
シンハラ・オンリー政策に、「ガンジー主義より虎 だ!」 タミール・イーラム
首都:ジャフナ→キリノッチ 人口:349万6000人(2009年)
1976年5月14日 TUFがタミール人国家の設立宣言 (lこの時点では実態なし)
1987年1月 LTTEが支配地域で行政を行う
1990年3月1日 北・東部州知事がイーラム国の独立を宣言
1995年12月2日 政府軍の攻勢で、首都をジャフナから キリノッチへ移転
2009年5月17日 政府軍が制圧し、消滅
出典:外務省
世界各地に独立ゲリラがいろ いろあります が、強そうな名前だな〜と思っていたのがタミールの虎。正式 にはタミール・イラーム解放のトラ(LTTE) で、スリランカからの独立を求めるタミール人のゲリラ組織でしたが、タミールの虎が建国を目指し、実際にタミール人が多く住む北部や東部を支配していたの が、タミール・イラームだ。
スリランカはインドの南に浮かぶ島で、人口は約2000万人。うち74%がシンハラ人で主に仏教徒、18%がタミール人でこちらは主に ヒンズー教(※)。紀元前5世紀に北インドからシンハラ人がやって来て、紀元前2世紀には南インドからタミール人がやって来た。もっとも現在スリラン カに住むタミール人の3分の1弱はインド系タミール人で、19世紀に農園(セイロン紅茶など)の労働者として移住して来た人たちの子孫だ。
※他に、先住民のベッダ人やアラブ系のムー ア人、マレー人、オランダ人やポルトガル人との混血のユーラシアンなど。
スリランカはインド沖合の海上の要衝として、大航海時代からヨーロッパ人による争奪戦の対象となり、最初にポルトガル、次にオランダに 支配された後、1815年からイギリスの植民地となった。
イギリスが支配するにあたって実行したのが分断統治だ。 少数派のタミール人を優遇して植民地行政の官吏などに採用することで、シンハラ人とタミール人を対立させ、住民の不満がイギリス人に向かわないようにす る。そして何か揉め事が起きれば、第三者のイギリス人が調停に乗り出す・・・と、「腹黒紳士」ことイギリス人ならではの老獪なやり方だ。タミール人は経 済界でも優位になり、植民地 時代から紛争が勃発する要因は作られていった。
植民地時代はタミール人優遇、独立したら反動で一転
スリランカは1948年に独立した(当時はセイロン)。1人1票の民主主義が実行されれば、政治の主導権は多数派のシンハ ラ人が握ることになる。こうして政府はまずインド系タミール人の選挙権を剥 奪し、タミール人をさらに少数派にしたのに続き(※)、 タミール人が多かった東部へシンハラ人農民の入植を進め、56年にはシンハ ラ・オンリー法を制定して公用語をシンハラ語だけに限定、シンハラ語ができないタミール人公務員の追い出しにかかった。
※結局、64年にインド政府と協定を結び、 当時100万人近くいたインド系タミール人のうち、52万5000人にインドの市民権を与えてインドへ帰還させ、30万人にスリランカの市民権を与え、残 る15万人は将来両国で協議することになった。
さすがにヒドイと58年に暴動が起きると、スリランカ政府はタミール人政党を解散させる一方で、タミール語特別法を制定し た。しかしその内容は(1)タミール語は公用語ではないが「国民語」とする、(2)北部や東部の地方行政はタミール語で行う、(3)タミール語でも公務員 試験を受験できるが、昇進にはシンハラ語の熟達が必要・・・というもので、ようするに「田舎で出世を望まない地方役人なら、タミール語でもOK」という わけで、これでタミール人が納得するわけはなく、北部と東部でタミール人による自治を行うよう要求し始めた。
プラバカラン。虎みたいです。。。
72年の新憲法では、仏教を 事実上国教にす る一方で、スリランカを「単一共和国」であると規定し、連邦制を否定し た。こうしてタミール人の間では自治より独立を求める声が広がり、タミール人国家= タミール・イーラム(「国」という意味)の建国を目指す組織が相次いで誕生。72年に当時18歳の青年だったベルプライ・プラバカランがTNT(タミール・ニュー・タイガー)を結 成し、75年にLTTEへ改称。7月には北部の都市・ジャフナで市長を暗殺した。
当時タミール人の独立運動は、ガンジー主義(つまり非暴力不服従)を掲げたタミール統一戦線(TUF)が中心で、議会で自治や独立を求 めていたが、82年にスリランカ政府は憲法を改正して、独立を主張したり支 持し た者には公民権停止や公職追放、財産没収などを行えると規定。TUFの議員たちは資格を剥奪されてインドへ亡命した。こうして独立運動はス リラ ンカ政府によって合法的手段の道を閉ざされ、LTTEのようなテロや武装闘争しか方法がなくなった(※)。
※議会に進出し、合法的な手段で自治や独立を求めるといえば日本でもやって る人がいます。
LTTEはインド南部で戦闘訓練を開始し(※)、83年から武装闘争を本格化させると、首都コロンボでは大規模な暴動が起き、民族対立 は深 刻化した。インドの仲介でスリランカ政府と穏健独立派の会談が開かれ、TUFはインド系タミール人にも公民権を与えることや、タミール人のホー ムランドを 設置することを要求したが、スリランカ政府は拒否。「やっぱり話し合いじゃダメだ」とLTTEは大攻勢をかけて北部や東部の大半を占領し、87年1月から 行政や 警察、裁判、放送局などの運営をLTTEが行うことにした。
※スリランカには約270万人のタミール人 がいるが、インドには南部に5000万人住み、タミール・ナドゥ州がある。他にシンガポールやマレーシアにいる「インド人」も主にタミール人。
「虎退治」が終わったら、連邦制はウヤムヤに?
