
「白人王」の復活を求めて、住民たちが激しく反乱
サラワク王国
首都:クチン 人口:44万(1931年)
1841年9月24日 ジェームス・ブルックがブルネ イ国王によってサラワクのラジャ(藩王)に任命される ;
1846年 サラワク王国がブルネイから独立
1888年 イギリスの保護国になる
1941年12月24日 日本軍が占領
1945年9月11日 イギリス軍が占領
1946年4月15日 サラワク王国が復活
1946年7月1日 イギリスがサラワクの統治権を購入。イ ギリスの直轄植民地となり、王国消滅
1963年9月16日 マレーシア連邦と合併し、サラワク州 になる現在のマレーシアの地図
クチン市内の地図(1938年) 川向こうに王宮があります「熱帯のジャングルか南洋の島へ行き、先住民を従えて王様になりたい」というのは、男なら一度は夢見る冒険の夢(?)だ が、実際にそうやって王国を作ってしまった人がいる。東南アジアのボルネオ島北部(現:マレーシア領)にサラワク王国を築き、ホワイト・ラジャ(白人王)になったジェームス・ブルックだ(※)。
※正式な「王国」を作るまでには至らな かったが、似たようなケースとしては、インド洋ココス 諸島のジョン・クルーニーズ・ロス(現:オーストラリア領、子孫が1979年まで統治)、南太平洋スウェ インズ島のイーライ・ハチソン・ジョニングス(現:アメリカ領、子孫が現在でも実質的に統治)、 19世紀半ばにド ファール(現:オマーン領)を支配したオランダ人のローリード、18世紀から19世紀にかけてボルネオ島西部(現: インドネシア領)に蘭芳 公司を樹立した(ただし、王国じゃなくて共和国)中国人の羅芳伯や、同じ頃に近くで戴燕王国を 作った呉元盛などがいて、日本人でも明治時代にミクロネシアへ渡り大酋長になった森小弁(『酋長の娘』や『冒険ダン吉』のモデル、ひ孫はミクロネシア連邦 のモリ大統領)がいる。
ジェームスは1803年、イギリス東インド会社の社員の子としてインドのベレナスで生まれた。少年時代は教育を受けるため に父親の故郷であるイギリスで 過ごし、その後東インド会社所属の海軍少尉になったが、ビルマ戦争で負傷し、悶々とした生活を送っていた。
1835年に父が死ぬと、ジェームスは3万ポンドの遺産をもとに帆船ロイヤリスト号を買い、大砲などの武器を積んで イギリスを出発し、冒険の旅に出た。
シンガポールへ寄港したジェームスは、総督から当時ブルネイ王の支配下にあったサラワクのラジャ(藩王)へ、 イギリス人漂流者を救助したことに対する感謝状とお礼の品を届けて欲しいと頼まれた。
それを引き受けたジェームスがサラワクへ赴くと、ブルネイ王の叔父であるサラワクのラジャは、ちょうどダヤク人の反乱に苦しんでいて、 ジェームスが反乱を平定してくれたら、サラワクのラジャの地位を譲ると申し出た。ラジャはこれまでも反乱にはさんざん手を焼いていたので、サラワクの統治 は他人に任せ、ブルネイに戻って甥の国王を補佐したかったようだ。ジェームスはロイヤリスト号の武器で反乱を鎮圧し、約束どおり1841年にサラワクのラ ジャに即位した。
この時点では、サラワクはまだブルネイの一部で、ジェームスは国王の家臣の一人に過ぎなかったが、やがて実力で領地を広げ、1846年 には国王を戦争で破り、ブルネイからの独立を果たした。こうしてジェームスは名実ともにサラワクの「白人王」となった。
ジェームスはその後イギリス海軍の協力を得て、海賊討伐に乗り出し支配を固めた。ジェームスの相次ぐ討伐戦争に、イギリス国会では「先 住民に対する虐殺だ」と批判の声も挙がったが、1847年にイギリスに帰国したジェームスは英雄として国民に迎えられ、ビクトリア女王からはナイトの称号 を授かり、オックスフォード大学からは法学博士の学位を贈られたほど。イギリス政府は1863年にサラワク王国の独立を承認したが、実はジェー ムスの希望 は独立国の王になることよりも、イギリスの領土拡大のために尽くすことだった。念願かなってサラワクがイギリスの保護国になったのは、 ジェームスが死んだ 後の1888年だった。
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「初代白人王」ジェームス・ブルック(左)と、2代目白人王 のチャールズ・ブルック(右)
1868年に即位した2代目のチャールズ・ブルック王はジェームスの甥で、牧師の家庭で育った教養人だった。彼は初代王の「勇王」に対 して「賢王」と言われ、法律制度や議会、地方行政などを整え、農場開拓など産業の育成を図った。
3代目のヴァイナー・ブルック王は、幼少の頃からイギリス へ送られて育った。ケンブリッジ大学を卒業してサラワクに戻り、1917年に王に即位したが、サラワクでの生活よりもイギリスでの暮らしを好み、サラワク に滞在しいたのは一年のうち冬の半年間だけだったようだ。
サラワク王国はイギリスから外交を除くすべての権限を与えられ、王がすべてを決定する専制君主制だった。というと、白人王が強権で先住 民を支配していたようなイメージだが、歴代の王は先住民との関係に気を使い、「文 化が進んだ少数のヨーロッパ人のために、先住民の利益を犠牲にしてはなら ない」を統治方針に掲げて、イギリス資本の進出による開発には消極的だった。
王の諮問機関として政府高官や先住民の長老からなる最高会議と、国会に相当する国民会議が あったが、どちらも先住民の数がイギリス人を上回ることが規定されていた(※)。司法制度も王が率いる裁判所のほか、中国人裁判所と先住民裁判所があり、 それぞれの民 族の慣習に基づいた審理が行われていた。そして1941年には憲法が制定され、冒険家がジャングルで作った王国は、立憲君主国となった。
