AOS


オースティン・オスマン・スペア、1886年12月30日、午前4時4分に生まれる。
父、フィリップ・ニュートン・スペア。
母、イライザ・オスマン・スペア。

スペア家には全部で五人の子供がおり、オースティンはその四番目である。
長男、ジョン・ニュートン・スペア。
次男、ウィリアム・ハーバート・スペア。
長女、スージー・アン・スペア。
妹、エレン・ヴィクトリア・スペア。

Austin Osman Spare-自らをZosと称した芸術家にしてオカルティスト。日本語の仮名表記ではオースティン・オスマン・スペアであるが、ゲイヴィン・センプル著、『フランク・レッチフォードの探求』によると、スペアの最初の伝記を記したフランク・レッチフォードは、芸術家の名を「オースティン/Ostin」では無く、「アウィースティン/Awe-stin」と発音していたと云う。スペア自身も、また同様に発音していたとレッチフォードは語る。
だが、正確な発音は兎も角、ここでは「オースティン」と表記する事にしよう。

貧しい家庭にあって、僅か十三歳でステンドグラス職人の見習いとなる。少年スペアは働きながら夜学に通い、ランベスの学校で美術を学ぶ。そして、才能を認められ、奨学金を得て、後にケンジントン王立美術学校に入学。
学生時代に頭角を現したスペアは、若くして名声を得て、イラストレーターとして自立の道を選び、学校を中途退学してしまう。
スペアの近所には、開業医の妻であるイェルグ・パターソンなる、魔女を自称する女性が住んでいたと云う。このパターソン婦人なる女性は、幼いスペアにとって、第二の母と呼ぶべき敬愛する存在であった。スペアは実の母親とはそりが合わず、余り可愛がられた息子では無かった様であった。生涯に渡るスペアのオカルト嗜好は、生まれながらの霊媒体質もさることながら、このパターソン婦人との出会いによるものが大であると云っても過言では無かろう。
貧しい境遇に生まれ育ったスペアであるが、美術の才能を見出されて、人生の出だしは好調であった。
スペアの友人であり、コレクターであり、パトロンでもあったフランク・レッチフォードの回想によれば、「年若いスペアはとてもシャイで、名声を得た時、ワインの事を何も知らず、馬やオートクチュールの高価な衣装にも、投資や株に関しても関心を持たず、ただ芸術とオカルトにだけ長じていた」そうである。
レッチフォードは、世間を知らないスペアを、純朴な少年だったと書き記しているのだが、晩年のスペアがケネス・グラントに語った話では、スペアは十三歳にして年上の女を妊娠させてしまい、幸い流産だったので、扶養の義務を免れたと告白している。初な少年でも、性欲は旺盛だったと云う事だろうか。

Austin Osman SpareはそのイニシャルであるAOSを捩って、Artist(芸術家)Occultist(オカルト主義者)Sensualist(快楽主義者)と呼ばれ、それがスペアに関する書物のサブタイトルにもなっているが、確かにそれは、スペアの生涯を端的に示していると思う。

また、グラントによると、若きスペアは、ある夜、泥酔状態で帰宅して、そのままベッドに倒れ込んだと云う。ベッドには剃刀が落ちていたのだが、スペアはそれに気付かずに、泥のように眠り込んでしまった。午後になって目覚めると、股間がぐっしょり濡れている事に気付き、手で探ると、ベッドは血の海だった。そうと知らずにもぐり込んだベッドの中に潜んでいた剃刀が、スペアの陰嚢を切り裂いて、周囲を血に染めていたのだったと云う。

かなりやんちゃな子供だったのだろうか。労働者階級の子供らしい、命知らずの武勇伝の数々を、スペアも経験したのだと思われる。
貧民街に生まれ、生涯を通して贅沢とは無縁であったスペア。恐らくは、フィッシュ・アンド・チップスを頬張り、労働者に紛れて安ビールやらビターをパイント単位で買い、ちびちび飲みながら、ささやかな満足の笑みを浮かべていたのだろう。
成長したスペアは、サウスウォーク界隈をこよなく愛し、レッチフォードを古風なパブに案内したと云う。そこでスペアは絵のモデルを探した。安酒場こそが、スペアの生きる世界であった。
スペアに導かれ、レッチフォードはビールを嗜み、シェリーが大のお気に入りになったそうである。スペアの好みは何だったのだろう?クロウリーの様に、高価なワインを暴飲する事も、アブサン酒に溺れる事も無く、スペアは恐らく、ポケットから取り出したペニー硬貨をカウンターに広げて数え、それでも破れたジャケットを誇らしく着こなし、気高く安酒場の夜を大いに満喫したであろう。

Zos Kia Cultus

オースティン・オスマン・スペアは、伝統的な魔術-オカルトの流れに属さない、独創的なゾス・キア・カルタスなる妖術を考案した、孤高の神秘家だと見なされる事が屡々である。
ゾス、キア、(zos,kia)とはスペアの造語で、ゾスは統一体としての肉体、キアは遍在する様に感じられる、無限の自己を意味すると云う。
だが、zosは明らかにウィリアム・ブレイクのzoasからの剽窃だと思われるし、kiaもエジプト神話の神であるchiaから流用したものであろう。スペアとブレイクの類似は、疑いようも無い事実であり、スペア自身、ブレイクから多大な影響を受けたことを認めている。
そして、スペアは、グラントの「最も素晴らしい本は何ですか?」との質問に、ウォーリスバッジ訳、『エジプト死者の書』だと答えている。 勿論、ゾスやキアが、他者からの剽窃であったとしても、スペアの独自性が損なわれる訳では無い。

zos-kia、zod-kiasなど、この不思議な観念を、スペアは1905年に自費出版した処女作、『地上の地獄』で既に書き記している。
だから、ゾスやキアは、スペアのオカルト思想と切り離すことの出来ない観念だと見なして良かろう。
しかし、ゾス・キア・カルタスはどうだろう?
問題は「カルタス(cultus)」である。ケネス・グラントに出会う以前、スペアは一度として、ゾスキアを「カルタス」と結びつけてはいない。
どうもこれは、クトゥルーがラヴクラフトの創案であるのに対して、クトゥルー神話が、オーガスト・ダーレスの手による体系化であることに似ている気がする。
ゾス、キアの観念を用いて、独自の妖術を展開したスペアは、クロウリーと決別して以来、他の魔法団体には属さず、ひたむきに孤高の道を歩んできた。
晩年になって、若きケネス・グラントが老スペアと親睦を深めた後に、グラントの提言によって、ゾス・キア・カルタスの体系化が生まれたのではあるまいか。
屡々目にする、「ゾスキア崇拝(カルタス)とは・・・云々」の解説を見掛ける度に、どうも釈然としない思いを感じるのだ。「ゾス・キア・カルタス」は、ケネス・グラントによる体系化、そして拡大解釈の産物に思えてならないのだ。
スペアは独自に、ゾス、キア、そして輪廻転生しながら異能を蓄積し、現世においてその能力を活用する「先祖返りの復活」を主張していた。統一体としての肉体を純化し、ゾスの名の下に欲望を極め、キアと云う絶対的な自己愛の精神によって、あらゆる矛盾を克服して真実に到達する神秘の哲学を説いた。 その手段として、聖なるアルファベット、欲望のアルファベット、潜在意識に作用する(とスペアが主張する)手段を用い、「死の姿勢」と名付けられた瞑想の実践により、超越状態へと没入せよと主張した。
それを包括して、「ゾスキア崇拝」と呼ぶのは、構わないのだが、どうも本来のスペアの観念と離れて、「カルタス」は、混沌魔術と云う些か稚拙な概念へと還元されてしまう誤解を生じる危惧を感じてしまう。

