ホーム中世末期の帝国騎士 − フランツ・フォン・ジッキンゲン

フランツ・フォン・ジッキンゲン

Franz von Sickingen(1481〜1523)

 「弱きを助け、強きを挫く」というイメージがあり、帝国騎士の親分的存在だった人物です。フルンツベルク同様に傭兵隊長としても成功し、その権力を使ってフェーデを行い、諸侯たちを震撼させました。しかし調子に乗りすぎて、坊主退治(騎士戦争)を起こし、諸侯たちから袋叩きに遭い、敗死しました。


 フランツ・フォン・ジッキンゲンは、1481年にライン地方に近いエーベルンブルク城で生まれました。ジッキンゲン家はプファルツ選帝侯に仕えており、他の帝国騎士よりも僅かながら余分の領地を持っていました(それでも貧乏でしたが)。フランツは家督を相続すると、積極的な領地経営に乗り出し、鉱山開発に成功してかなり裕福になりました。彼は得た金で自分の居城を改築し、兵備を整え、1515年頃から盛んに都市や諸侯に対してフェーデを行うようになります。このフェーデは「弱者に代わって義を通す」という名目で行われ、ジッキンゲンはヴォルムスなどの帝国都市やロートリンゲン公やヘッセン方伯など「強者」に対して果敢に挑み、見事に和解金をまき上げたので、一般民衆は彼に喝采しました。ジッキンゲンもこれらのフェーデによってますます豊かになり、さらに強力な兵力を整え、次のフェーデに備えました。マクシミリアン皇帝はヴォルムスに対するフェーデに立腹してジッキンゲンを帝国追放にしますが、フランス王フランソワ一世が彼を庇い、彼をフランス側に取り込もうとしたので、皇帝はすぐに彼と和解します。

 マクシミリアン皇帝が崩御すると、ジッキンゲンはフルンツベルクカジミール・ツー・アンスバッハと共にカール五世の皇帝選出を支援しました。この功績によりジッキンゲンは皇帝の顧問になり、ますます諸侯を相手に堂々と振る舞います。

 やがてジッキンゲンは、1519年のヴュルテンベルク公ウルリヒに対する戦争にシュヴァーベン同盟側で従軍し、そこでウルリヒ・フォン・フッテンと知り合います。ジッキンゲンがどの程度フッテンの説に共鳴していたかは疑問ですが、それ以降、ジッキンゲンはルターを自分の城に招待して守ろうとしたり、ロイヒリンのような新教的な人文主義者を庇ってフェーデを行ったり、追放されたルター派の司祭を召し抱えたり、新教側として活動します。こうしてジッキンゲンは思想的にも実力的にもシュヴァーベン・フランケン地方の帝国騎士たちの首領になり、諸侯や司教に対抗できる勢力を誇りました。

 そして1522年にはトリーア選帝侯(大司教)に対してフェーデを宣告し、「坊主退治」(騎士戦争)を開始しました。ジッキンゲンは数千の軍勢を集めてトリーアを本格的に攻囲しました。しかし、トリーア選帝侯リヒャルトも頑強な人物で攻囲に屈せず、また諸侯の対応もすばやく、プファルツ選帝侯とヘッセン方伯フィリップが直ちに軍勢を集めて対抗したため、ジッキンゲンはトリーア攻囲をあきらめて、逆に居城のラントシュトゥール城に籠城するはめになります。ラントシュトゥール城は、トリーア、プファルツ、ヘッセンの軍勢に包囲され、数日間の攻囲戦の後、ジッキンゲンは負傷して降伏を申し入れ、降伏の日に傷が元で亡くなりました。

 ジッキンゲンは帝国騎士を糾合して諸侯や司教たちを廃し、皇帝と騎士による帝国改造を目指しました。もちろん、それは時代錯誤として潰されましたが、ジッキンゲンの名前は後世まで語り継がれることになりました。ジッキンゲンの死によって帝国騎士の活動も終わります。


Kampfgruppe Tazipie