折口信夫 額田女王・柿本人麻呂・柿本人麻呂論・山部赤人短歌の批評
 
中央公論社、折口信夫全集第九巻1966年7月25日発行
 
(444)  額田女王       【昭和十年六月「婦人公論」第二十巻第六号】
 
 妹が家も 連續《ツギ》て見ましを。やまとなる大島《オホシマ》の嶺《ネ》に 家もあらましを  ――萬葉集巻二
日本紀元千三百年代になると、俄かに文學らしいものが出てまゐります。短歌がはじめて、文學になつて來たことを意味するのです。さうして又、殊に宮廷の方々が、その側に優れた才能を示してお出でになつた様子が見えて來る。たとへば、舒明天皇であります。又その皇后、皇極天皇も、さやうで入らせられました。この御二方からの御流れを近《チカ》(ツ)飛鳥《アスカ》御族《オンウカラ》と、私《ヒソカ》に申しあげて、話をつゞけようと思ふのです。
今の世に傳る萬葉集も、實は此御族《オンゾウ》の尊貴の御作物を中心に、編纂せられたもの、と私は見てゐるのです。天智天皇・天武天皇二方は、この御間に、お生れになつた同胞《ハラカラ》でお出でなされますが、亦歌の歴史の上には、忘れ難い作物をお遺しになつて居ります。書き出しに据ゑた一首も、近江大津(ノ)宮に天の下を治《シロ》しめした天智天皇の御製であるのです。皇后倭姫《ヤマトヒメ》におかれても、又天武天星の皇后、持統天皇にしても、其から先々に到るまで、此御族は、短歌とは、きつてもきれぬ交(445)渉のお在りになつた事が、窺はれるのです。
近《チカ》(ツ)飛鳥《アスカ》御族《オンウカラ》の宮廷に、歴代お仕へ申した人にも亦、歌に傑れた人たちが、なか/\多かつた様です。私の謂はうと思ふ額田女王《ヌカタノオホキミ》――習慣的に、此方だけは、萬葉集に額田王《ヌカタノオホキミ》と「女」の字を省いて記載して居ますが、理由ある事なのです。――は其最古い一人で、殊に飛びぬけた力量を見せた女性です。
萬葉集の年代の立て方から言ふと、持統天皇の御代、吉野行幸にお伴せられた弓削皇子《ユゲノミコ》が、その頃恐らく藤原都《フヂハラノミヤコ》邊に居たらうと思はれる額田王に、歌を遣されました。其に和せた歌と言ふ、右の女王の、
 いにしへに戀ふらむ鳥は、ほとゝぎす。けたしや 鳴きし。我が戀ふるごと ――巻二
の作物などが、此方の製作期を傳へたものでは、一等後の歌と言へるのです。だから、持統天皇の御宇には、まだ生きて居たものと見てよい訣です。
古代人は、結婚年齢が非常に若かつたのは、言ふまでもありません。其で、普通の女性の母となつた時期の、最若いものを見つもつて、假りに十六・七と考へて、此方について推定を重ねて行つて見ませう。
額田王は、天武天皇の皇女|十市皇女《トヲチノヒメミコ》を生んでゐます。此皇女、弘文天皇妃として、葛野王《カドノヽホキミ》をお生みになりました。葛野王誕生を、此又皇女十六・七の御時とすれば、額田王は、最低三十二・(446)三・四になつて居た訣でせう。尤、十市皇女が、額田王にとつて初産とはきまりません。十市皇女は、父帝の七年までお出でになつて、お薨れになつて居ますから、夫帝崩御後六年は現世なされたのです。葛野王の年は歿年が訣つて居ます。逆算すると、十九歳であつた事が知れます。此時、皇女御年三十五・六だつたと見られます。さすれば額田王は、五十を一つ二つ出た位と見るのが、一等若く見つもつた勘定になります。天武天皇は、其後七年世を治しめして、崩ぜられたのです。だから、持統天皇吉野行幸の節の歌は、凡又十年後と見てよからうと思ひます。かう推定して來ると、若く見つもつた上でも、六十前後と云ふ事になりはしませんか。持統帝御在位は、十一年ですから、歌を贈答したのが、若しや、この御代の末の事だつたとすれば、更に五年乃至十年近くの年齢を加へねばならぬ。七十にはなつて居る訣です。萬葉集に「藤原宮御代《フヂハラノミヤノミヨ》の歌」とあるのを信じれば、持統天皇即位後、満八年以後ですから、ちやうど其助定になります。
こゝまではともかくも、従來の考へ方に立つて言つたのです。だが、存外學者の推定と言ふものも、その想像の方向が、正しくないこともあるものです。たとへば、天智天皇の宮廷に召される前に、大海人皇子《オホキアマノミコ》――後の天武天皇――に仕へて居たとする説です。江戸時代の學者にも、宮廷にありながら、皇弟にお會ひする事もあつたのだ、と説いた人もあるのです。だから、さうすると、今日の定説もあてにならない事になります。ある程度以上、書物にない想像の部分を一切棄て、新しく出直した方がよからうと思ひます。私なども、額田王はまづ宮廷に入られたものと考(447)へるのが、正しいとするのです。
此人について信じてよい記事は、萬葉集にある歌と、其詞書きとに過ぎません。其からもつと正確らしく見えるものに、日本紀にある天武天皇二年の記事があります。
 天皇初め、鏡王女《カヾミノワウノムスメ》額田姫王〔四字圏点〕を娶《メ》して、十市皇女《トヲチノヒメミコ》を生む。
初め〔二字傍点〕とあるのは、御即位の前で、正式ではなかつた事を示してゐるのです。ところが、この鏡(ノ)王の女と言ふのは、一人でなかつたと信じられてゐます。萬葉集を讀む人が、さう考へて來てゐるのです。だが、ほんとうの確かな證據は、唯一つ、やはり日本紀(天武紀)に、
 秋七月(十二年)……天皇、鏡姫王《カヾミノヒメオホキミ》の家に幸《ミユキ》して、病を訊《ト》ふ。(翌日)鏡姫王薨ず。
とある文だけです。
萬葉集で見ますと、前の「大島の嶺《ネ》」の御製に御和《オアハ》せ申した歌が、「鏡王女《カヾミノワウノムスメ》奉v和御歌一首」となつて居て、「鏡王女、又、額田姫王と曰ふなり」とある位です。さうして鏡王女と言ふ名で出た歌が、四首あります。ある時は、明らかに額田王と區別し、又時には、區別を忘れて混同して考へてゐることもあるやうです。額田王の性行なども、かうした考へ方から出て居るのです。
額田王の作物と謂はれるものも、評判のわりには尠くて、短歌八首・長歌三首を、残すに過ぎません。その中、短歌一首・長歌一首を除いては、皆何らかの意味で、ある土地・地名と關聯したものです。而も、近江に關したものが多くて、短三首・長二首もあります。(448)さて、此方の故郷について述べる必要を感じ出しました。琵琶湖の南岸|野洲《ヤス》・蒲生《ガマフ》・甲賀《カフガ》の郡界に立つて居るのが、御承知の鏡山《カヾミヤマ》です。この山に關聯して「鏡」の名を持つた郷は、山の東北にあるから、大體において、山の中心地は蒲生郡にあるものと見てよいでせう。鏡姫王も、額田王も、此地から出て、おなじ近江の大津宮《オホツノミヤ》にも、又後には大和|飛鳥宮《アスカノミヤ》にも出仕したものと考へられます。鏡王女とも鏡姫王とも、日本紀・萬葉集を通じて書いてゐるのは、どう言ふ訣でせうか。此については、學者は、鏡王と言ふ近江在住の皇族に、娘御が二人あつて、姉が鏡姫王、妹が額田姫王と言ふ風に説いて來てゐます。さうして姉を鏡王女と記し、妹を特に額田王と記すこともあつたのだとしてゐます。
茲には細やかな論理を述べる事は控へます。「鏡王」と言ふ名稱の「王《ワウ》」は普通考へる様に、皇族の御末と言ふ事を示すだけではありません。古代には、歸化人は、支那朝鮮の国王の裔《スヱ》だと稱したものが多いので、「王」を氏《ウヂ》としたものが多くあります。此と混亂する例もあります。其上まだ、古くから別の「王」がありました。
山陰道の入り口に當る丹波・丹後に勢力を持つて居た丹波氏《タニハウヂ》と言ふ豪族が居りました。此家の祖先は、「丹波道主王《タニハノミチヌシノワウ》」「丹波道主命《タニハノミチヌシノミコト》」とも、「彦多々須美知之宇斯王《ヒコタヽスミチノウシノワウ》」とも言ふ方でありました。其後裔も亦、いつまでも宮廷の御用を勤める際、自ら「丹波道主王《タニハノミチヌシノワウ》」の名の下に行つて居ました。其は、大和宮廷と、伊勢神宮へ、歴代常に八人の處女を獻つて、奉仕の務めをさせて居たのです。(449)之を「丹波《タニハ》の八處女《ヤヲトメ》」と言ひ、「丹波道主王《タニハノミチヌシノワウ》の女《ムスメ》」と言ふ資格を稱《トナ》へて進めたものでした。これと同じ事が、外の国々の舊族からも宮廷に對して行はれて居たものと考へられるのです。
都に奠《サダ》められた近江の大津宮は、倭宮廷の延長せられた訣であります。古代の人の考へ方では、宮廷の在る處、即「やまと」です。事實そこをやまと〔三字傍線〕と稱しました。湖水の岸の天子御在處は、やまと〔三字傍線〕であり、其處に堺を隔てゝ向きあつた地は、舊來の近江の名で呼ばれたでせう。だから東南岸の蒲生・野洲の地方は、新しいやまと宮廷の國に、直《ヒタ》と向ひあつて居た訣です。鏡山の西に續いてゐるのは、三上山《ミカミヤマ》です。昔も今も名高い、姿の優れた山。近江富士とさへ謂はれて居ます。聖き水の信仰を、大昔から傳へた山でした。だが、三上と言ふ稱へは、山に三峰ある事を示してゐる名なので、日本國中に数多い二上山が、夫婦嶽《メヲトダケ》或は双子山《フタゴヤマ》の恰好に極つてゐるのと一つです。だから元、三上山と言つたのは、恐らく三上・鏡との外に、今一峰|敷智《フチ》と言つた峰を、見渡しての名であつたらうと思ひます。湖水を漕ぎ出て見ると、三峰連立した樣、如何にも惚々しく見えます。三上には、「三上の祝《ハフリ》」と言ふ家があつて、後まで記憶せられたが、鏡山の神に仕へる「鏡王」の家は、忘れられて了つたのでせう。私は、此家を「丹波道主王」の家からの分れと思つて居ます。
「鏡王」の家から、宮廷へ献げられた處女は即「鏡王の女」と言ふ事になります。後世は忘却して了つたが、當時は名高かつたので、唯「鏡王女」と言ふ漠然とした字が通用して居た訣でせう。(450)鏡王と言ふ皇族のないのも、其で訣ります。「鏡王女」と言ふ資格で、宮廷に奉仕した近江の國の神聖なる處女は、宮廷の神及び天子に側近中しあげる巫女《ミコ》だつたのです。鏡王女として、其正式の資格者、謂はゞ兄媛《エヒメ》とも言ふべきのが、鏡(ノ)姫王だつたのです。さうして其弟姫も「鏡王(ノ)女」の資格で呼ばれるのが普通だつたのでせうが、「近飛鳥御族《チカツアスカオンウカラ》」の盛んだつた頃に仕へた名高い歌よみが、特別に、「額田姫王」又は「額田王」と言はれた訣です。
其から、其名の額田ですが、大和にも河内にも、その他到る所にあつて、数へきれぬ地名です。人によると、大和の額田の地を賜つたから額田王と言つたのだとさへ申して居ますが、どうか、あてになりません。額田は、どうやら「鏡王」家に、交渉の深い近江の地名だつたらしいのです。阪田郡の中に狭額田《サヌカタ》といふ地があつたらしいのです。阪田は、さぬかた〔四字傍線〕が約《ツヾマ》つた地名だと言ふ位です。蒲生野《ガマフヌ》と言ふのは、大體鏡山から北東、愛知《エチ》郡との境なる愛知川へかけた、湖岸に近い沼澤地を含んだ地でせう。こゝに行幸のあつた時、額田王の名高い歌があります。だが先の様に考へて來ると、單に天智天皇の遊獵《イウレフ》の御伴をしたと言ふ事にはならないと言ふ事が訣ります。
   天皇、蒲生野《ガマフヌ》に遊獵せられた時、額田王の作つた歌
 あかねさす 紫野《ムラサキヌ》ゆき 標《シ》め野《ヌ》ゆき、野守《ヌモリ》は見ずや。君が袖ふる ――萬葉集巻一
   皇太子(天武帝)答への御歌
 むらさきの にほへる妹を。憎くあらば、他《ヒト》づまゆゑに、吾戀《ワレコ》ひめやも
(451)紫草の生えてゐる野は、人の手を出すことの出来ぬしるしのついた野です。其野に入り込んで、袖をふつていらつしやる。野の番人は、目をつけさうだ。「こゝへ這入つて袖をふつたりしてはいけません」。「さう言はれて、やまる位ならよいが、憎くなければこそ、持ち主のきまつた人に焦れてゐるのだ。憎くば焦れようか、はなやかな思ひ人よ」。「鏡王女」ですから、すべて宮廷に所属するものです。だから、他《ヒト》づまと仰せられたのです。だが天智天皇から申しても、此時はじめて、鏡姫王及び額田姫主に遇《ア》はれた事を意味してゐる傳へなのかも知れません。兄媛《エヒメ》は主賓に奉仕し、弟媛《オトヒメ》は、次賓に仕へると言ふ事もあつた事なのですから、一應は宮廷の人として遠慮をせられても、やがて額田王に、大海人皇子の會はれた事も不思議はありません。右の唱和の御歌は、宴會の座興を催した歌と見てよいと思ひます。
思ふに、萬葉集自身にも、鏡王女と額田王との関係が、よく呑み込めないところから來た、誤りはあるだらうと思はれます。天智天皇にお伴して居たからと言つて、寵を受けて居たとも言へないのです。萬葉集でも巻四には、
   額田王、近江天皇を思《シノ》んで、作つた歌。一首
 君待つとわが戀ひ居れば、わがやどの簾《スダレ》うごかし、秋の風吹く
   鏡女王の作つた歌。一首
 風をだに戀ふるはともし。風をだに 來むとし待たば、何かなげかむ
(452)此などは、果して詞書《コトバガ》きどほり、姉妹の唱和《シヤウワ》せられたものと言ふ傳へは、其まゝ信じてよいか、どうかわかりません。この歌の解釋も色々ありませうが、まづ寵衰へた兄媛が、まだ愛《メ》での盛《サカ》りにある弟媛に同情しながら、果敢《ハカ》なさを溜め息づいて居ると見るのが、正しいでせう。
