
民主主義の下では不可能だった、南スラブ諸民族の統一
旧ユーゴスラビア
セルビア人・クロアチア人・スロベニア人国→セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国
→ユーゴスラビア王国→(消滅)→
ユーゴスラビア民主連邦→ユーゴスラビア連邦人民共和国→
ユーゴスラビア社会主義連邦人民共和国
人口:2372万4919人(1989年) 首
都:ベオグラード
1918年12月1日 セルビア人・クロアチア人・スロベニア人国が成立
1920年8月24日 セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国に改称
1929年10月4日 ユーゴスラビア王国に改称
1941年4月10日 ドイツ占領下でクロアチア独立国が成 立
1941年4月17日 ドイツとイタリアが分割占領して王国消滅(イギリスに亡命政府)
1941年7月12日 イタリア占領下でモンテネグロ独立国が成立
1943年12月4日 パルチザンがユーゴスラビア民主連邦を樹立
1945年12月5日 ユーゴスラビア連邦 人民共和国が成立
1963年4月7日 ユーゴスラビア社会主義連邦人民共和国 に改称
1991年6月25日 スロベニア、クロアチアが独立
1991年9月18日 マケドニアが独立
1992年2月29日 ボスニア・ヘルツェゴビナが独立
1992年4月27日 セルビアとモンテネグロがユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴ)を結成
高校生の時、世界史の授業で「『欧州の火薬庫』と呼ばれたバルカン半島で、第一次世界大戦が勃発し…」と習いました。バルカン半島と は、その頃で言えばユーゴスラビア一帯のこと。「あんな平和そうな場所が、一体なぜ『火薬庫』なのか…」と、大いに疑問を持った記憶があります。
その後、大学に入ったら周りに左翼の人たちがいて、「おまえも左翼になれ」とオルグされました。私が「社会主義の国って、どこもダメ じゃん」と言うと、「ユーゴスラビアを見よ!」と反論されました。なにしろ1980年代まではユーゴスラビア連邦といえば、「模範的な社会主義国」という ことになっていて、千年以上にわたり紛争の絶えなかった地域で「民族共存」を実現し、各共和国への分権を進め、工場では労働者の自主管理を尊重し、ソ連に 対しては自主路線を貫き、西側諸国にも開放的で、欧米や日本から簡単に観光旅行ができる社会主義国・・・ということで有名だった。それが社会主義体制が崩 壊した途端、各共和国は独立してそれぞれが内戦に突入し、旧ユーゴは一転して世 界でも悪名高い紛争地域、『欧州の火薬庫』に逆戻りしてしまった。
バルカン半島は19世紀まで、オスマントルコとオーストリア=ハンガリー帝国が分割していたが、オスマントルコの弱体化に伴って独立紛 争が激しくなり、1817年に自治領としてのセルビア公国が成立、82年にセ ルビア王国として独立した。しかしユーゴ一帯の民族構成は複雑で、コソボに住むアルバニア人以外は 南スラブ系民族で、言語もほぼ同じだったが、宗教は正教徒(セルビア人、モンテネグロ人、マケドニア人)、カトリック教徒(クロアチア人、スロベニア 人)、イスラム教徒(ボシュニャク人、アルバニア人)と様々で、同 じ町や村に混在して暮らしていた(※)。
※この他、ユダヤ人やロマ人(ジプシー)に 加え、かつて海岸沿いのダルマチア地方には、 ベネチア領時代に移住して来たり、古代ローマ帝国時代のラテン人の後裔のイタリア人も住んでいた。
そこで、セルビア人だけでなく、スラブ系民族が団結して独立しようという機運が生まれ、クロアチアでオーストリアからの自治を要求して いたフラニョが、1866年に「ユーゴスラビア科学芸術アカデミー」を設立した。ユーゴスラビアとは「南スラブ人の地」という意味。南スラブ系民族の文 化的同一性、さらに政治的統合(諸民族の団結による独立の実現)を目的としたもので、フラニョはセルビアとの連携を模索した。
セルビア側にとっては念願の「大セルビア主義」の 実現に役立ち、クロアチア側にとっては先に独立を果たしたセルビアの力を借りようとい う思惑があったが、南スラブ(ユーゴスラビア)で連邦国家の樹立をという構想は、この時から生まれた。
議会で銃撃事件の末、国王の独裁体制となり、独伊が分割
オーストリアの皇太子がサラエボ(現在ボスニアの首都)でセルビア人に暗殺された事件を契機に勃発した第一次世界大戦は、オーストリア とオスマントルコがともに敗戦国となり、南スラブの独立が決まった。新国家はセルビア王国(マケドニアやコソボを含む)に、1878年にオスマントルコか ら独立していたモンテネグロや、オーストリア領だったボスニア、クロアチア、スロベニアを合わせることになった。セルビア国王が新国家の国王になり、首都 はセルビアのベオグラードに置かれ、実質的にはセルビア人主導の体制になったが、国名はセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国として、南スラブ民族 の連合王国という理念を掲げた。