スペアを、その草分け的存在と持ち上げる混沌魔術。
けれど、それは結局、スペアを曲解した、オカルトにかぶれたラヴクラフト愛読家達のの同人誌的な空想の産物だと思う。
いくら無意識的なイメージが魔術的想像力と結び付くと力説したところで、ラヴクラフトは作家であり、オカルトをきっぱり否定した小説家なのだ。
オカルト的に解釈して、その作品をいくら「魔導書」に祭り上げようとも、どだい無理な注文と云うものであろう。そこで持ち出されるのが、理論的な根拠、つまりオカルト的な整合性である。
実在しない『ネクロノミコン』を、それでも欲する願望が妄想化したもの。ゾス・キア・カルタス、『快楽の書』、欲望のアルファベット、古の幻視・・・一見、如何にもそれらしいイメージを喚起するスペアの妖術。混沌魔術の草分けとして、スペアを持ち出したくなる気持ちも、理解は出来る。だが、願望の我田引水を取り払ってみれば、スペアとラヴクラフトの間に、共通点などほとんどありはしない。
イギリス産スペアの妖術は、アメリカに渡り、結局のところ、ゲイヴィン・センプル云うところの、「Tシャツに93とプリントし、魔印のマグカップを作るポップ・カルチャー」と化してしまった。それが、混沌魔術なるものの本質である様な気がしてならない。

まあ、苦言は程程にしておこう。

Drawings

スペアは「デューラーの手、ダンテの目」を持つ芸術家だと称讃される天才であったのだが、濃厚なオカルト嗜好と奇っ怪なヴィジョンを好んで描く故に、反発を招くことも屡々であった。

C.S.ルイスは日記に書いている。
「チャンドリーの所で、緻密に描かれた線画の本を見たのだが、オースティン・オズモンド、スペアなる者の手による作品で、グロテスクで汚らわしく、実に不自然であった。作風はビアズリーを思わせる」
ルイスはAustin Osmand Spareと綴りを間違えている。
また、『チャタレイ夫人の恋人』で知られるD.H.ロレンスは、コリンズ宛の手紙に、以下の様な事を書いている。
「君にFormを返送するよ[・・・]僕は線画には大して興味が無いんだ。馬鹿げているし、お笑いぐさにしか思えない。余程の愚か者か、衒いでもなければ、緻密に描き込むことなんて、出来はしないからね」
Formはスペアが編集に携わった文芸雑誌で、ロレンスが貶す線画とは、恐らくスペアの木版画であろう。

スペアの芸術は、超現実と云うよりも現実の背後にある原型的な世界を描いたものである様に思われる。スペアの死を伝えたイギリスの新聞は、スペアを「シュールレアリズムの父」と呼んだ。
スペア自身は、シュールレアリズムに対して、一歩退いた見方をしていた様である。どちらかと云えば批判的で、スペアの最初の伝記である『ティーカップの中のミケランジェロ』でフランク・レッチフォードは、現代美術の専門書を見ては、「私の方がピカソよりずっと上手くやれるのになぁ」と呟くスペアの姿を回想している。
ケネス・グラントは、スペアがサルバドール・ダリをとても嫌っていた事を回想する。

ルイスが指摘する通り、一見すると、スペアの絵はビアズリーの作風に似ている。緻密に描かれた白と黒の線画は、幻想的でありながら、とてもリアルだ。
だが、ビアズリーは最初から最後まで画家として描いており、オカルトや神秘主義に関して、全くの無関心を貫き通しているのに対して、スペアの芸術はオカルトと不可分に結びついている。スペアは心の深部から抑えようもなく吹き出してくる想念を、神秘的な情熱に任せて描き、最終的に、画家として作品に仕上げている様に思われる。スペアのペンは不可視なるものに形を与えて、あたかも現世に受肉させているかの様だ。特に、スペアが「自動描画」と呼ぶトランス状態で描く絵には、その特徴が顕著に表れている。スペア自身、「死せる画家達が、自分に描かせている」のだと信じていた。
W.B.イェーツからオカルト的なシンボルや、魔術的イメージを抜き取ったとしたら、いったいどうだろう。それでも、詩人の作品は天才足りうる芸術と見なされるだろうか?同様に、スペアの作品から、オカルトに由来するイメージを取り除いてしまったら、果たしてそれは最早、スペアの作品と呼びうるものだろうか?

死の観念によって、生まれる前の世界と、死んだ後の世界が結ばれて、生の一瞬の煌めき、肉体から物質性を引き剥がす性的な快楽の極みで、全てを俯瞰するスペアの神秘的な世界。
スペアの描くエクスタシーは、まるで騒がしい沈黙の様だ。果てしなく広がる空虚にあって、何やら形にならぬものが蠢いている。剥き出しの臓器から手や足や翼、尻尾の生えた人にも鳥にも魚にもなり得ぬ、或いは同時に全てに成ろうとする者達が、欲望の果ての快楽さえ滅した静寂の中で、影絵の様に揺らめいている。
自己を相手に性行為に耽る如く、自らにのめり込み、自己の内部の真空にずるずると肉を引き込まれて、そのまま消滅して、霊性の新たな次元に反転して、昇華を果たそうとしている風に見える。
後年、スペアは自らの若年の作品を評して、「病的だった」と自省気味に回顧するのだが・・・。

Sidereal

sidereal or siderealism・・・。
何とも困惑させられる言葉である。スペアが生み出した絵画の技法の一種である。英語の辞書を引くと、siderealは「星座の」とか「星の」と解説されるが、勿論スペアの用語では、そう云うものを意味する訳では無い。
sidereal---ポートレイトにおいて、見たままの人物像、現実を歪めたもの。或いは「歪曲様式」とでも訳せば良いのだろうか?
スペアは言う、「幽霊はサイドリアルだ」と。スペアが描くサイドリアルな作品は、まるで肉体を持たない幽体の様な、奇妙な歪みを呈し、遠近感が混乱している。遊園地の鏡のトリックで、身体の一部が異様に引き延ばされた鏡像を思わせる、歪な肖像。

