
住民に支持されずに潰れた3度目の建国
タリシュ・ムガン共和国
(タリシュスタン共和国)
首都:ランカラン 人口:60万人
1993年6月17日 アゼルバイジャンから独立を宣 言
1993年8月23日 アゼルバイジャン軍に制圧されて消滅アゼルバイジャンの地図
コーカサス地方の民族分布図 右下の黄緑色がタリシュ人の居住地帯
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アゼルバイジャンといえば、ソ連解体に伴って誕生したカスピ海西岸の大産油国。アゼルバイジャンがソ連から独立すると、アゼルバイジャ ンから独立を宣言した国が2つあって、1つは西部のナ ゴルノ・カラバフ共和国、もう1つは南部のタリシュ・ムガン共和国(別名:タリシュ スタン共和国)だ。ナゴルノ・カラバフは住民の大半がアルメニア人で、2年半に及んだ戦闘の末、アルメニア軍が占領して現在もアルメニアだけが認める「独 立国」として存在している。一方のタリシュ・ムガンにはタリシュ人が住んでいるが、独立から2ヵ月後足らずでアゼルバイジャン軍に制圧され、消滅したので した。
もっともタリシュ人はそれ以前に2度、国を作ったことがある。1つ目は18世紀後半から19世紀初めにかけて存在したタリシュ汗国(タリシュ・ハーン国)で、2つ目はロシア革命の時に3ヵ月間だけ存在したタリシュ・ムガン社会主義ソビエト共和国だ。
アゼルバイジャンからイランの北部にかけては国境に跨ってトルコ系のアゼリ人が住み、イランには東 アゼルバイジャン州や西アゼルバイジャン州がある。しかしアゼルバイジャン南部のムガン平野からイラン領にかけてのカスピ海西南岸には、ペルシャ 系のタリシュ人が周囲をアゼリ人に囲まれて住んでいる。タリシュ人の人口ははっきりしなくて、アゼルバイジャンに40万人、イランには100万人とも言わ れているが、アゼルバイジャン政府の発表では国内人口(800万人)の1%、つまり8万人と言うことになっている。アゼリ人への同化が進んで、タリシュ語 を話す人は少なくなっているようだ。
タリシュ汗国
さて、18世紀のイラン(ペルシャ)では、ナーディル・シャーがサファヴィー朝を乗っ取り、イラクからアフガニスタンに跨るアフディー ル朝を築き、インドのデリーへも遠征して大略奪をしたが、建国わずか11年後の1847年にナーディル・シャーが暗殺されて帝国は衰退。アフガニスタンで はドゥ ラニー朝が成立して独立し、イラン北部やアゼルバイジャンからグルジアにかけてのコーカサス地方(カフカス地方)でも多くの汗国(※)が成立し た。ランカランを首都にしたタリシュ汗国もその1つだった。
※モンゴルから中央アジア、西アジアにかけての遊牧民の王の称号はハーン、または カーンで、中国人が漢字を充てて「汗」。これらのハーンやカーンが支配する国々が「××汗国」だが、最近では「ハーン国」と書くことが多くなったようだ。 だけど「汗国」と書いた方が、ジンギスカンみたいな王が自ら馬に跨って汗かきながら作った国と いう感じがして私は好きなので、このHPではもっぱら「汗国」という表記を使います。18世紀末になるとイランで新たに成立したカージャール朝がこれらの汗国を征服するが、タリシュ汗国はそれに対抗してアゼルバイジャンの北部に領土を広げ ながらロシアの保護を求め、1802年にロシアの保護国となった。コーカサス地方の支配を 巡って起きた19世紀初めにロシア・ペルシャ戦争の結果、アラス川より北のアゼルバイジャンはロシア領となり、アゼリ人の居住地域は今日に至るまで国境線 で南北に分断されることになるのだが、ロシアにとって御用済みになったタリシュ汗国は1826年に廃止され、アゼルバイジャンはロシア帝国の直轄領にされ てしまう。タリシュ・ムガン社会主義ソビエト共和国
