『罪とは?』



罪?

聖書にはキリストは私達の罪のために十字架にかかられたとあります。聖書で言われている罪とはいったいどんなものなのでしょうか?




法律に触れることや道徳的に正しくないこと?

罪という言葉を辞書で調べると「法にそむいた行い。」「悪いこと。あやまち。」とあります。それなら自分は該当しないと思われる方もいらっしゃるかもしれません。悪いことを全然しないとは言えないけど、人様に迷惑をかけるようなことはしていないと思われる方もいらっしゃるでしょう。聖書がいうところの罪がそのような意味ならば、聖書のメッセージは万人に必要ではないものとなるでしょう。必要な人だけが聞けばいいということになります。
しかし聖書ではキリストが私達の罪のために死んだというメッセージは万人に伝えられるべきものとして語られているのです。




聖書の語る罪とは

では時代・文化・民族を超えてすべての人に共通する罪など存在するのでしょうか?それには聖書の言うところの罪の意味を確認しなければなりません。
聖書で言う罪にはもちろん法律に触れるようなこと、道徳的に良くないことなども含まれます。しかしそれは幹から出ている枝葉であるのです。では幹に当たる部分、聖書が罪の本質として語っているものとは何なのでしょうか?

聖書は66の本が1冊にまとめられたものですが、一番最初の本は創世記という本です。ここには天地創造の話から始まり、人間の歴史の始まりが記録されています。最初に作られた男はアダムで、女はエバでした。2人はエデンの園で何不自由なく暮らしていました。また創造主なる神とも顔と顔を合わせて親しく付き合うことが許されていました。
エデンの園には1つのルールがありました。それはある一本の木から生る木の実を取って食べてはならないというルールでした。それは創造主なる神が人間に与えた唯一のルールでした。それは守ることが非常に難しいというようなものではありませんでした。むしろそれ以外何の制限もなかったということに神の人に対する信頼があるとも言えるでしょう。
しかしアダムとエバは創造主の言葉にそむき、食べてはいけないと言われていた木の実から食べたのです。その木の名は「善悪の知識の木」でした。

この出来事は何を私達に教えているのでしょうか?それは善悪の基準・判断は人のするべきことではなく、神のことであるということです。しかし人は何が正しくて、何が悪いかは神に決められたくない、自分で判断したいと考え、食べてはいけないと命じられていた木の実を食べたのです。自分の行動の基準は自分である、自分の人生に神に介入して欲しくない、自分の都合のいいときだけ神の力を借りたいが、最終的な判断は自分でしたいと願ったのです。
私の人生に神は必要ない。神の意見も参考にするけれど何が良いか悪いかは自分が決める。自分のすることは自分で決める。私は自分のしたいようにして何がいけない。自分の人生に神に介入して欲しくない、関わって欲しくない。神がいるなら必要な時には助けて欲しいけれど最終的な権利は私にある。つまり神より自分を中心とする考え、生き方、これを聖書は罪と言うのです。あなたもそう思いませんか?もしそう思うならあなたも罪人ということになります。



罪人の世界

聖書は人間は罪の奴隷だと語ります。つまり誰もが自分中心に考えるものだということです。そしてその人間が構成しているのが人間社会なのです。ですからどんなにひどい事件や戦争などが起こってもそれはある意味当然起こるべくして起こったといえるでしょう。
神は何をしているのだ?神がいるならどうしてこんなことが起こるのだ?ということを聞きますが、神の介入を拒んでいるのは人の方なのです。有限の人が無限の創造主を拒否しているのです。

しかし神はただ黙っておられたのではありません。罪の奴隷となり神を拒否し、自分を中心に生きるようになり、罪の結果である様々な結果と死に苦しむ人々を見捨てられることはなさらなかったのです。そのためにこの世界に介入し、罪の問題を解決し、神と和解する道をつくるためにイエス・キリストが人となり、十字架で死なれ、復活されたのです。

あるクリスチャンの方がこう言われていました。非常にわかりやすいと思ったので最後にご紹介しましょう。
「自分中心に生きてきたときには、いつも上手く行かず、不平と不満の中に生きていた。しかしそれは当然だった。世界は私を中心に回ってはいないのだから。しかし神を中心として生きるようになると、どんな時でも希望を持ち、感謝ができるようになった。なぜなら世界は神を中心として回っているから。」