The Pleasure Book

スペアは屡々書簡の中で、『The Book of Pleasure』を略して、ただ「Pleasure Book」とか「bk of P」と書き記すが、ゲイヴィン・センプルの『嘗て誰がかくの如く思索し得たであろう?/オースティン・オスマン・スペアによる「快楽の書」の哲学を理解する為の観点』と云う、ページ数の割にはやたらに長いタイトルを冠した解説書によると、スペアの『快楽の書』は五つの題材から構成されていると云う。それは、「キアの神秘主義」「死の姿勢の魔術的実践」「魔印の技術」「信念の心理学」「自己愛の観念」である。
センプルは、近代オカルティズムの発展に寄与した三冊の重要な書物を取り上げ、その最高峰が『快楽の書』であると断ずる。
因みに、他の二冊は『影の書』と『法の書』だと云う。『影の書』は近代魔女術の父、ジェラルド・ガードナーによる偽作と見なされる奥義書で、ドリーン・ヴァリアンテの書物に発表された物議を醸す疑惑の一冊。『法の書』は勿論、守護天使アイワズなる存在から、魔術師クロウリーが受け取ったと云う、クロウリー魔術の核心を成す一冊。『影の書』と『法の書』は、作者の意識的な著書では無く、その由来を超越的なオカルト存在に委ねる書物であるが、比べ、『快楽の書』は、オースティン・オスマン・スペアと云う、稀代のオカルティストであり、芸術家の手による「一人の人間の書いた本」である事が、特に重要視されるべきだと、センプルは考えている様だ。

『快楽の書』において、スペアは言う、「人はたった一つの事しか、本当に信じる事は出来ない」のだと。
平たく言い直せば、こう云う事だろう。
仮に、本屋に行って、欲しい本を見つけたとする。生憎手持ちの金は僅かしかない。けれども、欲しい本が二冊見つかった。
スペアの「一つのこと」とは、「どちらか一冊を選べ」と言っているのでは無い。二冊から一冊を選ぶ選択の問題では無く、本を買いたいと云う、その願望の中に潜む矛盾を指摘するのだ。
本は欲しい、でも、お金は使いたくない。お腹も減っているし、この後、デートの予定もある。女の子の前で、良いところも見せたい。結局の所、本が欲しいのか、欲しくないのか。どちらの本を買うかでは無く、本を欲しいと思う気持ちの中にある、アンビバレントな葛藤を自覚せよと言っているのである。 人は「本が欲しい」と云う単純な願望の中に、「他の物も欲しい、女の子に御馳走してあげたい」等の、複数の願望を紛れ込ませてしまう。願望は二つ、三つに増えるのでは無く、一つの思いが肥大するのだと、スペアは云う。
その矛盾によって、人は混乱し、願いは叶えられず、いつまでも苦悩に足掻く事になる。
「たった一つのこと」とは、「その願望の中に潜む、雑多な観念を取り除いて、純粋なる願いに昇華」する事である。
そうして、純化された願望のみが、真の意志となる。
スペアの魔術は、単純化すれば、純粋な意志としての信念を自覚し、それを潜在意識に沈み込ませた後、綺麗さっぱりと、その事を忘れてしまう事を推奨する。潜在的領域に達した願望だけが魔術的な意志となり、心の底に潜む自動的な力によって実現される。
転生を信じるスペアは、潜在的な精神の領域には、過去世において得た能力が潜んでいると考えた。人は、生まれながらにして、独自の夢を持っているのだと。そして、それを「先祖返りの復活」と呼び記した。
仏教的な輪廻転生と、スペアの「先祖返り」は、些か異なった観念を呈する。スペアは、生まれ変わりを肯定的に捉えている風に思える。転生しながら、様々な能力(動物や昆虫をも含む)は蓄積されるので、魔術を知る者は、その遺産を活用して、己の願望を果たすことが叶うのだ、と主張する。
スペアは、信念は迷妄の産物だと言う。しかし、迷妄を打ち破るスペアの魔術は、信念によってこそ成し遂げられるものだとも云う。信念から不純物を取り除き、一つに調和した純粋な意志の力に昇華せよと命ずる。

ZOS and The Great Beast

キース・リッチモンドによると、「驚く程の事では無いけれども、クロウリーは結局、自分用に『快楽の書』を一冊手に入れた。興味深げに、こう云ってよければ、痛烈に、自らの見解を余白に書き留めた。クロウリーは自分に対するスペアの辛辣な非難や酷評を完全に無視して、ただ、以下の如き事に注意を払った」と云う。その以下の如き事柄とは・・・下記の引用である。

アレイスター・クロウリーと荘子、その他の偉人たちの著作からの剽窃、達人の偉業や思想を曲解し、誤読した部分に注意を向けた。当時スペアはフラター・ペルデュラボ(クロウリー)の弟子であったが、黒魔術への傾倒を隠していた。
(黒魔術への)傾倒は、『快楽の書』を見れば明らかである。言葉遣いに関する無知も、批判の対象であった。例えば、obsession incarnating(妄想の実現)など、動詞の無い文章を取り上げ、更にNeither-Neither(あれでも無い、これでも無い)の様な、御大層だが意味の無いものを看破した。スペアのNeither-Neitherが、J.M.バリーのNever-Neverからの盗用であることも指摘した。

「J.M.バリーのNever-Never」とは、勿論あの「ピーター・パン」のネヴァー・ネヴァー・ランド、あり得ざる国の事である。
自分への侮辱はさておき、冷静を装ってスペアの無教養と知性の欠如を嘲笑する、如何にもクロウリーらしい、意地悪な指摘であるが、『快楽の書』を読んでいると、確かにクロウリーの批判にも一理あると思う。
キース・リッチモンドは、『快楽の書』がクロウリーの手に渡った経緯を不明としているけれど、恐らく、想像するに、弟子の一人が手に入れて、その内容に憤慨し、「親分、スペアの奴、こんな本を書いてますよ!」とばかりに、師たるクロウリーに献上したのではあるまいか。或いは、スペア自身によると、『快楽の書』は自費出版ながら、随分と好評を博した本だったので、書評を読んだクロウリーが、弟子に嫉妬して批判を目的に一冊求めたのではあるまいか。

