中国にもダライ・ラマにも支配されず、古いチベットが残る「禁断の 王国」

ムスタン王国

 

首都:ローマンタン 人口:1万5869人(2008年)

1350年頃 成立
1791年 ネパール王国の宗主権の下に入る
2008年10月7日 消 滅 


ムスタン王国 の地図 kagbeni(カグベニ)以北が近年まで外国人立ち入り禁止だった上ムスタン。
ムスタン王国 の地図 国連のもの
ローマンタン の衛星写真 (Google map)

20年くらい前、日本で「ムスタン王国」というのが話題になった。1992年にNHKが『禁断の王国 ムスタン』というドキュメンタ リー番組を放送して大評判を呼んだのだが、そのヤラセ番組だったことが判明して、NHKは調査委員会を設 置。結局NHKの会長がヤラセを認めて謝罪 した。

ヤラセの内容は、主に(1)流砂や落石に襲われたというのは、実はスタッフが起こしたもの、(2)高山 病になったというのは、実は仮病、(3)登場する国境警備兵は、実は警官、(4)「3ヵ月間、一滴の雨も降らなかった」と言うが、実は降っていた、(5) そもそもムスタンは王国ではない・・・などなどで、(1)〜(4)はさておいて、(5)についていえば、ムスタン王国はネパール国内の藩王国。つまり主権国家ではないけど、王 国とい うのはウソではない。もっともその王(ラジャ)は、「領主」とでも訳した方がイメージに合っていそうだ。

さて、ムスタン王国の場所はネパールの西北部で、住民は チベット人。ヒマラヤ山脈の南側にあたる標高3000〜4000メートルの一帯で、古くからチベットとネパール平野部やインド北部を結ぶ 「塩の道」と言われる交易ルートが通っていた(※)。

※インドから内 陸のチベットへ塩を運ぶのではなくて、チベットから岩塩を輸出していた。

モンゴル帝国や元が君臨していた時代に、その下でチベットを統治していたサキャ派の政権から「塩の道」を守るようにと任命された軍事司 令 官が、ムスタンの王の祖先だ。14世紀半ばにチベットの内乱でサキャ派が権力を失うと、司令官はムスタン王国として独立した。いわば守護大名のような存在だった。

ムスタンはその後ネパール西部から勢力を伸ばしたジュムラ王国に支配されるが、18世紀後半にグルカ王朝のプリトゥビ・ナラヤン王がネ パール統一に乗り出し、2008年まで 続いたシャー王朝を樹立した時、ムスタンの王はジュムラ王国の討伐に協力し、その功績によってネパールの宗主権下でムスタン王国の存続が認められた。

ムスタン王国には古いチベットの生活や風習、信仰が今も残っている。その理由はムスタンはネパールにあるので、チベットの政 治情勢の変化とは別枠だったから。チベットは 戦後、中国の共産党政権の下で伝統的な宗教や文化が破壊されたが、もっと昔に遡れば、1400年頃チベット 仏教の宗教改革で新教(ゲルク派)が誕生し、その法王ダライ・ラマが1642年に政治権力のトップにも就いて、政教一致のチベット政府が成立すると、抗 争に敗れた旧教の各派は、チベット文化の「辺境の地」だったヒマラヤ山脈の南側に逃がれた。

こうしてドゥク・カギュ派の法王がブー タン、ニンマ派の高僧たちがシッキムに 王国を建てたが、ムスタンなどネパール北部にはサキャ派が 多く、さらにチベットに仏教が伝来する前からあるボン教(※)を信仰している人たちもいて、「ダライ・ラマ登場以前のチベット」の面影が色濃く残っているのだ。

※日本でいえば神道のようなチベット人 の民族宗教だが、最近ではもともと中 央アジアから伝来したものとも言われている。ダライ・ラマ政権のチベットでは、ボン教僧は呪術師 や祈祷師のように なったが、ネパール北部や四川省には今もボン教の信仰が残っている。もっともチベット仏教の影響を強く受けて、傍目には違いがよくわからないが、とりあえ ず寺でお参 りする方向や「卍」が逆。

そして地理的な条件に加えてネパール政府の政策で、ムスタンにはほとんど外国人が立ち入れなかった。欧米人がムスタンに入ったのは 1950年代からで、それ以前にムスタンへ行って記録を残したのは、1899年から1年近くツァーラン村に滞在してチベット仏教の経典を勉強した河口慧海くらいだ(※)。

※河口慧海は禅宗の僧侶で、漢文を読み上げ るお経では信者にとってチンプンカンプンだと、口語訳のお経を作ることを決意。そのためにはお経の原典から翻訳し直すべきだと考えたが、インドではとっく に仏教が廃れているので、インド仏教の影響を残しているチベットで修行しようとしたが、当時のチベット政府は鎖国政策で外国人の立ち入りは厳禁。そこでイ ンドのダージリンで1年間チベット語を学んだ後、密入境のルートを探るため中国人僧侶だと偽ってネパールに入り、ムスタンのツァーラン村でモンゴル人僧侶 にチベット仏教の指導を受けてから、ネパール西北部からチベットへ密入境。カ イラス山を巡ってラサに着いた時は、日本を出発してから4年経っていた。

