年春より長野側林道入り口は門を設置していて、自動車、バイク等
いっさい通れません。門を乗り越えて徒歩で行くか、貫側より林道(貫、母原線)経由で行くしかありません。2005年11月現在貫側の門は開いております。
長野側より徒歩で40分ほど。貫側よりの林道は途中道路工事していて、
道幅狭く、かなりの悪路です。