スペアは、嘗ての師であるクロウリーに関して、言葉少なく、回想することも稀だったと云う。温厚なスペアは、クロウリーとの泥沼の罵詈雑言合戦を望まなかったのかも知れない。
ただ、スペアの嫌悪は相当なもので、クロウリーを心の底から軽蔑していた様である。
気取りの無い、下町育ちのスペアにとって、ケンブリッジ卒のクロウリーの鼻高々なエリートぶりは、鼻につくものだったのかも知れない。スペアに会った人間は、誰もがその実直で真摯な人柄を褒め称えるので、問題はスペアでは無く、クロウリーの方にあったと考えるべきだろう。
クロウリーは同性愛者でもあったので、美貌に恵まれたスペアに対して、同性愛的なアプローチがあったと指摘する意見もある。けばけばしい男娼の身なりで、ピカデリー広場に向かうクロウリーの姿を、スペアが目撃したとの逸話も記録されている。
スペアの青年期の写真を眺めると、正直、男でもうっとりする程に、凛々しく美しい美男子である。
更に、クロウリーは目立ちたがり屋のエキセントリックだったので、あらゆる機会を利用しては、弟子達の前で、自分の天才ぶりを誇示して悦に入っていた。そんなところが、スペアの不審を煽ったのだとも考えられる。
『快楽の書』で、スペアは儀式魔術を批判しつつ、こんな暴言じみた言葉を連ねる。

魔術師なんぞと云うものは、糖衣にくるまれて自分を甘やかす自己欺瞞者で、まるで売春宿に巣くう、無職の気取り屋の如き輩と云えよう。 (中略)
魔術師を自称する連中の見苦しさと云ったらどうだろう。光明に怯える様はさながら吸血鬼で、うじゃうじゃと蠢く虱だ。

これは、明らかにクロウリー個人への中傷であろう。
普段は温厚なスペアが、特定の人物を虱とまで罵倒する嫌悪感とは、いったいどんなものであったのか?
晩年のスペアは、クロウリーの死後、彼の最後の弟子であったケネス・グラントと親交を結び、親子の様な親密さで最後まで友好を深めるのだが、そのグラントに対してさえ、クロウリーに関して多くを語らなかったと云う。
ただ、グラントの為にであろうが、記憶を頼りに、晩年のスペアがクロウリーを追想して描いた絵が残されている。
そのクロウリーは、どこか不吉で、闇を纏い、禍々しい妖気を放っている風である。スペアは、クロウリーの人格を深く軽蔑していたが、大いなる魔術師としてのクロウリーに対しては、果たしてどんな思いを抱いていたのだろうか。

アレイスター・クロウリーは、フランソワ・ラブレーの『ガルガンチュア物語』の最終章から盗用したと思しき古仏語の格言(fay ce que vouldras)を英訳し、「汝の欲する事を成せ」を生涯のモットーとして掲げた。

Do What Thou Wilt shall be the whole of The Law.
(汝、欲するままを成せ。それこそ法なれば)

スペアはクロウリーのモットーを踏まえた上で、スペア流の解釈を施す。
Do as you like to whom the liking...is the Law.
(人の望む事を、君が望む様に行いたまえ・・・それが法である)

クロウリーとスペアの気質の違いを、如実に表すモットーである。
スペアはキリスト教を嫌悪する余り、クリスマスを拒否する程の反骨者だったのだが、それでも、他人がクリスマスを祝うことに関しては大らかで、友人に手製のクリスマス・カードまでを送っている。自己の優位を示す為ならば、決して他人に頭を垂れることの無かった自信過多のクロウリーには見られない思い遣りである。
クロウリーは、良く言えば自己の信念を貫き、他者にまでそれを強要して憚らない強気な姿勢を崩すことは無かった。だから、信者にまで、手紙の前後に「欲する事を成せ」「愛こそ法なり、意志に従う愛ならば」と、芝居がかったモットーを必ず付け加えることを強制した。
スペアの自由な精神は、どうやら、そうしたクロウリーの押し付けがましい教義に、心底辟易していた様子である。そして、幸いな事に、スペアの精神は、クロウリーと云う巨大な影響力に呑み込まれる事無く、独自の姿勢を貫く強さを持っていた。クロウリーを拒絶する意志の強さを、スペアは秘めていたのである。
スペアがクロウリーを見限った後も、尚、金策に窮したクロウリーは、嘗ての弟子を利用してやろうと企むのだが、スペアはただ、クロウリーに自らの著作『生の焦点』を手渡したと云う。『生の焦点』には、『快楽の書』よりも更にはっきりと、クロウリーへの決別の意志が記されていた。
同じ魔術結社の弟子である、ヴィクター・ニューバーグの場合は悲惨であった。クロウリーにすっかり呑み込まれ、男色行為の相手までを務めさせられて、ボロボロにされた挙げ句、廃人同様になりながら、やっとの事でクロウリーから逃げ出したのだから。
ニューバーグの伝記、『ヴィクター・ニューバーグの魔術的ジレンマ』には、クロウリーと決別後、戦争に従軍したニューバーグの様子が、余りに奇妙なので(手足がバラバラな方向に動く、等)、上官が彼を「何の役にも立たない、木偶の坊」と断じた回想が記されている。

だが、後に、ニューバーグは詩人のサークルを主宰し、その参加者の一人である、女流詩人ヴェラ・ステイシー・ウェインライトをオースティン・オスマン・スペアに紹介する事になる。

Dweller in the kitchen

1 941年5月10日から11日にかけて、ロンドンはドイツ軍による爆撃に曝された。その戦禍の中、スペアは住居を破壊されてホームレスとなる。
エイダ・ミリセント・ペインは、ある夜、帰宅に際して管理人に呼び止められた。一時間以上前から、男の人が戸口の前で彼女を待っていると聞かされた。
その男は、彼女の幼馴染み、オースティン・オスマン・スペアであった。
スペアは茫然自失の呈で、静かに佇んでいた。ミリセント・ペインの回想によれば、「彼は気が抜けた様だった」そうである。
再会した二人は、玄関ホールで抱き合った。
以降、ミリセント・ペインとスペアは共に暮らし始めるのだが、フランク・レッチフォードの言では、彼女はスペアを愛しておらず、スペアも彼女を愛していなかった。ただ、孤独な者同士の魂の絆が二人を結びつけていた。
ミリセント・ペインの家に居候するスペアは、椅子を二つ並べてベッドの代用とし、キッチンで寝起きしたと云う。ミリセント・ペインの気分次第で、スペアの居心地は変化したそうである。
その時期の気持ちを、スペアはレッチフォード宛の手紙に吐露している。
「そんな事は考えていないよ。結婚なんて、朝食をベッドの中で食べる手段の一つに過ぎないからね。まして、ペイン嬢となんて。彼女は週にたった一度、日曜日に夕食を食べさせてくれるだけだ。とても、絵画どころじゃないね!」
随分と冷遇されたものである。他人の家に居候させてもらう身分なのだから、仕方が無いだろうけれど、孤高の芸術家、稀代のオカルティストの、一つの真実の姿がここにあった。

レッチフォードの回想。
「スペアと私は、野に生えた忍冬の葉で作った、焦げ臭い一本の煙草を二人で吸った。スペアは小さな電気ポットで紅茶を沸かし、タンニンで茶色く汚れたマグカップに注いでくれた。火の無い暖炉には去年の燃えかすの灰が、そのままに残っていた。天井の隅には大きな穴が開き、木材が丸見えの有様だった。オースティン・スペアは寒さなど何のそのと、無頓着を装っていたけれども、隠しようも無くブルブルと凍えていた」

