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オーストリア国鉄の回廊列車(コリドア・ツーク) 

オーストリアは北海道ほどの広さの国土に5800kmもの鉄道路線がある国だが、オーストリア国鉄の列車はドイツやイタリア、ハンガ リー領内も走っている。といっても、よくある国際列車の話ではなくて、オーストリアの国内列車が他国の領土 内を走っているのだ。路線の管理権はオーストリアにはなく、オーストリア国鉄がそれぞれの国の国鉄なり鉄道会社なりに通行料を払って運転す る仕組み。このように国内列車が他国を通過する区間をコリドア運行(回廊運行)と言い、オー ストリアでは5区間が存在する。

例えば首都ウィーンから西部の中心都市・インスブルックへ向かう列車は、オーストリア領内だけを走るよりドイツのローゼンハイムを経由 したほうが距離は約50km短く、またオーストリアの山岳地帯を走るより、ドイツの平野部を走ったほうが時間的はもっと短くて済む。だからオーストリアの 東西を結ぶ主要列車は、多くがドイツ領内を経由して運行している。ただしこれらはあくまで国内列車で、国際列車ではないからドイツ領内はノンストップだ し、運転上の都合で停車しても乗り降りできない。インスブルックから北へ向かう路線も、途中でドイツ国内を通過する。

一 方、インスブルックから南東へ向かう列車は、イタリア領内106kmの区間をコリアド運行する。この地域はもともと全区間がオーストリアのチロル州で、鉄 道もその時代に建設されたのだが、第一次世界大戦後にチロル州の南部がイタリアへ割譲され、南東部がチロル州の飛び地として残った。チロル州の飛び地から 州都インスブルックへ行くにはイタリア領内を通過した方が断然早いわけで、列車は昔ながらのルートで運行を続けている。イタリア領となった南チロル地方は 今でもドイツ語系住民が多く、分離独立や自治権獲得の運動が続いているそうな。

ウィーンの南にあるウィナーノイスタットからさらに南へ向かう国鉄線は、ハンガリー領内をコリドア運行して再びオーストリアへ戻るが、 途中にあるショプロン駅でオーストリアのエーベンフルトからやって来た私鉄のジュール・ショ プロン・エーベンフルト鉄道(GYSEV)と接続していて、乗り換えることができる。ショプロン駅の構内はオーストリアの列車が発着するホームは鉄格子で 仕切られていて、オーストリアの列車同士で乗り換える場合はパスポート検査は不要。ハンガリーの列車に乗り換えたり、駅の外へ出る場合は出入国検査を受け る仕組みだ。

GYSEVはオーストリアとハンガリーを直通する国際私鉄で、かつて社会主義国だったハンガリーではすべての鉄道会社が国有化された が、GYSEVだけは例外的に私鉄のまま残された。第一次世界大戦までオーストリアとハンガリーは「オース トリア=ハンガリー帝国」として1つの国で、GYSEVはその時代に建設された鉄道なのだ。

トラブル続きの東欧諸国流浪の旅   7日間でオーストリアや東欧の鉄道4,337kmに乗った人の旅行記。回廊列車の話もあります
GySEV Corp   ジュール・ショプロン・エーベンフルト鉄道のサイト。GySEVの路線図 もあります 
Korridorverkehr   回廊列車の写真がいろいろ。レールバスのローカル列車もあるようで(独語)




チェントバリー鉄道 スイス私鉄とイタリア私鉄の相互乗り入れ

●まだ準備中です

せっかくの「渓谷鉄道」なのに   チェントバリー鉄道の写真と乗車記




バチカン市国国鉄 大部分がイタリア領内を走る世界最短の国鉄 

バチカン市国の地図 左下にイタリアから鉄道が乗り入れています
バチカン国鉄の衛星写真 (google map)

サンピエトロ駅(右 下)とバチカン駅(上)
世 界最小の国といえば、とりあえずバチカン市国。で、世界最短の国鉄といえば、おそらくバチカン国鉄でしょう。イタリア国鉄のサンピエトロ駅からバチカン駅 まで、全長たったの862・78メートル。そのうちバチカン市国の領土内を走っているのは226・78メートル。バチカン国鉄は車両を持っていなければ乗 務員もいなくて、運行はすべてイタリア国鉄の車両と乗務員を使って行う仕組み(※)。といっても、バチカン国鉄を走る定期列車はなく、時おり貨物列車が乗 り入れるだけだ。
※日本でも神戸高速鉄道という民営の地下鉄が、自社の車両や乗務員は存在せず、阪 急や阪神、神戸電鉄、山陽電鉄の車両を乗務員つきで乗り入れさせて運行している。
バチカンへの鉄道が開通したのは1932年のこと。イタリアがバチカンを主権国家として承認した1929年のラテラノ条約では、イタリア国鉄のバチカンへ の乗り入れも規定されており、これに基づいて建設されたものだが、34年に路線はバチカン側へ引き渡され、バチカン国鉄が発足した。

