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企画特集

【平和憲法をみつめて】

上 13条・個人の尊重

中 前文・国民主権

下 9条・戦争の放棄


13条・個人の尊重

2010年05月01日

米軍基地関係の裁判に長年携わった弁護士の大倉忠夫さん。故郷の喜界島で今も月に1度法律相談に応じている

 【13条・個人の尊重】 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

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 「北沢防衛大臣は、普天間飛行場の機能を徳之島に移す案について……」。4月20日夕、横須賀市郊外の団地。抑制した声で読み上げるラジオニュースが流れる。

 2日前、米軍基地の移設反対を訴える集会が開かれていた。「徳之島、と聞こえると、集中できないから」。基地関係の訴訟に携わってきた弁護士の大倉忠夫さん(78)は取材を遮り、そっとボリュームを下げた。

 「日本が『戦わない』という意思をもっても、米軍基地はコントロールできない。そもそも平和憲法の精神に反している。米軍を忖度(そんたく)して逆らわないというやり方は、もう終わりにすべきだ」

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 徳之島から北東に約100キロ。同じ奄美群島の喜界島(鹿児島県)出身だ。

 戦時中、特攻隊が出撃した飛行場が自宅そばにあった。米軍の空爆で集落ごと吹き飛び、墓跡の洞穴に身を潜めた。「国のために死ぬのが一番尊い」と信じ、年長の特攻隊員に畏怖(いふ)を覚えた。

 14歳で終戦。しかし、新しく生まれた日本国憲法を読むことはできなかった。奄美は米軍政下に置かれ、自由な渡航や書籍の持ち込みを禁じられた。

 1949年に高校に進み、授業で初めて先生から憲法の内容を聞いた。「すべて国民は、個人として尊重される」。戦時中と相反する理念に心が震えた。これが13条と知ったのはずっと後のことだ。

 祖国復帰を求める抗議集会が各地で開かれ、大倉さんはマハトマ・ガンジーに倣い、友人とハンガーストライキをした。サトウキビ畑で作業をしていた姉に笑われた。2日でやめるまでの空腹感を今も覚えている。

 「米軍の奄美支配は国際法上許されるのか」。奨学生に選ばれ、法律を学ぼうと53年の復帰を待たずに本土へ「留学」。横浜などで働きながら独学で弁護士に。移り住んだ横須賀で、運命に導かれるように米海軍基地の日本人従業員組合の顧問になった。

 「米軍といえども非があればどんどん言う。対等という意識を持ち続けるべきだ」。30年にわたり米軍人の犯罪や日本人従業員の労使問題と向き合う中で抱き続けたのは、米軍政下での記憶だった。

 80年代前半、ライシャワー元駐日大使証言などで米艦船の核搭載疑惑が浮上した。大倉さんは84年末、元県議の本多七郎さん(87)を原告とする弁護団に加わり、国を相手に核搭載艦船の横須賀入港の差し止め訴訟を起こした。

 「憲法が保障する生命、身体及び財産の安全が脅かされている」として非核三原則の順守を訴えた。支えとしたのは、あのとき出会った憲法13条だった。

 2年10カ月にわたる審理の末の判決は門前払いだった。

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 あれから23年。今年3月、大倉さんは古い訴訟資料を押し入れから探し出し、読み返してみた。

 岡田克也外相は日米間の密約の調査結果を公表した。裁判で追及し、政府が否定し続けてきた核搭載艦の寄港。政府は「無かったとは言い切れない」とあっさり従来の見解を覆した。

 「今さら、なんだ。そんなうそ、見抜いていた」。日本政府は米国を説得したわけではなく、米国の核戦略が変わったから「核を積んだ船は今後、寄港しない」と言ったに過ぎない。「『平和憲法を持っているから』といまだに自信をもって米国に言えないのか」と怒りがこみ上げる。