戦災がスペアにもたらした不遇を回想するレッチフォード。
「彼は恐らく150枚の絵と、手稿、蔵書、手紙、諸々の道具類を焼失した。そして、利き腕の自由も失った。飼っていた猫達は瓦礫の下に埋まり、ペチャンコに潰れた。スペアは銀行口座の番号を記した小さな黒いアドレス帳を持っていたのだが、それも無くなってしまった。生き延びる為に、暖を求めてスペアはイースト・エンドにいる知人の陶芸師の元を訪れた。避難所でスペアは紅茶を分け合い、粘土で人形を幾つか拵えた・・・スペアの作ったものは、今、いったいどこにあるのだろう?ヒトラーを描いた二枚の肖像画も、何処に行ってしまったのか・・・?」

リーダー・マガジンに載った1946年の記事。
『猫と暮らす赤貧の画家』より引用。
「1941年、爆弾と火災によって、スペアのアパート兼スタジオは完全に破壊されてしまった。彼は住居のみならず、健康を損ない、三年の間、必死に努力して両手の自由を回復した。そして再び、作品は展示される事になった。ブリクストンにある狭い地下室に住み、絵を描き、八匹、或いは九匹の猫を友として暮らしている。住居兼スタジオは散らかり放題で、芸術家は古びた軍用シャツを着て、ボロボロのジャケットを羽織っていた。彼はベッドさえ持ってはいなかった。けれども、いつでも一枚たった五ポンドで絵を売っていた。

スペアの趣味はオカルトである。『急に振り返ったりすると』と彼は言った。『私にはいつも、盟友、使い魔、或いは群がる精霊達が見えるんだ。そうしたものは、私を構成する存在の一部なんだ』」

空爆で焼失したと思われていた幾枚かのスケッチは、スペアの死後に発見されて、『醜いエクスタシー』と題されて出版された。

imitate Not of Nietzshe

『快楽の書』『生の焦点』『ゾスの呪い』で、自己欺瞞を洞察し、人智を越え た遙かな高みへと、超越せよと、キアの哲学を獅子吼するオースティン・スペア。その思想は、ニーチェを連想させるものであるが、スペア自身はニーチェに対して批判的であった。
『オースティン・スペアのフラグメンタ』の中で、フランク・レッチフォードは、スペアがニーチェについて書き残した文章を紹介している(ヴェラ・ウェインライトは、スペア宛の手紙で、フラグメンタ-fragmenta-はラテン語だから語尾に複数形のeが付いてfragmentaeとなるのではないか?と指摘している)。
『ツァラトストラ』に関するスペアの感想。
「詩と見なすなら、認めよう・・・全く素晴らしいと。ニーチェの文体や修辞は比類無きものだから、見逃してしまい勝ちだが、哲学者として、彼は何ら独自の思想を持ってはいなかった。ニーチェの言ったことは全て、既にゲーテが言っている事だ。ゲーテの方が、ずっと明快に述べている。超人、権力への意志、新たなる価値、等々。ニーチェは更に多くの思想をショーペンハウエルとカントから借用して、ただ単に分かり易く言い換えただけだ。ニーチェの書いた最悪の著書は、『善悪の彼岸』であろう。薄っぺらでつまらない、ただの風刺に過ぎないものだ。エマソンの随想選集を読んだ方がずっと、ずっと遙かに素晴らしい!ニーチェの事は、ただ偉大な風刺詩人として読んだら宜しい。ニーチェは我が国の(フランシス)ベーコンに似ているのだと思う。豊富な語彙を誇るも、独創的な偉大な思想を持たず、ベーコン同様に我が儘な自惚れ屋である。ニーチェの怒りの表明は、嘘っぱちで、文字通りには受け取れるものでは無い。けれども、その些か喧しい怒鳴り声の下には、詩情が潜んでいると云えよう」
快刀乱麻に、ニーチェを哲学者に非ず、独創性に欠ける詩人に過ぎぬと断じるスペアの批判も、相当なものである。

「超人が白痴化して曰う、『我こそ法なり』と。端から見れば、彼は危険な夢遊病者であるのだが、そんな者が盲人を導くのだ」
『ゾスのロゴマシー』の一節からの引用。

スペアは魔術結社に参入し、クロウリーの弟子となった魔術師志願者であったにもかかわらず、一度として、クロウリーの聖書とも称すべき『法の書』への服従を誓ってはいない。
『法の書』は濃厚にニーチェ主義を漂わせる、弱者を組み敷き、強者のみが楽園を謳歌する勝利者の書である。この『法の書』に関して、スペアは「ニーチェ的に過ぎる」として、批判さえしている。
雑誌の共同編集者だったクリフォード・バックスによる『芸術におけるセックス』によれば、スペアは暴力が日常茶飯事の荒れた貧民街に暮らしながらも、誰よりも野蛮な物事を憎んでいたと云う。

「もし君が動物好きなら」とスペアは昼食時に語った。「ボローに住まない方が良いよ。ある日、子供達が高窓から石畳の中庭に猫を投げ捨てたんだ。私は毒を使って安楽死させてやったよ」
「私は野蛮な事が大嫌いだ」とスペアは続けた。「妻を殴る男や、猫を蹴飛ばす連中、此処ボローには沢山いるよ。私は迷子になった白い仔猫を一匹拾ったんだ。仔猫の口には、酷い傷があった。此処からすぐ近い所に、『猫殺し横町』と呼ばれる路地があるんだ。もしそこに行くなら、きっと君は毛皮を着ていない猫が歩いているのを見ると思うよ」
「毛皮を着て無い?どう云う意味なの?」
「ああ」とスペアは答えた。恐らく、私達の無知に同情したのだろう。「男達が乱暴に猫の頭を一撃するんだよ。最後まで見ていると、それから、猫から生皮を剥ぎ取るんだ」
ノラが言った。「貴方は、それを止めなかったの?」それから考えて、「もし止めさせようとしたら、危険だったのね?」
「危険?」スペアは笑みを浮かべた。「危ない事なんて、何も無いよ。連中はみんな臆病者さ。勿論、生命が損なわれる事に対して、哲学的な態度を取ることは容易い。でも我々は、先ず最初に人間なんだ、哲学者であるのは二の次だよ。その時は、猫を助けるさ。でもまた別のある朝、ベッドの中にいた時だった、牛乳配達の少年が来たんだ。けたたましい鳴き声が聞こえた。何が起きたのか、すぐに理解したから、ベッドから飛び出した。少年が白い仔猫を蹴っ飛ばしたんだ。でも私は、少年を殴ったりはしなかったよ!」
スペアはその時、彼の哲学を思い出した様だった。「こうしたことは、全て余計なお世話なんだ。此処で起きたことは、真の世界の出来事とは無関係なんだ。その仔猫を救った時、私は四人の大天使を殺した事になるんだ。少年を通して猫を虐待したのは、神様の仕業なんだから」

善と悪について、晩年のスペアはアフォリズムを記した。
『ゾス語りき』に収録された『ゾスのロゴマシー』よりの引用。
「もし君が、口に出すのも憚られる行為や悪を為すのなら、見えざる千の手が君を手助けしてくれるだろう。はっきり言えば、君の為だと偽って、悪魔自身が君に仕えるだろう。しかし、もし人知れず善を為したとしても、君を手助けしてくれるのは、たった一人の神様だけだ(本当に手助けがあるかどうか、疑わしいものだが)」

AOS as Hypocrite?