バチカン駅はもともと旅客輸送を主体に計画されたもので、ローマ法王のミサなどに集まる大量の参列者を運ぶことが想定されていた。しか しバチカン詣をするならついでにローマ市内をぶらぶら観光していきたいと考えるのが人情なわけで、バチカンに直接乗り付ける旅客列車は結局運転されずじま い。サンピエトロ寺院の広場へ行くには、バチカン駅からでもサンピエトロ駅からでも実はたいして距離は変わらないし、バチカンとしても寺院の裏側を一般信 者にウロウロされたら困るということになったのかも知れない。

またローマ法王の外遊の際に利用することを想定して、駅舎には大理石で装飾した貴賓室が設けられたが、実際にバチカン駅を使った法王は 1962年のヨハネ23世が最初で、その後も歴代法王はほとんどこの駅を利用していない。ヨハネ・パウロ2世(在任1978〜2005)は「空飛ぶ法王」 と言われるほど精力的に外遊を繰り返し、しばしば列車も利用したが、乗降するのはたいていイタリア領内のサンピエトロ駅で、外遊でバチカン駅を使ったのは 2002年に1度だけ。このほか1979年の「鉄道員の日」の記念イベントでバチカン駅からローマ市内のサンピエトロ、トラステヴェレ、テルミニの各駅ま で列車に乗ったことはあったようだ。

その他、バチカン国鉄を走った旅客列車は、病人の巡礼者を乗せた特別列車や、子供向けのSL列車の特別運転など、ごくまれにあるだけ。 現在ではバチカン駅のコンコースは改装されて、切手やコインの博物館に生まれ変わっています。

The Vatican City State Railway   バチカン国鉄の写真や解説(英語)





【過去形】リミニ・サンマリノ電鉄 イタリアとサンマリノの国際登山電車

サンマリノの地図(1980年代) とっくに廃止されているはずの鉄道路線 が…

サンマリノと言えば、イタリアに囲まれた内陸の山国で、面積は世田谷区より少し大きいくらいのミニ国家。13世紀に独立し、「現存する 世界 最古の共和国」とも言われるが、現代の常識で言う共和制とはだいぶ違っていて、選挙は行われず、古代ローマやベネチア共和国のような長老たちによる寡頭政 治が続いていた。

そんな体制が終わったのが1920年代で、イタリアでムッソリーニが政権を握ると、ムッソリーニに共感した住民たちが民主化を要求し て、ファシスタ党が実権を握り、イタリアとの一体化が進められた。

さて、そんなサンマリノに電車が走っていた。イタリアの港町・リミニとを結ぶ32kmの鉄道で、1928年に着工。建設費はイタリア政 府が全額融資 した。つまりムッソリーニ政権による「サンマリノ一体化政策」の一環で、山の上にあり自然の要塞ともいえるサンマリノに鉄道を敷くことで、住民の生活や経 済をイタリアと密接に結びつけようという狙いだった。ただ、建設費の節約でレールの幅はイタリア(1435mm)とは異って狭軌で建設され、イタリア国鉄 との乗り入れはできなかった。

標高3・9メートルのリミニから542・8メートルのサンマリノまで急勾配が続くうえ、途中17ヵ所のトンネルがあり、難工事の末、鉄 道は1932 年に開通。サンマリノの国旗をあしらった青と白のツートンカラーの電車が走り始めた。途中駅は7ヵ所で、うち2ヵ所がイタリア領内にあった。

ところが、せっかく開通したサンマリノ行きの電車は、わずか12年で廃止されてしまう。第二次世界大戦でイタリアは43年9月に早々と 降伏するが、代わってドイツ軍がイタリアを占領して戦闘は継続。サンマリノもドイツ軍に占領されて、44年6月には連合軍の空襲を受けた。そして7月26 日を最後に電車の運行は不可能となってしまった。

戦後、鉄道の復旧計画が試みられたが、予算の都合などで具体化が進まず、58年から60年にかけてリミニ近郊に高速道路が建設された際 に、鉄道の路盤は分断されてしまった。