第一次世界大戦後にイタリアが要求した領土(緑)
しかし、 ユーゴは発足から不安定な要因を抱えていた。1つはイタリアとの領土問題だ、 第一次世界大戦で、イタリアは当初中立を決め込んでいたが、イギリス・フラン ス・ロシアの3カ国は1915年のロンドン秘密条約で、イタリアが連合国側として参戦すればオーストリアが支配しているトリエステ半島(イストリア)やダ ルマチアを与えることを約束した。
イタリアにとってはかつてのベネチア領の回復が果たせると、喜び勇んで参戦したものの、戦後、民族自決の高まりの中で、連 合国はダルマチアをユーゴに与え、イタリアが得たのはザーラ(現 クロアチア領ザダル)と、ラゴスタ島(現クロアチア領ラストボ島)などいくつかの小島だけ だった。
60万人もの戦死者を出したイタリアでは、「約束が違う」と不満が高まり、アドリア海北端のフィ ウメ(現クロアチア領リエカ)を、詩 人・ダンヌンツィオが「黒シャツ隊」という私兵2500人を率いて15ヵ月間にわたって占領した(※)。20年11月にユーゴとイタリアで条約を結び、 フィウメはどちらにも属さない独立自由市(都市国家)となった後、24年に両国で分割したが、ダルマチアに住んでいたイタリア人の多くはユーゴの下で迫害 を受けて逃げ出し、イタリアは「ダルマチア奪還」のチャンスを虎視眈々と狙っていた。
※フィウメには、軍人やナショナリスト からサンディカリスト、アナーキストから芸術家まで集まり、イタリアの反政府運動の拠点になった。ダンヌンツィオは「国家の最高原理は音楽」という憲法 (カルナロ憲章)を発布して自ら大統領に就任。朝は市庁舎のバルコニーで即興の詩を披露し、夜は毎日大規模なコンサートを開いたりと、市を挙げての放蕩三 昧を繰り広げた。
もう1つの不安要因は、議会でのセルビア人とクロアチア 人との対立だった。セルビア人の政党は中央集権を主張し、クロアチア人やスロベ ニア人の政党は地方分権や連邦制を主張した。議会ではセルビア人の政党が政権を握ったものの、イスラム教徒の政党との連立になり、一方でクロアチア人の政 党は、王制の廃止を主張して国王への宣誓を拒み、議員資格を剥奪されたりした。
28年には与党のモンテネグロ人議員が、議会で演説中に「大セルビア万歳!」と叫びながら野党のクロアチア人議員に発砲し、3人を射殺 する事件が発生。国王アレクサンドル1世は翌年、独裁制を宣言して議会を閉 鎖、民族や宗教による政党を禁止した。
アレクサンドル1世は、民族対立を根絶するには、各民族の連合という考えをやめて、ユーゴスラビア人という1つの民族になるべきだとい う「ユーゴスラビア統一主義」を掲げて、国名をユーゴスラビア王国に変更。さらにクロアチア、スロベニアといった歴史的な行政区分を廃止して、川や山 脈などの地形を境にした行政区分に変更した。
第二次世界大戦中のユーゴ
しかし、セルビア人主体の政 府が変わらないのなら、ユーゴスラビア統一主義は「大セルビアによる他民族の同化、抹殺だ」と、他の民族は反発を強め、クロアチアでは農民が暴 動を起こし、アレクサンドル1世は34年、マケドニアとクロアチアの民族主義過激派によって暗殺された。
第二次世界大戦が勃発すると、ユーゴはナチスドイツとイタリアによって占領され、国王はイギリスに亡命した。ドイツとイタリアは民族対 立に付け込んでユーゴを解体し、スロベニアはドイツとイタリアが分割して併合、クロアチア(ボスニアを含む)はドイツの傀儡国として独立し (※)、 ダルマチアはイタリアが併合、モンテネグロはイタリアの傀儡国として独立し、コソボは イタリア占領したアルバニアへ割譲、マケドニアはハンガリーに割譲されて、残った地域にはドイツ占領下でセルビア救国政府が作られ、ユーゴスラビアは消 滅 した。
※独立したクロアチアは、ナチスに倣って収 容所を作り、ユダヤ人やロマ人(ジプシー)を殺害したが、数十万人のセルビア人も殺されたと言われている。91年以後の紛争では、セルビア側は「報復」を 強調した。
経済や外交は独自路線でも、一党独裁は変えなかったチトー
パルチザン(遊撃隊)を率いてドイツ軍やイタ リア軍に抵抗していたのがチトーだ。チトーは父親がクロアチ ア人、母親はスロバキア人で、第一次世界大戦ではオーストリア軍に徴兵されたが、ロシア軍の捕虜となってロシアへ連行されたが脱走。赤軍に加わってロシア 共産党に入党し、戦後ユーゴスラビアへ帰国してユーゴ共産党のメンバーになっていた。