赤貧を洗い、人知れず世を去った無名の画家・・・孤高のオカルティストと見なされるスペアであるが、けれども、スペアの周囲には、スペアを理解し、その才能と高潔な人柄を慕う者達が集っていた。小さなサークルではあったが、その中でスペアは有名人であり、ヒーローであり、誰にとっても最良の友であった。
クロウリーが見苦しいまでに、世俗的な名声を渇望していたのに対し、スペアの人生は慎ましく、真摯であった。然したる野心も持たず、ただ、時々ジャーナリストが自分の事を取り上げた記事を、嬉しそうに、後生大事に保管して満足していた。
常に金策に困窮しながらも卑屈にならず、楽天的で大らかに貧乏を満喫していたスペアは、無一文に近い暮らしにあって尚、他人に無心する事が無かった。貧困の中でも、常に毅然とした態度を保っていたと、レッチフォードは追想する。
が、唯一の例外はヴェラ・ステイシー・ウェインライトに対するものだった。
同居していたミリセント・ペインの家を出て行くつもりなど、更々無いのに、スペアはヴェラ・ウェインライトを適当にあしらいながら、彼女が送って来る金だけは受け取り続けた。全てが発覚した時、スペアは謝罪し、金を返したが、だからと云って、スペアの不実が帳消しになる訳でもあるまい。

スペア生前の最後の著作、『ゾスの呪い』はサブタイトルが「偽善者どもへの苦言」である。だが、スペア自身の偽善はどうなるのだろうか?

ヴェラ・ウェインライトは女流詩人で、怪奇小説家アルジャーノン・ブラックウッドやウォルター・デ・ラ・メアの友人で、魔術結社「黄金の夜明け」の名簿に名を連ねる文人達と親睦を持っていた。彼女はオースティン・スペアの才能を高く評価し、友情を信じ、それ以上に、スペアを愛していた。スペアを信じ、共に暮らすアパートの費用にと、健気に送金を続けた。
A.N.ネイラーによれば、「スペアは彼女の誤解をそのまま放置しておいた。彼女がアパートと、それ以上のものを共有することを信じて疑わなかった時に、スペアは彼女が『二人の新しい生活』の為にと送って来た金銭を受け取り、使い込んでしまった。更に手紙によって明らかになることは、スペアはその時期、彼女に対して礼を欠いた態度を取り、随分と不躾であった」と云う。
レッチフォードによると、ヴェラ・ウェインライトをスペアに紹介したのは、ヴィクター・ニューバーグであった。ニューバーグもウェインライトも、共に背骨に異常があり、スペアはその肉体的な障害に同情を寄せていたと云う。

フランク・レッチフォードの『ティーカップの中のミケランジェロ』からの引用。
「『あたしは信じていたのに、あなたは不実だった!』と訴える彼女からの手紙を受け取った時、スペアは思わずたじろいだ。極端な貧しさにあったスペアが、使い込んだ金額は95ポンドに膨れ上がっていた。それは彼女が、二人の未来の暮らしの為に、アパートを借りる資金に貯めたものだったのだ」

スペアはいったい、ヴェラ・ウェインライトに対して、どんな感情を抱いていたのだろうか。スペアの好むタイプは、どうも肉体的には豊満で尻の大きな女性であった様なので、スリムなウェインライトには食指が動かなかったのかも知れない。
ヴィクター・ニューバーグに紹介されて、スペアに会い、気の合った二人は友人になったが、書簡を読む限りでは、ヴェラ・ウェインライトの気持ちが、スペアに対する友情だけであったとは思えない。彼女はスペアを愛し、一緒に暮らす事を求めていた。

スペアに宛てた手紙で、ウェインライトの家を訪れる際、彼女はスペアに地下鉄やバスにどう乗るかを細かく指示し、どんなマカロニを買ってきて欲しいかと、イラストを描いて要望を綴っている。
「朝はベッドの中で朝食をとって良いし、あなたが望むまで、好きなだけ寝坊して構わないのよ。自分の家と同じ様にくつろいで欲しいの」と、彼女はスペアに誘いかける。
「セックスに関して、あたしはあたしの観点から、あなたはあなたの観点から、語りましょう・・・」
恋人の訪問を心待ちにする、独身女性の態度そのものであった。

彼女の元に滞在中、スペアが描いた二十四枚のスケッチが残されている。緻密に描き込まれた細密画では無い。むしろ、心に浮かぶイメージを、その勢いのまま自動描画的に、さっと描き留めたものである。
軽いスケッチではあるものの、その出来映えは素晴らしい。一見すると、荒涼とした風景が目に付くのだが、流れるような線描は異界の霊気を捉え、淡い光がほの暗い精神の深みから、茫と立ち昇る様に輝いている。
何気なく、無造作に描かれた風に思われる線の一本一本が、余りに繊細なので、驚嘆せざるを得ない。質素なスケッチである分、丹念に描き込まれた作品よりも、スペアのダイレクトな感情が伝わって来る様な気がする。静止したものが躍動し、脈打つ無機質が沈黙し、生と死が霊性の微光に包まれて、永遠に通じる何かを解き明かそうとしている風に思える。
茫洋とした世界に広がる岩場の景色。人の形をしたもの。石に溶け込もうとしているのか、岩場から生まれ出ようとしているのか、所々に浮き出た人面が散見される。
何処にもあり得ない光景でありながら、人間の心に潜む神話的な世界であり、スペアの精神が一個人の空想を突き抜け、永遠の領域に達した閃きの一瞬を見事にスケッチに描き留めたものだ。

スペアの作品は、どれも素晴らしいものだが、グラント夫妻に宛てた手紙に描かれた簡素なイラストや、ヴェラ・ウェインライトにプレゼントしたスケッチブックに残された質素なスケッチは、取り分け魅力的だ。スペアが文章で伝えようとした思想や哲学よりも、もっと本質的なスペアの内的世界を雄弁に語っているのが、こうしたスケッチや未完成の構想である気がしてならない。