実は私、高校一年生の時に「リミニから鉄道が出ている」というイイカゲンな地図を頼りに、サンマリノへ行こうとリミニへ向かったとこ ろ、夜行列車の中で泥棒に遭ってしまい、サンマリノへ行く電車なんかとっくになくなっていたためサンマリノへも行けず、しょうがないのでローマまでヒッチ ハイクをして国鉄本社(?)らしき建物へ言って「アイ・ロスト・マイ・チケット…」と繰り返していたら、ユーレールパスを再発行してもらえ、さらにそれを 使ってパリへ行き、パキスタン航空の事務所へ連日通って「アイ・ロスト・マイ・チケット…」と繰り返していたら、航空券も再発行してもらえ、おかげで日本 へ帰って来れたということがあります(そのくせ帰りに寄ったタイでは、余裕ぶちかまして当時ポル・ポト政権崩壊直後のカンボジア国境まで歩いていこうとし て警備兵に止められた…なんてオマケもありますが)。

そういった次第で、なんかサンマリノにはもう行こうと言う気がしません…。

ADRIATIC ADVENTURE - AUSTRIA TO ITALY   道端に置かれているリミニ・サンマリノ電鉄の電車の写真(英語)




バーゼル市電 フランスを走っている(ドイツも走っていた)スイスの市電

昔のセントルイス線とヒューニンゲン線の運行系統図 「××× Grenze」から先がフランス領
昔のレラッハ線の運行系統図 「Riehen Grenze」から先がドイツ領
レイメン駅周辺の地図 赤線が市電で、水色の太い線が国境線

黄緑色が国境線。 Lorrachはドイツ領レラッハ、9のあたりがフランス領ビューニンゲン、セントルイスは37の右あたり
フラン スやドイツと国境を接するスイスの都市・バーゼルでは、市内交通の主役は昔も今も市電だが、かつては電車が国境線を越えて、フランス領のセントルイスや ヒューニンゲン、ドイツ領のレラッハまで走っていた。

セントルイスはバーゼルの北西にある町、ルイスビューゼルは北にある町で、いずれも1910年にバーゼルからの市電が開通。セントルイ ス線(1・8km)は複線だが、ヒューニンゲン線(2・8km)は農村地帯を走り、野菜の輸送を目的に建設したため単線で、途中1ヵ所ですれ違いができる ようになっていた。第一次世界大戦の勃発で、1914年から15年にかけて半年ほど運行を停止したが、戦後新たにドイツ側との国境が開放されたため、 1919年にはバーセル北東のレラッハまでの2・4kmが開通した。こちらは主に住宅街を走り、一部の区間を除いては複線だった。 

もっとも国境を越えるには出入国審査が必要だったので、3つの線とも電車は国境で折り返し運転していたが、1926年からは直通運転を 開始。ただし乗客は国境でいったん降りる必要があった。1939年に第二次世界大戦が勃発すると、国境は再び閉鎖されて電車の運行も中断された。戦後、 47年から3つの線の運転を再開したが、直通運転はぜずに再び国境で折り返す形になった。またフランス領内とドイツ領内の路線はそれぞれ仏独両国の政府が 買い取って、バーゼル市から電車を借りて運行することになった。

その後、フランス領内の路線はバス会社に買収されて、1957年にセントルイス線、61年にヒューニンゲン線を廃止。レラッハ市電と なったドイツ領内の路線は黒字経営が続いていたのに、67年に廃止されてバスに代わった。
 

灰色の線が鉄道で、 D9bの下がレイメン駅。他の市電は描かれていないのにロデルスドルフ線が載ってるのは、元私鉄だから?
こうし て外国の領土を走るバーゼル市電は消滅したのかと思いきや、1975年に改めてフランス領のレイメンを通るロデルスドルフ線が出現している。ロデルスドル フ線はもともと私鉄として運行されていたが、75年にバーゼル市が買収したもの。その後、市内乗り入れのための改良工事が行われて、86年からは市内との 直通運転が始まった。そういう経緯のため、市電といっても畑の中を走る単線のローカル線のような雰囲気の路線。フランス領にあるのはレイメン駅1つだけ で、終点のロデルスドルフは再びスイス領だ。

レイメン駅一帯はスイスの関税・通貨圏に含まれているため、フランス領といえどもスイスとの行き来は完全に自由で、レイメン駅で乗り降 りする際に出入国審査はない。そのかわりレイメン駅から電車に乗るにはスイス・フランしか使えない。

