アラブ諸国は承認すれど領土は渡さず

パレスチナ
 
首都:エルサレム(政府所在地:ガザ)

 
全パレスチナ政府の旗は1917年にアラブ反乱軍が使った旗で、ヨルダン国王が主導したアラブ連邦の旗と同じ

1948年5月14日 イスラエルが建国を宣言
1948年10月1日 アラブ高級委員会がガザで全パレスチナ政府の樹立とパレスチナ独立を宣言
1948年12月 ヨルダンがヨルダン川西岸の併合決議
1952年9月 アラブ連盟が全パレスチナ政府の活動停止を決定
1963年3月 全パレスチナ政府が名目的にも消滅
 

1947年の国連分割案と第一次中東戦争後のパレスチナ地図 黄緑はユダヤ人国家、黄色と緑はパレスチナ人国家、うち緑はイスラエルが併合した地域
第一次中東戦争の戦況図 左は開戦時、右は終戦時の経過
ガザの地図 1993年

パレスチナといっても、現在あるパレスチナ暫定自治政府のことじゃありません。1948年にイスラエルが建国した際、それに対抗してガザで独立を宣言した全パレスチナ政府のことです。

わざわざ全(ALL)と銘打っているところがなんか怪しいわけで、実際に当時すでにパレスチナの大部分はイスラエルに占領されていて、残った地域もヨルダン川西岸はヨルダンが占領して併合し、ガザはエジプト軍が占領。アラブ諸国の承認を受けて「首都はエルサレム」と高々に宣言したものの、実際にはガザの事務所と軍隊(聖戦軍)だけしか存在していなかった。いわゆる「亡命政府」のノリに近いが、ガザはパレスチナの一部なので、そこに事務所があったなら亡命政府というわけでもない。

全パレスチナ政府の大統領に就任したモハメド・アミン・フセイニーは、ムハンマド(マホメット)の直系の子孫を自称するエルサレムの名門フセイニー家の当主。トルコの陸軍士官学校に入学し、第一次世界大戦ではトルコ軍に参加していたが、これまたムハンマドの直系子孫を自称するハーシム家がイギリスと結んでアラブ反乱軍を結成すると、こちらへ加わった。パレスチナからトルコ勢力が駆逐されてイギリスの委任統治領になると、フセイニーの「毛並みの良さ」に眼を付けたイギリスは、エルサレムのムフティ(イスラム法学権威者)や最高イスラム評議会の議長に任命し、フセイニーはまだ20歳代にしてパレスチナきっての名士となった。しかし、やがてシオニズムが本格化し、パレスチナ人から土地を買い取って移住するユダヤ人が増えるとパレスチナ出身のアラブ人(パレスチナ人)との衝突事件が頻発する。穏健派だったフセイニーもパレスチナ人の反ユダヤ感情の高揚に押されて、イギリスへ「ユダヤ人への土地売却禁止」「ユダヤ人移民の即時停止」などを要求し、36年にはパレスチナ人諸政党を糾合してアラブ高級委員会を結成した。

アラブ人とユダヤ人の衝突に手を焼いたイギリスは、1937年にパレスチナを分割して80%近くをパレスチナ人国家に、20%をユダヤ人国家にする(エルサレムとテルアビブを結ぶ中枢地帯は引き続きイギリスが統治)というビール分割案を提示したが、アラブ人もユダヤ人も反発。とりわけアラブ人は英軍やユダヤ人を襲撃し、鉄道やパイプラインを破壊して大騒乱となる。英軍が徹底鎮圧に乗り出すと、フセイニーは各地を転々として最終的にはナチス・ドイツへ亡命した。

さて第二次世界大戦が終わると、イギリスは1948年5月限りでパレスチナからの撤退を発表し、国連で再びパレスチナ分割が討議された。ナチスによる大虐殺を生き延びたユダヤ人に同情的な国際世論を背景に、ユダヤ人国家が52%を得る分割案が決議され(国連181号決議)、分割案を受け入れたユダヤ人側はイスラエル建国に向けて着々と準備を進めていた。一方で、フセイニーらパレスチナ人側は「パレスチナはすべてパレスチナ人国家に与えるべき」と分割案を拒否。フセイニーは英軍撤退と同時に自らが率いるアラブ高級委員会を中心としたパレスチナ暫定政府を作ろうと、アラブ連盟(45年にアラブ諸国が結成)に協力を呼びかけたが、拒否された。