時代は下って1917年、ロシア革命が勃発してロシア帝国が倒れると、それまでロシア人に支配されていた各地域は次々と独立を宣言する が、完全にロシアから独立した国を作ろうという民族主義者と、革命政権を樹立してロシアのボルシェビキ(後のソ連共産党)と手を結ぼうとする社会主義者の グループが各地で対立(※)。そこへ赤軍や帝国を復活させようとする白軍が攻め入り、時あたかも第一次世界大戦のさなかで英仏独にトルコ軍が乱入し、その 後も革命政権の誕生を警戒した列強諸国が軍事介入し続け、日本やアメリカはシベリアへ、イギリスやフランスはコーカサスへ出兵するなど、数年間にわたって 混乱が続いた。(混乱している頃の地図)
※ようするに、ロシア帝国の下で苦しんでいた各民族の将来について、「圧政を敷い ていたのはロシアだから、ロシア人を追い出して民族自らが権力を握ればいい」と考えたのが民族主義者、「圧政を敷いていたのは貴族や資本家だから、独立し ても自分の民族の貴族や資本家が権力を握ったら同じこと」と考えたのが社会主義者。もっとも社会主義者にもボルシェビキと対立する穏健派のメンシェビキや 社会革命党などいろいろいたのだが・・・。ソ連の指導者には、スターリンはグ ルジア人、トロツキーはウクライナ出身のユダヤ人など、ロシア人以外も少なくなかった。アゼルバイジャンでは、1917年に油田の中心都市であるバクーの労働者たちが革命政権(パリ・コミューンならぬバグー・コミューン)を樹立したが、18年3月に革命政権や市内のアルメニア人がアゼリ人と対立して混 乱し、7月にイギリス軍が占領。5月に西部のギャンジャでアゼルバイジャン民主共和国の独立を宣言していた民族主義者たちは、9月にオスマントルコ軍とともにバクーへ入城したが、翌月トル コが降伏するとイギリス軍が再び占領し、アゼルバイジャン民主共和国は今度はイギリス軍に支えられてベルサイユ講和会議に参加、16の国がバクーに公使館 を開くなど独立国として国際的に認められた存在になった。一方でランカランでは、イギリス軍の占領下で18年8月にロシアからの独立に反対する白 軍政権が誕生したが(※)、労働者たちが革命を起こして19年5月にタリシュ・ムガン社会主 義ソビエト共和国が誕生した。アゼルバイジャン民主共和国はナゴルノ・カラバフの争奪を巡ってアルメニアとの戦争に忙しく、タリシュ・ムガ ンの「反乱」には構っていられなかった。
※アゼルバイジャンの民族主義者にとっては、トルコでもイギリスでも「反ロシア」 ならどこと手を結んでも良く、イギリスにとっては白軍だろうが民族主義者だろうが「反赤軍」なら誰を支えても良かったということ。やがてロシアの革命政権は「反革命の民族主義者を倒し、労働者を助ける」という理由(実際には石油資源の確保)でアゼルバイジャンへ侵攻、1920年4月 に赤軍がバクーを占領してアゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国が成立すると、タリシュ・ムガン社会主義ソビエト共和国はこれに合流して解散した。22年に各地の革命政権がソ連を結成し、アゼルバ イジャンもその一部となった。(ソ連が発足した頃の地図)タリシュ・ムガン共和国
つまり、2回にわたって生まれたタリシュ人の国は、いずれも結果的にロシアによるアゼルバイジャン併合を招くことにつながったのだが、 3回目のタリシュ・ムガン共和国もロシアで独立宣言を発表した。となると、ソ連からのアゼルバイジャン独立に反対して、ロシアへの復帰を目指した政権なの かといえば、そういうわけではなかった。
アゼルバイジャンやアルメニアではソ連末期から民族主義者が台頭し、1988年にはお互いの国内に住む相手方の民族を迫害して追い出す などの事件が激化。90年にはソ連軍とソ連内務省国内軍(※)が介入して多数のアゼリ人が犠牲になった(バクー事件)。91年にソ連が崩壊して両国が独立 すると、ナゴルノ・カラバフやナ ヒチェバンの帰属を巡って本格的な戦争になったが、アゼルバイジャンでは民族主義者が政権を握ったものの政変が相次ぎ、92年にはトップが半年で 4回も交替。戦争ではアルメニア軍にナゴルノ・カラバフばかりかアルメニアとの間の広大な地域を占領され、石油生産も麻痺して経済は混乱し、94年のGDP(国内総生産)は独立時の37%にまで落ち込んでしまった。