さて、現在バーゼルでは市電をLRT化して拡張しようと、再びセントルイスやバーゼル・ミュールーズ空港などのフランス領やドイツ領へ の延長計画を立てているが、レラッハ市議会では市電延長を拒否する決議が挙がったとか。なぜでしょう?たぶん建設費用の分担をめぐってだと思いますけど ね。

Tramclub Basel   セントルイス線の地図や写真。ビューニンゲン線レラッハ線現在のレイメン駅もあります(独語)




ザールバーン フランスへ乗り入れるドイツの路面電車

ザールバーンの路線図 

ドイツ南西部のザールと言えば、国境を挟んで向かい合うフランスのアルザス・ローレンヌ地方とともに、独仏両国で争奪戦を繰り広げた炭 鉱地帯。第一次世界大戦や第二次世界大戦でドイツが負けると、国 連管理地域になっていたこともあります。

そのザールの中心都市、ザールブリュッケンに新しく開業した路面電車(LRT)がザールバーンだが、郊外ではドイツ国鉄(DB)に乗り 入れ、さらに国境を越えてフランスのザルグミヌまで走っている。

ザールブリュッケンにはもともと路面電車が走っていて、郊外へも路線網を築いていたが、モータリゼーションによって1965年に廃止。 しかし昨今の路面電車見直しブームで、1997年に改めてザールバーンが開業したもの。ドイツとフランスはともにシュンゲン協定に加盟しているので、国境 でパスポートなどの検査は不要。もっともフランス領内は終点のザルグミヌ駅の1駅だけで、市内では7〜8分おきに走っているが、フランスまで行くのは1時 間に1〜2本だとか。

ザールブリュッケンのLRT(ザールバーン)   ザールバーンの写真と解説




【過去形】東ベルリンの地下を通る西ベルリンの地下鉄&西ベ ルリンを走る東ドイツの国電&市電 

詳しくはこ ちら を参照してくださいね。





【過去形】ニース沿岸軌道 モナコを走っていたフランスの路面電車

1914年の地図(ニース&モナコ) (ニース市内) (メントン市内)
1930年代の日本語の地図(ニース&モナコ) 

1914年のモナコ の地図(クリックすると拡大します)
旧市街線(下)やカジノ線などの支線もあったようで・・・
モナコ公国と言えば、バチカン市国に次いで世界で2番目に小さな国。海岸を除いて周囲をフランスにぐるりと囲まれ て、面積1・97平方kmと日本の皇居の2倍ほど。もともとはフランスとイタリアに跨るそれなりの広さがある国だったが、フランス革命で領土を没収されか けたためナポレオンが失脚したドサクサにイタリアの属国にしてもらい、今度はイタリアに征服されかけたため、1861年になんと領土の95%をフランスへ 売却して、王宮の周りだけかろうじて独立を守ったという、けなげな歴史を持つ国。

外交・防衛をフランスに委ねた保護国になったものの、領土を売却した資金でゴージャスなカジノを建てて観光客を集め、カジノが斜陽化し た最近では国際会議場を建てたり、グランプリや映画祭からスポーツ大会、花火大会まで、一年中各種イベントを開催して、テーマパークのような国家運営をし ています。

さて、モナコにはフランス国鉄が走っていて、モナコが狭い領土を有効活用するために、数年前に線路は地下に移されてしまったが、かつて はフランスのチンチン電車もモナコを走っていた。

この電車はニース沿岸軌道(T.N.L.)という会社が運行していたもの。T.N.L.はニースを中心に路面電車を経営していた会社 で、1879年からニース市内で鉄道馬車を運行していたが、1899年から路線を電化してチンチン電車を走らせていた。さらにニース郊外の町や村への路線 延長を手がけ、1903年11月にはニースから東へモナコのモンテカルロまで25kmが開通し、翌月にはイ タリア国境の町・メントンまでの11kmが延長された。現在ニースからモナコまで列車で15分ほどだが、海岸沿いの山道をくねくね走るチン チン電車では、おそらく1時間以上かかったことでしょう。

1907年にはニースから西へカンヌ(現在は映画祭で有名な町)まで33kmの路線も開通。T.N.L.は山間部へも路線を広げてニー スを中心に総延長144kmのネットワークを築き、1930年には183両の電車と96両の付随車を走らせていた。

この電車は乗客だけでなく貨物輸送もしていたが、新たにバスが登場すると、単線でトロトロ走る電車はたちまち乗客を奪われて、1930 年代には郊外線を縮小。モナコへの路線も1931年から32年にかけて廃止されてしまった。カンヌ線は1933年に廃止となり、ニースの市内線も1953 年までに廃止され、T.N.L.は代わりにトロリーバスの運行を始めたが、こちらも1970年に全廃。ニースでは現在改めて路面電車を復活させようと建設 が進んでいるが、さすがに市内だけで、モナコやイタリア国境までの「国際線」は、復活させる予定がないようだ。

