切っても切れない縁で、別れても親密な関係

セネガンビア国家連合

 

1982年2月1日 セネガルとガンビアが「セネガンビア国 家連合」を結成
1989年9月30日 解散 

  
「ポルトガル領ギニア」というのは、現在のギニアビサウです


ガンビアの衛星写真 (google map)

アフリカの国境線は、19世紀後半に列強が植民地を分割した時の線引きがそのまま使われているのがほとんど。だから民族の分布などおか まいなしで、独立しても紛争の火種になっている。

戦後、アフリカ各地で独立運動が盛んになると、白人が引いたおかしな国境線は取っ払って、アフリカ人は団結すべきという主張が広がるの は当然のこと。これがすなわち汎アフリカ主義で、 1950〜60年代にかけて民族を越えた独立への支援の原動力になり、63年にはアフリカ統一機構(OAU)が結成された。しかしいったん独立を達成する と、アフリカを統合して1つの国にしようということは、各国の権力者が権力を失うことになるし、自国内の紛争や権力争いでそれどころじゃない国が増え、 2003年にアフリカ連合(AU)が設立されたものの、「アフリカを1つの国に」という主張は影をひそめた(※)。

※最後までアフリカ合衆国の設立に熱心だっ たのは、リビアの故カダフィー氏。

そんななかで、旧宗主国の違いを越えて統一や国家統合を実現したのが、モロッコとカメルーン、ソマリア、そしてセネガンビアだった。

モロッコは仏領とスペイン領、それに国際管理に置かれていたタ ンジールを統一したのは良かったが、勢い余って西 サハラ(旧スペイン領サハラ)を占領してアフリカ諸国の批判を浴び(※)、カメルー ンは英領と仏領を統一したものの、旧英領では独立紛争が起き、ソマリアは英領と イタリア領を統一したが、いまや完全な崩壊国家となって旧英領はソ マリランドとして実質的に独立状態が続いている。

※AUには西サハラの亡命政府が加盟してい て、モロッコはアフリカ唯一の非加盟国。

そしてセネガンビア(セネガル+ガンビア)はわずか7年間で解散したが、紛争にはならず「協議離婚」の形だ。というか、「正式に入籍しないまま別れた」とも言える。

か弱い大統領を守ってほしいと、トントン拍子 で意気投合

ガンビアは奇妙な形をした国で、三方をセネガルに囲まれ、西側は海。ガンビア川に沿って東西300km続くのに、南北は狭いところで 10km足らず。領土は川沿いだけなのだ。

ひょっとしてガンビア川の沿岸には、歴史的に川魚を捕って暮らす独自の民族が住んでいるのかと思いきや、もちろんそんなことはない。ガ ンビアのマンディンゴ族やウォロフ族はセネガルにも住んでいるし、宗教はどちらもイスラム教が中心。かつて セネガルはフランス植民地、ガンビアはイギリス植民地で、旧宗主国の違いがそのまま領土に なった

15世紀にヨーロッパ人がやって来てから、西アフリカはアメリカ大陸へ送られる奴隷の供給地になった。セネガルやガンビア一帯には、ポ ルトガルに続いてオランダ、イギリス、フランスが相次いで進出し、海岸の要塞を奪い合ったが、19世紀末に列強の間でアフリカの植民地分割のための国際会 議が開かれ、その時点での勢力範囲をもとに明確な国境線を定めた。セネガル南部のカザマンス州は、その直前まで南側のギニアビサウとともにポルトガルの勢 力範囲だったが、1886年にカビ ンダ と引き換えでフランス領になった。イス取りゲームをしていて「ピーッ」と笛が鳴ったら、フランス人の間にイギリス人が1人ぽつんと座っていて、それが後の ガンビアになったということ。

さて、1960年にセネガルが独立し(※)、65年にガンビアが独立すると、同じ文化を持つ同じ民族が2つの国に分断させている現状を 解決しようと「セネガンビア構想」が生まれた。

※セネガルは仏領スーダンとマリ連邦を結成して60年6月にフランスから独立し、8月にマリ連邦から独立した。

セネガルにとって、国内を南北に縦断するのに数百kmも奥地へまわり込むのは大変だが、国境線がなくなれば簡単にガンビアを通過でき る。特に南部のカザマンス地方では分離独立を求め る動きが活発化し、いざという時に政府軍を迅速に派遣するためには国境線はネックだった(※)。またガンビア領を通じた密輸にも頭を悩ませていた。

※カザマンス地方にはジョラ族が住み、北部 のウォルフ族が主導権を握るセネガルに反発していたが、60年のセネガル独立の際に、当時のサンゴール大統領が「20年後にカザマンスは独立してもいい」 と約束したということで、80年以降、独立を求める運動が本格化した。