 一線を退き、仲間が世を去っても、思いは変わらない。

 「人々が声をあげて争わなければ、裁判所は違憲、合憲を判断しない。国や権力者と対立しても、勇気をもって信念を貫かなければ。憲法を守るのは国民自身なんです」

       ◇

 日本国憲法施行から3日で63年。9条だけでなく、人々は憲法の随所に、平和への誓いを読み取る。その理念を行動に移す人たちを訪ねた。

(この連載は川上裕央が担当します)



前文・国民主権

2010年05月02日

米国の情報公開制度を利用して在日米軍のあり方を追及する吉田遼さん。取り寄せた資料には黒塗りの部分もある

 【前文・国民主権】 (一部抜粋) 日本国民は、(中略)政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。

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 一橋大大学院生の吉田遼さん(28)には、祖父ほども年の離れた梅林宏道さん(72)=横浜市港北区=との「ホットライン」がある。

 4月24日、吉田さんが電話で切り出した話題は、米海軍省から届いた1通の手紙。海軍と海兵隊の関係者が米国外で起こした事件リストの説明文だ。横須賀や厚木といった基地周辺でどんな事件が何件起きているかを調べようと、吉田さんが米国の情報公開制度を通じて請求した。

 「これだと、もう一度、海軍に問い合わせた方がいいな」。梅林さんのアドバイスは、短いがいつも的確だ。

 2008年6月、情報公開の手法を学び、在日米軍のあり方を追及する「さい塾」をともに立ち上げた。

 2人を結びつけるのは憲法だ。「軍事分野であっても、市民自らが情報を得て判断できるようになるべきだ。安全保障のイメージを、軍隊主導ではなく国民がつくりあげること。それが真の国民主権」

 「先生役」の梅林さんの思いを、吉田さんは受け継ごうとしている。

     ■   ■

 吉田さんの大学時代、同時多発テロが起き、アフガニスタンやイラクで戦火が相次いだ。「前の世代は冷戦が終わって安心したかもしれない。でも、世界は今も平和になっていない」。若者が平和問題を考える場を提供しようと、仲間とグループを作った。

 シュプレヒコールやデモ、フォークソングの替え歌の既存の平和運動には「世代間ギャップ」を感じ、違和感があった。2007年5月、当時の安倍政権下で憲法改正の手続きを定めた国民投票法が成立。同月、東京・下北沢で若者向けのイベントを主催した。

 「憲法X条〜若者のリアルのかたち〜」と題し、訪れた50人に日常で感じる社会への率直な不満や怒りを付箋(ふせん)に書いてもらう。「休みが欲しい」「給料上げろ」「差別なくせ」。一つ一つが憲法の条文と呼応していた。「結構いいこと書いてある」「実生活こそ憲法と乖離(かいり)している」。憲法をリアルに感じてもらおうという目的は達成した。

 それでも、吉田さんたちには「もっと広く社会に具体的な影響を与えられないか」との思いが消えなかった。

     ■   ■

 梅林さんは1970年代前半、米陸軍相模総合補給廠(しょう)(相模原市)からベトナムへの戦車の搬出に反対する運動に参加。80年代後半から米政府への情報公開請求を手がけ始めた。在日米軍基地についての本を書き上げ、第一人者となった。

 そんな梅林さんに、吉田さんは07年12月、シンポジウムの講師を依頼した。自らの経験やノウハウを伝える場を作りたいと考えていた梅林さんは、逆に提案した。「情報公開に慣れ、情報の引き出しを持つ人がもっとたくさん欲しい」。さい塾はこうして生まれた。

 塾では今、大学生や弁護士ら30人以上が自分のテーマで公開請求を続け、勉強会やメーリングリストで情報交換している。学生が米海軍佐世保基地の弾薬不法投棄や沖縄中部訓練場の原野火災の文書を入手し、調査結果を公表するなど、成果をあげつつある。

 作業は地道だ。回答が何カ月も来なかったり、時に米政府に異議を申し立てたり。資料を何百枚もかき集める。

 吉田さんは語った。「抽象論、感情論で戦争反対を掲げるだけでなく、どうやって平和をつくるのか、やっと具体的な方法が見つかった。憲法が現実と乖離(かいり)しているなら、現実を憲法に合わせたい」