Tramways français - Nice  ニース沿岸軌道の説明と写真(仏語)
Le site web du Village de Castillon  イタリア国境近くを走るT.N.Lの電車。現在でも当時の橋が残っているそうな(仏語)
現在 建設中のニース市内のトラムの路線図   青の路線がトラム、オレンジ色はバス専用道




【過去形】エルパソ電鉄 アメリカとメキシコを結んだ路面電車

エルパソ電鉄の路線図 太線が「国際線」で、点線は市内線

テキサス州のエルパソは、リオ・グランデ川を挟んでメキシコのシウダファレスと向かい合い国境の町。エルパソの住民の多くはヒスパニッ ク系で、メキシコ領との行き来が盛んだが、国境ではアメリカからメキシコへ行くにはほとんどフリーパスなのに、メキシコからアメリカへ入るのには厳しく チェックされる。

さて、エルパソとシウダファレスとの間には、1970年代まで国境を越えて路面電車が走っていた。そのルーツは1882年に開通した鉄 道馬車で、Paso del Norte Street Railway and Bridge Companyという会社がリオ・グランデ川に橋を架け、線路を敷いたのが始まり。1884年にはエルパソやシウダファレスを通ってアメリカからメキシコ へ向かう鉄道が開通したが、鉄道は本数が少なく、駅も中心街から離れていたので、地元住民はもっぱら鉄道馬車を利用していた。1888年にはもう1本別の 橋が開通してこちらにも鉄道馬車が走り、1901年には電化されて、時計回りの環状ルートを電車が走るようになった。

橋の中央を境にアメリカ側とメキシコ側の会社がそれぞれ線路を所有して、エルパソ電鉄(El Paso Electric Railway)が双方で電車を走らせていたが、国境では乗客はいったん全員下車して、審査を受けてから再び電車に乗る仕組みだった(国境での乗り換え風 景はこの写真この写真)。また車内での手荷物検査もあったようだ。

アメリカの路面電車は、自動車の普及によって1930年代には廃線が相次いだが、エルパソ電鉄は車を持っていないメキシコ人乗客の増加 に支えられて戦後も業績は好調で、1949年には路面電車が廃止されたカリフォルニア州のサンディエゴ市から新型のPCCカーを購入して輸送力を増加させ ていた。しかし1960年代後半になると相次いでケチがつきはじめ、66年8月に橋の架け替えのため運休し、67年11月に運行再開したものの、69年7 月に税関建て替えのために運休、70年11月に運行を再開したが、71年8月にこんどは道路拡張工事のため運休した。72年10月に運行を再開したもの の、73年7月に料金徴収員の争議が原因でまたも運行が中断。会社側は7月31日にメキシコへの運行を再開しようとしたが、メキシコ領内に入った電車はそ の場で政府によって差し押さえられてしまった。

その後、メキシコ領内だけで一時運行を続けたが、74年5月に停止。8月にメキシコ政府は差し押さえていた電車をアメリカ側へ返還した が、エルパソ電鉄の電車運行権は取り消されて、1977年はメキシコ領内の線路は撤去されてしまった。

El Paso TX/Juarez MX    かつてのエルパソ電鉄の写真がたくさんあります(英語)




【過去形】国際大橋軌道 アメリカとメキシコを結んだ路面電車

国際大橋軌道(International Bridge and Tramway Co)の路線図 

●まだ準備中です
 




【過去形】租界のチンチン電車 

★3ヵ国の電車が相互乗り入れ 〜上海〜

上海市街図(1933年) 
上海市電車路線図(1937年) 赤は電車、青はトロリーバス
最新上海市街地図(1940年) PDFファイル

市が経営している路面電車を市電と言い、都が経営していれば都電と言いますが、かつて上海には英電法電華電という3つの路面電車が走っていました。英電とはイギリス人が経営していた電車で、法電はフランス 人が経営(つまり日本式にいえば仏電)、華電は中国人が経営していた電車のこと。

戦前の中国の主要都市には列強各国が行政権を支配する租 界があり、上海には共 同租界とフランス租界があったが、共同租界で1908年に電車を開通させたのが、ロンドンに本社を置く英商上海電車公司(Shanghai Electric Construction Co.Shanghai Tramway)という会社。共同租界はもともとイギリス租界とアメリカ租界が合併してできたもので、イギリスに様々な利権があったからだ。