※治安出動専門の国内用軍隊。1993年6月に政権の座に就いたヘイダル・アリエフは、反対派を強硬に弾圧しつつアルメニアとの停戦を実現(※)。積極的な外資導入で石油生産を回復し て、その後10年間に及んだ強権政治の下でアゼルバイジャン経済を復興させたのだが、アリエフ政権が発足した2日後、タリシュ人でソ連軍元大佐のアリクラ ム・グムバトフが、タリシュ・ムガン共和国の独立をロシアで発表する事件が起きた。※ヘイダル・アリエフはソ連時代、アゼルバイジャンのKGBトップやソ連共産党の 政治局員や首相代理などを歴任した。アゼルバイジャンの国家保安省(KGBを改組)は、民族主義政権の下で諜報活動に精通したベテランのロシア人が追い出 されて活動が停滞していたが、アリエフはまず国家保安省の再建に取り組んで政変を未然に防ぎ、国内安定に成功したといわれている。アリクラム・グムバトフは帰国すると自ら大統領に就任し、ランカランなど7つの地域を傘下に置いて軍の創設に乗り出した。しかしタリシュ人の間でも独立支 持はさっぱり広がらず、2ヵ月後にはアゼルバイジャン軍によってあっさり制圧された。グムバトフはイランへ逃亡したが、12月にアゼルバイジャンへ引き渡 されて逮捕。9ヵ月後にグムバトフは脱獄に成功するが、ランカランの自宅へ戻ったところを再逮捕さ れている。グムバトフは反逆罪で死刑判決、後に終身刑に減刑されたが、欧米諸国からは「グムバトフは政治犯だ」として釈放を求める声が上がり、 2003年にヘイダル・アリエフ大統領が病気で倒れ息子のイルハム・アリエフが大統領に就任すると、グムバトフは市民権の剥奪と引き換えに「結核の治療」 を理由に出国することが認められ、現在は家族とともにオランダで暮らしているとか。
タリシュ・ムガン共和国の独立は、結局のところアゼルバイジャンの政争に過ぎなかったようだ。アリクラム・グムバトフはもともと民族主 義グループであるアゼルバイジャン人民戦線党の活動家で、タリシュ・ムガン独立を影でサポートしていたのは、スラト・フセイノフ首相だったと言われる。フ セイノフは軍の大佐で93年6月にギャンジャでクーデターを起こし、人民戦線党政権を倒してヘイダル・アリエフの大統領就任を助け、自らは首相に任命され たが、ヘイダル・アリエフの権力拡大に危機感を抱いて「反乱」を手助けしたようだ。フセイノフ首相は翌94年、反乱計画が発覚してロシアへ逃げたが、やは りアゼルバイジャンへ引き渡されて終身刑を言い渡されている。
キリスト教徒で歴史的にもアゼリ人との戦争を続けていたアルメニア人とは違って、タリシュ人はアゼリ人と同じシーア派イスラム教徒がほ とんどで、人口もはっきりしないほど同化が進んでいた。多くのタリシュ人にとっては敢えて戦争を起こしてまでアゼルバイジャンから独立する理由はなく、そ れよりも国内を早く安定させて経済を立て直して欲しいと思っていた。それにアゼルバイジャンは世界有数のバクー油田を擁しているわけで、ソ連から独立して ようやく石油の富の恩恵に預かれると思っていたのに、そのアゼルバイジャンから独立してしまえば、タリシュ 人に富はまわって来ないわけで、これでは独立を支持する人はほとんどいなかったというのも当然ですね。
大統領転じて脱獄犯になったアリクラム・グムバトフ参考資料:
THE SOUTH CAUCASUS http://www.cornellcaspian.com/sida/sida-cfl-2.html
Caspian Energy http://www.caspenergy.com/22/02_e.html
Answers.com http://www.answers.com/
Wikipedia. http://en.wikipedia.org/
CENTRAL ASIA-CAUCASUS ANALYST http://www.cacianalyst.org/issues/20040908Analyst.pdf
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