 そして、力を込める。「梅林さんの精神を引き継ぐのは、僕らの世代の役割です」



9条・戦争の放棄

2009年05月05日

06年7月の憲法連続講座で講演した井上ひさしさん=鎌倉市、鎌倉・九条の会提供

 【9条・戦争の放棄】 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又(また)は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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 4月19日夜、鎌倉市の生涯学習センターの一室に明かりがともった。9日に作家の井上ひさしさんが亡くなり、初めて開かれた「鎌倉・九条の会」のスタッフ会議だ。

 約20人がラジカセに向き合った。井上さんと同じく呼びかけ人の経済評論家・内橋克人さんが語った、追悼ラジオ番組の録音が流れる。

 「ポッカリと心に空洞が空いたままで涙が止まらない」と切り出し、会のこと、平和のこと、小説のこと。最後に、井上さんが色紙によく書いた座右の銘を紹介した。

 「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく」

 その言葉に励まされるように、明るい空気がスタッフを包んだ。黙祷(もく・とう)の代わりに、誓った。「9条を守る遺志を継いでいこう」

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 井上さんの言葉の種子が、平和憲法への思いを継ぐ人たちの心の中で芽吹いている。

 「丸腰の強さ」。厚木市の村井三義さん(69)は、2005年に横浜市の講演で聞いた言葉を忘れない。第二次世界大戦でナチスドイツの侵攻に「無防備都市宣言」したパリが無抵抗で戦火を免れた例を挙げ、「軍隊は国民を守らない」と断じた。村井さんも「最後の最後には戦わないことが勝つ」と信じるようになった。

 村井さんには視覚障害がある。障害者の自立支援の仕事をする中で、「戦争になれば障害者が真っ先に粗末に扱われる恐れがある。生活も権利も平和でなければ成り立たない」と考えるようになった。

 「県内の視覚障害者で九条の会を作りたい」と友人らに声をかけると、37人が呼びかけ人になった。今月5日に開く結成大会で、村井さんは井上さんに哀悼の意を表するつもりだ。「『むずかしいことをやさしく』を合言葉に、これからやっていきたい」

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 鎌倉・九条の会メンバーの市川元夫さん(76)は、井上さんが憲法を取り巻く言論環境を「つるつる言葉」と呼んだことを覚えている。

 「国益」や「国防」のように政治が戦争を正当化するために使う「ぴかぴか光っているけれど意味は何もない」言葉。井上さんは「『平和』自体が実はつるつる言葉になっていないか」と戒めた。井上さんにとって平和とは「きのうときょうとあしたが続いていて多少見通しがつくこと」であり、「だれかの命令で人を殺しに行く、殺されにいくことのないようにすること」だ。

 市川さんは思う。「私たち一人一人が日常で出会う人たちとつき合う中で、憲法との向き合い方を試されている」

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 昨年5月、同会のイベントはトラブル続きだった。ゲストの到着が遅れ、マイクも故障した。舞台に上がった井上さんは「どーも」と頭を下げ、何も言わずマイクを換えた。会場は大笑いだった。

 それが、井上さんが会の催しに顔を出した最後となった。

 「井上さんのように、多くの人に共感してもらえるよう活動を続けたい」と事務局の郡司春乃さん(75)は話す。

 そして同会は、憲法改正手続きを定める国民投票法が今月18日に施行される前夜17日に、講演会を開く。

 「ある日一斉に手をつないで立ち上がる時が、来なければいいが、来るかもしれません」。会が発足した5年前の講演を、井上さんはこう締めくくっていた。

 憲法改正が衆参議院3分の2以上の賛成で発議されたとき、国民が力を合わせて動きを止めてほしい――。それでも、井上さんに力みはなかった。「これから明るく、楽しく、面白く、憲法を考えながら、ことが有ったときは、『いざ鎌倉』という言葉もあるくらいで。暗くなく頑張りましょう」