フランス租界でもイギリスの会社が電車を走らせようとしていたが、結局パリに本社を置くフランス資本の法商電車電灯公司 (Compagie Francaise de Tramways et E’clairage Electrique)に運行させることになり、英電の2ヵ月遅れで開通。一方、中国政府が管轄していた租界以外の地域(南市)では、法電が外灘(バン ド)沿いに十六舗まで運行していたが、「これ以上、市民の足を外国企業に支配されてはたまらない」と、中国人が設立した上海華商電車公司が電車を走らせる ことになり、1913年に開通した。

こうして上海では英電と法電、華電がそれぞれ別々に運行していたが、これでは不便なので、1912年からイギリス電車とフランス電車の相互乗り入れが、14年からはフランス電車と中華電車の相互乗り入れが始まった。つまり同じ路線でイギリス電車が来たりフランス電車 が来たりするようになったのだが、当時は車内放送なんてなかったし、切 符はイギリス電車が英語と中国語、フランス電車は仏語と中国語で書かれていたようだが、乗客も乗務員も大部分は中国人だったのでどこの国の電車に 乗っても、ほとんど不便はなかったはず。

イギリスの路面電車といえば今も走っている香港の2階建て電車が有名だが、上海のイギリス電車は2階建てでないかわりに2両編成だっ た。一方でフランス電車は2両編成は半分程度だったものの、乗務員の給与が高めでサービス改善に努め、中華電車は後から開通したことでドイツ製の最新式ボ ギー車を輸入して乗り心地が良かった・・・らしい。英電、法電、華電ともに1等席と2等席(または3等席)に分かれていた。1914年には英電がトロリー バスを開通させたが、26年からはイギリスのトロリーバスとフランスのトロリーバスも相互乗 り入れもスタートした。

1937年の第二次上海事変で日本軍が租界を除く上海を占領すると、華電は日本の傀儡政権の上海市に接収され、41年に真珠湾攻撃で日 本がイギリスに宣戦布告すると英電も日本軍に接収された。しかしフランス租界は親独のビジー政府を支持していたので、フランス電車はそのままだった。租界 は日本軍の占領下で1943年に中国へ返還されて消滅したが、イギリス電車は戦後改めて復活して、フランス電車とともに共産党政権の下でも運行を続けてい た。

しかし1950年に朝鮮戦争が勃発すると、イギリスとフランスは国連軍、中国は志願兵を派兵し、戦火を交えることになった。こうして 「敵国経営の電車」である英電は52年に、法電は53年に接収され、租界の名残だった外国資本の電車は姿を消して、すべて上海市電として一本化された。上 海市電は1975年までにすべて廃止されて、現在はトロリーバスになっています。

左:1936年の上海電車路線図。赤は英電と華電、青 は仏電(クリックすると拡大します)。右:イギリス電車(手前)とフランス電車の乗り入れ光景
  

★6ヵ国を通り抜けて「電車租界」も経営 〜天津〜

天津市内地図(1919年) 

租界を走る天津の電 車
列強9ヵ国の租界があった天津にも路面電車が走っていた。ただし租界ごとに別々の会社が運行していては収拾が付かなくなる わけで、ベルギー資本の世昌洋行(Edward Meyer&Co.)が設立した比商天津電車電灯公司が(※)、1906年に中国政府が管轄する城内(旧市街)のほか、日 本租界、フランス租界、イタリア租界、ロシア租界、オーストリア租界と、合わせて6ヵ国もの行政地 域に跨った路面電車を開通させた。
※世昌洋行はもともとドイツ資本の商社で、早くから東アジアへ進出し、朝 鮮の租界で土地を買い占めて日本勢を苦しめていたが、中国では武器取引を通じて袁世凱と関係を結び、日本製を押しのけて天津の道路整備を請け負 い、電車の敷設権も獲得した。しかし資金が行き詰まり、ベルギーの銀行に経営権を奪われてしまった。
建設にあたってはいちいち6ヵ国の認可を必要としたほか、営業税や法人税などの税金をどこに納めるかでも大問題。どこか1つの政府だけに納めたら他の政府 は電車の運行を認めないし、すべての政府に税金を納めていたら採算が取れなくなってしまう。そこで、会社は収入の3・5%を営業税として支払うことにし て、それを電車が通っている距離に応じて中国側の天津市と各租界で配分することに決めた。ベルギー資本で元ドイツ系の会社なのに、ベルギー租界とドイツ租 界に路線を延ばさなかったのは、これらの租界は場所が辺鄙で人口が少なかったためだが、それまで租界の中心地として栄えていたイギリス租界に乗り入れな かったのは、おそらく納税配分を巡って折り合いがつかなかったからでしょう。