レッチフォードが回想するに、スペアは「私の作業やスケッチブックはアイデアでいっぱいだ。作品に仕上げる暇も無いくらいだよ」と言っていた。

晩年のスペアの絵画展示会に現れたジェラルド・ヨークは、スペアの作品を一枚も買わずに帰ったと云う。ヨークは大資産家であり、クロウリーのコレクターであり、オカルト的な資料が四散してしまうのを防ぐ収集家であった。ヨークが好んだのは、クロウリーが企画した季刊誌『春秋分点』に掲載された類の、グロテスクでオカルト色の濃厚な、スペアの初期の線画であったと云う。

Sensualist

AOSのAとOの部分、即ち「アーティスト」と「オカルティスト」の側面は、比較的楽に調べることが出来るものであるが、Sensual或いはSexに関しては、如何なものだろうか。性は最も個人的な部分、秘められた領域であり、一個人の性生活を窺い知る事は容易では無い。まして、最早この世にいない人物の記録から、詳細を知ることは不可能にも思われる。
実生活においてスペアは、週末、独身者の集うパブに出向いては、つかの間の出会いを楽しんでいた様子である。金は無くとも、若きスペアは美貌に恵まれた男であり、芸術家であったから、相手に不自由することは無かったのかも知れない。

1911年9月4日に、二十五歳のスペアはアイリー・ガートルード・ショウと云う名の、二歳年下の女性と結婚している。アイリーは女優でありダンサーだった。ウォレス編纂の『オースティン・オスマン・スペア初期作品集』では、彼女は「コーラス・ガール」となっている。移り気な娘で、スペアとは全く性格が合わなかったと云う。
『ボロー・サティル/オースティン・オスマン・スペアの生涯と芸術』の序文で、ロバート・アンセルは、スペアとアイリーの生活は、常に「金銭的な不安と性格の不一致」に曝されたものだったと記す。
想像に過ぎないのだが、アイリーの舞台を見たスペアが、セクシーなその姿に魅了されてしまい、誘惑して電撃的に結婚してみたものの、一時の性欲に負けたスペアは、激しく後悔する事になったのだろうか?
結婚生活は長くは続かず、結局二人は離婚した。
離婚後、スペアは彼女と暮らした際の家具類を、みんな捨ててしまったと云う。 ロバート・アンセルは、アイリーの存在がスペアを鼓舞し、1913年刊行の『快楽の書』を書き上げるにあたり、芸術家の創作力を支えたと云う。もしスペアが兵役義務を果たす為に家を空けなければ、正式に離婚する事は無かっただろうと想像する。

快楽主義者オースティン・オスマン・スペアは、屡々娼婦などを買っていた様子を窺わせる。ハヴロック・エリスの性科学書に親しみ、変態性欲の事例に興味を持っていた。
老いたスペアが、若きケネス・グラントに語った、与太話の一つに、こんなものがある。
「勿論、あらゆる形の性的な実践行為は興味深いものさ。個人同士の親睦としても意味深く想像力に満ている。アラビアのジョークを思い出したよ。二人の東洋人が、様々な行為に関して議論していたんだ。一人は、三十七通りの方法があると言い、もう一人は三十六通りだと言う。答えはこうさ。三十六通りと主張した男は、『正常な行為』を忘れていたんだ」
また、晩年の老スペアは、ケネス・グラントに自らのオナニーを告白している。
「暗い部屋でペニスにじっと眼を凝らし、女の唇が逸物をくわえていると想像するんだ」
この老いた快楽主義者はフェラチオ好きだったのか?

「空想は最も安上がりな贅沢である」とは、スペアが『ゾスのロゴマシー』に記した箴言の一つである。
同書では、こうも記す。
「多くの男達は処女が大好きだが、私は逆に屡々年老いた娼婦を好む。もし君に想像力があるのなら、徹底的に挑戦してみたまえ」

Zos vel Thanatos

『フランク・レッチフォードの探求』(ゲイヴィン・センプル著)によると、レッチフォードにとって、スペアの存在は、「指導者、教師、そして二十年来の大いなる友。素晴らしき平等主義者であり、トランプ仲間、生涯を通して挫折の連続だった落伍者、オースティン・オスマン・スペア、その風采、その物腰、そしてその品行のどれもが、偉大なる知識人の名に恥じぬ・・・偉大なヒューマニスト」であった。
フランク・レッチフォードほどに、スペアを讃え、敬愛し、その芸術と哲学を愛し抜いた者は二人といない。レッチフォードの想いに応えて、スペアも彼を「息子」と呼んだと云う。

血の繋がらぬ、もう一人の「息子」は、晩年のスペアと親睦を深めたケネス・グラントである。
グラントの興味はオカルト方面に集中しており、スペアを8=3階位の「マジスター・テンプリ」に相当する偉大な魔術師と崇めた。
8=3階位と云うのは、「黄金の夜明け」系列の魔術結社で用いられる階級制度であり、オカルト的な常識では、「マジスター・テンプリ」は人間存在を超越した、神に近い卓越的な術者を意味する。
スペアは金に困り、衣類や生活必需品の購入にも不自由して、ケネスの妻スティーヴィ・グラントに、彼女の父親の古着を譲ってもらったり、ケネス・グラントからも、古靴をもらって、「私用の靴だと思うくらい、ピッタリだ!」と無邪気に喜んでいる。
手紙を執筆中、インクが切れてしまい、スペアは「鉛筆で失礼するよ!」と、鉛筆書きに途中から変えることも屡々であった。インクさえ満足に手に入れられなかった様である。
近代魔術史上、最大の傑作とも称される『快楽の書』において、スペアは、「自己の本質的な意志に則して生きる者は、たとえ貧しき暮らしにあろうとも、魔術に精通した達人なのだ」と綴っている。まさか、晩年の自分の姿を予想した訳ではあるまいが、全く大した達人ぶりである。
そんなスペアを見かねて、グラントは、「僕があなたの友人だからと云って、普通の人よりも安い値段であなたの絵を購入出来るのは、正しいことではありません。みんなと同じ値段で売って下さい」と、殊勝を示す。

「マジスター・テンプリ」の実力を持つ魔術師と称讃されたスペアであったが、けれども、生命の樹の暗黒面である「クリフォト」を知らず、逆にケネス・グラントから説明を受けたりしている。黄金の夜明け系列の魔術体系を修得しているならば、マジスター・テンプリ程の高みに上り詰めた術師であるなら、当然、「クリフォト」を克服していなければならない筈である。それでもグラントは、様々なオカルト上の質問をスペアにぶつけ、余りに細かく質問するものだから、スペアも些か辟易していた様でもあった。
「あなたが教えてくれた聖なるアルファベットは、『快楽の書』に記されたものと、違う様な気がするのですが・・・?」と問い詰められたスペアは、「聖なるアルファベットを解く鍵と、300を越える文字は、空襲の際に失われてしまったんだ」と苦し紛れに返答した。
第二次大戦中、空爆に曝されたロンドンで、スペアは負傷し、甚大な被害を被った。その時の後遺症か、晩年のスペアは、屡々記憶の欠落を示したと云う。貧しい暮らしの中で、衰弱し、病気がちで、健康を害して寝込む事も屡々であった境遇を考えれば、仕方の無い事なのかも知れない。