風が簾を動かすと言ふ事に、一種の暗示を感じて居るのでせう。人は來ないで、前兆ばかりなのを悲しんでゐると、今一人は、「あなたはまだよい。風だけの前兆にでも、心を動揺させて焦れて居られるからよい。私だつて、吹く風を來訪の前兆と待つ気になる頼みがあれば、こんなに溜め息づいたりしては居ない」と言ふ事らしい。
近江天皇が、額田王に通はせられたのだと見るのがあたり前でせうが、或は詞書きを疑ふ事も出來る訣です。鏡王女が、果して一人の兄媛たる鏡姫王を意味するものと信じる事が出來ないからです。
 秋山の木の下がくり 行く水の われこそ増さめ。み思ひよりは  ――巻二
「大島嶺に家もあらましを」の御製に和《アハ》せた歌で、鏡王女のものとなつて居り、同時に額田姫王と同人だと云ふ説のある歌です。天智御製は、妹の家が大島嶺にある事を望んでお出でになるのだと言ふ説もあるが、萬葉集の別傳に「家をらましを」とあるのを、普通に解釋すると、どうしても、御自身家居することを欲してお出でになると採るのが、正しいやうです。こゝでは、やまと〔三字傍線〕が問題になる。単なる大和國と見るのが通説だが、其はどう考へても、無理になります。大島嶺《オホシマノネ》(453)の地名の説明にも、納得が出來ません。此は、都の所在に近い所か、或は行宮の地などを言ふ語であらう。ともかくも近江の上に假りに、さうした表現をする事の出來る事情がおありになつたのでせう。「大島《オホシマ》」と言ふ地は、おなじ蒲生郡の中、鏡から五六里隔つた眞北にあたつてありました。今の近江八幡から湖水へ岬の様につき出てゐる島山が、其です。長命寺《チヤウメイジ》と言ふ札處《フダシヨ》の寺のある處です。平安朝にも大島郷《オホシマガウ》の稱號を持つた地です。後に、島村《シマムラ》と言つて、奥島《オクノシマ》・北津田《キタツダ》・白王《ハクワウ》などいふ村を含んで、津田《ツダ》の細江《ホソエ》(?)だらうと言ふ水路で、島の様な形になつて居ます。此島は全體が山になつて居るのですから、大島の嶺によく當ります。始終居つて、「鏡の村」を望まうと仰つたお考へにぴつたりはまります。やまとなる〔五字傍線〕の語の意義が知れゝば、よく訣る歌なのです。「大島山に家がないのが困つた事だ。其がありさへしたら、愛人の家を絶え間なく見ようよ」と仰つたのです。
其に和《アハ》せた「鏡王女」とある此歌は、頗縁遠いものとなつて居ます。此間に、今一往復の御歌でもあつたのではないか、と思はれる程です。時が秋であり、又大島山を主題の様に扱つて居られるのに續けたのだと見ておきませう。「あなたの仰やる其大島山の秋げしき――其木蔭を流れる水が、秋の事とて、水嵩増して居るでせう。それ其如く、私の思ひの方が何層倍か、かさが高いでせう」と、しなやかに御製の趣きを跳ね返したのです。
昔のかけあひ〔四字傍線〕其――唱和《シヤウワ》・贈答《ゾウタフ》――の歌と言ふものは、皆かう言ふ風に作つたものなのです。女性(454)は殊に、男性の歌の謂はゞあげあし〔四字傍点〕を取る事に馴れて居ました。宮廷から、都會・田舎に拘らず、すべて社會的儀禮として、恒例的に又は臨時に、男女の歌のかけあひ〔四字傍線〕が行はれました。其歌が、近代の人の考へるやうに、文學的であるよりは、今言つた點に上達した人たちが、その國・地方での歌人として騒がれたのです。萬葉歌人の多くは、さうした歌の上手だつた所から、名の傳へられた人たちなのです。特に女は、其に熟達した者が、周圍の男性からもて囃されました。美人である事の一つの條件――と言ふより、最大の――要素は、「早歌《ハヤウタ》よみ」と言ふ所にありました。歌で言ひ勝つた者が、負けた女を従はせる事が出來たのでした。當時の女歌人や、「女歌《ヲンナウタ》」を考へるのに、かうした點を度外視する事は、正しくはありません。
此も、額田王やら、又眞實の鏡姫王やら、判断の出來ない作者の歌とせられてゐる萬葉集巻二の、
   内大臣藤原卿(鎌足)、鏡王女に娉《ア》つた時、鏡王女が内大臣に贈つた歌。一首
 たまくしげ おほふを易み、あけていなば、君が名はあれど、わが名し惜しも
   内大臣藤原卿、鏡王女に報《コタ》へ贈つた歌。一首
 たまくしげ みむろの山のさなかづら さ寝《ネ》ずは、つひに在りかつましゞ
二首ながら、おなじ語からはじめて居ます。かけあひ歌〔五字傍線〕の常用手段なのです。男の歌は、概してまじめですが、女の方は詭計的であり、皮肉な表し方をするのです。此歌にも「我が名はあれど、(455)君が名……」だと言ふ説もありますが、其では贈答の味ひがありません。「隠されるものと安心しきつて、あなたは夜が明けてから還るつもりなの。早く還つて下さらないで、人顔が見える様になると、あなたの噂などはどうでもよろしいが、私のうき名の立つのが大事です」。事實はそれほど冷淡なのではないでせうが、かう言ふ邪見な言ひ方をしたものです。其に對して、鎌足の方はすなほです。「早く還れ/\と言ふが、こんなに毎晩泊めて貰へずに還つては、とゞのつまりは、生きては居られまいよ」と言ふのです。詞書きは、「娉」の字を書いて居るが、歌では、鏡王女は従つて居ないのです。後には「鏡姫王」と言はれた人が、鎌足の正室になつて居ます。此はまだ許さない時代の歌でせう。結婚の最初に物語るもの、と言ふべきでせう。秋山の歌の鏡王女と、此作者とが同一人であるか、ないかは判断しかねますが、同一人としても、別に不思議はありません。宮女《キユウヂヨ》或は舎人《トネリ》は、宮廷から皇族・貴族に與へられる例になつて居たのですから。
今一つ、額田王の歌で、近江に関係あるものを擧げて見ませう。
   額田王、近江國に下つた時の歌。井戸王《ヰドノワウ》 即《ソノバ》で、和《アハ》せた歌
 うまさけ 三輪の山、あをによし 奈良の山の山の際《マ》にい隠るまで、道の角《クマ》い離《サカ》るまでに、精密《ツバラ》にも見つゝ行かむを。頻繁《シバ/\》も見放《ミサ》けむ山を。心なく 雲の隠さふべしや
  反  歌
三輪山を 然も隠すか。雲だにも 心あらなむ。隠さふべしや  (巻一)
(456)此は恐らく、天智天皇近江遷都の途すがら、額田王代作を命ぜられたものと思はれます。大和鎮護の三輪の神山《カミヤマ》に別れて行くと言ふ、なごり惜しみの歌です。奈良山を北に越えれば、山城の木津川の河原に出る。さうして大和は見えなくなる。奈良山に立つて顧みてゐるのです。
「三輪山が、奈良山の外輪《ソトワ》に隠れて了ふまで、山道の曲り角/\を経て上つて來た。出來るだけ、しみ/”\見て行かうと思つてる山を、雲が先づ隠した。隠せる筈のものぢやないのに隠した。山だつて理會があつてほしいものだ」と言ふのが、長歌。短歌は、「あの三輪山を、こんなに隠したことよ。雲だつて理會があつてくれ。隠せるものぢやないのに、隠したことよ」。此はともかくも、鶴田王の作物なのでせうが、次の歌、
 三輪山(?)の林の崎のさぬはりの 衣《キヌ》につくなす 目につく。わが夫《セ》
井戸王《ヰドノワウ》の歌と傳へるものであるが、王孫《ヌハリ》と言ふ草を出したところ、わがせ〔三字傍線〕と囃《ハヤ》し詞を入れたところ、皆近江歌の姿を持つてゐるのです。後世まで、此國では、此に似た歌が行はれて居たのです。話が少し専門的になりましたから、近江國に關した事から、離れて見ませう。額田王の若い時の歌と思はれるものは、三首傳つて居ます。一つは、皇極天皇の御代、他の二つは同じ御方の重祚せられて、齊明天皇と申した御代の作と傳へてゐます。
 秋の野《ヌ》のみ草刈り葺《フ》き やどれりし宇治の宮地《ミヤコ》の 假廬《カリイホ》し思ほゆ   ――巻一(1)
 熟田津《ニキタツ》に船乗りせむと 月待てば、汐《シホ》もかなひぬ。今は 漕《こ》ぎ出でな     ――巻一(2)  
(457) 莫囂圓隣之 大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立爲兼 五可新何本  ――巻一(3)
三番目の歌は、紀伊温泉行幸の時に作つた歌とある。訓みのくだらぬ歌で、多少の考へもあるが、今は問題としません。(1)は、曾遊の地を思つた歌、(2)は現状を述べて居るのです。
自分も、行幸のお伴として、茅を刈つて小屋がけして宿つたことのある其字治の宮地で、今又、人々は假り小屋を作つて泊つて居るだらう。其小屋が目に浮んで來る――と言ふので、「……やどれりし宇治のみやこ」までは、過去の経験で、「そのみやこの」と言ふ風に語が再用せられて、「其都に今又、人々の作つた假廬」を空想して、懐しんでゐるのです。
熟田津は、古代から名高くて、今もある伊豫国道後温泉に近い海岸、船乗り〔三字傍線〕と言ふのは、何も實際の出帆ではありません。船御遊《フナギヨイウ》と言つてもよいでせうが、宮廷の聖なる行事の一つで、船を水に浮べて行はれる神事なのです。持統天皇の御代の歌、
 英盧《アゴ》の浦に船乗りすらむ處女《ヲトメ》らが、たま裳のすそに、汐みつらむか  ――巻一、人麻呂
などゝ同じく、禊《ミソ》ぎに類した行事が行はれるのでせう。「月を待ち受けて、船乗り〔三字傍点〕をしようとしてゐると、汐までが思ひどほりにさして來てゐる。さあ漕ぎ出さうよ」と言ふ儀式歌《ギシキウタ》です。女帝陛下には、聖《セイ》なる淡水《タンスヰ》・海水《カイスヰ》を求めての行幸が、屡行はれたのです。此二首も、やほりさうした場合を背景に考へて見れば、一等よいやうです。
(1)・(2)の歌が、萬葉に書いてあるとほり、飛鳥(ノ)河原宮《カハラノミヤ》の御時と、後《ノチ》(ノ)岡本宮《ヲカモトノミヤ》の御時に出來たもの(458)とすると、蒲生野遊獵――天智帝七年――まで、十三四年は立つて居る。之を前に数へた額田王の年齢に加へて考へることも出來ると思ひます。すると少くとも六十を越して居る筈です。又考へ方によつては、七十以上になつても、健やかで居つたものと思はれます。かうして、弓削《ユゲノ》皇子との贈答の歌を考へて見ませう。
   吉野宮に幸する時、弓削皇子、額田王に贈り與へた歌。一首
 いにしへに戀ふる鳥かも。楪葉《ユヅルハ》のみ井《ヰ》のうへより 鳴きわたり行く   (巻二)
   額田王和せ奉つた歌。一首
 いにしへに戀ふらむ鳥は、ほとゝぎす。けたしや鳴きし。わが戀ふるごと
年数を今の様にして繰つて釆ると、額田王が吉野行幸に加らなかつたのは、老年であつたからでせう。さうして、此人が行幸の際に憶ひ起されたのは、昔は屡、吉野の行幸に従つたからなのです。弓削皇子と直接贈答したと見るよりも、持統天皇の御製としての代作者が、弓削皇子だつたとする方が、ほんとうらしい気がします。持統天皇は、其こそ、何十度とも知れぬほど、吉野宮へ御出御になりましたのです。時鳥の聲を開いて、ふつと思ひ當つたのは、人の靈魂は、憧れ出て鳥となると言ふことです。自分は來られないで、魂だけがついて來た人があるのではないか、といふ事です。其で、「楪葉のみ井といふ木蔭の淵の邊をば、鳴いて通つた鳥、あれは、以前の事を思ひ焦れて飛ぶ鳥であつて、其でこゝを鳴き過ぎて行くのだらうか」と言ふので、鳥を言うて(459)居られるやうだが、實は鳥に代つた生魂《イキスダマ》を思つての、極まじめな歌なのです。額田王も亦正面から、「その以前の事を戀ひ焦れて鳴いて通つたと仰る鳥は、時鳥に違ひありません。ひよつとしたら、私の焦れて居るとほり鳴きはしませんでしたか」。此も鳥を言つてる様だが、自分の魂だと認めて居るのです。この歌には、外に寓意はないので、勿論戀愛の歌などではありません。又、同じ場合のでせう。
   吉野より蘿《サガリゴケ》の生えた松の柯《エダ》を折り取つて遣《ツカハ》された時、額田王|奉《マツ》り入れた歌。一首 みよしぬの たま松が枝《エ》は、愛《ハ》しきかも。君が御言を執《モ》ちて通はく
「吉野の神秘なマツの杖は、可愛いものだな。あなた樣の仰せを傳達して、やつて來ることよ」。此は、弓削皇子ではなく、天皇をさし奉つてゐるやうである。人なら勅使として來るが、霊的な松だけあつて、木が勅使となつて來たと言ふのである。此も謹厳な歌です。勿論松の枝は、歌が結びつけてあつたのです。と同時に、蘿《サガリゴケ》は白髪を思はせるものですから、壽《コトブキ》を祝し給うたものと思はれます。
かうして見ると、額田王は、世間で思つてゐるほど、自由放恣な生活をした人とは思はれぬところが多いのです。「鏡王女」の考へ方や、歌の出來た動機を思ひ誤つての評判が、さうさせたところが多いと言へます。
まだ此外に、名高い長歌としては、天智天皇崩御の時の歌、春秋の優劣を判じた歌があります。(460)此は、額田王だけが、歌を詠んだのでなく、天智天皇の宮廷にをつて、春方《ハルカタ》・秋方《アキカタ》を分けて、歌合《ウタアハ》せの様な事をおさせになり、其時、額田王ほ判者《ハンジヤ》として、長歌を以て、判詞《ハンノコトバ》を作つたと解するのが、一等正しい見方らしく思はれます。
額田王ばかりではありません。古代の歌は、我々が考へるやうに、文學そのものではありませんでした。だが又同時に、我々がどうかすれば見くびる程、文學動機を含まないものでもなかつたのです。
額田王については、尚、仲大兄皇子《ナカチオヒネノミコ》の「三山歌」を中心にした戀争ひの物語が、問題になるのですが、歌自身、さうした事件に関係もなし、又、所謂御同胞の間に妻争《ツマアラソ》ひのあつた事實なども、學者の誤解らしく思はれますから、こゝには言はない事にしました。
 