※例えば、最高会議の民族別構成はイギリス 人2人に対してマレー人5人。王国最後の国民会議は、議員39人のうち、イギリス人12人に対してマレー人19人、ダヤク人4人、中国人3人、インド人1 人。
1935年のサラワクの人口は44万2867人で、うち欧米人は官吏や宣教師などわずか390人。大部分はダヤク人などの先住民で、ほ かに鉱山や農 場の労働者として移住してきた中国人が8万5000人で商業の実権も握り、海岸にはマレー人の漁民や農民が5万人ほど住んでいた。
1930年代のサラワク王国
サラワク王国は先住民から人頭税を徴収していたが、税収の大部分は先住民とは無関係で、財政を支えていたのは関税や、特産品であるツバ メ の巣やゴム、胡椒、ミリ油田から産出する石油、金などの輸出税、中国人労働者が吸う阿片の専売収入、国有地にしたジャングルの森林伐採収入など。またサラ ワクには日本資本の日沙商会が経営する大規模なゴ ム園があり、沖縄からの移民が数百人住んでいた。
日本軍の占領で荒れた国土を、100万ポンドで売り渡した最後の「白人王」
1936年に日本海軍の「夕張」がサラワクを訪問した時のヴァイナー王
太平洋戦争が始まると、サラワクは日本軍に 占領され、ヴァイナー・ブルック王はオーストラリアへ亡命した。戦争が終わった時、ヴァイナーはすでに70歳。もともとサラワクよりイギリスでの生活を好 んでいた王は、戦争で荒れ果てた王国を再建する気力はなく、サラワクの統治権をイギリスに引き取ってもらおうと、甥で皇太子のアンソニー・ブルックに条件 交渉を命じた。しかし、サラワク王国を主権国家として名実ともに独立させることを考えていたアンソニーが交渉を断ると、ヴァイナーはアンソニーの王位継承 権を剥奪して自らが交渉し、100万ポンドで統治権を売り渡すこ とを決めた。
こうして46年4月にサラワクへ戻ったヴァイナー・ブルック王は、7月から王国に代わってイギリスが直接統治することを発表したが、驚 いたのは住民たちだった。
歴代の白人王によって、先住民はその文化や慣習が尊重され、中国人商人はイギリス資本の進出から保護されてきた。とりわけ公務員や議員 として重用さ れてきたマレー人は、イギリス統治の下でその地位を失うことを恐れて激しく反発し、マレー国民協会を結成して、アンソニー皇太子を担いで王国防衛と反英の 運 動を始めた。
これに対してイギリスは、アンソニーの帰国を「暴動を引 き起こす」と禁止しながらマレー人長老に対して懐柔を図り、国民議会はわずか2 票差で王国の解散とイギリスへの統治権の譲渡を承認し、サラワクの白人王国は100年の歴史を閉じることになった。
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アンソニー皇太子と、マレー人公務員たち の王国復活要求集会(1947年)
しかし、マレー人たちの反英運動はますます激しくなり、49年12月にはイギリス人の総督がマレー人教師に刺殺されるテロ事件が発生し た (※)。この事件を機に、アンソニー皇太は子「混乱が続けば共産主義勢力に付け入る隙を与える」と、王国の復活を断念し、51年にイギリスへの統治権譲渡 を認めて、「いまイギリスへの批判を控えれば、サラワ クの人々が自分たちの将来を決定する機会を与えられるだろう」というサラワク住民へのメッセージを発表した。マレー人の反英運動も徹底弾圧されて下火とな り、 代わって中国人たちが社会主義を掲げて結成したサラワク人民連合党が、「反英反植民地」活動の中心になった。
※アンソニー皇 太子は暗殺事件への関与が疑われたが、サラワクへの帰国を禁止し、すっとシンガポールに滞在させていたの はイギリスだったので、証拠不十分で終わった。
サラワクは1963年9月にマ ラヤ連邦やシ ンガポール、サ バと合併し、イギリスの支配を離れてマレーシアの一部になるが、ヴァイナー・ ブルック王はその2ヵ月半前にロンドンで死去しており、アンソニー皇太子は翌64年にようやくサラワク訪問が許された。アンソニーはその後87年にニュー ジーラ ンドへ移り住み、2011年に98歳で 死去するまで世界的な平和運動を続けた。
サラワクはその歴史的な経緯からサバとともにマレーシアの中では特別な自治権を持っていて、例えばマレー半島からサラワクへ行く時に は、マレーシア人でも入国審査が必要だ。州都・クチンには、かつて白人王が君臨した王宮や、チャールズ王が建てた博物館があり、「首狩りをしていた野蛮人 を従えて文明をもたらした白人王」の物語に憧れる欧米人観光客で賑わっています。
こ ちらもご覧くださいね。
参考資料:
『サラワツク王国事情』 (拓務省拓務局 1938)
『世界年鑑 昭和17年版』 (日本国際問題調査会 1942)
池端雪浦、生田滋 『東南アジア現代史2』 (山川出版社 1977)
田绍熙 『一路走来: 田绍熙回憶録』 (マレーシア:婆羅洲印務 2003)
Operation Peace Through Unity http://www.peacethroughunity.info/background-anthonystory6.html
Former Rajah Muda recalls days in Sarawak http://www.angelfire.com/journal/brooke2000/AnthonyStory.html
josephians of the seventies http://josephians-of-the-seventies.blogspot.com/2011/03/sarawak-history-update-anthony-brooke.html
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