スリランカ政府は対抗措置として北部を経済封鎖すると、LTTEの攻勢は弱まったが、そこで介入したのがインドだった。「人道的な措置」として食糧や医薬品 をパラシュートで北部に投下し始め、救援物資を満載した船を北部に向かわせた。スリランカ政府は抗議したが、インドは「タミール人難民が来て迷惑し ている」ことを理由に、スリランカへの「平和維持軍」と称したインド軍進駐を認めさせ、さらにタミール語も公用語化し、シンハラ語とともに全土の行政機関 で使用する言語にするよう憲法を改正させた。
こうしてスリランカ政府を従わせたインド軍は一転して LTTE を攻撃し、ジャフナ市を包囲した。89年にはいったん停戦が成立したが、翌年には破られてLTTEはテロ攻撃に転じ、介入の泥沼化を恐れた インド軍は90年に撤退。LTTEの恨みをかったインド首相だったラジブ・ ガンジーは 91年に自爆テロで暗殺されてしまう(※)。
※母親のインディラ・ガンジーや、その父のネールもインド首相 を務めた。しかし「独立の父」ガンジーとは無関係。
その後、政府軍とLTTEは一進一退の攻防戦を続けるが、内戦は民間人に大きな犠牲を出し続けた。LTTEは要人へのテロ のみならず、シンハラ人の村を襲って住民を片っ端から殺害したり、バスを停めてシンハラ人の乗客だけを機関銃で射殺するなどの残虐行為を繰り返した。一方 で 政府軍もLTTEだと疑ったタミール人を殺害したり、バスを停めてタミール人の乗客だけを自警団に引き渡して銃殺させるなど、似たり寄ったりの 行為を行った。
2000年から01年にかけて、LTTEは再び大攻勢をかけ、北部にあった政府軍基地を陥落させたり、コロンボの空港を襲撃して大きな 被害を与えた(※)。しかし9・11テロの発生で、LTTEの資金源となっていた海外のタミール人からの送金が締め付けられ、02年にはノルウェーの仲介 で政府 側と和平交渉を再開。03年にはこれまで要求していた独立に代わって、連邦 制の導入と自治の実現でスリランカ政府と合意した。
※当時スリランカ航空が所有していた12機のうち、半数の6機 が爆破された。
アメリカやEUが相次いでLTTEをテロ組織だと認定し、05年に強硬姿勢のラジャパクサ大統領が就任すると、07年から政府軍は攻勢 に出て、東部からLTTEを一掃。LTTEは支配 地区に残っていた20万人のタミール人を「人間の盾」にして抗戦を続けたが、09年には北部の拠点も次々と政府軍に奪われ、5月にプラバカランが戦死したことで、タミールの虎は壊滅した。
26年間にも及んだ内戦がようやく終結して、スリランカでは経済復興が本格化しているが、政府が合意したはずの連邦制や自治の導入はウ ヤムヤになってしまった。「虎」が退治された北部には政府軍が居座り、独立運動を再燃させないために、シンハラ人の入植が始まるのではないかとタミール人 の間では不安が広がっているようだ。
左:タミールの虎のMTV、 右:プラバカランの戦死を報じるスリランカのニュース番組
参考資料
荒井悦代 『スリランカ紛争史年表』 (「アジア・アフリカの武力紛争―共同研究会中間成果報告 」アジア経済研究所 2001)
外務省 各国地域情勢 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/srilanka/index.html
wikipedia http://ja.wikipedia.org/
●関連リンク
Voice of Tigar LTTEのラジオ局「虎の声」の2009年4月3日の放送
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