いったん消えた国なのか、今に続く国なのか・・・独立記念日はいつ かで論争

東ティモール民主共和国

首都:ディリ 人口:61万人(1975年)

 
左は1975年に独立した東ティモール民主共和国の旗。右は2002年に独立した現在の東ティモール民主共 和国の旗

1975年8月 独立派同士の内戦激化で、ポルトガル の政庁が統治を放棄
1975年11月28日 東ティモール民主共和国が独立を宣 言
1975年12月7日 インドネシア軍が首都ディリを占領
1976年7月16日 インドネシアが東ティモールを併合
1999年8月30日 国連監視の下での住民投票により、独 立が決定
1999年10月19日 インドネシアが東ティモールの領有 放棄を宣言
1999年10月25日 国連による暫定統治がスタート
2002年5月20日 東ティモール民主共和国が独立

インドネシアと東ティモールの地図 
東ティモールの地図 

 
植民地時代(1971年)の地図(左)と、インドネシア併合後 (1979年)の地図(右)。日本は併合を認めていなかったので(ポ)と表記
 
東ティモール民主共和国といえば21世紀に入って最初(2002年)の独立国。「消滅した国じゃないじゃん」と言われそうですが、かつて1975年にも 「東ティモール民主共和国」が独立を宣言したことがあって、この時は10日たらずでインドネシア軍に占領されて、消滅しました・・・かどうかは、実は東 ティモールでタブーになってる問題らしい。

東ティモールはポルトガルの植民地だった。ティモール島西半分や周りの島々はオランダ植民地で戦後はインドネシアとして独立したが、ポ ルトガルは意地でも植民地を手放さない方針だったため、戦後もポルトガル領のまま残った。しかし74年にポルトガル本国でクーデターが起きて左派政権が樹 立されると、すべての植民地を放棄して独立させると発表。東ティモールでも76年に総選挙を実施して、ポルトガルは撤退すると発表した。

かくして東ティモールでもさまざまな政治組織が生まれたのだが、主に3つ。1つは「東ティモールはもともと西ティモールと同じなんだか ら、インドネシアに併合されるべき」と主張するAPODETI (ティモール人民民主協会 )で、ポルトガル人がやって来る前から島の伝統的な支配層(リウライと呼ばれる首長たち)が支持層。もう1つは「独立してもポルトガルと連合を組んで仲良 くすべき」というUDT(ティモール民主同盟)で、ポルトガル統治を支えた人たちが支持層。 そして残る1つはFRETILIN(東ティモール独立革命戦線)で、「マウベレ主義」を掲げ て農民を基盤とする社会主義政党だった。

※「マウベレ」とは読み書きができず、医者にかかったことがなく、年収40米ドル 以下の人で、当時の東ティモール人の95%を占めた。植民地の教育政策には日本式とイギリス式、ポルトガル式があって、初等教育を積極的に普及させても現 地人エリートを育成しないのが日本式、初等教育には力を入れないが現地人エリートを積極的に育成するのがイギリス式で、初等教育も高等教育もまったく普及 させないのがポルトガル式。
こうして各政党の宣伝合戦が始まったが、農村で識字運動や医療活動に取り組んだFRETILINが圧倒的な支持を集めるようになり、政党同士の争いはやが て武器を持っての争いにエスカレートしてゆく。当初はUDTとFRETILINが独立を目指して共闘していたが、危機感を強めたUDTが75年8月に FRETILINに武力攻撃を仕掛けて内戦が勃発。総督はじめポルトガル軍と役人は事態を収拾するわけでもなく、統治責任を放り出して沖合いのアタウロ島 へ逃げ出してしまう。


ポルトガルがアタウロ島へ逃 げ出し、FRETILINが制圧した頃の東ティモール(1975)

