国連がお墨付き与えた「いかがわしい住民投票」で、併合を正当化

西パプア共和国

首都:コタバル(現:ジャヤプラ) 人口73万人(1962年)


1961年10月 パプア国民委員会が、1970年の 西パプア独立を決定
1961年12月1日 オラン ダ政府が西パプア国旗の掲揚を認める
1962年7月 インドネシア 軍が侵攻
1962年10月1日 国連の 暫定統治に入る
1963年5月1日 国連が施 政権をインドネシアへ移管

西パプアの地図 

ニュー ギニア島は、グ リーンランドに次いで世界で二番目に大きな島で、500の民族が住み800の言語が使われているとも言われているが、かつては西半分はオランダ、 北東部はドイツ、南東部はイギリスと、3ヵ国が分割して統治していた。3ヵ国が争って進出するほど魅力的な植民地だったのかといえば、むしろ逆で、容易に手が付けられない島なので最後まで残っていたというのが真相だ。

なにしろ熱帯のジャングルに加えて、首狩りや食人の風習を持つ先住民もいて、各国とも沿岸部に拠点をいくつか作るのが関の山。内陸は探 検もできず、1936年になって飛行機で島を横断した人が、初めて内陸の高原にも人間が住んでいるのを「発見」したというほど。内陸の先住民たちは鉄を知 らず、「石器時代」の暮らしを最近まで続けていたそうな (もっともイモ栽培主体の農業は、かなり発達していたとか)。

現在では島の東半分はパプア・ニューギニアで、西半分はインドネシア領のパプア州と西パプア州だが、かつてはオランダ領ニューギニアとか西イリアンとかイリアンジャヤとも言われていた。、「ニューギニア」とは最初にこの島 を訪れた西洋人が、先住民を見て「アフリカのギニアの黒人に似てる!」と思ったので付いた名称。「パプア」とはマレー語で「縮れ毛の人」という意味だ。そ して「イリアン」とは地元のピアク語で「日出る処」の意味だ。

戦前、西パプアは流刑地としてオランダ領インド(蘭印=現:インドネシア)から政治犯が送られてきたが(※)、インドネシア人が大量に やって来たのは戦時中で、日本軍は蘭印に続いてニューギニアを占領すると、ジャワ島やセレベス島(現:スラウェシ島)から労務者を連れて来た。

※流刑地は海岸から500km離れた内陸に設けられ、ジャワ島 などから送り込まれた政治犯は、パプア人に襲われることに怯え続けていたという。

1944年には連合国の反攻で西パプアは再びオランダ統治下に戻ったが、蘭印は引き続き日本軍が占領していたため、オランダは植民地行 政の手下となるパプア人を育成する必要に迫られ、官吏養成学校や警察学校を設置。ここで教育を受けた400人のパプア人エリートたちが、後に独立派とイン ドネシア併合派に分かれることになる。

さて、日本の敗戦が決まると、蘭印では「オランダが戻って来る前に独立してしまおう」と、スカルノが中心になってインドネシア共和国の 独立を宣言する。そこで問題になったのが、果たしてインドネシアの領土はど こからどこまでにすべきかだった

西パプアへ流刑されたことがあるハッタ副大統領は、自らの(恐怖の?)体験から「パプア人は人種が違う」「インドネシアが帝国主義だと 思われる」と 西パプアを領土とすることに強烈に反対した(※)。しかしスカルノ大統領は、蘭印に西パプアのみならず、東ティモール(当時ポルトガル領)やマラヤ(マ レー半島+シンガポール)、北ボルネオ(サバ、サラワク、ブルネイ)まで含めた「大インドネシア主義」を主張して決定された。

※ジャワ島やスマトラ、セレベス(スラウェシ)、バリ島などの インドネシア人はマレー系だが、パプア人はメラネシア系で、肌の色は黒人に近い。

オランダが戻って来てからのインドネシア共和国は、大インドネシアどころか蘭印にもさまざまなオ ランダの傀儡国家群をデッチ上げられて、ジャワ島とスマトラ島の一部しか支配できない状態だった。熾烈な独立戦争が始まったが、西パプアどころで はなく、インドネシアの独立が決まった49年のハーグ円卓会議でも、西パプ アの帰属は「今後の協議事項」となり、引き続きオランダが統治することになった。

「パプア義勇軍」とされる写真
オランダは戦前の放置状態から一変して、将来イ ンドネシアとは別の「親オランダ国家」として独立させるべく準備を進めた。オランダ本国から5000人の教師を送り込んでオランダ語教育を 充実させ、海軍士官学校も作り、パプア人による義勇軍を組織。61年2月にはニューギニア議会を開設するための総選挙が行われた(※)。

