独立は無理とわかっていながら、独立ちらつかせて有利な地位を獲得

タタールスタン
 
首都:カザン 人口:378万人(2002年)

1992年3月21日 主権国家として独立を宣言
1994年2月15日 ロシアと連邦内共和国として条約を締 結

私は食べ物の好き嫌いはあんまりない人間ですが、タルタルソースは苦手です。子供の頃、 「なんかゲロみたいで気持ち悪いな〜」と思ったからで、何ごとも第一印象って重要ですよね。

で、そのタルタルソースを発明したと言われるのが、西欧諸国では「タルタル」と呼ばれて いるタタール人。そのタタール人が、牛や馬の生肉を食べるた めに、卵や玉ねぎ、香料を加えて作ったタタキ料理がタルタルステーキ。 ドイツのハンブルグの人がタルタルステーキを焼いてみたのがハンバーグ。ハンバーグをアメリカ人がパンに挟んでみたのがハンバーガー・・・というわけで、 ハンバーガーなら私も好きです。ちなみに、タルタルステーキが元の時代にモンゴルから朝鮮半島に伝わり、ユッケ(肉塊)となったそうですが、ユッケを焼いてパンに挟んだらハン バーガーになるかどうかは知りません。。。

もともと「タタール(中国語では韃靼」とは、沿海州からモンゴル、北アジア、東ヨーロッパにかけて活躍したモンゴル系やトルコ系、ツングース系のさまざま な遊牧民を指す名称で、その時々や場合によって、どの民族を指すのかは異なった。中国ではモンゴル系の一部の部族を「韃靼」と呼び、江戸時代の日本では満 州人や沿海州の先住民 を「韃靼」と呼んだ。

現在「タタール」と自称しているのは、ロ シアのボルガ川流域に住むイスラム教徒。彼らはトルコ系の遊牧民族で、モンゴル人に従って13世紀にロシアを征服しキプチャク汗国を建てたが、その後イスラム化し、ボルガ川中流にボル ガ・タタール人が、クリミア半島にクリミア・タタール人が、シベリア西部にシベリア・タタール人が住んでいる。一部は19世紀に新疆へ移住して、中国では タタール族(搭搭尓族)と呼ばれている。

さて、これからが本題。 ロシア連邦内にタタールスタン共和国というのがある。ソ連崩壊に伴ってロシア連邦には加わらずに独立しようと、1992年に住民投票を行って独立を宣言し た。しかしチェチェンのような紛争にはならず、94年にはロ シアと協定を結んで、正式にロシア連邦内の一共和国となった。

タタール人はロシアで、ロシア人に次いで人口が多い。ソ連時代の1989年の調査では、ロシア人、ウクライナ人、ウズベク人、白ロシア (現:ベラルーシ)人、カザフ人に次いで6位(618・5万人)。ソ連解体で15の国が独立したが、そのうち10ヵ国の中心民族よりも数は上だった。

昔のタタール人とロシア人
しかもタタール人にはかつてロシアを支配したという自負がある。キプチャク汗国は征服したロ シアの諸侯を残し、間接接統治を行った。この250年間はロシア人にとって「タタールのくびき」という屈辱の歴史だが、タタール人にとっては「ロシア人が 貢物を持ってペコペコしにやって来た」という大きな誇りだ。その一方で、ロシア文明と深く接触したタタール人は、後にロシア帝国を支える一員にもなった。だから「中央アジアの諸民族に、文 字を教えてやったのは俺たち」というエリート意識も持っている。

そしてタタールスタンは豊かな地域だった。その源は石油で、年間3200万トンの原油を産出し、埋蔵量は10億トン以上だと見られてい る。石油化学や自動車(※)、飛行機などの製造拠点があり、もとから農業も盛んで、1人当たりのGDP(国内総生産)は1万2000ドルを超え、ロシアで は最も経済発展が進んだ地域の1つだ。

※タタールスタンのカマーズ社は、ロシア最 大のトラック・メーカー。

民族人口が多くて、周辺諸民族に君臨した歴史があり、石油という「お宝」も抱えているのなら、独立すべきという声が起こるのは当然だ。

しかしタタールスタン独立は、現実に難しい問題を抱えていた。その1つは、タタールスタンの人口のうちタタール人は半分以下だったこ と。89年当時の人口は364.2万人で、うちタタール人は48・5%の176・5万人に過ぎず、ロシア人(157・5万人)とほぼ並んでいた。逆に言え ば、タタール人の7割以上はタタールスタン以外に住んでいた。