 
(461) 柿本人麻呂      【昭和八年二月、春陽堂「萬葉集講座」第一巻】
 
    一 柿 本 氏
 
ひとり、柿(ノ)本(ノ)朝臣に限つた訣ではない。古代の人物傳を考へるのに、まづ、用意してかゝらねばならぬことがある。其人を知るよりも第一、其属してゐる氏族についての知識を用意してかゝることである。其は、記録の上で、個人の歴史と考へられるものが、数代に亙つての出來事の綜合であつたり、或は又、其族長たる人の誰が上にも、通じて稱せらるべき家傳の根柢なることに繋つてゐる點が多いからである。若し、最初からこの事を念頭に置かないで、合理的な歴史方法で見て行くことは、歴史を形づくる要素を失念した事になるからだ。この落すことの出來ないものは、古代宗教の上における考へ方である。人麻呂の場合は、やはりかうした見方をすることが正しいものだと共に、此による外、辿り難いほど、乏しい生活の痕をしか止めてゐないのだ。其にしても又、柿(ノ)本氏に關した文献は、人麻呂傳の輪郭を考へさせる側に、用に立つ程にも備つてゐない。
(462)柿本氏族の本質は、大和の中にあつたものと見てよい。さうして、其に當るものが、後世、二个處を考へられてゐる。一つは、添上郡櫟本附近で、此は、平安朝末期に、其處と推定せられてゐたものである。堂の廃墟と、古墳とが、初瀬海道に當つて残つてゐた所から、物詣での京人の目に觸れ易かつたのだ。さうして、此を認定するに到つたのは、一種の夢想によるのであつた。此堂及び安置せられた木像が、修理せられる様になつたのも、かうした地理と、歌學の流行し出した時勢とによつたのだ。文明八年の勧進帳――柿本像綵色勸進帳――なるものには、其頃の歌よみ気質を覗うた所が見える。
其と今一つは、北葛城郡新生町の東に接してゐる地で、今も、其地名がある。河内越えの岐路に當つてゐて、後には、注意せられてゐる。此二つの土地の関係は、部落の移轉か、又は、支村の繁榮によるのだらうが、明言は出來ない。
此族名は、其氏人の、大和國外から移住して來たことを思はせる地名か、どうかについて考へても、極めて問題の乏しい稱號である。柿本氏の傳へに據つた、と思はれる新撰姓氏録の説明で見ても、「柿《カキ》(ノ)下《モト》(ノ)朝臣、大春日(ノ)朝臣と同祖。天足彦國押人命の後なり。敏達天皇の御世、家門に柿の樹あるに依つて、柿《カキ》(ノ)本《モト》(ノ)臣《オミ》を氏と爲す」とあつて、地名であつて、而も偶發的な、半固有名詞式なものなることを示してゐる。大春日氏族の複姓と稱へてゐる所も、當つてゐる。添上の北邊から分離して、殆山邊郡と入會地の、郷・郡縣の境界部落なる垣(ノ)本――後世にも村の範圍を示す(463)に言ふ垣内《カキツ》・垣外《カイト》など――でないかを疑はせる程の郡堺に居たものらしい。「かきのもと」なる姓が、果して家門の柿の木によるか、どうかは疑問である。「久米歌」の「垣下《カキモト》に……」其他、宮廷の外圍を言ふ語であるから、其を延長して、宮廷領の境界、又は其處を守ることを意味してゐると思はれる。大春日氏の岐れであつて、柿本氏とは比較にならぬ程大族だつたと見られる、春日(ノ)和珥(ノ)臣の根據地と、非常に隣接してゐる。思ふに、大春日の支族の、宮廷在地《ミカド》やまと〔三字傍線〕の北邊大倭(山邊郡)の地境――後には、却て奈良(添上郡をこめて言ふ)の南端となつた――に居たからの族名でないか。さうして、此がやがて、此一族の表の職業を暗示してゐる様に思ふ。布瑠氏同様、地境において、靈物の擾乱を防ぐのにあつたらしいことは、大春日氏の場合にも考へられる。大和の最北邊に居るからである。
臣から朝臣に昇格した家だが、尚、臣で殘つた家もあつた。而も、庶流に到つては、大和以外にも、多く散つて居たものと考へてよい。だから必しも、人麻呂をば、此添上郡を本貫とする人とも定められない。
 