こうして走り始めた天津の市内電車の運転系統は色で識別されていて、白=城内一周、赤=城内〜オーストリア〜イタリア〜ロシア〜天津 駅、黄=城内〜日本〜フランス〜税関、青=城内〜日本〜フランス〜ロシア〜天津駅、緑=天津駅〜フランス縦断、花=東北角〜日本〜フランス〜税関の6系統 があった。

電車の経営は順調で、各租界の政府に割増の配分金を納めるほどだったが、ベルギー租界の方は開発が進まない荒地のままで、1913年に租 界が民営化されてしまう。租界の行政を担当する会社の大株主になったのは、電車会社やその親会社の銀行。政府が経営する路面電車(市電)は世界中 に数あれど、路面電車が政府を経営した(つまり電市?)のはおそらくここだけ。それでも租界 の開発はさっぱりで、1931年に中国へ自主返還された。

1943年に天津の路面電車は日本軍に接収されて、バスとともに日本の国策会社として設立された天津交通(いかにも日本的な社名)が運行。戦後は国民党政権によって天津交通が接収されて、ようやく名 実ともに市電となった。その後、共産党政権の下で50年からトロリーバスへの置き換えが進み(※)、市電は72年に全廃されています。

※天津市は当初、日本製のトロリーバスを輸入しようと発注したが、車両が完成した ところで朝鮮戦争の勃発によりアメリカ占領下の日本は中国への禁輸措置を実施。天津へ輸出できなくなって困った車両は東京都が引き取り、52年に都 営のトロリーバス を開業した。

★帝国ホテルの姉妹会社の馬車鉄道がルーツ 〜奉天(瀋陽) 〜

奉天市内地図(1919年) 馬車鉄道時代の地図。駅周囲の点線内が満鉄付 属地
奉天市内地図(1933年) 大北門と大西門へ2路線に。満鉄付属地の周り に商 埠地が出現

戦前の満州の奉天(現:瀋陽)や新京(現:長春)では、日本が行政権を持つ満 鉄付属地と中国・満州国の支配地域との間を跨って、路面電車が走っていました。

奉天の電車は1907年から日本の大倉組(※)と中国人との共同経営で走らせていた鉄道馬車がルーツ。15年間の経営権が切れた22年 からは、鉄道付属地では大倉組が、それ以外では中国側の瀋陽馬車鉄道公司善後事務処(清算事業団みたいなもの)が別々に運行を続けていたが、新たに電車を 走らせることになり、大倉組の奉天電車と奉天市がそれぞれ建設して、1925年に開通させ た。電車は奉天市が走らせたが、鉄道付属地に乗り入れる路線は奉天電車との共同運行とされていた。

※大倉喜八郎が設立した財閥で、帝国ホテルや大成建設などのルーツ。大倉組は早く から満州へ進出し、本渓湖炭鉱などを経営したが、喜八郎は張作霖と関係が深く、張が本拠地としていた奉天でさまざまな事業に乗り出していた。鉄道馬車もそ の1つ。
1932年に満州国が成立すると、奉天市も実質的に日本側の支配下に置かれ、市内交通の一元化を図ることが決定。37年に奉天市の電車部門と奉天電車、そ れと市内でバスを運行していた「黄バス」こと日系の満州自動車(※)が統合されて、半官半民の奉天交通が 設立された。同年に鉄道付属地は満州国へ返還されて消滅している。
※このほかロシア人が経営する同興汽車(青バス)もあったが、日本側からの圧力で 34年に満州自動車に買収されていた。
戦後、国民党政権の下で奉天交通は接収されて奉天改め瀋陽市電になり、共産党政権の下では徐々にトロリーバスに置き換えられて、市電は74年に廃止。 147・7kmの路線と422台の規模を誇ったトロリーバスも1999年に廃止されています。

 
左:奉天の馬車鉄道。右:満鉄付属地を走る奉天の路面電車


★首都中心部の「外国」を走った電車 〜新京(長春)〜

長春市内地図(1919年) まだ路面電車はなかった頃。駅南側の点線に囲 まれた地域が満鉄付属地。寛城子駅付近にはソ連が行政権を持つ中 東鉄道附属地も。

長春は満州国の建国と同時に首都が置かれて新京と改称したが、満州の他の主要都市と同様に、駅を中心とした市街地は日本が行政権を持つ 満鉄付属地で、満州国の官公庁が建ち並ぶ首都の中枢部には満州国の法律が及ばないうえ、住民 から税金を徴収することもできなかった。日本人や日本企業の多くは満鉄付属地に住み、満州国の法律には従わず、外国の鉄道会社(=満鉄)に税金を納めてい たという状態。まぁ、これでは「傀儡国家」と呼ばれたのも無理はないですね。

