国連総会で8年間、廊下に立たされていた国

ユーゴスラビア

ユーゴスラビア連邦共和国→セルビア・モンテネグロ
首都:ベオグラード 人口:1065万6929人(2002年)



1992年4月27日 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国 が、ユーゴスラビア連邦共和国へ改称
1999年6月12日 コソボ自治州が国連の暫定統治下に置かれる

2003年2月4日 セルビア・モンテネグロに改称
2006年6月5日 モンテネグロが独立し、消滅

旧ユーゴスラビアの分割図  ピンクの部分が新「ユーゴ」
新 ユーゴスラビアの地形図 

6つの共和国で構成していたユーゴスラビア は、1991年から92年にかけて4つの共和国が次々と独立し、残ったのはセルビアとモンテネグロだけになった。そこでユーゴスラビアは 憲法を改正し、国名を「社会主義連邦共和国」から「連邦共和国」へ変更したが、果たして旧ユーゴと新ユーゴは同じ国かどうかが、国連で問題になってしまった。

国連加盟国のうち、途中で領土の一部が独立して別の国になったケースはいくつもある。例えばイギリスやフランス、ポルトガルは数多くの 植民地が独立したし、マレーシアか らシンガポールが独立したり(1963年)、最近だとスー ダンから南スーダンが独立したが(2011年)、独立した国が国連に新規加盟しても、独立された国が国連に加盟し直すなんてことはな かった。

しかし、ユーゴの場合は国連総会で「旧ユーゴの地位の自動的な継続を認めず、新ユーゴは新たに国連に加盟し直すこと」と決議され、新ユーゴの代表は 国連総会に出席できなくなった。

国連総会ではアフリカや南米諸国から「いくらなんでもおかしい」と疑問の声が挙がった。国内の一部の地域が独立したら、独立された国の 国連加盟までいったん取り消されてしまうのでは、独立紛争を抱えている国はたまったもんじゃない。一方で、決議を提案したヨーロッパ諸国は「国連の代表権 を どこが引き継ぐか、旧ユーゴのすべての国の合意が必要だ」と主張したが(※)、それなら旧ユーゴのすべての国の合意がないのにクロアチアやスロベニア、ボ スニアがさっさと国連加盟を認められているのもおかしなことになる。

※ちなみにソ連が解体した時は、ソ連が持っ ていた国連の代表権や安保理のポストはロシアが引き継ぐことで合意していた。

クロアチアは調子に乗って、「旧ユーゴは消滅して新ユーゴは国連に加盟していないのに、国連本部の入口には相変わらず旧ユーゴの国旗が 掲揚され、議場に『ユーゴスラビア』の名札が置いてあるのはおかしいか ら、撤去 しろ」と要求したが、これに対する国連事務局の回答は、「旧ユーゴは国連加盟を停止や終了されていないので、旗や名札はそのままにしておく」「新ユーゴの 代表は総会の出席以外の活動はできるし、資料も代表に渡すが、議場には着席 できない」というものだった

実体が消滅した旧ユーゴが国連に加盟し続けていて、加盟申請していない新ユーゴも国連で活動するのは構わないが、総会の時には「廊下に 立たせておく」というわけで、ようするに新 ユーゴの代表権問題は、国連の規定や国際法うんぬんの判断ではなく、国連を 舞台にしたイジメのようなもの。新ユーゴ(というよりセルビア)は、当時ボスニアやクロアチア への軍事介入で、国際的な非難を浴び経済制裁を受けていたが、その延長線上にあったのだ。

それでも新ユーゴは旧ユーゴとはまったく別の国ということにして、国連から完全に締め出さなかったのは、新ユーゴをジェノサイド条約違反で訴えられなくなってしまうから。

ユーゴスラビアは1950年にジェノサイド条約(集団殺害罪の防止および処罰に関する条約)を締結したが、ボスニアとクロアチアは新 ユーゴが条約に違反して、集団虐殺を行ったと国際司法裁判所に訴えた。もし新ユーゴと旧ユーゴがまったく別の国なら、ジェノサイド条約を結んだのは旧 ユーゴだから新ユーゴは違反にならないし、そもそも国際司法裁判所で争える当事者は、国連加盟国か安保理や総会が決めた条件に従った国と定められているの で、新ユーゴは司法の管轄外になってしまう恐れもあった。

ミロシェビッチ

コソボの 独立紛争を弾圧していた新ユーゴは、1999年にNATO軍の空爆を受けたうえ、コソボ自治州は国連の暫定統治に入って切り離された(2008年に独 立)。「旧ユーゴ=新ユーゴ」だと主張してあくまで国連への加盟申請を拒んでいたミロシェビッチ大統領が2000年に退陣すると、新政権は国連への「新規 加盟」を申請。国連総会で全会一致で承認され、新ユーゴ代表は「ユーゴスラビア」の名札がある席に8年ぶりに着席が許され、国連本部前の旗も新ユーゴの国旗に取り換えら れた。