       二 人麻呂の名義
 
人麻呂の名も、極めて類型的なもので、前後王朝に亙つて多い者であつた。「玄同放言」には、正史に現れた人麻呂なる名を九人まで擧げてゐるが、其に止るものではない。右の外、戸籍文献に(464)は、あり過ぎる程の名である。「人」を名とするもの、人・必登・比等を初めとして、萬葉集だけ
でも、人|長《ナガ(?)》・人|上《ガミ(?)》・人|足《タリ》・人|名《ナ》・人主などを憶ひ浮べる事が出來る程だ。おなじ熟語でも、其語尾に用ゐるものに到つては、更に幾倍かになることゝ思はれる。が、其に「まろ」の熟した人麻呂なる形に到つては、一種異様の成立を含んでゐる様に思はれる。
「まろ」なる名は、近頃では、一人稱の代名詞と關聯して説かれ來て、此が賤民の稱號から出て、代名詞に使はれる様になつた、と言ふ風に固定しかけて來てゐる。人名の「まろ」の如きも、さうして出來たことは言ふまでもないのだ。賤民の名を命ける事によつて、邪神の咒視を避けようとするのだ。此上に、更に特殊な意義を示す語が複合して來るのだが、人麻呂には、稍變つた徑路が見える。即、姓《カバネ》に於いて、「人《ヒト》」なる稱號の見られる事である。眞人麻呂・史滿など言ふのを見ると、どうも、さうした結合點の意識が轉じて來た様に思はれるのである。唯の名の麿と、姓《カバネ》の一部なる人とが、一つになる傾向が現れてゐるのだ。そこに、人麻呂と言ふ風なものが出て來る。それと今一面、之を推進する事情がある。寺人・手人・藏人など言ふ一種の雜戸式――一概に言ふのは、よくないが――のものゝ語尾である。即、麻呂よりは、少し上だが、稍卑しい感じがある。此が融合して出來た名らしいことは考へてよいと思ふ。この名が、さほど遠くない頃から流行し初めて、最ありふれた童名の一つとせられ、其が成人の後までも持ち越したものと見える。
(465)柿本家の人の正史に現れた人物は、おなじく馬琴の計算によれば、奈良朝に五人、平安に入つて、二人である。統計に見ても、一度も文献の上に出て來ない氏族だつてあるのに、かうして見ると、族人の尠からず分布して居つたか、でなければ、都城に近く本據を持つてゐたことが思はれるのだ。その中、柿本安永については、承和九年十二月紀(續日本後紀)伯耆守笠朝臣梁麻呂傳に、「承和二年、左中辨に拜す。此時、諸(所?)司柿本安永なる者あり。利口の人なり。自ら口の佞なるを憑み、屡干す所あり。官、其身を喚《メ》して、詰問すること數《シバヽヾ》なり。巧に百端に避けて、曾て諾伏せず。梁麻呂纔かに、一問を發す。安永舌を巻いて退く。同僚倶に云ふ。及ばざること遠し。」此は、單なる官吏の不始末を懲戒しようとした事の記述ではない。其にしても、安永の興言利口には、其氏族と、本質的に関係がありさうである。
今日においては、推測は出來るが、決定の出來ぬ多くの事實がある。其中にも、考慮に残してよい事は、柿本氏人が、巡遊神人であつたのであらう、と言ふことである。大春日氏と同祖は同祖でも、單に其だけではなく、寧、春日(ノ)和珥《ワニ》(ノ)臣の分れと見る方が、當然であらう。其程、春日和珥臣の本貫と地域の區分が立たないのである。恐らく和珥(ノ)柿本(ノ)臣など稱へた和珥氏の小氏であつたものではないか。其が後に、和邇氏を超えて、和邇の本族たる大春日の複姓と言ふ形を示したものではないか。和邇神を齋く人々のある運動は、明らかに考へることが出來る。畿内附近に分布廣い氏族和邇は、後多く、小野氏に勢力を譲つて居る。氏神も即、近江滋賀郡和邇の地の小(466)野神、と言ふことになつて來てゐる。だから、同一神といふことが出來る。春秋の祭りに、春日氏族の一部、和珥系統の人々が参向した樣だ。此は、大春日氏の出の複姓の間に、「氏長」の資格が移動したからで、或期間は、其が小野氏にあつたことを見せてゐるのだ。「小野の氏神の社、近江國滋賀郡に在り。勅す。彼氏の五位已上の、春秋の祭りに至る毎に、官符を待たずして、永く以て往還することを聽《ユル》せ」(續日本後紀、承和元、二月二十日?)。「是日、勅す。大春日・布瑠・粟田三氏の五位以上の、小野氏に准じて、春秋二つの祀《マツ》りの時、官符を待たずして、近江國滋賀郡に在る氏神社に向ふことを聽せ」(同、四年二月十日紀)」などある點から見ると、春日氏族の中、和邇一統が榮え、其中更に、小野氏が氏(ノ)上の様な形をとつたことが見える。従つて、其所謂小野神が和邇神でもあつたことが訣つて來るのだ。祭禮の月も二月(秋は、八月か)だつたことも考へられるし、氏神祭りに、諸国の氏人――記録に見えたのは、官人だけだが、同時に廣く氏人に亙つてゐることを示す――の集つて來る樣が訣る。だから、常は諸国に散在する者も、其一部は必、小野祭りに参與したのだ。さうして、古代信仰の形式上、柿本氏も亦、此小野神祭りに集る一族と見ねばならぬのだ。
小野神の布教の事は、既に、柳田国男先生の「神を助けた話」に發表せられてゐる。後世大規模に行はれた小野氏人の運動は、春日部・和邇部などの形式を學んだに過ぎないので、其中間のものとして、柿本氏人の巡遊を思ふべきであらう。一つの信仰樣式を、どこまでも、同氏族の間で(467)は、くり返すのが常であつたからである。
 
      三 人麻呂の旅行並びに人麻呂集の歌
 
柳田先生は、小野神の祭主の資格を、猿丸大夫の名で表したもの、と決定してゐられる。此點を擴充して行くと、思はれるのは、故芳賀矢一博士の、柿本氏の中、最著しい「※[獣偏+爰]朝臣」を猿丸とする説と、ある暗合を示す事になるのだが、其では、人丸・猿丸の交渉が、あまり近づき過ぎる。姑らくとり放して考へる方がよささうである。後世の假託は、古い形を想見するに足らぬと言へば、其きりだが、柿本氏には、「安永朝臣」に限らず、ある辯口についての記憶が、民俗の上にあつた様だ。一種の御伽草子には過ぎないとしても、其が比較的古く、又、連歌の上の柿(ノ)本・栗(ノ)本の座の名義と、通ずる所があると思ふ。元来、ある利口興言を玩ぶ技なる連歌の上に、柿本を正式のものと考へた理由も訣る。單に人麻呂の流だからの柿本では、この場合説明出來ないのだ。必此語に、一種の俳諧昧があつたのだ。其が、俳諧を分出する様になると、栗(ノ)本と言ふ語を作つて、其に對する眞面目な作風を示すものと考へる様になつたのだらう。
さうして、此も恐らく偶然と見られるだらうが、所謂柿本氏系圖と似た事が、この一族の名にも見えてゐる。※[獣偏+爰]と言ひ、柿本朝臣|枝成《エダナリ》(文徳實録、仁壽元年十一月紀)と言ひ、此名に一種の利口が見えてゐると思ふ人も多い。尤、柿本氏系圖の如きは、連歌師などの筆のすさびと思はれるか(468)ら、強ひて謂ふ訣ではない。唯、さうした印象がないとは言へなからうと思ふのである。
今日存する柿本集は、人麻呂集としては、第二次的――と言ふよりも寧、末流的――のものであるが、殊に下巻になると、甚雜駁である。其中更に異様に感じられるのは、畿内七道の国名の「物名」歌である。六十六國をよみ込んで、六十六首ある。其詞書きが、極めてしやれてゐる。「柿本の人丸、あからさまに、京近きところに師走廿日あまり下りけるを、とう上らむと思ひけれど、いさゝかに障る事ありて、え上らぬに、睦月さへ二つある年にて、いとゞ春長きこゝちして、なぐさめかねて、此世にある國々をよみける。是なむ、ゐなかに罷りたりつる〔六字傍点〕『つ』と〔傍点〕『め』て〔傍点〕、あるやんごとなきところに奉りけるとなむ。」これも、異本によつて、多少増減がある。歌の上の、混乱の度の過ぎたのも、まだ若干理由も考へられるが、此などになると、其あまり超越し過ぎた態度が、不思議と言ふより外はない。
単に、人麻呂作と思はせる様に、平安中期以後の學者が、偽造したとだけでは納得の出來ぬものがある。確かに、後撰集以後次第に意識的になつて來た題詠の一つであり、而も、源順・曾根好忠その他も試みてゐる方法である。此一続きは、其等よりも、更に遅れて居る。さう言つた時代の隠者の作物に相違ない。歌論・歌式や物語類にも、常に行はれてゐた假託・増益した結果ではないか、と考へられるものである。
 
