2004/01/26作成 桔梗色のはな咲くところHOME
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陰陽道と五行説


一口に陰陽五行説といっても最初から陰陽五行説として確立していた訳ではなく陰陽説と五行説は元はそれぞれ独自に発生し、発達していったものです。ここでは別々に簡単な説明を記していきます。

■陰陽説とは

陰陽説とは
森羅万象の総ては「陰」と「陽」の相反する二つの「気」によって成り立っており
この二つの気の働きによって身の周りに起こる
様々な事象を理解しようとするものです。

陰・陽の字が中国においていつ頃創られたかは明らかではありませんが
陰陽の考え方は中国古典にルーツを求める事ができます。


■陰陽説の基本的な考え方

古くは『詩経』などの用例から日陰・日なたの意に用いられ
陰の字は日陰から転じて覆う、とか穴倉、といった意味に
用いられていたようです。

中国の古書『淮南子』に「天と地の精気は重合して陰陽をつくり」 とありますが、
ここに登場する男女の始祖神・「伏義」と「じょか」が
陰陽説そのものを表しています。
男神である伏義と女神のじょかに沿い全てのものを2種類に分けていくと、
男性と女性、太陽と月、昼と夜、明るさと暗さ、積極性と消極性などに
分ける事ができます。

この分け方が陰陽説の基本的な考え方です。二つに分けると言いますと、
あたかも対立しているかのような印象を受けますがそうではありません。

陽の気が高まると、今度は少しずつ陰の気が顔を出し始め
陰の気が高まると今度は少しずつ陽の気を出し始めるというように
(専門的に言うと「陽極まれば陰となし陰極まれば陽となす」と表現します)
相互に消長することによって循環し、互いに働きあうことによって
新しい発展を生みだします。

陰と陽は完全に相反する性質をもっていますが、
同根である為、互いに往来すべきもので
また性質が異なるが故 かえって互いに引き合い、
交合するものなのです。

上記のすべては太極図に説明を求めることができます。


対極図

■五行説とは

五行説とは 自然界すべてを「木 火 土 金 水」
の5つの性質に分けて置き換え、
五行相生と五行相剋の組み合わせによって宇宙の万物は
生々流転・変化しているとする考え方です。
五行説の発生は『書経』の洪範に見られる「五材」として
人々が生きていく上で生活上必要な五つの物質として登場しました。
当初は「五材」という考え方であって、五行説という理論に
最初から展開されていた訳ではありませんでした。


■五行説発生の端緒

現在の中国・日本の文化や風俗にまで
依然として影響し続けている五行説は、
その発生の端緒はおおよそ春秋時代にまで遡ります。

この五行について最も古いと思われる記載は、
『尚書』の「洪範篇」に

「五行。
一に曰く水、ニに曰く火、三に曰く木、四に曰く金、五に曰く土。
水はここに潤下し(流れ潤し) 火はここに炎上し
木はここに曲直(曲がったり真っ直ぐになったり)
金はここに従革(加工して形がかわり)
土はここに稼穡(かしょく)(穀物を採って収穫する)。
潤下は鹹(かん)(塩辛い)をなし
炎上は苦をなし、曲直は酸をなし、
従革は辛をなし、稼穡は甘をなす」

…とあります。

この篇は伝承によれば
禹が天帝より与えられた天下統治の大法であるとされますが
この篇の成立自体は戦国期と云われています。
しかしここに記されている五行の内容には
五行の相剋、相生といった相互関係は まだ生じていませんので
五行説の最も古いかたちが投影されていると考えられています。

(お互いが協調しあう五行同士を「相生関係※補足ページにリンク」と呼んで
お互いが反発し合い傷つけあう五行同士を
相剋関係※補足ページにリンク」といいます。


■では いつごろ相互関係が発生したのか

五材が、五行の属性を持つものとして抽象化され相対化され、
特に相剋説が考えられるようになったその萌芽は
『墨子』に見ることができます。

これは島邦男氏の推す説ですが
「下篇」に曰く、「五行に常勝なし。説は宜に在り」

これを更に解説して、
「五行合う。木は火を生じ火離然ゆ。
火の金をとかすは火多ければ也。
金炭をさらすは金多ければ也。
之を合し水と成し、木は土に離く。」
本文は相剋説の前駆をなすものと考えられております。

相生説の萌芽が歴史の表舞台に登場するのは
董仲舒(とうちゅうじょ)(BC179〜104)の『春秋繁露』、
そしてそれとほぼ同時代に著された准南王劉安の
『准南子』が始めでありましょう。
『准南子』には五行の相剋説、土王説、相生説(未完成)
五行の一応の法則が出揃っております。


■陰陽論と五行説の結合と完成

統一の萌芽は鄒衍の陰陽主運説にみることができます。
ここでは木火を陽、金水を陰に配当していますが
そのきっかけとなったのは四時(四季)の変化と
『易経』の影響が大きかったと考えられています。

その後、
戦国時代末の『呂氏春秋』の中で
干支の十干に陰陽論と五行説を導入しましたが
このあたりから陰陽論と五行説の結合が一般化していったようです。

前述の董仲舒 (とうちゅうじょ) (BC179〜104) の
『春秋繁露』「五行相生第59」において、
「天地の気、合して一つと為り、分かれて陰陽と為り、
判じて四時となり、列して五行と為す」
と述べ ここでは天地の気の変化として 陰陽 - 四時 - 五行 が
相互に関連して動くものとされています。
董仲舒はどちらかというと相生説に力点を置いていますが
相剋説についても論じておりますので董仲舒によって
相剋・相生説をも含んだ陰陽五行説が完成した、と考えられます。

そこからより複雑な陰陽五行思想が展開されることとなり、
陰陽五行説を土台として天文・気象・十干十二支と合体し
暦法、暦術・易・ト筮が生み出されました。



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