チトーは43年に民主連邦政府を作ったのに続き、終戦後は国王の帰国を拒みながら総選挙を実施。共産党が約9割の議席を得て圧勝し、 45年12月にユーゴスラビア連邦人民共和国を成立させた。国内の各地域は、ソ連に倣って「社会主義共和国」となり、セルビア、クロアチア、スロバキア、 ボスニア、モンテネグロ、マケドニアの6共和国が作られ、それぞれの共和国の権限は平等とされた。またセルビア共和国内のコソボとボイボディナは自治州と なり、ユーゴ全体におけるセルビアの影響力は、王国時代よりも縮小された。
ユーゴは東欧の社会主義圏にあって、ソ連の衛星国にはな らなかった。他の東欧諸国が、ソ連軍によってナチスドイツから「解放」されたのとは異なり、ユーゴはパルチザンが自力の戦いでドイツやイタ リアを追い出した(※)。だから「ソ連の言いなりになる覚えはない」と言うのも当然だろう。
※いちおう英軍の助けは借りたが、英軍は終 戦後に占領せず撤退した。
47年末になると、ソ連とユーゴの仲は険悪になった。その1つはバルカン連邦構想で、ユーゴはアルバニア、ハンガリー、ブルガリア、 ルーマニア、ギリシャと連邦を組み、バルカン半島を統一する構想をぶち上げたが、ソ連は親ソ国のブルガリアとだけで連邦を組むように提案した。2つ目はア ルバニア問題で、ユーゴはとりあえずアルバニアを連邦に加えようと考え、ソ連顧問団の引き揚げと、ユーゴ軍の駐留をソ連に要求したが拒否された。
ソ連はユーゴ内の親ソ派を使ってチトー政権を転覆させようとしたが、チトーは親ソ派を粛清した(※)。その結果、48年6月にユーゴは コミンテルンを除名され、以後チトーは第三世界のリーダーの1人として、独自外交を進めていった。
※ソ連はチトーを暗殺しようと刺客を何 度か送り込んだが失敗。チトーはスターリンに「モスクワへ殺し屋を送る」 と電報を打って脅し、スターリンはチトー暗殺を断念したそうな。
経済面でもユーゴの社会主義は独自路線だった。ソ連や他の社会主義国のように、企業を国有化して政府が生産を管理するのではなく、労働者による自主管理に委ねた。つまり企業ごとまたは職場ごとに労働者 が評議会を設置して、企業をマネージメントする経営者を雇うという仕組みで、労働者たちが優秀な経営者を雇い、その下で一生懸命働けば、企業の利益が増 え、所得も増える仕組み。ユーゴは東欧圏から仲間外れにされた結果、西側諸国との貿易が増え、企業の中にはアグ ロコルメツ社のように世界各国に進出して多国籍企業に発展するものまで現れた。
ユーゴは自主管理主義を「真の社会主義はこちら」と宣伝したが、企業間格差や所得格差、地域の経済格差は広がることになった。68年に はコソボの アルバニア人が共和国への昇格を求めて抗議し、71年にはクロアチア人が「いまだに政治権力がセルビア人に支配されている」と分離独立を要求し始めた。
そこでチトーは74年に憲法を改正し、各共和国の権限をさらに増やすとともに連邦から離脱する権利も認め、自治州の権限を共和国並みに 引き上げた。するとこんどはセルビア人の不満が強くなった。
それでもチトーが元気なうちは、パルチザン以来のカリスマ性と、「ソ連からユーゴを守っている」という信頼で、各民族の不満はそれ以上 に爆発しなかったし、経済改革は進めても、政治面では共産主義者同盟(※) による一党独裁体制は変えなかった。またユーゴは他の社会主義国とは違って鎖国政策は採らず、言論の自由もかなり認めていたが、民族主義的 な主張には弾圧を続けていた。
※52年に共産党が改称。
しかし80年にチトーが死去すると、共産主義者同盟の内部で権力争いが激しくなった。80年代末に東欧諸国が次々と民主化されると、 ユーゴでも新たに書記長に就任したミロシェビッチ(後にセルビア大統領)に反発して、クロアチアやスロバキアの党員たちが離脱して、共産主義者同盟は分 解。90年から91年にかけて複数政党制による選挙が実施されると、各共和国で民族主義者が政権を握り、一斉に独立紛争が沸き起こって、92年にはセルビ アとモンテネグロ以外の共和国は独立してしまい、ユーゴは解体した。そして各共和国での「民族浄化」の凄惨な殺し合いがますますエスカレートしていった。
チトーは、王国時代のユーゴスラビア統一主義をさらに発展させた「兄弟愛と統一」をスローガンに掲げていた。また「南スラブの各民族は 本来同じ民 族なのに、外国による支配の下で宗教によって別民族にされたに過ぎない」と主張し、「西側の民主主義体制は、ふたたび政治的混乱と地域的な対立を生み 出して、戦前と同じくユーゴスラビアを滅亡の淵に導くであろう」と言っていたが、いやはやホントにそうなりました。さすがネールやナセル、周恩来やスカル ノらとともに、国際政治に一時代を築いた人だけあります。
チトーの演説とパレード
「消 滅した国々」へ戻る