その結果、満鉄の年間収入は3億円、利益は5000万円に達したのに対して、満州国の税収は4000万円足らずに過ぎず、これでは国家 が成り立たないということで、1937年に満鉄付属地は満州国へ返還された。

その新京に路面電車が開通したのは1935年のこと。新京特別市と満電バス、官吏通勤バス(※)が合併して成立した半官半民の新京交通が運行したのだが、満鉄付属地と跨って運行した期間は2年間ということになる。

※「官吏通勤バス」ってヘンな社名?だが、これは市が運行していたバス。それなら 新京市営バスと呼べばいいのに・・・と思うのだが、満州国に行政権のない付属地に満州国の市営バスが乗り入れるには、日本側とのヤヤコシイ折衝が必要だっ たため、「公務員の通勤用」ということにして、実質的には市バスを走らせていたという次第。
1940年代に入ると新京の人口が急増したのに加え、ガソリン不足でバスが走れなくなったことから路線網は大幅に拡張されたが、戦後道路が日本式の左側通 行から右側通行へ変更されると多くの車両が走れなくなり、国共内戦の混乱で電車は長く運休が続いた。共産党政権の下で一部路線が復活し、1960年からは トロリーバスへの置き換えが始まったが、現在でも1路線だけ残っていて、古い日本製も走っているようです。

このほか、中国には香港と大連に路面電車があり、かつては北京、ハルビン、鞍山でも走っていましたが、香港はイギリス領、大連は日本領 だけの運転で、北京には租界はなく、ハルビンは中東鉄道付属地が消滅した後の開業で、鞍山は戦後の開業なので、複数国の行政区域を走っていた電車ではあり ませんでした。

写真館 新京 市電   1999年の長春市電。日本の電車そのまんま。でも最近はリニューアルされちゃったそうです
懐かしい地図   新京当時の路面電車の路線網が描かれた地図があります
TRAM VIEWS OF ASIA   天津や上海の昔の市内電車の写真があります。満州は こちらですが、MUKDENとは奉天のこと(英語)
老 車票   天津や上海の昔の市内電車の切符があります(中国語)
 

参考資料:
『満州国現勢 康徳4年版』 (満州弘報協会 1937)
『天津居留民団三十周年記念誌』 (天津居留団 1941)
『現代地図帳 三訂版』 (二宮書店 1979)
吉田一郎 『国マニア 』 (交通新聞社 2005)
堀淳一 『北イタリアの電車点描 ドモドッソラ・ロカルノ線とイタリア・スイスミニ国際旅行』 (『鉄道 ファン』1973年3月号 交友社)
窪田太郎 『シリーズ世界の鉄道めぐり オーストリア』 (『鉄道ジャーナル』1984年12月号  鉄道 ジャーナル社)
Multi Map http://www.multimap.com/
University of Texas Libraries http://www.lib.utexas.edu/
The Vatican City State Railway http://www.sinfin.net/railways/world/vatican/vaticanrail.html
Berlin: Verkehr http://www.berliner-verkehr.de/
Transports en commun de Nice T N L http://www.nissalabella.net/tnl.htm
FACS-UNECTO http://www.trains- fr.org/facs/lig06.htm
Tram-Oldtimer Basel  http://www.tramoldtimer-basel.ch/
STramclub Basel  http://www.tramclub-basel.ch/
ELECTRIC TRANSPORT IN LATIN AMERICA http://www.tramz.com/
http://it.wikipedia.org/wiki/Ferrovia_Rimini-San_Marino (イタリア語)
上海市地方誌弁公室 http://www.shtong.gov.cn/

上海電車発展簡史 http: //www.csjs.gov.cn/sys/csjt_detail.aspx?TabaleName=tmp8&id=421
Institut d'Asie Orientale http://iao.ish-lyon.cnrs.fr/francais/index.html
北方網 http: //tianjin.enorth.com.cn/system/2004/11/16/000904028.shtml
瀋陽公交網 http://www.shenyangbus.com/gjxg/ wz/2004-11-19/20041119012017023.html
長春档案信息資料網 http: //www.ccda.gov.cn/ccda/PubTemplet/prite.asp?infoid=1005&style=prite
 
 
 

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