内戦は反撃に転じたFRETILINが勝利して、UDTはAPODETIとともに西ティモールへ逃げ込んでインドネシアへの併合を要 請。インドネシア軍が迫る中、FRETILINはポルトガル人総督がとりあえず復帰することを要求したが相手にされず、11月28日に「東ティモール民主共和国」の独立を宣言し た(※)

※東ティモール本土と地理的に隔絶した飛び地のオ エクシでは、インドネシアへの併合を望む住民が多く、インドネシア軍は75年6月に早々と占領を開始していた。
大統領にはFRETILINの前身であるティモール社会民主協会(ASDT)の後見人的存在だったシャビエル・ド・アマラルが就任した(※)。しかしイン ドネシア軍の圧倒的な兵力の前に、12月7日には首都ディリが陥落し、アマラル大統領はじめFRETILINは山岳地帯に逃げ込んでゲリラ活動を続けるこ とになった。
※アマラルは東ティモールに中学・高校が5校しかなく95%以上のティモール人が 文盲だったポルトガル統治時代に、マカオの神学校へ留学したエリートだった。帰国後、自宅で学校を開くかたわら、困っている人々のために申立書を書き、言 論活動を通じてたった1人で反植民地運動を始めた先駆者だった。
東ティモールはインドネシア軍に占領され、インドネシアは翌76年7月に東ティモールを併合してしまう。インドネシアにしてみれば、ティモール島の西も東 も同じ民族だし、それを引き裂いていたのはポルトガルの植民地主義だったわけで、併合するのは当然。かつてインドがポルトガル植民地のゴアなどを武力併合 した時も、国際社会はそれを認めたんだから、それと同じでしょ、という論理。国連は総会で「インドネシアによる東ティモール併合を認めない」決議を上げた が、実際にはアメリカや日本などはインドネシアによる併合を容認し続けた。75年当時はサイゴン陥落で南ベトナムが崩壊し、インドシナ諸国が次々と社会主 義化した時で、西側諸国はドミノ現象により東南アジアが次々と「赤化」することを恐れてい た。社会主義を掲げるFRETILINが東ティモールで政権を握るよりも、インドネシアのスハルト反共政権が統治することを望んでいたのがホンネだった。

こうしてインドネシアによる東ティモール併合は、国際社会で事実上黙認されてきたのだが、現地ではFRETILINによるゲリラ戦が続 いた。「インドネシアとの話し合い」を主張し始めたアマラル大統領は78年9月に解任され、ニコラウ・ロバト首相が大統領を継いだが、同年12月にインド ネシア軍との戦闘で戦死。「東ティモール民主共和国」は霧消してしまうが、独立宣言時には報道官だったシャナナ・グスマンがゲリラの総司令官に就いて抵抗 を続けた(※)。

※アマラル大統領はFRETILINでの意見の対立から77年には失脚し、ゲリラ に身柄を拘束されながら山間部のアジトを転々としていたが、78年8月にインドネシア軍との戦闘の際、ゲリラに捨てられて餓死寸前のところを逮捕され、イ ンドネシア政府によって99年まで軟禁されていた。グスマンは92年にインドネシア軍に捕まり無期懲役刑(後に禁固20年に減刑)となったが、99年まで 獄中からゲリラ戦を指導し続けた。
  
「初代大統領」アマラル(左)、「第二代大統領」ロバト (中)、改めて初代大統領のグスマン(右)

インドネシアの軍や警察はゲリラ掃討のために疑わしい東ティモール人を片っ端から連れ去って恐怖政治を敷いた。このためインドネシアは ポルトガルと違ってインフラを整備したり教育を充実させたにも関わらず、東ティモールの住民からは恨みをかい、91年に抗議集会を開いた住民に無差別発砲 する(サンタクルス事件)に及んで、東ティモール問題は国際的にも注目されるようになった。