一方でガンビアは、経済不振に悩んでいた。西アフリカや中部アフリカは旧フランス領が多く、セネガルをはじめ14ヵ国がCFAフランを共通通貨にしている。CFAフランはフランス・フラン(現在は ユーロ)と固定レートなので、アフリカの中では最も安定した通貨だ。しかし旧英領のガンビアはCFAフラン圏から外されて、ダラシという独自通貨なので 経済的に不利なうえ、国内産業は落花生栽培の農業と観光業が存在する程度(※)。公務員の数ばかりが増えていた。

※観光のウリはかつての奴隷貿易の遺跡。 77年にアメリカで大ヒットした黒人奴隷の生涯を描いたテレビドラマ『ルーツ』の舞台はガンビアだった。

統合のきっかけとなったのは、81年7月にガンビアで発 生したクーデターだった。脆弱なガンビア経済は第二次オイルショックに直撃されてインフレが進み、ジャワラ大統領がイギリスでチャールズ皇 太子と ダイアナ妃の結婚式に参列していた時、軍の一部が社会主義政権の樹立を主張して反乱を起こし、憲法の停止と革命評議会の樹立を宣言した。

ジャワラ大統領は隣国セネガルへ向かい、ディウフ大統領にセネガル軍の介入を要請。反乱軍はすぐに鎮圧さ れて、ジャワラは翌月ガンビアへ帰国することができたが、少人数でクーデターを起こせてしまうガンビア軍の貧弱さを痛感し、セネガルの力でガンビア政府(=ジャワラ政権)を守ってもらおうと、両 国の統一を決意。セネガルとガンビアの交渉はトントン拍子で進み、3ヵ月で協定を締結。82年2月にセネガンビア国家連合が成立した。

 
カンビアのジャワラ大統領 (左)と、セネガルのディウフ大統領(右)

戦争勃発でかまってられないと、見捨てられて 再び クーデター

あくまで両国の政府を守るための国家連合な ので、両国とも主権国家としてこれまで通り国連に加盟し、政府はそのまま存続して内政は別々だが、軍事や外交、経済、通貨の面で統合もしくは協調を進める という内容だった。それらの調整のために連合政府が設置され、大統領にはセネガルの大統領が、副大統領にはガンビアの大統領が就任し、セネガル5人とガン ビ ア4人による内閣と、セネガルの国会議員40人とガンビアの国会議員20人からなる連合議会も発足した。また公用語は旧宗主国の英語と仏語とされた (※)。

※地元民族の言葉を公用語にすればいいのに と思うが、マンディンゴ族やウォロフ族の他にも特にセネガルには様々な民族がいるので、民族語のどれかを公用語に採用すると、かえって紛争の火種になりか ねない。

とりあえずガンビア軍はセネガル軍と統合され、82年末にセネガル南部でカザマンス民主勢力運動(MFDC)が武装闘争を始 めると、セネガル軍はガンビアを通って鎮圧に急行したりと、両国とも軍事面 での目的は達成したものの、その他の分野では国家連合による統合はなかなか進まなかった。セネガルはもっと統合を進めようという指向があっ たが、ガンビアではこれ以上統合を進めると、セネガルに吸収されてアイデンティティが失われてしまうという不安もあった。

そして1989年4月にセネガルとモー リタニアで国境紛争が勃発すると(※)、セネガル軍はガンビアから部隊を引き揚げて、モーリタニア国境へ移動させた。セネガルが危ないのにガンビ アの大統領を守るために軍を張り付けていられるかということだが、ガンビアが抗議するとセネガルは8月に国家連合の凍結を通告し、セネガンビア国家連合は翌月解散してしまった。

※国境地帯での放牧をめぐって、2人のセネ ガル人がモーリタニアの国境警備兵に射殺された事件をきっかけに、軍事衝突に発展。両国で相手国民を追放する暴動も起きて、25万人が難民となり、紛争は 91年まで続いた。

結局、軍事目的がきっかけで成立した国家連合は、軍事問 題がきっかけで破綻してしまった。アフリカ諸国の輸出振興のために94年にCFAフランが50%切り下げられると、通貨統合できなかったガ ンビアの輸出や中継貿易は打撃を受け、ジャワラが心配した通り再びクーデターが起きてジャワラは失脚した。

それでもセネガルと ガンビアはかなり仲良くやっている。例えばガンビアは小さな国なので大使館を置いている国は少なく、日本にはガンビア大使館は存在しない。これではガンビ アへ旅行する日本人はどうすればいいのと思いきや、セネガル大使館でガンビアの入国ビザ発給を代行しているのだ。


参考資料
『外交青書』1982年版 (外務省 1982)
Nijii http://www.gambia.dk/senegambia_confederation.html
Foroyaa Online http://www.foroyaa.gm/modules/news/article.php?storyid=824
wikipedia http://en.wikipedia.org/



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