国際社会で「大悪人」の烙印を押されたミロシェビッチは、権力濫用や不正蓄財で01年に逮捕され、さらに旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷 に移されたが、審理中の06年に獄中で急死している。

とばっちりを受け続けたモンテネグロが独立し消滅へ

国連総会で座ることができ、晴れて国際社会へ復帰した新ユーゴだったが、こんどはモンテネグロが独立を要求し始めて、わずか数年で消滅 してしまった。

セルビアが世界からつまはじきにされて経済制裁を受けたおかげで、とばっちりを受けたのはモンテネグロだった。セルビア経済が崩壊し、 超インフレに襲われると、モンテネグロは96年に独自の中央銀行を設立して、通貨をユーゴ・ディナールからドイツ・マルクへ切り替えてしまった(02年以 降はユーロ)。

コソボの独立紛争が激化し、99年にNATO軍が新ユーゴを空爆すると、モンテネグロはあまり被害を受けなかったが、コソボから多数の 難民が押し寄せた。こうしてミロシェビッチが失脚すると、モンテネグロでは独立を求める声が大きくなり、02年の選挙では独立派が勝利。「海への出口」を 失いたくないセルビアは、まさか独立を軍事力で封じ込めてコソボ紛争の轍を踏むわけにはいかず、03年に新ユーゴをセルビア・モンテネグロと改称して緩やかな連邦制に移行した。

セルビア・モンテネグロでは外交や防衛も別々となり、連 邦制は緩やかどころか実質的には有名無実なものになった。さらに憲法で3年には連邦脱退(=独立)も可能と明記され、セルビアはこれで モンテネグロをなだめすかせることができると思ったようだが、モンテネグロは06年に独立の是非を問う国民投票を実施。新たな紛争が勃発することを恐 れたEUは「独立賛成が55%以上であること」と条件を付けたものの、結果は独 立賛成が55・4%と僅かながら上回り、モンテネグロは独立が決定。セルビア・モンテネグロは消滅した。

モンテネグロの国民は、モンテネグロ人43%に対してセルビア人32%。独立に際してボスニアのように民族対立が激化したかと言えば、 そんなことは全くなかった。

モンテネグロ人とセルビア人はともに南スラブ系の民族で、言語は同じなら宗教はどちらも正教徒。実はモンテネグロ人とセルビア人の境界は曖昧で、セルビア大統領から新ユーゴ大 統領になったミロシェビッチは、セルビア生まれのセルビア人だが、兄はモンテネグロ人。兄弟で民族が違うのはなぜかと言えば、ユーゴでは民族は自己申告制だったので、「自分はセルビア人だ」 と思えばセルビア人、「モンテネグロ人だ」と思えばモンテネグロ人になったのだ(※)。

※日本にもそういう人はいる。例えば王貞治 は台湾人だが、兄は中国人。なぜなら父親は戦前(中華民国の時代)に山東省から日本へ来た人で、子供の国籍を兄は中華人民共和国(中国籍)、弟は中華民国 (台湾籍)で届け出たから。同様に朝鮮半島出身の人で、兄弟で韓国籍と朝鮮籍に分かれてる人もいる。

歴史的に遡れば、セルビアは15世紀にオス マントルコに占領されたが、地形が険しいモンテネグロはトルコの属国になりながらも、セルビア正教会の聖職者による公国を維持。つまりセルビア文化を守り続けたのがモンテネグロだった(※)。旧ユーゴ時代 に おけるモンテネグロの民族別人口は、モンテネグロ人が62〜69%に対してセルビア人は3〜9%だったが、新ユーゴ時代にセルビア民族主義が高揚したこと で、「自分はセルビア人だ」と考える住民が増えたようだ。

※ミロシェビッチの父親も、モンテネグロで セルビア正教会の聖職者をしていた。

そんな背景から、最後までセルビアを見捨てなかったモンテネグロだが、背に腹は代えられず僅差でセルビアを見限ることに。独立後のモンテネグロでは、「そ もそもモンテネグロ人はイリリア人(古代ギリシャやローマの時代に、バルカン半島沿岸部に住んでいたとされる民族)との混血で、セルビア人とは違う」とい う考えも広まっているらしい。

第一次世界大戦の直前にモンテネグロが独立していた頃の地図



参考資料
山田哲也 「ユーゴスラヴィアの国際連合における地位について」 『法政研究』67巻2号 (九州大学法政学会 2000)
ひとりごとリターンズ 一連のユーゴスラビア紛争関連ICJ判決の整合的理解について http://peopletalk.jugem.jp/
千田善 最近のボスニア(旧ユーゴスラビア)情報 http://www.pluto.dti.ne.jp/~z-chida/recent.html
wikipedia http://ja.wikipedia.org/

 

「消 滅した国々」へ戻る

『世界飛び地領 土研究会』TOPへ戻る