(469)     四 覊〔馬が奇〕 旅 歌
 
萬葉集に見えた人麻呂の歌で、閑却せられてゐる、ある特徴がある。恐らくは、読者がその作物を概観して感得しただらう、と思はれるものである。其側に属する歌の多少に關せず、考へてよいことは、若干の優秀な覊〔馬が奇〕旅歌と、邊土の生活に関係ある作物とのある事である。諳誦せられる様な歌が多ければ、實際の作物の多少に繋らず、其名を傳へて行くのが、短歌文壇上の読者|気質《カタギ》なのだ。人麻呂においても、覊〔馬が奇〕旅歌は、全作物の幾分により當らないが、此側において賞讃せられてゐたことが思はれる。さうした傳統的の評價法が、かう言ふ作物を、歌聖の實作と言ふ信仰を導いたと考へてもよい様だ。
だがその上に、更に考へねばならぬのは、人麻呂自身の旅行よりも、もつと昔から、更に後世にも亙つて、続いて行はれてゐた柿本族人の絶えざる漂泊生活の、社会に投じた一つの姿である。だから、萬葉集に載録せられた人麻呂作と稱するものにも、この氏人等の旅中作歌――と言ふよりも、巡遊詞人としての吟詠――が、多く含まれて居るのではないか、と考へる。たとへば、人麻呂の實在ほ、儼たる事実であるとしても、世間から、柿本人麻呂の名を以て認められた筈の幾多の詞人が、幾代に亙つてあつたことも考へて見ねばならぬ。つまり、日本古代における神事聖職に與る者は、神主以下神職・神人すべて、傳統的の名を以て職掌を示して居たところから、人(470)の身は亡くなつても、名は後々と繼がれて行つた。さうして、その名にも階級のあつた訣である。其と共に、今一つ見られるのは、一群の神職・神人が、ある氏《ウヂ》を號してゐた所から、後世にも其風の及んだ事である。ある派に附屬する神人は、血族・氏族、或は部族としての関係がなく、単に籍を置いた、と言ふだけで、其姓氏を名のる習慣を生じる様にさへなつた。即、全国的に山の奥などに部落を営むもの――の姓又は、地名――に「藤原」を稱することの多いのも、其例だ。中臣祓を唱へることを免許された神人が、「中臣」を稱する事の代りに、藤原を言うたのである。此などは、さのみ古くはないが、其でさへ、此とほりである。又山地を渡り住む木地屋の輩が、小椋氏を名のるのも、職と神事との関係から出た通有の氏名で、後には神事方面を忘却して、單に職團の守護神と言つた形になつたまでゞある。
更にまた、其一つ前の形が、何某部の稱を持つ所の神人團で、其所屬の伴造の神と共に、部曲自身の神を齋いてゐた。だから譬へば、柿本朝臣に附属する柿本部があつたとすれば、柿本氏族の小野神を主神として、其信仰を持ち廻る旅を續けて居た訣である。さうして、落ちついたところに村を構へ、その分割したものが、更に漂泊して廻る、と言つた形をとつて移動して行つた事は、日本古代の漂泊種族の生活様式から、言うてよい。一面から見れば、かばね〔三字傍点〕が昇る程、其定住性が認められた訣で、低いものほど、古い姿に近いものと見てよい。だから、伴造は、単に部曲民以外の家が、之を管理したのが本式でなく、部民の中から、游離して來たと言ふ系統上に關聯を(471)持つものが多いと見られる。だから、後者の形などに、ある家の神を伴造神として、其下に部曲民を預ける形を採つてゐたのだ。
かう言ふ形の部民の漂泊には、條件として、咒術を行ひ、咒詞を諷誦して廻つた。此が、神人移動の通有形式である。小野神にさうした痕跡の、著しく見られるからは、此神を、氏神とする柿本族人の巡遊状態も考へてよい訣だ。其資格を表す氏名が、「柿本」であり、其代表者とも言ふべき大作詞人を出して後、何時からか柿本の上に更に「人麻呂」の稱號を附加することゝなつたものと見るのが適当であらう。さうして、眞の人麻呂以來、長歌以外に、漸く短歌の数を増して來たものと考へられる。だから、極めて合理的な考へ方をすれば、此布教様式が、古くから続いて居て、其唱文として用ゐられた歌が、人麻呂在世時代の作物以外に、段々加つて來たものと思はれる。だから假りに人麻呂作と稱するものゝ中に、區劃らしいものを立てゝ見れば、大體に實作物としての成書のあつたもの、成書以外、柿本人麻呂作として信ぜられたもの、柿本作と言ふ傳説及び判断を以て、一部の歌集に集めたもの。此三通りになる。萬葉集に見られる歌を通観した所が其である。
而もなほ此上、先に述べた柿本集又は人麻呂集と稱する平安朝以後のものがあつて、此にも、本によつて、可なり出入りがあつたのだ。殊に此方になると、萬葉集三種の傳人麻呂作物を超越して、傳來不明のものは勿論、歴然と他人の作物であるものまでも、とり込んでゐる。又、書籍の(472)姿から見れば、多くの點に於いて、古今六帖と通じる所のあるものと思ふ。又、猿丸大夫集などとも共通した處がある。即、同時に、古今集の「よみ人知らず歌」の持つ特質である。即、右の歌々に對して、「古今集讃人不知考」のある事――後世乍ら――は、眞作者に對する理會と決定とが、常に動揺してゐたことを示すものであると共に、柿本集などの解釋に、よい理會を補つてくれる。
歌の作者と、その口唱者とが混乱して傳へられる事と、其既に民謡化を経たものが更に還元せられて、創作詩としての待遇を受ける径路とを併せ考へると、古人のある作物に對する作者推定の動機は、窺へる。其と共に、どんな作物でも、人麻呂作と信じることが出來た理由も訣るのである。従つて後に、成書として編纂せられる際にも、其考へ方が自由に働きかけてゐるのだ。
實在性の極めて不確かな、巡遊神人の中心的名義なる猿丸大夫の如きになると、更に自由に「よみ人知らず」の態度を以て、あらゆる短歌を採用することが出来たのである。
こゝに當然起る筈の疑問は、現存の柿本集が、猿丸大夫集と、元來一つものでなかつたかと言ふ事である。猿丸集の一々の歌を検して、猿丸集の本人を考證し出さうとする試みは、従來もさうであつた通り、必直に蹉きを再びする。其は、右に述べた成立法のあることを、信じることの出來ないところから來るのだ。
 
     五 文学動機(伶人を離れて)
          ――萬葉集の人麻呂歌の作者推定法――
 
今、萬葉集に即して、その事實を見る。實際ある點まで、短歌を完成したものは、人麻呂だと言へる。尠くとも、其中心勢力と見てよい。短歌の様式が、聲樂から獨立して意識せられたのは、藤原時代である。組《ク》み歌の一部として短歌の形を持つたものや、其斷篇として、獨立して見える短歌らしいものなどは、まだ、ほんとうの短歌ではない。だから、長歌の「乱」「反」の辭として其末尾をくり返す事に、右樣式の反省を加へて生み出した短歌とは、別物と見てよいのである。さうした反歌を、全く自由なものとしたのが、凡、藤原時代前後の歌人のした事なのである。かうした反省は、どうして起つたか。代作についての苦心が、従來よりも深く加つた爲と謂へる。従來多くの歌は、其が譬ひ、作者を傳へて居ても、多くは、語部の物語に現れた、傳承者の内的律動に促された發想であつた。此が進めば、意識的な代作となる。恒例としての宮廷咒詞――宣命或は祝詞、宮廷詩――大歌が、単純な世相においては、その儘反復することが出來ても、段々繁雑になるに連れて、改作・新作に俟たねばならぬ特殊な感情が、多くなつて來る。だから一人の衝動にも、群衆の感激に對しても、此を作る者が出來て來る。即漸く専門化して來る訣だ。代作詩人であり、宮廷詩人である。飛鳥時代末から、さうした人々の見え出して來たことは、別に(474)述べたことがあるが、藤原朝に到つて、相應の素養ある人が、之に當る事になつたらしく見える。
其一人――最大きい一人が、柿本朝臣族から出た訣である。
ある考へ方によれば、人麻呂をも、ほめろす〔四字傍線〕同然架空の人物であると考へられる。更に、柿本氏人の假想した職業祖先と見ることも出來ようが、一方存在の否定すべからざるものもある様だ。其は、萬葉集巻七その他に見える漢文學素養を豫期する事の出来る人々――其は同時に、存在の明らかな――と、作物が排列せられ居る事、さうして其配置が如何にも適切なる事から見られる。其上、人麻呂より前に、短歌様式の獨立を導くと共に、内容を文學的に、發想を正確に鍛へあげて來た人々は、亦皆歸化人の子孫か、漢学素養のあつた人である。
私は、單なる人麻呂の對句や畳句などの、普通漢文學的修辞法の影響と考へられてゐるものは、問題とせない。其は、何國でも、古代詞章共有のものであつて、故ら問題にする程のものではない。唯、詞書きに、柿本朝臣人麻呂作――人麻呂作と傳へるものゝ中、最確からしいもの――とあるものゝ中に、支那學的知識を豫期する事の出來るものを見る。かうした態度は、単なる柿本族人等の口誦集〔三字傍点〕の中から、偶然抽出せられて來るものでない。必個性の著しい作家の作物に相違ないのだ。
人麻呂は、かうなつてもやはり、多くの代作をなしてゐる。其傳記の一部を形づくるもの、と見られた作物の多くも、或は他人の爲の用に作り、他人の感情を直観したと言はねばならないものも(475)多いことは言ふまでもない。萬葉集の詞書きは、歌の意味から逆推して作つたものが多く、殊に、古く正式なものと思はれてゐる巻一・二の物においては、殆全部がさうであつた、と言へるのだ。人には誇張の様に聞えるかも知れぬが、暇さへあれば、書きあげることも出來るのは、一つとしてどの點かで、内容と喰ひ違ひを持つて居ないものはない。だから、序詞によつて確實なもの言ひは出来ないのである。随つて作物の内容に推測を補足して、人麻呂が某々皇族に仕へた、とすることも出來ない。勿論又、某地に旅行したとも、何|人《ニン》の妻を喪うたとも、断言は出來ないのだ。さうした行はれ易い錯誤の外に、實は、人麻呂の作であるものが、代作せしめた當人の物となつてゐる一群が、亦あるに違ひない。譬へば、ある皇族・貴族の儀禮用の詞章、又は群衆の諷誦したものゝ如きに、其が多く感じられる。日並知皇子尊宮舎人等慟傷歌二十三首・藤原宮役民歌・藤原宮御井歌の類である。かうして見ると、最信頼の出來さうな詞書きを持つた歌から窺へる作歌の境遇は固より、人麻呂作品その物にすら、可なり用心を要する訣だ。だが同時に、此に因つて、萬葉集に見える尚一つの人麻呂の作品群たる「柿本朝臣人麻呂集」の底に横はる動機が、推察せられるかも知れない。
個々の作物に亙つては、議論の餘地はあらうが、すべての作物を中心として、人麻呂の作歌経歴を考へて見ることも出來よう。さうすると、全體として、代作物の修練によつて、次第に個性を發揮する様になり、さうした作物を作るに到つたと見ることが出來よう。さうして、其が代作で(476)あつても、後期の作物は、著しく特異性を露して來たと見てよい。其だけに、長歌の様に、形式を偏重した、傳習的な擬古作物においては、却て前期において、長く且、緊張した様に見える作物があり、後期になると、短くもあり、實用的で興趣の豊かでないものになつてゐる。高市皇子尊の挽歌と、吉野宮の歌とを比べて見るとよい。さうした事の反對に、逆に短歌においては、観照の届いた表現の的確な方に段々向つて來たのである。
 