さて、98年にアジア通貨危機でスハルト政権が崩壊し、インドネシアは東ティモールを特別自治州にすると提案したが、99年の住民投票 で拒否されて独立することが決まった。国連による暫定統治を経て2002年5月20日に東ティモール民主共 和国は晴れて独立をしたのだが、ここでにわかに問題となったのが、果たして東ティモールは「独 立」するのか「復帰(主権回復)」なのかということ。

国連統治下の総選挙で圧勝し政権の座に就いたのは、すでに社会主義路線を放棄したFRETILINだった。社会主義のイデオロギーを放 棄したといっても、長い独立闘争の歴史を放棄したわけではないから、「東ティモールの独立はあくまで75年11月28日で、2002年5月20日はその後 インドネシアに奪われていた主権を回復した日だ」と主張する。特に20年以上にわたってジャングルで武装闘争を続けてきた元ゲリラ兵士たちにはその思いが 強い。

一方で他の政治勢力、特にUDTは「75年の『独立』はFRETILINが一方的にそう宣言しただけで、本当の独立は2002年だ」と 主張する。UDTはいったんはインドネシア併合を認めていたが、その後インドネシアの圧政に反発して、主要幹部が海外へ亡命。ポルトガルで FRETILINと再び共闘して亡命政府を作り、独立運動を続けてきたのだ。

国連をはじめ国際社会一般では、インドネシアによる併合は正式に認めていなかったが、75年に独立宣言をした東ティモール民主共和国も 承認していなかったので、「東ティモールはずっとポルトガル領のままだったが、75年から99年までインドネシアに不法占領され、99年からはポルトガル に統治意思がなかったので代わりに国連が暫定統治をした」という見解だ。だから東ティモールが独立したのは、あくまで2002年5月。FRETILINで も海外に亡命していた幹部たちは、共闘相手のUDTや国際社会の手前、「独立したのは75年11月」とははっきりと主張しにくい。

結局、東ティモールの正式国名は、75年の時と同じ「The Democratic Republic of Timor-Leste」に決まったが、国旗は少しデザインを変え、独立記念日は5月20日と制定された。しかし元ゲリラ兵士たちは11月28日を独立記 念日にするように求めている。

独立記念日をいつにするかで揉めている背景には、独立後の東ティモール政府から「見捨て られた」と感じている元ゲリラ兵士たちの不満がある。東ティモールの大統領には現地でゲリラ部隊を率いたグスマンが選出されたが、政府の閣 僚はマリ・アルカティリ首相やラモス・ホルタ外相など海外亡命組が多くを占めた。亡命組の強い主張でポルトガル語が公用語となり、ジャングルにいた元ゲリ ラたちはポルトガル語はできないから、政府で良い職には就けない。独立後も失業率が70%を超え、仕事を得ることすら難しいのが多くの元ゲリラたちの現状 だ。2006年には大規模な反乱事件が起き、多国籍軍の出動やアルカティリ首相の辞任に発展した。

ところで「初代大統領」のアマラルだが、改めてASDTを結成し、国会議員に当選。2002年の大統領選ではグスマンの唯一の対立候補 となり、「民主主義の確立のためには対立候補が出ることに意義がある」と病身で選挙運動が十分に行えなかったにもかかわらず善戦した。かつて FRETILINから「裏切り者」として追放されたアマラルだが、選挙では「元ゲリラ兵士の処遇改善」を掲げて予想外の支持を集めたようだ。一方、「第二 代大統領」のニコラウ・ロバトは、首都ディリの国際空港にその名が冠せられている。

ところで日本の建国記念日は2月11日になってますが、「その根拠は一体なに?」というと、はなはだ疑問だったりします。でも、「休み が増えるからいいや」と国民の多くは気にしないわけで、ま、のどかでイイですね。


ゲリラの皆さんと、なぜか私・・・
 

●関連リンク

東ティモール再び野次馬紀行  私が2000年に東ティモールへ行ったときの写真ルポ
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ひがちも豆知識  これまた当HPの姉妹サイト。古代から戦前までの東ティモールの歴史について
 
 

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(2006・11・4更新)