1959年にチベット動乱が発生すると、首都ローマンタンがある上ムスタン(北部)は国境最前線なので再び外国人の立ち入りが禁止され た。ヒマラヤ山脈を越えて多数の難民がやって来たほか、アメリカ政府の援助でチベット人独立ゲリラの拠点も作られた。「禁断の王国」と称されたのはその ためだ。

上ムスタンが外国人に開放されたのは91年のこと。しかし個人旅行はできず、ネパー ル政府公認の旅行会社を通じてトレッキングツアーに参加しなくてはならない。10日以内で500米ドルの入域許可料も必要だ。

ローマンタンは、飛行場のある下ムスタンの町・ジョムソンから徒歩や馬で4〜5日登った標高3760mにある城壁町で、人口は900人 弱。賤民やチベット難民は城壁の外に住んでいる。町の中心には4階建ての王宮があるが、王はカトマンズにも家があり、普段はそちらで過ごすことが多いよう だ。

さて、ネパールでは19世紀半ばから国王に替わって世襲の宰相(ラナ家)が実権を握り、江戸時代の天皇家と将軍家のような状態が続いていたが、1951年に国 王が権力を回復すると、議会や政党をたびたび解散させ、民主化を弾圧し続けてきた。2001年には皇太子が銃を乱射し国王はじめ王族を多数殺害して自殺す る事件が発生。新たな国王は非常事態を宣言して、05年には再び議会や内閣を停止して、絶対君主制に戻ってしまった。

一方で、ネパール共産党毛沢東主義派はネ パール人民解放軍を結成し、「農村から都市を包囲する」「アメリカ帝国主義や国王はハリコの虎」と、二昔前の中国共産党のようなスローガンを掲げて武装闘 争を行い、グルカ兵+紅衛兵の勢いでネパール各地に解放区を 広げていった。国王が議会や内閣を停止すると各政党と毛派は国王打倒で手を結び、06年には全国的なゼネストとカトマンズでの大規模な抗議活動で議会復活 を 実現。ほぼすべての政党が賛成して08年に王制は廃止された (※)。

※総選挙では毛派が第一党となったが、大統領には王制時代に何度か政権に就いたネパール会議派のヤーダブが就任。首相は たびたび交代した後、2011年末に毛派のバッタライが選ばれている。ちなみにネパールの毛派は、現在の中国政府や中国共産党を「偉大な毛沢東思想に背い た修正主義」と批判しており、中国政府もネパールの毛派を「毛沢東の名を盗用した」と批判している。

こうしてネパールは王国から連邦共和国に生まれ変わったが、国内に残る「王国」の消滅も時間の問題となり、08年10月にネパール政府 はムスタンのジグミ・パルバル・ビスタ王に藩王制度の廃止を伝えた。ビスタ王は1930年生まれで、64年に即位したが、息子を幼いうちに亡くし、甥 を後継者にしようとしていたようだ。

国民の怒りで打倒されたネパール国王の宮殿や離宮は接収されて博物館になり、宝石がちりばめられた王冠や、ヒトラーから贈られたベンツ をはじめ、王族の豪勢な暮らしぶりが公開されているが、住民に慕われてきたムスタン国王の王宮がどうなるのかは不明。もっともビスタ王は以前からムスタン を訪れた観光客に自分の王宮を公開して、お茶をふるまっていたそ うな。

 
若き日のビスタ王(左)と、 毛派のバッタライ首相(右)


ネパールのその他の藩王国

ネパールにはムスタン王国の他にも「王国の中の王国」、つま り藩王国が3つ存在した。これらの国は、18世紀のグルカ王朝によるネパール統一にあたっての功績を認められ、存続を認められたものだが、19世紀半ばか ら20世紀半ばにかけて国王(シャー王朝)と宰相(ラナ家)の二重権力状態が続くとどっちにつくかで翻弄された。そしてインドパ キスタンに続いて、1961年 にはネパールの藩王国も行政や司法の権限を奪われて実質的に廃止され、3代限りでラジャ(藩 王)と名乗ることだけが認められた。

それでもなぜネパールは名目的に藩王を残したかというと、チ ベット動乱 の影響もあるようだ。ネパール政府は中国がチベット政府を解散させたことを批判して、ダライ・ラマの亡命政府にゲリラ基地を提供していたのに、ダライ・ラマのチベット政府よりも古くからあるチベット族の王国を潰したの では、面目が立たないということだろう。