     六 人麻呂集
 
萬葉集引く所の人麻呂集は、凡、
  ○右、首(又單に、右〔傍点〕)柿本朝臣人麻呂之〔8字傍線〕(或は、之〔傍線〕なし)歌(稀に謌)集出〔六字傍線〕(又は、出也〔二字傍点〕)
  ○右(或は、右・首)見柿本朝臣人麻呂之歌(集〔傍点〕の字脱したかとも言ふ)中也
  ○柿本朝臣人麻呂歌集〔九字傍線〕曰、等保久之※[氏/一] 又曰、安由賣久路古麻。
   柿本朝臣人麻呂集〔八字傍線〕中出見上已詮也。(b)
   柿本朝臣人麻呂歌集〔九字傍線〕云、爾保鳥之奈津柴比來乎人見鴨。(b)……。
  〔○柿本朝臣人麻呂歌集歌已、……。柿本朝臣人麻呂之集〔九字傍線〕歌(題)〕
  ○右、首(又は、件歌)或云柿本朝臣人麻呂作〔八字傍線〕
  ○右柿本朝臣人麻呂歌〔八字傍線〕曰……(b)
(477)  ○柿本朝臣人麻呂歌〔八字傍線〕曰‥‥‥(b)
此等の中、柿木朝臣人麻呂歌とだけあるもの――歌集の「集」の脱落したものと見ることが出來る――を加へて、皆一本と見るか、否か断定を下すことは出來ぬが、大體において、定本と見るべき一種があつて、其他に尚幾種類か異本があつたと考へる方が、穏当らしく思はれる。つまり、諸家採集する所の歌数は勿論、一部の詞句の出入りがあつたものと見る方がよい。
確かに言ふ事の出来るのは、人麻呂の作物以外のものをも含んでゐることである。誤解・錯乱を除けば、恐らく人麻呂と多少の交渉のあつた人々の作を含んだのであらう。作者未詳の作物・民謡(東歌)・異體歌(旋頭歌など)・物題歌(寄物・詠物・七夕歌)・作者既知(巻九、覊〔馬が奇〕旅歌)等の種類を含んだところから見れば、人麻呂集の外の、笠金村集・高橋蟲麻呂集・田邊福麻呂集などにも、共通の事実として、さうした事が考へられる。其上、此三歌集並びに、同様な家集に通じて考へられる古代社會の信仰状態からすれば、其が、當人或は其近親の者の編纂になつたものを、或機會に、其擁護者なる皇族・貴族に上つたものらしい。上られた家では、更に其等の歌を包含した「家の歌集」と言ふものを持つ事になる。萬葉集の大部分は、「大伴家集」として、各歌人の歌集を含んでゐる訣だ。家集〔二字傍点〕が、他氏・他人の歌を含む理由は、あるべき筈の動機から出てゐるのだ。人麻呂自身、新手法を出す以前は固より、以後にも、無成書なる多くの詞章の影響、と言ふより寧露骨に其類型を襲うてゐる。其間に特殊なものを、若干出す事になつたのだ。譬へば、枕詞に(478)おいて、以前からある序歌の上の直観的な譬喩法を強調した。又、序歌においては、二重主題を表白する方法を自覚して、これを盛んに昂揚した。新しい語句の上に、社會的関心を織り込む事を考へ出した。だが、其方法の効果を顯したのは、主として、古典的な表現の間に、挟つて居たればこそであつた。鮮明な斬新味は、其新しい調和性を發揮した訣だ。此人の歌、殊に長歌において、祝詞の影響がある、と言はれてゐるのは、尤なことである。だが、其については、少し説明をつけ加へた方がよい。
宣命・祝詞は、元々出發點において、歌とは筋道を異にしてゐる。だが、その並行して來た道程において、互に影響してゐる事は事実である。殊に、歌が優勢になつて來ると共に、咒詞の範圍に立ち入つて、其効力を考へて來る様になる。長大な咒詞の代りに、短小緊密な歌を以てする事は、歌が咒詞の性命の壓搾せられたものであつた歴史から、信仰的に持ち續けられた訣なのだ。篤疾を咒する歌・舟行を祷る歌・宮殿を賀する歌・戦士を送る歌・族人に論告する歌など、皆宣命或は祝詞の文體に似通うて來るのだ。而も、最著しく、又可なり古く其を見せてゐるのも、人麻呂だ。唯必しも祝詞を模したものと言ふことは出來ない。さうした姿の、長歌に露出して來るのは、長歌の目的自身に、咒詞的なるものを含んでゐたと共に、長歌が咒詞に代用せられ、咒術者の代りに、其事に與る群衆が、之を合唱する様になつたからと見られる。現在する祝詞は、その固定は、時代において、寧萬葉の歌よりも遅れてゐる。歌及び祝詞が等しく、一つ前の咒詞か(479)ら出てゐる、と言へるのだ。だから、祝詞よりも祝詞式に見えると言うてもよい位なのだ。「日並知皇子尊宮舎人歌」について見ても、短歌乍ら、咒詞要素を持つてゐる。又、「藤原宮御井歌」において、四神相應・宮殿井水の祝福を述べる様な陰陽道式な内容と、之に調和する様に古風と今様との修辞法を交錯し、其間に漢種族の傳承した民俗などを織りまぜて居る。皆、人麻呂作なることの推定せられるものだが、祝詞式修辭法は、必しも人麻呂に限る事ではない。唯、其を此人が、最高限度まで伸して行つた、と思はれる點に注意せられるのである。
 
     七 民謡として
 
萬葉集に、人麻呂作と假定せられてゐるものゝ今一群は、萬葉に録せられた歌の、一説に人麻呂作と稱するもの。人麻呂作の一部分が變化してゐるもので、尚人麻呂作らしさを持つてゐるもの。多くは、宴遊の即興を部分的に改め、或は記憶違ひをしたもの、又異傳と思ふべきもの。又全體の趣きは人麻呂作と稱するものに似て居て、其歌を本としてゐる事の著しいものなどで、其に加へて言ふべきは、「或本」である。人麻呂作の名高い歌で、部分的に文句の相違を傳へたものがある。六章の註(b)を附けたものが、其である。尚、人麻呂の歌なるものについては、異説が色々あつた様子を見せる例として一つあげて置く。巻十二、
 念西《オモフニシ》 餘西鹿齒《アマリニシカバ》 爲便乎無美《スベヲナミ》 吾者五十日手寸《ワレハイヒテキ》 應忌鬼尾《イムベキモノヲ》 (二九四七)
(480)   或本歌曰、門出而《カドイデヽ》 吾反側乎《ワガコイフスヲ》 人見監可毛《ヒトミケムカモ》 可(一?)云、無乏《スベヲナミ》 出行《イデヽゾユキシ》 家當見《イヘノアタリミム》
    柿本朝臣人麿歌集云、爾保鳥之《ニホトリノ》 奈津柴比來乎《ナツサヒコシヲ》 人見鴨《ヒトミケムカモ》
恐らく萬葉集の異本でなく、人麻呂集或は、其類の本(類聚歌林なども、此一つか)にあつたのであらう。此で見ると、其歌が、まだ人麻呂作と言ふ約束は忘れずに記憶せられ、或は既に、其作なる事を忘却せられてゐたものもあつた事が思はれる。其と共に、色々な形に變じ乍ら、多くは小部分の差違に、止つてゐた事が知れる。
民謡として、流れ出た人麻呂の歌が、諸国の風俗歌の根本的刺戟となつた點を考へれば、所謂人麻呂集のものゝ、技術的に、また人生的に複雑な効果を残した事が考へられる。謂はゞ、古代人の社会生活を感受する力が、此人の作物に刺戟せられることに由つて、深められて行つた訣である。「ものゝあはれ」と稱すべきものが、邊土の人々の上に栽ゑつけられたのだ。この人麻呂作と考へられる様になつた歌が、誰の手によつて流行せられたのか。近代の民謡ならば、その流布の径路や、機關の訣らない程、運搬の便利が開けてゐるのであつたが、古代においては、概してさうした撒布者が一定してゐるのだ。単なる流行歌として、風の如く東国に、九國に流れて行つたとは考へられない。必此には、柿本族人としての神人の巡遊が、與つて力あつたに違ひない。言ひかへれば、小野神と同系の神の信仰が、其よりも早く或は晩くまでも、宜傳せられた、その布教用の咒歌が、其根柢をなしてゐた事である。其中には、その神人等の常用詞章もあらうし、(481)他の有名な作物の民謡化したものをも、含んでゐたらう。さうして、其が一様に、柿本族人の諷誦したものとして、柿本人麻呂の歌と言ふことになつて行く道程は考へられる。即、人麻呂の歌は、多人数の諷詠用の代作であり、宗教歌であり、又同時に、創作歌としての方面をも兼ねてゐたのだ。
人麻呂作物は、代作・創作その上に、その作物の民謡化したもの、或はその作物と仮定せられたものゝ外に、一群の「柿本氏人」の諷詠があつた訣なのだ。だから、覊〔馬が奇〕旅歌については、特殊な意味のあるのを考へねばならぬ。而も人麻呂として、眞の立ち場は、数量において、さのみ多きを占めてゐぬ此點にあつた訣である。又後世、彼の歌の鑑賞法も、實は之を推し擴げての事である。此等を以てすべて、巡遊した柿本族人の作と決断することの出來ぬ程、個性的なものではあるが、或は其考へ自體が、近代的なのかも知れぬ。尠くとも人麻呂自身にも、其に似た経歴があり、又族人の歌には、人麻呂の傳の一部として語る事があつたとも見られるのだ。譬へば、人麻呂の石見に居り、又石見から都へ還つたり、又石見において死んだ痕を想像させる歌などは、悉くは、人麻呂自身のものと言ふことが出來ない様にも思ふ。其死に際に作つた歌、和銅二年頃の作、
 鴨山の岩ねし枕ける我をかも、知らにと 妹が待ちつゝあらむ ――柿本朝臣人麻呂在石見國臨死時自傷作歌
は、人麻呂自身よりも、後世の傳承者が、此時に死んだものと信じて傳へてゐたので、萬葉集に(482)もかう書いたことは明らかである。事實については、問題はあつても、傳説上の人麻呂は、茲に終つてゐるのだ。翌三年一月には、奈良奠都があつた。だから、かう言ふ所から見れば、人麻呂は正確に、奈良朝前の歌の、最後を記念した人になる訣だ。此歌や、此に和《アハ》せた妻|依羅《ヨサミノ》娘子の『石川の……』の歌の如きは、人麻呂墓と言ふものが、石川の地にあつた事を意味する外には、何の確實性も持たぬものと思ふ。歌自身は共に比擬作であらう。人麻呂は、さうした歴史と傳説と、真実と空想とを、併せて成立した人格と見た方が、ほんとうなのではないかと思ふ。
 