2つ目はタタールスタンが四方をすべてロシアに囲まれた 内陸に位置していたこと。いくら石油が豊富でも、周囲がすべてロシアなら、ロシアと険悪になったら輸出できない。

そして3つ目は、タタールスタンはソビエト連邦を構成する15の共和国ではなく、その中のロシア共和国内にある自治共和国(ソ連当時は タタール自治ソビエト社会主義共和国)に過ぎなかったこと。ソ連が解体するとあちこちで独立を目指す動きが起きたが、独立を果たしたのはソ連時代の15共和国だけだったのだ。

こうしてソ連末期の1988年頃から、タ タール人による民族主義が噴出し、ロシア内の自治共和国からソ連を構成する共 和国への昇格(つまりロシアからの離脱)を求める動きが始まった。自治共和国のトップ(共産党第一書記兼ソビエト最高会議議長、91年以降 は大統領)だったミンチメル・シャイミエフは、ソ連中央へ共 和国への昇格を要求しつつ、90年8月にはタタールスタン共和国に改称してしまった。

自治共和国から共和国になったといっても、勝手に改称しただけであって、ソ連を構成する15共和国の仲間入りを果たしたわけではない (後にロシア内の自治共和国はすべて共和国になった)。またタタールから「タタールスタン」への改称は、民族主義的な要求に応えたものでもあった。

91年12月にソ連は解体し、15共和国はそれぞれ主権国家として独立したが、タタールスタンでも92年3月に主権や国際法上の主体と なることを問う住民投票を実施。その結果を受けてロシア政府との連邦条約(ロシア内の共和国や自治州、、自治管区、州、辺区などの管轄・権限を決める条 約)の調印を拒否し、主権国家となることを宣言した。

とはいっても、同じく連邦条約の調印を拒否してロシアとの戦争になったチェチェンとは違って、タタールスタンはどこまで本気で独立した のか曖昧だった。諸外国と国交を結ぼうとしたり、国連へ加盟申請するわけでもなく、ロシア政府との協議を続け、11月に制定した新憲法では、ロシアとの関 係を「主権国家として対等な連合」だと明記した。

ロシアは93年に新憲法の制定を受けて、94年から95年にかけて傘下の共和国や州などと新たな権限分割条約を結んだが、94年2月に 真っ先に締結した相手はタタールスタンで、その内容は税収や天然資源の権益の配分などで、他の共和国や州よりもロシア連邦政府から大きな権限を与えられる 内容だった。

シャイミエフはソ連時代からの指導者で、69年に32歳の若さで大臣に抜擢されたのを振り出しに、副首相や首相を経て共産党のトップ (第一書記)にのぼりつめていた。ソ連崩壊の激動で、ソ連時代からの指導者が各地で失脚するなかで、実利主義志向のシャイミエフは産業界からの信頼を得て 基盤を固め、ロシアに囲まれたタタールスタンが本当に独立するのは不可能だとわかっていながら、民族主義者の要求をもとに独立をちらつかせて交渉し、ロシア連邦で有利な地位を獲得したと言える。

シャイミエフはロシアのエリツィン大統領の片腕となりながら、2010年までタタールスタンの大統領として安定政権を築いた。民族主義 が高揚した共和国では、ロシア人が大量に流出しているが、タタールスタンでは現在も人口の39・5%がロシア人だ。


参考資料
松里公考 「エスノ・ボナパルティズムから集権的カシキスモへ:タタルスタン政治体制の特質 とその形成過程1990-1998」 (『スラヴ研究』47号 2000)
兵頭慎治 「連邦システムから見た将来のロシアの国家像」(『防衛研究所紀要』 防衛研究所、2000)
中馬瑞貴 「ロシアの連邦中央とタタルスタン共和国との間の権限分割条約」 (『外国の立法』第232号 国立国会図書館 2007)
下斗米伸夫 「エスノ政治―ロシアの共和国問題」 http://src- h.slav.hokudai.ac.jp/sympo/533/shimo.html
石陽消息 タタールを追って(1) http://d.hatena.ne.jp/agarih/20091003
タタルスタンとバシュコルトスタン -モスクワからの自立は? http://ethnos.exblog.jp/2976003/
ニジッツロードキー・ドヴォール http://dvor.jp/index.htm


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