ジャジャルコット

1470年頃 成立
1786年 ネパール王国の宗主権の下に入る
2003年5月5日 断絶
2008年10月7日 消 滅 

ベリ県 の地図 

ジャジャルコットはネパール西南部のベリ県にある。この一帯は90年代末から王制廃止まで毛派の解放区が広がっていた地域だ。

ジャジャルコットの王はヒンズー教徒。18世紀後半にグルカ王朝のナラヤン王がネパールを統一した時、ジャジャルコットの王はナラヤン 王とヒンズー教の聖地ベナレスへ赴き、ガンジス川で一緒に沐浴して友情を築 いたので存続が許されたと伝えられ ている。

1900年代初め、王の娘が当時有名無実になった国王に替わる権力者のチャンドラ・ラナ宰相に嫁いだのを契機に、王家はカトマンズに移 住。最後の王プラカシュ・ビクラムはロイヤル・ネパール航空のパイロットで2003年に死去した。王位を継ぐべき後継者はネパール国王の認証を受けなけれ ばならないが、当時のネパール王室はそれどころではなく、結局最後は王が空位のままジャジャルコット王国は終焉を迎えた。

サリャン

15世紀? 成立
1786年9月25日 ネパール王国の宗主権の下に入る
2003年 断絶
2008年10月7日 消 滅

ラプティ県 の地図 

サリャンはネパール西南部のラプティ県にある。この一帯は毛派が最初に武装闘争を始めた地方だ。

住民はマガール族で、かつてシベリアから移住して来たとも言われている。サリャンの王はヒンズー教徒で、ムスタン南側のダウラギリ県パルバットの王の次男 が、サリャンの領地を相続で受け継ぎ、王国を建てた。

18世紀後半のネパール統一戦争では、サリャンの王はナラヤン王の娘と結婚し、中部のラムジュン王国と戦って領地を広げたが、国王と親しかったのがアダと なって、19世紀に宰相のラナ家が権力を握ると、サリャンの王は反逆の疑いをかけられて失脚。領地や権限は縮小された。

1955年に即位した33代目のジテンドラ王は、ネパール政府からカルカッタ(現;コルカタ)領事に任命され、34代目のゴペンドラ王は写真家として生 活。2003年に死去した後に王は空位となって、名ばかりとなっていたサリャン王国は08年に正式に消滅した。

バジャン

1226年 成立
19世紀半ば? ネパール王国の宗主権の下に入る 
2008年10月7日 消 滅

セティ県 の地図 

バジャンはネパールの西の果てのセティ県にあって、王はヒンズー教徒だ。バジャンからカトマンズへ行くには山脈を延々と縦断しなければならないが、山を下 りればインドの平野でニューデリーの方がよほど近い。だからネパール政府の支配はなかなか及びにくい地方だった。

1899年に即位した56代目のジャイ・プ リトゥビ王は、農奴制の廃止や土地改革などを断行したほか、道路建設や製鉄所の建設、さらに国内初のネパール語新聞の発行や、カルカッタ医科大学から教 員を招いて医師や薬剤師を養成するなど、一連の近代化政策を進めた。そして「近代化なら日本に学べ」と、1907年には日本の歴史の本を出版したほど。


第一次世界大戦の勃発にショックを受けた
ジャイ・プリトゥビ王は、1914年に王位を息子に譲り、以後は人道主義や国際共同体の推進運動のため世界各地を まわった。1933年には日本を訪れて講演もしている(※)。

※日本とインド、ネパールの相互理解を促進したいが、日本の文字は多すぎて習得するのが大変な ので、サンスクリット語の文字を採用したらどうか・・・と呼びかけたとか。当 時の『Japan Times』の新聞記事

ネパール政府は1960年、それまで藩王が持っていた司法権を取り消して、裁判所を設置した。58代目のラム王とオム皇太子はこれに反発して、カトマンズ から派遣された裁判官を逮捕し、オムは知事を名乗って内閣を発足させた。ネパール軍が出動すると、ラム王とオム皇太子は逃亡。インドで記者会見を開いて 「ネパール政府による侵略行為」を訴えると、ネパール政府も対抗して「藩王による残虐行為」を発表した。

結局ラム王はバジャンへ戻り、次の記者会見の準備をしていたところを監禁された。オム皇太子はそのままインドへ亡命したが、数年後に何者かによって殺害さ れてしまった。


●関連リンク
Luntaの小さい旅、大きい旅  ムスタンやその他チベット文化圏を訪れた写真がたくさんあります
MDSAネパール・ムスタン白嶺会  90歳にしてムスタン現地で農業指導をしている近藤さんの団体
河口慧海 チベット旅行記  19世紀末にムスタン王国のツァーラン村に1年間滞在。当時の人々の様子がよくわかります
ネパール 2000年  バシャンの訪問記。バシャン王国の王女さまも・・・


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