     八 萬葉歌人との比較
 
人麻呂と、おなじ萬葉作家の中でも、歴史上の存在の證明の出來る者を竝べて見ると、稍意外な感の催す事がある。たとへば、大伴旅人である。天平三年は、大伴旅人の薨じた年で、山上憶良七十二、旅人六十七である。その後二年、天平五年には、憶良が卒した。山部赤人の歌は、尚三年後の八年までのものが、萬葉に出てゐるから、憶良の年にすれば、七十五の筈だ。大體において普通より長命だから、赤人は、此頃もすこし若く、生年も、憶良より遅れてゐるだらう。旅人は天智三年の生れだが、赤人は或はまだ生れて居なからう。憶良で言ふと、此より前三年齊明の白雉六年に生れた筈だ。眞淵等の假説の如く、人麻呂が五十で亡くなつたとすれば、此年頃生れてゐる訣で、其歿年和銅二年は、憶良も亦五十である。さすれば、同時代の此二人の間に、あれ(483)だけ、歌風の相違のある事は驚かれる事となる。と共に、人麻呂の作物の持つてゐる近代味、或は外國文化の影響についても、會得が出來る訣だ。問題は、憶良と同年位か、稍若いか、或はもつと長じてゐるかと言ふことだ。普通は、年長説に傾くだらう。其ほど、二人の間には、發想の新舊性が見られる。之を事実化する方法は、よくある間違ひである。子規子存命時代、根岸派同人の間に、人麻呂の風貌について議論があつたが、ほゞ其とおなじ水掛け論になりさうだ。若いとすれば、旅人と同年位或は、更に年少と言ふことも出來る。是より二十年前、持統三年が、萬葉における人麻呂作物の正確な初見である。さすれば、三十歳を中心として、其より若いか、長じて居たかである。此時二十代にしても、四十代にしても、大して不都合はない。更に二十年前の壬申乱は、十歳或は、はたち代で、知つて居たのかも知れない。さうすると、壬申の功臣柿本朝臣※[獣偏+爰]《サル》とも、さほど年齢において相違がない訣で、同時代に生きて居たことはある訣になる。笠(ノ)金村は霊亀元年、山部赤人は神亀元年の歌を以て、正確な初見の作物とすれば、此二人との間には、どうしても、歿後の十二・三年に、生前の幾年かを加へた距《ヒラ》きがある。其にしても、一つ時代に生きてゐた期間のあつた事は考へられる。
大伴家持すら養老二年生れだから、八年を間にして、生死を隔てゝ居るばかりだ。『未※[しんにょう+至](ラ)2山柿之門(ニ)1』と言ふ歎息を洩したのは、尤である。私案は、山柿を以て、柿本を意味するものとするのであるが、今は其に及ばない。
(484)此頃ならば、既に社會制度が更つて來て、宮廷以外にも亦、勢力家を擁護者として出入りする形式が出来てゐるに係らず、人麻呂には、まだ其らしい事が見えぬ。人麻呂関係の巻九にも、藤原南家・北卿・宇合などの名の見えてゐるに繋らず、何の交渉も窺へぬ。山部赤人には、「詠故太政大臣藤原家之山池歌」、
 いにしへの舊き堤は、年深み〔三字右○〕、池のなぎさに、水《ミ》草生ひにけり
と言ふ、藤原族を讃美した様な作を遺して居る。萬葉集を以てすれば、人麻呂は、単に宮廷詩人たるに止つて、貴族との交渉はないと見られるのである。唯、皇族の爲に代作したと見えるものが多いのは、皆宮廷詩人として、誄詞・宴歌などを命ぜられたものと考へてよいのだ。
萬葉集の記述を以て、萬葉歌人各自の總作物・全生面を見ようとするのは、誤りではあらうが、或は、人麻呂においては、こんな事をも考へてかゝらねば、此人の一代は、自由に考へられぬかも知れぬ。民間における柿本族人としての詞章・詠作以外に、宮廷の命を受けて、召歌《メシウタ》を奉つたに過ぎないと見ることである。一方には、憶良その他がした様に、権門と特殊な交渉を結んで出入りする、と謂つた生活法が行はれて居たと見るべきなのだらう。
かう言ふ風に何處まで行つても、實在の個人柿本人麻呂と、柿本人麻呂を以て呼ばれた、群衆の神伶柿本族人との交錯が、明らかには辨別出來ないのである。其故に、私のこの記述の道も、この通り術環を極めなければならなかつたのである。
 
 
(485) 柿本人麻呂論
      ――人麻呂歌集の側から見て――   【昭和八年十月「短歌研究」第二巻第十號】
 
柿本人麻呂の生活の外輪らしいものは、今年早く、他に記録を作つたことがある。其時に書き残した方面を、こゝに綴つて置かうと思ふ。
私は、これまで度々、赤人について、異論らしいことを言ひ立てゝ來た。最初故らに、異見を立てる様で心苦しかつたが、此頃は、其でも人も認めて下さるやうになつたと思ふ。私としては、其で、反對に益、萬葉的な作家と言ふことによつて、人麻呂の價値を高めて見ることになつて來たのである。ところが此頃、人麻呂にも、傳襲的な見方に叶うた方面があると共に、もつと自由に見直すべき側のあることが、訣つて來た気がし出したのである。其で主として、此両方面について、古代人が見てゐた人麻呂と、其から次代の人々が引き出したらしい新しい人麻呂を考へて見たくなつた訣である。
ある人の作物を論じるのに、必前代の批評の固定から来る概念が、先に立つ。だから、見易い作(486)物の價値すらも、存外抽象的に扱はれ勝ちなのだ。それでまづ、實際の作物をあげて見る。
 