※もっともこの時点では、内陸部の大部分は「行政権外エリア」 とされ、住民たちは男はコサカ(ペニスケース)、女は腰ミノだけという状態で、石器時代さながらに暮らしていた。

当初パプア人の間で支持を集めたのは、スカルノに共鳴して「反白人、親イン ドネシア」を唱えるイリアン・インドネシア党だった。しかしオランダ統治が軌道に乗ると、パプア国民党やパプア独立党、パプア国民戦線、ニューギニア人党 など、パプア主義を掲げた政党が生まれて勢力を伸ばした。

こうして議会では独立派が多数を占めたが、議会には独立を決定する権限が与えら れていなかったため、議員らは61年10月にパプア国民会議を設置して、国名(西パプア)や民族名(パプア民族)、国歌、国旗を決定。オランダ側は12月 11日から西パプア国旗の掲揚を許可し、この日が「独立記念日」ということになっている。

第三世界のリーダーの威信をかけて、インドネ シア軍が上陸作戦敢行

イリアン奪還の熱弁を振るうスカルノ
西パプア独立の動きが本格化すると、インドネ シアは激怒した。1955年にバンドン会議を成功させ、ネールや周恩来、ナセルとともにアジア・アフリカ諸国のリーダーを自認するスカルノ大統領は、国民に 「イリアン奪還」の総動員令を呼びかけ、オランダ海軍と砲火を交えるとともに、62年7月には「マンダラ作戦」と称してスハルト将軍(後に大統領)が指揮 する落下傘部隊が上陸を敢行した(※)。

※同時にインドネシア国内のオランダ人やオ ランダ企業の資産を凍結した。

時あたかもネール首相率いるインドが、ポルトガル植民地のゴアダ マンディウを 武力併合した直後で、国際社会はインドネシアによる「植民地の武力解放」を支持し、アメリカもインドネシアがソ連に接近することを恐れて容認した(※)。 オランダとインドネシアは62年8月のニューヨーク協定を結 び、西パプアの施政権は国連による暫定統治を経て、63年5月からインドネシアへ移管することと、69年末までに西パプアの最終的な帰属を決めることで合 意した。この間に当事者であるパプア人の意向が反映される機会はまったくな かった。

※勢い余ったスカルノは、63年に当時 イギリス植民地だったシンガ ポールサ バサラワクブ ルネイマ ラヤ連邦と合併してマレーシアを結成しようとすると、イギリスによる新植民主義の陰謀だと批判し て、大 インドネシア主義を実現すべく国民に「マレーシア粉砕」を呼び掛けた。また対決政策(コンフロンタシ)を宣言して、ブルネイでマレーシア参加反対のクー デターを起こそうとしていた北ボルネオ国民軍を支援したほか、ボル ネオ島の国境地帯や海域で軍事行動に出た。結局、国際社会はついて来ず、後にマレーシアが国連安保理の非常任理事国に当選すると、インドネシアは これに抗議して国連を脱退してしまう(65年1月)。それでもブルネイにマレーシア加盟をドタキャンさせ、2年後にシンガポールを分離させることはでき た。

こうして停戦監視と治安維持のための国連暫定統治機構(UNTEA)国連西イリアン保安隊(UNSF)創設され、62年10月1日から国 連による暫定統治がスタートしたが、インドネシアへの移管が決められているので、その行政運営はイ ンドネシア人官吏や警官への引継ぎが中心だった。63年5月1日からインドネシア政府による統治がスタートした後も、ニューヨーク協定に よって国連スタッフが残ることになっていたが、インドネシアの反対によって不可能となり、オランダ時代からのパプア人官吏は次々と解雇された。義勇軍も解 散させられ、兵士はインドネシア軍に編入されたが、兵士の一部は独立ゲリラに身を投じた。

西パプアの最終的な帰属については住民全体による投票は実施されず、それに代わって69年8月2日、国連監視の下で「住民代表」 1025人による投票が行わて、全員がインドネシアへの併合に賛成し、正式にインドネシア領のイリアンジャヤ州となった(※)。「住民代表」はインドネシア政府が選んだのだから、併合に賛成するのは当たり前だっ た。

※ジャヤとは「偉大な」の意味。オランダ時 代はホーランディア、62年からコタバルと呼ばれていた州都は、同時にスカルナプラと改称されたが、スカルノが失脚し、68年にスハルノが大統領になると ジャヤプラにまた改称。

