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来迎図流転の関連年表


メイリングリストhinet-ml@egroupsで、 Mさんが来迎図流転に関する仮説を提示されました。 その仮説を理解するために、 関連事項の年表を作ってみました。

Mさんの了承を得ましたので、ここに掲載します。

掲載までの経緯についてはhinet-mlを、 Mさんの仮説についてはMさんのHP「阿弥陀来迎図流転の謎」をご参照ください。

時期史実来迎図関連Mさんの仮説
以前
伝「恵心僧都廿四歳真筆」。
12世紀後半の作と鑑定
安楽谷の勅封蔵に保管、年に一度勅使が来て開帳、参観人で賑わう

1509 永正6
「安楽谷本尊恵心僧都筆来迎阿弥陀廿五菩薩像三幅自御所可拝見之由被仰下之」実隆公記
1566 永禄9前久徳川改姓等を斡旋

1571 元亀2織田軍比叡山焼討ち 「然るに元亀二歳九月山上山下破滅の刻武勇逆徒の手に奪われたが、 」 (1)比叡山からの本図の持ち出しは極秘に行なわれた緊急避難であった。
(1)佐久間信盛部隊が僧と来迎図を捕え見逃した。
(1)伊賀甲賀衆が僧と来迎図を某所に隠した。
(1)某所は伊賀か伊勢の皇室所縁の寺院と推定する。
(7)僧は尊秀である。
(7)武勇逆徒は織田軍である。
1579 天正7 前久信長から二条に居宅

1580 天正8信長佐久間信盛父子を追放

1582 天正10 信盛十津川で病死(1581説あり)
信長本能寺で自殺、 前久剃髪し徳川を頼る、広孝と会う


1584 天正12秀吉が天皇に奏上して比叡山再興政策を打ち出す
(1)本図を一時保管していた寺院は比叡山に本図をもどすことを希望し、 本図につきそった僧はこれに反対した。
(2)本図を避難させた伊賀・甲賀衆は 処理に困って徳川家に返還問題をもちこんだ。
秀吉軍徳川軍小牧長久手で戦
戦後、家康次男秀康が秀吉の養子となり大阪城に入る

(2)戦後徳川家は本多広孝に返還問題を秀吉側と交渉するよう命じた。 以降、非公式に交渉が行なわれた。
1585 天正13秀吉軍紀州根来寺を焼討ち 、応其が使者
秀吉高野山を凋落。高野山金堂再建のため米一万石を寄進
秀吉前久の養子になり関白になる
家康の重臣石川数正の出奔

(7)この頃徳川方の情報はすべて秀吉に筒抜けになった
1586 天正14秀吉方広寺(天台宗)を創建
家康秀吉の妹旭姫と結婚
秀吉の母大政所三河岡崎城に入る
家康大坂城で秀吉と会見、臣下の礼

(7)この頃本図の帰属をめぐる秀吉と家康の話し合いがあった
(7)本図の帰属をめぐる処理が徳川方から秀吉方に移ったことは確か
(7)本来迎図も家康が秀吉に臣従した証としての役割を担わされた可能性あり
1587 天正15秀吉九州遠征、応其島津に使者
来迎図の修復完了。 「再び仏家末山に集まった。 今この尊容に遇えるのは喜ばしい。 そこで諸人の寸志を募り、 表具を荘厳にした。」
(付記)「本多右兵衛佐藤原広孝逆修入之」
(2)末山への納入は秀吉と徳川の交渉の結果。
(2)末山は書写山円教寺。
(3)応其は九州遠征時に秀吉か広孝から来迎図の事を聞いた。
(7)書写山円教寺は本図の新しい帰属の候補の一つ
(7)本来迎図が伊賀・伊勢に留まった可能性もある
1590 天正18応其興山寺を創建。秀吉勅額を贈与。
天正?年秀吉が天皇の許可を取り東寺から「五大力尊影」を興山寺に収めた
旭姫聚楽第で死去
広孝京都へ行く

(E)広孝入洛は旭姫の弔問のためか?
(E)このとき広孝は旧知の近衛前久を訪問していると思う
(E)本図に関する何事かを前久に語った可能性がある
1591 天正19秀吉高野山を検地
(3)応其学侶らと対立。このころから新寺院、宝物を欲する。
1592 天正20文禄1秀吉の母死去

1593 文禄2秀吉高野山青巌寺を建立
応其アレンジする


1594 文禄3青巌寺落慶の法要。 近衛前久出席政遍の願文「無量寿仏加廿五菩薩...本聞叡山霊宝畢」 (3)この無量寿仏は来迎図である。 これ以前に応其が秀吉に要請した。
1600 慶長5関が原の戦い。西軍に味方か?応其飯道寺に隠退

1608 慶長13応其飯道寺で死去


2003/07

(c)2003-2004 吉之助

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