 大船のさもらふ水門《ミナト》。ことしあらば、いづこゆ君が我《ワ》を率《ヰ》凌がむ     (巻七)
 風吹きて海は荒るとも、明日と言はゞ、久しかるべし。君がまに/\              (同)
 秋山のしたびが下に鳴く鳥の 聲だに聞かば、何かなげかむ                  (巻十、秋相聞)
 秋の野の尾花がうれの うちなびき、心は妹によりにけるかも                 (同)
 秋山に霜ふりおほひ、木の葉散り 年は行くとも、我忘れめや                 (同)
 我が袖に霰たばしる。捲き隠し、消たずてあらむ。妹が見む爲                 (巻十、冬雜歌)
 ふる雪の空に 消ぬべく戀ふれども、あふよしもなく 月ぞ経にける              (同、冬相聞)
 いつはしも 戀ひぬ時とはあらねども、夕かたまけて、戀ひはすべなし             (巻十一)
 かくのみし 戀ひしわたれば、たまきはる 命も知らず 年は経につゝ             (同)
 しろたへの 袖をはつ/\見しからに、かゝる戀ひをも 我はするかも             (同)
 故もなく 我が下紐ぞ今解くる。人にな知らせ。直に會ふまでに                (同)
 ちはやぶる 神に所れる命をば 誰がためにか、長く欲《ホ》りする              (同)
 山科《ヤマシナ》の木幡《コハタ》の山に馬はあれど、陸道《カチ》ゆ 我が來《コ》し。汝《ナ》を思ひ難《カ》ね (同)
                  (かちよりぞ來る君を思へば「拾遺」)
(487)殆、古今集「よみ人知らず」其まゝの姿である。単語や、表情の一點を改めれば、古今以後のものとしても、通りさうに思はれる。古今其他の「讀人不知」にも、現に、さうした多くの人麻呂作を載せて居る。現存の柿本集の成立などは、此と一つの事情において考へて見られると思ふ。
 忘るやと 物がたりして、心やり過せど過ぎず。不拘《ナホ》ぞ戀しき        (巻十二、正述心緒)
 夜も寝ず 安くもあらず。白|栲《タヘ》の衣も脱がじ。直《タヾ》に會ふまでに   (同)
 後に會はむ我《ワ》をな戀ひそと 妹は言へど、戀ふる間に、年は経につゝ      (同)
 直に會はずあるほ宜《ウベ》なり。夢にだに 何しか 人の言《コト》の繁けむ    (同)
此等の歌は、殆言語に對する選擇や、整頓のあんばいまでが、平安初期のものと見ても、さしつかへのない感じを持たせる。かう言ふ風に擧げて來ると、際限のない気がする。が尚少し、
 人見れば 表《ウヘ》を結びて、人見ねば下紐あけて、戀ふる日こゝだ        (巻十二、寄物陳思)
 人言の繁けき時に、わぎも子し 衣《キヌ》にありせば、裏《シタ》に着ましを    (同)
 またまつく をちこちかねて思へれば、一重の衣 ひとり着て寝ぬ          (同)
 白栲の わが紐の緒の絶えぬ間を、こひ結びせむ。會はむ日までに          (同)
私は、煩しいまで例を擧げて來たが、此中には、従來の鑑賞法から別にして見ねばならぬと思はれるものを、擇り分けて見たつもりである。
我々が持つてゐる人麻呂集は、二道りある訣であつて、一つは、萬葉集に編入せられた部分、今(488)一つは、後世成書として傳つたものである。特に、後者――柿本集――については、其が頗、人麻呂離れのしたものゝ様に思はれて來てゐる。が、私どもの目からして見れば、果して其ほどの違ひがあるやうにも思はれない。殊に、其が抒情的なものである部分は、驚くほど我々の知識に豫備せられて居る所謂「萬葉ぶり」でなく、又其代表者と言はれる人麻呂風ではない。けれども、これを人麻呂の作物と信じてゐたのが、古代の人々である。であつて見れば、単に、近代の萬葉觀を以て、萬葉集を識別することの誤りであることが思はれねばならぬのである。と同時に、萬葉歌風について、反省を促したい點は、所謂「古今ぶり」なるものが、我々が豫期してゐる以上に、萬葉調を含んでゐることを認めねばならぬと言ふことだ。
譬へば、其戀愛心理を描寫したもの、と言ふよりも寧、懸想人《ケサウビト》の行動――とも言ふべき外的傳習行爲――を寫したものにおいて、其がよく現れて居る。私は、日本の短歌の上に、戀愛心理描寫の最初の人として小町を擧げて居たが、其は既にある程度まで完全に、萬葉集に見える人麻呂集の人麻呂に出てゐたのである。謂はゞ小町の歌なるものは、人麻呂の延長に過ぎなかつたことを、改めて見出した訣である。元々、かうした歌口の發生した原因は、わりあひ明らかに指摘することが出來る様である。咒術の爲の短歌である。咒文である。私は「戀《コヒ》」を以て、「靈《タマ》ごひ」の方式から出て、代を経るに随うて、抽象化して行つたものと信じてゐる。「靈ごひ」の儀靈に用ゐた咒文が、戀歌の内容を作つて行つたと考へるのである。此處には、此方面の説明をくり返してゐる(489)ことの出來ぬのが残念だ。ともかく唱和問答の爲の言語形式であつた短歌が、とりわけ相聞・戀愛の歌に純化して行く過程において、咒術的な内容を含んでゐたことは、明らかである。私どもが前から解決つかずに居たことは、平安朝の歌にある、
 いとせめて 戀しき時は、うばたまの 夜のころもを、かへしてぞ寝る  (古今集、小町)
 思ひあまり 出でにしたまのあるならむ。夜深く見えば、魂結びせよ   (伊勢物語)
かうした例が、何處から出て來たかと言ふことであつた。在來の鑑賞を以てすれば、此をも、やる瀬ない戀愛に住む者の熱情から出たもの、と見る風の癖があつたのである。だが、今日は寧、かうした平叙式なものが、何處に抒情昧を湛へて居るか、を疑はせるに過ぎないのである。私は、これを咒歌と見て居る。尠くとも、短歌の中には、咒歌から、唱和相聞の歌或は、文學としての歌の領域に轉じて來たものがあると思ふのである。さうして、其傾き向のものを追うて見れば、やはり平安朝のものゝ方が、文學昧が深まつて來てゐる。謂はゞ、まるみ〔三字傍線〕としなやかさ〔五字傍線〕とが加つて居ると言へる訣だ。此意味において、小町と、其から一部分の作品から見た業平などは、人麻呂集の歌風の繼承者である。言ひ換へれば、人麻呂の作物と傳へられたものが、平安以前から、特別な姿を以て世間の戀歌に影響を落し、其を次第に文學らしい形に整へて行つたことが知れる訣である。
さう言へば、人麻呂集自身、既に咒歌から一轉化した多くのものを、含んでゐたらしいのである。(490)尤、此は人麻呂に限つたことではなく、他人の多くの作物の中からも、多くの例を引くことは出來るのだが、とりわけ、人麻呂の名で傳へてゐるものには、此痕を顯はに見ることが出來る。 
 巌すら行きとほるべきますら雄〔十四字傍線〕も、戀ちふことは、後悔いにけり          (巻十一、正述心緒)
 日くれなば人知りぬべみ 今日の日の、千年の如くありこせぬかも〔十二字傍線〕         (同)
 戀するに、死にするものにあらませば、我が身は千度死に更《カ》へらまし〔十三字傍線〕     (同)
 玉久世の〔四字傍線〕 清き河原に禊して〔八字傍線〕 いはふ命は、妹がためこそ        (同)
 眉根掻き〔四字傍線〕 嚔《ハナ》ひ紐解け〔五字傍線〕 待てりやも、いつかも見むと思ひし我君《ワギミ》 (同)
 君に戀ひ、うらぶれ居れば、くやしくも わが下紐の〔五字傍線〕 結ふ手たゆしも〔七字傍線〕  (同)
 わぎも子に戀ひすべなけれ。夢に見むと〔五字傍線〕 我は思へど〔五字傍線〕、寝ねられなくに  (同)
 故もなく 我が下紐ぞ今解くる〔九字傍線〕。人にな知らせ。たゞに逢ふまでに          (同)
 戀ふること心やりかね〔十字傍線〕、出で行けば、山も川をも 知らず來にけり          (同)
 水の上にかずかく〔八字傍線〕如きわが命を、妹に逢はむと うけひつるかも           (同、寄物陳思)
 遠づまのふりさけ見つゝしぬぶらむ この月のおもに〔七字傍線〕、雲なたなびき〔六字傍線〕   (同)
 あしびきの 名におふ山菅。押伏せて 君し結ばゞ〔五字傍線〕、逢はざらめやも         (同)
 君來ずば、かたみにせよと 我《ワ》と二人栽ゑし松の木。君を待ち出でね〔七字傍線〕      (同)
 夕されば、床のべさらぬつげ枕〔九字傍線〕。何時しか 汝が主待ち難き             (同)
(491)言靈の 八十のちまたに、夕卜《ユフケ》とふ うら正《マサ》に宣《ノ》れ。妹に逢はむ縁《ヨシ》(同)
 たまぼこの 道行き卜《ウラ》に占へば、妹に逢はむと 我に宜りてき              (同)
 しきたへの 枕動きて夜寝《ヨイ》も寝ず 思ふ人には、後逢ふものを              (同、問答)
 しきたへの 枕に、人はことゝへや、其枕には、苔むしにけり                  (同)
假に、巻十一の分から、手あたり次第に抜いて見た。咒術の方式を叙事的内容としたものか、其が序歌・枕詞に形式化したものでなければ、其を一飛躍して抒情の爲の表象にして了つたものかになつてゐる。その過程の詳しい説明は、一首々々に就いて長い語を要することだから略するが、此とほり筋の明らかなものと、既に痕跡だけとなつたものとがある。
此等の歌について考へられることは、人麻呂の作物と稱せられて來たものゝ中には、「創作以前」の姿を残したものが、極めて多量にあることだ。さうして其が、人麻呂なる名をとほして、新しい力を生じて來たのである。咒術的の利用は勿論行はれて居ると共に、その作者に對する傳統的信用の下に、新しい文學技術として、盛んに襲用せられることになつて行つたことである。
平安抒情詩の新しい姿と思はれる心理描寫の態度が、かうして見ると、人麻呂に、尠くとも人麻呂集から引き出されて來た姿が見える。つまり、實生活を離れた優美、其には、多くの叙景味と譬喩法と表現が、赤人から來てゐる様に、心理的な、さうして社會的習俗をとり容れた様に見えるねばり〔三字傍点〕強い戀歌は、人麻呂から導かれて來てゐるのであつた。
(492)我々は、人麻呂集に収められた歌について、今一度見直す必要があ各。と同時に、萬葉集に於けるすべての人麻呂の作物の上に、此考へ方をおし擴げて見ねばならぬのではないかと思ふ。かう言ふと、或人々は言ふだらう。其は傳説を包含する人麻呂集のものだ。個人の家集そのものが、眞淵以外に支持者の少い説であるとしても、他人の作物をも包むものと言へる。だから其で、眞の人麻呂を論じるのは問題だと言ふであらう。だが全體、萬葉集研究者の目安となつてゐる「古代的であるが故に」「よい作物であるが為に」萬葉的だ、として來た見方は、どうなるであらう。實際はさうした態度は、もう棄てゝよい程、萬葉研究は成長してゐる、と考へてもよいところ迄來てゐる。現に、人麻呂の作として、多くの信頼を繋けられ、又繋けられようとしてゐる、
 穴師川 川波立ちぬ。纏向の齋槻《ユツキ》が岳に、雲居たつらし       (巻七)
 あしびきの 山川の瀬の鳴るなべに、齋槻が岳に 雲立ちわたる        (同)
 ぬばたまの 夜さり來れば、纏向の川音高しも。あらしかも疾き        (同)
 みけむかふ 南淵山の巌には、ふれる斑雪《ハタレ》か、消え残りたる     (巻九)
 つまごもる 矢野の神山。露|霜《ジモ》ににほひそめたり。散らまくをしも  (巻十)
 纏向の檜原も いまだ雲ゐねば、小松が梢《ウレ》ゆ、抹雪ながる       (同)
などの類も、人麻呂集に記録せられてゐるものである。だから、人麻呂の實作と信じられて居るものと、人麻呂作と想像せられて來たものとの隔たりを、も少しとり除けて考へねばならぬ。
(493)巻一から巻四までは、わりに正式らしい編纂態度であることゝ、其に載つた人麻呂作と稱する作物が、古代風であり、佳作である爲に、疑ふことをせないと言ふのは、単に比較上の問題で、全體としては、謂はれのないことゝ思ふ。つまりは、宮廷詩人としての作物が多く出てゐるのだ。私自身度々言つた様に、「宮廷詩人としての人麻呂」であるのだから、その作物は、代作を依嘱した人或は團體の所作と言ふことにも解せられて來てゐる。又、作物の内容が、人麻呂の眞の内的経験の様にも考へられてゐる。又、逆に代作者としての人麻呂の閲歴から、他人の作物を誤り傳へ、又作物が優れてゐると言ふ単純な理由からも、誤認せられて居ることは、もう問題でなく、事実になつて來て居るのだ。
長谷川如是閑さんが、昔から短歌についての理會者・同情者であつたことは、以前から、先輩花田比露思さんからも聞いてゐた。先頃の本誌の上で、「御用詩人柿本人麻呂」なる論文を公にせられてゐるが、其には、歌人から偶像をとりあげようとする成心が、露骨に見えてゐた。私などは、あのやまひづかせる〔七字傍線〕様な語の裏をよく受け取ることが出來たが、人々の中には、其眞意のある所を酌みとることの出來なかつた人も多いと思ふ。如是閑さんは其にしてもあんまり在來の人麻呂に對する鑑賞法を重く見過ぎられてゐた様である。もつと、人麻呂を自由な形に戻して見られねばならない筈だつたと思ふ。代々の耳食者流の積み上げた人麻呂を、あまり考へに置き過ぎて居られたのだと思ふ。 (未完)
 
(494)  山部赤人短歌の批評     ――巻第六 神亀元年「幸2于紀伊國1時」の長歌の反歌――
                   【昭和十二年五月「文學」第五巻第五號】
 
 奥《オキ》つ島 荒磯の玉藻潮干満ち、い隠ろひなば、思ほえむかも  (九一八)
たゞの寄物陳思歌と、見られてもよいところがある。其ほど玉藻と戀愛現とは、もう熱して來てゐたのである。この紀伊行幸とは別時の作で、赤人らしい譬喩歌と見る事が出來る。反歌の成立の歴史から考へても、既製のものをさし入れたことも考へられる。其點で又、古歌と見ることも出來る。唯かうした覊〔馬が奇〕旅作の性質上、「宴會即詠」といふ意味が濃く考へられる。さうすると、長歌及び反歌、
 若の浦に、鹽満ち來れば、潟を無み 葦邊をさして、鶴鳴き渡る  (九一九)
と少し趣きが變つて来る。群座の間に居て、竊かに思ひを寄せてゐる處女の、隠れることを惜しんでゐるのである。上句は所謂序歌。さうした最適切な場合を考へれば、舞のはて方に、舞人の(495)樂屋に這入らうとするのを歎いてゐる――さう言ふ形をとつた褒め詞と見るが、ほんとうだらう。さすれば、下の句殊に四句が、生命を持つて来る。私はやはり「いかくろひなば」(第一)「いかくれゆかば」(第二)と見る。聲調の上から見れば、「いかくろひなば」(第一)、「かくろひゆかば」(第二)、「いかくれゆかば」(第三)になると思ふ。又純粋な叙景詩としても、たま藻は主にはならない。「奥つ島」が隠れ行くのを惜しんでゐるのだと見る。其意義において、宴席即興などいふ事情を考へないでも、獨立の價値を持つものとなる。