
民族協調=商売繁盛を実践した「お父さま」の企業王国
西ボスニア共和国
首都:ベリカ・クラドゥシャ 人口5万2908人(1991年)
![]()
1993年9月27日 西ボスニア自治州の樹立を宣言
1994年8月21日 ボスニ ア軍が占領
1994年11月16日 西ボスニア自治州が回復
1995年7月26日 西ボスニア共和国の独立を宣言
1995年8月7日 ボスニア軍が占領して消滅スルブスカ共和国(ピンク)とボスニア・ヘルツェゴビナ連邦(赤)
連邦は旧ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国とムスリム人勢力支配地区
旧ユーゴスラビアの分割図 黄緑色が西ボスニア共和国
西ボスニアの空中写真 ベリカ・クラドゥシャが発展しているのがわかります (google)
ボスニア紛争は、基本的にボシュニャク人(ムスリム人)とセルビア人とクロアチア人との三つ巴の民族戦争だったが、例外とも言える のが、西ボスニアの紛争だ。ここではボシュニャク人が主導した当時のボスニ ア政府に対して、ボシュニャク人が反乱を起こして、西ボスニアの自治や独立を宣言した。
1992年から本格化した紛争で、ボスニア西部はセルビア人のスルプスカ共和国軍が押さえていたが、クロアチア領に深く食い込んだ一角 は、住民のほとんどがボシュニャク人だったのでボスニア政府軍が押さえ、ボシュニャク人支配地区の飛び地になっていた。もっとも隣接するクロアチア領 も、当時はク ライナ・セルビア人共和国が支配していたので、いわばセルビア人に 囲まれた離れ小島のような存在だった。
そんななかで1993年9月、クロアチアとの国境の町ベリカ・クラドゥシャと周辺の5ヵ 村が、ボスニア政府軍に反旗を翻して、西ボスニア自治州の設 立を宣言した。
ベリカ・クラドゥシャは、旧ユーゴスラビア最大の食品企業・アグロコメルツ社の城下町だ。アグロコメルツ社はもともと社会主義時代 の集団農場で、故チトー大統領が掲げた「労働者による自主管理」で、養鶏を手始めに七面鳥、ウサギの飼育や加工、マッシュルームの栽培、マヨネーズやチョ コレートの製造、酒造などへ事業を拡大。さらに道路・水道などのインフラ整備や、優秀な技術者を確保するために学校建設にも力を入れるという「模範農場」 になった。
Agrokomerc 1984-85 社会主義時代のアグロコルメツ社の宣伝フィルム
特にフィクレト・アブディッチが社長に就任してから、同社は輸出によって莫大な利益を計 上。従業員は1万3000人を超えて、かつて貧しかったこの地域は、「ユーゴスラビアのスイ ス」と呼ばれるほど豊かな地域に変わり、アブディッチは住民たちから「バボ=お父さま」と呼ばれて慕われた。87年にアブディッチは金融スキャンダルで逮捕されたが、釈放後は90年のボスニア大統領選挙に出馬し、ボシュニャク人で1位 の得票を得たが、大統領を同じボシュニャク人のイゼコベトビッチに譲っている(※)。
※当時のボスニ アの大統領選出方法は、まず民族別に割り振られた大統領評議会のメンバー7人(ボシュニャク人とセルビア人、クロアチア人が各2人、その他のユーゴ諸民族 1人)を選出し、輪番制で大統領に就くというもの。この時はクロアチア人が首相、セルビア人が国会議長となり、大統領はボシュニャク人が就くことになっ た。
ボスニア紛争が勃発すると、ア ブディッチはイゼコベトビッチがユーゴ連邦軍によって逮捕されるだろうと予想し、ビジネスを通じてセルビアにもクロアチアにも顔が広い自分こそ大統領にふさわしいと 首都サラエボにやって来た。しかしイゼコベトビッチは逮捕されず、「非常事態」を理由に大統 領職に居座ったため、アブディッチは憤然としてベリカ・クラドゥシャへ戻り、イゼコベトビッチを批判して西ボスニアの自治を掲げ、大 統領に就任した(※)。
※セルビ ア人とクロアチア人の政党も、イゼコベトビッチ大統領の居座りを批判して政府を去り、ボスニア政府はボシュニャク人だけの政府になった。
大統領になったアブディッチお父さま
さらにアブディッチはクロアチアとセルビアを相次いで訪問し、政府首脳らと会談。ボ スニアをクロアチアとセルビアで2分割すべく、ボ スニア政府を弱体化させることを画策した。
アグロコメルツ社は この頃、ドイツや南米各地にも生産拠点を持つ多国籍企業に成長していたが、本社と主力工場がボスニアの飛び地にあるのでは、ビジネスに大きな支障が出てし まう。そこでアグロコメルツ社 は、クロアチアのリ エカ港にフリーゾーン(免税区)を獲得した。また西ボスニアは国際社会による経済制裁で苦しんでいたセルビアにとって、禁輸措置をかいくぐる密輸ルートにもなった。こうしてアグロコメルツ社の製品は、クロアチア領もセルビア人支配地域も、安全に通過す ることができた。
なんだか「商売のために国を売り 渡す」ような感じがするが、他の各民族と相 互利益に基づく協調関係を実現できたのは、当時の旧ユーゴでは稀なことであり、実利主義に徹したアブディッチだから可能だったと言える。
ボスニア軍は94年6月にタイガー作戦を敢行し、2ヵ月半かかって西ボスニアを占領。「お父さま」に忠誠を誓う4万人のボ シュニャク人がクライナ・セルビア人共和国へ逃げ込んだが、3ヵ月後にセルビア人の力を借りて、再び西ボスニアを奪還した。
しかし、クロアチアやセルビアとの協調で成り立っていた西ボスニアは、両者の戦争で最終的に消滅する。95年春以降、クロアチアは自国 領内のクライナ・セルビア人共和国の解体に向けて準備を進めると、影響が及ぶことを恐れて西ボスニア共和国としてボスニアからの独立を宣言するが、8月にクロア チア軍がクライナに攻撃をかけると、西ボスニアには国境を越えてセルビア人が流れ込み、クライナの最後の防衛ラインになった。混乱の中でボスニア軍が西ボ スニアを占領し、自治も独立も消滅。周囲のボスニア領内のセルビア人支配地区も、夏の終わりまでにボスニア軍が占領し、一帯は飛び地ではなくなった。
クロアチア軍の作戦で「企業王国」を消滅させられたアブディッチだが、クロアチアのトゥ ジマン大統領によって保護され、クロアチア国籍を与えられた。しかし99年にトゥジマンが死去した後、ボスニア政府側のボシュニャク人を虐待した戦犯とし て逮捕され、懲役15年の判決を言い渡されているが、ボシュニャク人の間では今も支持者が少なくないようだ。
ベリカ・クラドゥシャの町は戦乱でもほとんど破壊されず、アグロコメルツ社はとりあえず盛業中とか。
参考資料
佐原徹哉 ボスニア内戦―グローバリゼーションとカオスの民族化 (有志舎 2008)
チャールズ・G・ボイド ボスニア紛争の「真実」 (フォーリン・アフェアーズ日本語版1995年11月号 )
wikipedia http://en.wikipedia.org
●関連リンク