グラントは志願してスペアの手稿をタイプに清書する事を申し出る。
心底、スペアを尊崇していたのだろう。恐らく、ケネス・グラントの影響によるところが大きいと思われるが、スペアの文体は、若年の頃よりも、晩年に記したものの方がずっと読みやすい気がする。
だが、自発的にタイプを申し出たものの、スペアの文章にはミススペルが多く、グラントはだいぶ困惑していた様子であった。
スペアは処女作の『地上の地獄』で、既に堂々とREHEARSALの綴りをREHERSALと間違えている。印刷上の誤字では無く、手書きの文字だから言い訳も出来ない失態である。
晩年も、矢張り綴りはいい加減で、グラントはスペアの書いたstectatoriallyやenormon等の奇っ怪な綴りの意味を解しかねて、堪らずに問い合わせている。
「あなたは屡々、綴りを間違います。preとperを取り違える癖があります・・・」
流石に決まり悪かったのだろうか。スペアは、「辞書を貸してくれないか?」とグラントに頼んだ・・・。

数多の欠点を抱えながらも、それでも、スペアの死後に出版された、ケネス・グラントとの交友録とも云うべき『ゾス語りき!/オースティン・オスマン・スペアとの出会い』は掛け値なしの傑作である。
この本を未読の人は幸せだ。これから、「もの凄く面白い本」を読むと云う歓びを得られるのだから。
これは、一頁一頁を惜しみながら味わい、読み耽る-それ以外、どうしろと云うのか?-べき一冊である。
もし、無人島に本を一冊だけ持って行くとしたら・・・との陳腐な質問に対して、迷い無く「これで決まりだ」と答えられ<る、それほどに興味深い本であろう。
ケネス・グラントの様に、老獪なスペアのインチキ臭い話を鵜呑みにする必要はあるまい。けれども、スペアの語る一言一言を、とことん楽しみ、老魔術師の世界にすっかり魅了される、掛け替えのない至福の歓びが、この一冊にはぎっしり詰め込まれている。
『ゾス語りき!』を読むと云う事は、異才の画家であり、クロウリーを凌ぐ妖術師と、ヴァーチャルに語り合う唯一の方法なのだ。頁を開いて、瞠目し、感心し、首を傾げ、失笑し、そして心の深い部分を揺さぶられて、どうしようもなく、オースティン・オスマン・スペアと云う不可解な存在に感動させられる事になろう。
この厚く大きな本を膝に乗せ、ゆっくりくつろいで、時間を忘れて繙くとき、食べ物や飲み物では満たすことの出来ない、心の飢えと渇きが、じんわりと満たされて行く事に気付く。

オースティン・スペアは、魔術には白も黒もありはしないのだと主張する。「あらゆる魔術は色彩豊かなものだ」と彼は言った。黒は灰色に、灰色は白にと変ずる濃淡の差である。そして白は、全ての色彩を秘めているのだと。
ケネス・グラント著、『超時空の環』

Death of hisself

ハイネン・スワッファーはスペアの友人であり、コレクター兼パトロンでもあったジャーナリストで、芸術家に纏わる記事を何度か記している。
その彼が、スペアの繊細な鉛筆画の一枚、『墜ちたる者どもの上昇』を評して、「人間の魂の霊的な進化を描いている風に思われる」と述べている。
その絵の様に、スペアの人生は、まるで地上に墜ちて足掻き悶える、魂の苦闘を象徴するかの様な苦難に満ちていた。勿論それは、第三者が端から見て、勝手にそう思い込むだけなのかも知れない。
スペア自身は、「潜在的な欲望のみが、実現出来る」と絶えず主張して憚らなかった。だから、自らを評して、「私の願望は、貧乏でいる事なんだ」と自嘲気味に漏らしていた。

『ゾス語りき!』の序文で、ケネス・グラントの妻スティーヴィは、スペアに手紙を書き、初めてスペアの元を訪問した思い出を語る。 年老いて、ヨボヨボするスペアにショックを受け、彼女は思わずこう口にしたと云う。
「あなたを知る知人の話では・・・あなたはまるで、ギリシャの神様の様に凛々しい人だと想像してました!」
スペアは微笑み、「それはずっと昔の事だよ」と答えた。

スティーヴィ・グラントは回想する。
「彼はすっかり老い耄れて、恐らく寝る時も着た切り雀であろう襤褸を纏っていた。髪は梳かしもしないぼさぼさ状態、両手がブルブル震えていた」
「彼は末期にあたり、老衰と病に囚われていた」
「けれども、バッカスの様に陽気で、楽天的で、創造性に満ち溢れていた・・・」

1956年5月15日、オースティン・オスマン・スペア、死去。

若年の頃、スペアは小綺麗なイタリア人の少年と顔見知りだった。少年は、ある逸話を語り、その話はスペアの心を深く感動させたのである。少年の父親は、大便を放って特製の鞄に詰めていたと云う。父親は少年に、大便はいつか黄金に変ずるのだと教えた。父親が死んだ時、少年が鞄を開けると、中には1000ポンドを越える金が入っていた!
『ゾス語りき!』より。

いったいこの馬鹿げた逸話のどこに、深く感動すべき教訓が記されているのか理解出来ないものの(錬金術的な寓意?)、イタリア人の少年の父親が黄金を残したように、スペアも死して、二人の息子ケネス・グラントとフランク・レッチフォードに黄金以上の宝物を残していた。
それは、遺稿であり、数々の絵画であり、そして何より、親睦を持つ者に対して、常に真摯であったスペア自身の想い出であろう。

グラントは、スペアへの敬意を、『オースティン・オスマン・スペアのイメージとオラクル』と云う一冊著作に纏め、後に出版した。
そもそも、スペアが今日、これほどまでの知名度と影響力を有するのは、ケネス・グラントの功績によるところが大である。

フランク・レッチフォードはスペアの死後、その喪失感を持て余し、彼の功績を尋ね歩いては、地道に収集した。蚤の市を巡り、スペアの遺品を探し、そして、スペアとの想い出を追想して、『ティーカップの中のミケランジェロ』と題された、スペアの伝記を世界で初めて書き綴ったのである。
そして奇しくも、レッチフォードは生涯敬愛してやまなかったスペアの112回目の誕生日である命日に天寿を全うした。

フランク・レッチフォードは言う。
「彼の哲学?決して他者の言いなりにならず、自らの人生を切り開くことだ」

「死は必要なものである。人が許し合う為にも」
「もしも、死が我等の改変であるならば、それはまた忘却の長い期間でもあろう。そして再び生まれ変わる時、我等はまた、嘗て自分が誰であったかを知るのだ」
『ゾスのロゴマシー』から、スペアの箴言。


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