こうして65年に自由パプア運動(OPM)が結成され、オラ ンダには西パプア亡命政府が樹立された。大統領に就任したマーカス・ウォングル・カイシエポは教会が運営する小学校の教師で、インドネシアが侵攻した62 年にはニューギニア議会の副議長だったが、オランダへ亡命していた。71年には西パプア共和国の憲法を発表して独立を宣言した が、OPMは2つの派閥に分裂し、カイシエポ大統領は国連へのロビー活動などを続けた。イリアンジャヤ州の初代知事も「独立について住民に自由に選択させ るべきだ」と国連に訴えて辞任して亡命し、OPMに転じた(※)。

※後任のフランス・カイシエポ 知事は、マーカス・ウォングル・カイシエポの従兄弟だが、熱心な併合派だった。オランダが育成した「400人のエリート」の1人だったが、スカルノが45 年にインドネシアの独立を宣言すると、西パプアでインドネシア国旗を掲揚し、東インドネシア国の会議にも西パプア代表として参加して併合を要求。イリア ン・インドネシア党の結成にも参加して、オランダによって投獄されたこともある。その後インドネシアでは「国民英雄」の1人として讃えられ、故郷のビアク 島の空港 は「フランス・カイシエプ空港」と命名されている。

 
独立派のカイシエポ亡命政府 大統領(左)と、併合派のカイシエポ知事(右)

イリアンジャヤ州ではスハルト大統領の独裁体制の下、ジャワ島などから多数の移民が送り込まれ、住民の約半数は移住民になった。同時に先住民には強力な同 化政策が推し進められた。食人や首狩りを強制的に止めさせたのはともかく、コサカを付けている先住民に洋服を着るように強要し、従わなければ殺害するケー スもあったらしい。

 72年には南西部のティミカで、アメリカ企業による金・銀・銅の採掘が始まったが、鉱毒による公害で住民たちは生 活できなくなり、OPMは断続的に鉱山へ の襲撃や外国人技術者の誘拐を続けた。インドネシア軍はOPMの支持者と疑った住民を連行して拷問や殺害などを繰り返し、大量の難民が国境を越えてパプ ア・ニューギニアへ逃亡 する事件も起きた(※)。

※OPMの基地はパプア・ニューギニア 領内にあると見られているが、同じく鉱山問題でブー ゲンビル島の独立紛争を抱えるパプア・ニューギニア政府はOPMを支援せず、「黒人同士の連 帯」ということでアフリカのセ ネガルがOPMを支援している。

さて、98年にスハルトの独裁体制が崩壊すると、東 ティモールア チェ南 マルクとともに、西パプアでも独立運動が一気に再燃した。ハビビ大統領は99年、東ティモールで国連監視下の住民投票が行うことに合意し、圧倒的 な票差で独立が決まったが、ハビビに代わって大統領に就任したワヒドは西パプアでの住民投票実施を拒否した(※)。

※東ティモールの住民投票は「特別自治 州とすることにYESかNOか」を問うもので、ハビビは「否決されたら独立しても構わない」と公言していた。

インドネシアにとって、東ティモールの住民投票結果はショックだっ た。「インドネシアのおかげでインフラが整備され、植民地時代の未開状態から文明社会へと発展し、住民の生活を格段に向上させた」という自信があり、住民 は自治で満足するだろうと思い込んでいた。しかし住民には軍が強権を振るったインドネシア統治下での同化政策や虐殺事件に強い怒りがあった。西パプアでも 住民投票を実施すれば同じ結果になる ことを、インドネシア政府は悟ったのだ。天然資源が豊富で開発の潜在力が大きい西パプアを手放すわけにはいかない。

インドネシア政府は2002年にイリアンジャヤ州を「パプア州」と改称して西パプア国旗の掲揚を認めたり、天然資源の開発収益の80%を州政府が使えるよ うにしてパプア人の不満をなだめようとした。その一方でパプア州の3分割案を発表し、翌03年には西パプア州を分離。「分割で西パプアの一体化を妨害し、 独立運動を抑え込むためだ」と批判され、あくまで独立を求めるOPMらのゲリラ戦は続いている。


60年代のドキュメンタ リー。62年の国連暫定統治で降ろされる西パプア国旗や、69年のインドネシア併合

参考資料
井上治 インドネシアの分離運動ーアチェとパプアの事例ー (『アジア研究』vol.47 2001)
大槻重之 インドネシア専科  http://www.jttk.zaq.ne.jp/bachw308/index.html
金武島菜 独立に動く多島社会 イリアンジャヤ・西パプア http://www.asiawave.co.jp/ASIAPRESS.htm
本多勝一 ニューギニア高地人 (朝日新聞社 1981)
Antoni Uni's Photography by "Mistifarang" http://www.antoni-uni-photography.com/
wikipedia http://en.wikipedia.org/


 
 

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