モハメド・アミン・フセイニー
アラブ諸国がフセイニーに冷淡だったのは、ナチスに庇護されていたフセイニーが指導者になれば、欧米諸国の支持を得られないだろうと判断したため。そして「ハーシム家によるアラブ統一」に燃えるヨルダンのアブドラ王は、ヨルダンにイラク、シリア、レバノン、パレスチナを合わせた「大シリア」の統一を画策していて、パレスチナだけの独立には猛反対したため、アラブ連盟の結束が崩れることを恐れてフセイニー支援には消極的にならざるを得なかった。

48年5月に英軍が撤退を開始すると、ユダヤ人はかねてからの準備通りイスラエルの建国を宣言。即座にエジプト、ヨルダン、シリア、レバノン、イラクなど周辺アラブ諸国が参戦し、フセイニーが率いるパレスチナの聖戦軍も加わって第一次中東戦争が勃発するが、寄せ集めのアラブ側は指揮が混乱したうえ士気も低く、やがてイスラエル軍が圧倒し、「自国の安全を守るため必要」「分割案はアラブ側が拒否したので無効になった」と分割ラインを大幅に超えて占領した。イギリスが撤退したことで自分達を保護してくれる政府がなくなったパレスチナ人たちは先を争って逃げ出し、100万人近くが難民となって西岸やガザ、ヨルダンなどの周辺アラブ諸国へ流入した。

この期に及んでアラブ諸国はパレスチナ人の政府樹立が必要なことを悟り、アラブ高級委員会による全パレスチナ政府の設立を認めた。フセイニーはパレスチナ民族評議会(国会に相当)の議長となり、48年10月にガザでパレスチナ全域を対象とする独立を宣言して、ヒルミを首相とする内閣を発足させた。ところが完全に時すでに遅し。パレスチナの80%はイスラエルによって占領され、アラブ側に残った2割の土地のうち、大部分を占めるヨルダン川西岸はヨルダンが公然と併合。ガザを占領していたエジプトもフセイニーを嫌うイギリスの圧力でガザの行政権を全パレスチナ政府に渡さず、収入がない政府の閣僚はフセイニーとヒルミの2人だけになってしまった。聖戦軍はあろうことかヨルダン軍に壊滅させられ、エジプトがフセイニーにガザからの退去を命じるに及んで、全パレスチナ政府は4ヵ月後には実質的な機能を停止し、アラブ連盟の一部局のような存在になった。

それでもエジプト、シリア、レバノン、サウジアラビアの各国は全パレスチナ政府を承認し続けていた。これは米ソや西欧各国がイスラエル政府を承認したことに対抗するためで、またパレスチナ人に同情的な自国民へのゼスチャーが必要だったからだ。全パレスチナ政府は1952年にアラブ連盟に活動停止を命じられたが、名目的には63年にヒルミが死去するまで続いた。

フセイニーはレバノンに亡命し、最高イスラム評議会議長としての活動を続けていたが、64年にアラブ連盟の肝入りでPLO(パレスチナ解放機構)が結成されると、「パレスチナ人の主体的な組織ではない」と大反対。これが契機となってやはりPLOの結成には反対だった宿敵・ヨルダン国王と仲直りし、当時ヨルダンが占領していた東エルサレムへ30年ぶりに里帰りすることができた。69年に弟子のアラファトがPLO議長に選出されると機嫌も直り、晩年はパレスチナ・ゲリラの良き助言者になっていたようだ。

それにしても、フセイニーが「パレスチナはすべてパレスチナ人のもの」という主張にこだわらず、ビール分割案や国連分割案を受け入れていたら・・・という気がしますね。

パレスチナとヨルダンの関係についてはアラブ連邦スコープス山 の項も参照してくださいね。

※上の地図は1976年3月発行の世界書院『中学校社会科地図』。実際にはこの時点ではヨルダン川西岸やガザ、ゴラン高原、シナイ半島などはイスラエルが占領しています。赤線で囲われた地域は1930年頃のユダヤ人入植地
 

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