イスラエルに見捨てられた「憂国」の傀儡軍兵士たち

自由レバノン共和国
 
首都:マルジャユン 人口:7万人(1999年)

 

1978年3月14日 イスラエル軍の占領下で自由レ バノン軍が発足
1979年4月18日 自由レバノン共和国として独立を宣言
1980年5月 自由レバノン軍が南レバノン軍(SLA)に 名称変更
2000年5月22日 イスラエル軍の撤退に伴い消滅

自由レバノンの地図 紫色の部分

パレス チナ戦争は、ユダヤ教徒=イスラエル人VSイスラム教徒=パレスチナ人(アラブ人)という構図でわかりやすい戦争 だったが、グチャグチャの内戦が続 いていたのがお隣りレバノンだ。

同じアラブ人同士のキリスト教徒・右派VSイスラム教徒・左派の抗争に(※)、PLOやイスラエル軍、シリア軍、米軍に国連軍、果てはイラ ンの革命軍も加わって、レバノン政府はとっくに崩壊。15年間続いた内戦は1990年にいちおう終結し、レバノンの大半を占領したシリア軍を後ろ盾にレ バノン政府が再建されたが、その後も各種民兵による戦闘やテロは続き、2005年にようやくシリア軍が撤退して、今度こそ平和が戻るかと思ったら、こんど はイスラエル軍が侵攻したりで、火種はまだくすぶり続けている。

※レバノンのキリスト教徒は、マロン派(東方カトリック)という独特の宗派が多数派。一方でイスラム 教徒も、スンニ派やシーア派の他にドールズ派という独自の宗派が勢力を持ち、彼らはコーランを使わず、メッカへ礼拝や巡礼をせず、断食も行わない。

レバノンはかつてアラブでただ1つキリスト教徒が主導権を握る国とし て、欧米に とっては中東の窓口 のような存在だった。レッセフェール(自由放任)の経済政策や自由・多彩な報道機関の存在とあいまって、首都ベイルートは1950年代から70年代にかけ て中 東の金融センターとして発展し、それまでの伝統的な商業拠点だったシリアの首都ダマスカスを圧倒した。

レバノンでは1930年代の国勢調査をもとに、キリスト教徒とイスラム教徒の人口比率は6:5だということで、国会の議席数や閣僚ポス トもそれに比例して 割り振られ、キリスト教徒が主導権を握る仕組みが作られていた。しかしその後人口調査は行われず、キリスト教徒はどんどん欧米へ移住していったのに対し、 イスラム教徒の方が出生率が高く、人口比率は逆転していたはずだった(※)。

※現在ではキリスト教徒とイスラム教徒の人 口比率は4:6だと言われているが、国会の議席は5:5。

紛争の発端は、70年にヨ ルダンを追い出されたPLO (パレスチナ解放機構)がレバノンに拠点を移したこ と。これをイスラエル軍が越境攻撃し、75年からPLOを追い出そうとするキリス ト教徒民兵と、PLOを擁護するイスラム教徒民兵との間で内戦が始まり、収拾がつかなくなったところで、76年にシリア軍が介入し、宗主国のような顔をしてそのままレバノンに居座って しまう(※)。

※シリアとレバノンは歴史的にみれば1つの地域で、かつてはオ スマントルコの属領。第一次世界大戦後はフ ランスの委任統治領になったが、フランス統治下でキリスト教徒が多かったレ バノンは分離されて43年に独立、残ったシリアは46年に独立し、別々の国となった。だからシリアでは「レバノンは本来シリアの一部なのに、フランスはじ め欧米の陰謀で分離されたに過ぎず、シリアの主導下に置かれるべきだ」という大シリア主義も 根強い。

そしてそれまでレバノンで我が物顔にふるまっていたPLOと新たな支配者のシリア軍が対立し、イスラム教徒も親シリアと反シリアに割 れ、イランはシーア派の民兵(アマルやヒスボラ)を育成して・・・と、そもそもの火種だったPLOが82年にチュニジアへ追放されても、紛争は際限なく続 いた。

PLOやシリアから祖国を解放するためには、イスラエルと・・・

さて、そんな内戦さなかのレバノン南端に、忽然と現れたのが自由レバノン共和国だ。旗揚げしたサード・ハダットはキリスト教徒だ が、イスラエルの傀儡国だった。

イ スラエルと国境を接するレバノン南部は、もともとイスラム教徒(シーア派)が多く住む地域だった。そのため、PLOやイランに支援さ れたシーア派民兵(ヒスボラ)によってイスラエルへの攻撃拠点と化していた。しびれを切らしたイスラエルは78年にレバノン南部へ侵攻したが、そのままイスラエルが占領し続けたら国際的な非難を浴びてしまう。国連安 保理はイスラエルの撤退を監視するための国連レバノン暫定軍の派遣を決めていた。そこで南部に駐屯していたレバノン国軍のサード・ハダット少佐と手を結び、占領地域の支配を 任せることにした。

ハダットは南部に赴任して以来、弱腰なレバノン政府の言うことを聞かず、独断専行でPLOと戦闘を続けていたが、さっそく自分の部隊を 「自由レバノン軍」に衣替えした。装備はイスラエルが提供したが、兵士の給料は引き続きレバノン政府から出ていた。しかし、79年に自由レバノン共和国と して独立を宣言すると、さすがにハダットらはレバノン国軍から「裏切り者」だと除籍され、給料や軍服もイスラエルが提供するようになった。

  
ハダット少佐(左)と、後継者のラハド少 将(右)

ハダットの目的は、レバノンから独立して自分たちの国を作ることではなく、あくまでPLOやシリアに蹂躙されているレバノンを立て直すことで (※)、そのためにイスラエルの力を利用しようとした。80年5月には自由レバノン軍は南レバノン軍(SLA)と 名を変え、レバノンから独立したはずの自由レバノン共和国はウヤムヤになっていった。

※だから自由レバノン軍や南レバノン軍に は、キリスト教徒のほか、シーア派やドールズ派の連隊も存在した。

82年にイギリス駐在のイスラエル大使がPLO関係者に襲われる事件が起きると、イスラエルは再度レバノンに侵攻してPLOを追放。そ の後のSLAはイスラエルへ攻撃を繰り返すヒスボラと戦うが、支配地域の男子を徴兵するなど、軍閥化していった。ハダットは84年にガンで死去し、アントワン・ ラハド少将が後を引き継いだ。

しかし2000年、イスラエルはレバノン南部から撤退し てしまう。前年の総選挙で「レバノン南部からの撤退」を公約に掲げたバラクが首相に就任したからだ。

イスラエルにとって20年以上介入しているレバノン南部は、かつてアメリカにとっての南ベ トナム国のように泥沼化し、重荷になっていた。 またレバノンからの撤退を実行すれば、国際社会は歓迎し、やがてシリア軍もレバノンから撤退せざるを得なくなるだろうと踏んだのだ。

慌てたのが後ろ盾を失ったSLAの兵士たち。ヒスボラから報復の餌食にされるか、レバノン政府から「反逆」の罪で軍法裁判にかけられる かだと、相次いでイスラエルへ逃亡し、SLAはたちまち瓦解し た。

ラハド少将はレバノンの欠席裁判で死刑判決が下ったが、その前にフランスへ亡命した後、イスラエルに定住。テルアビブでレバノン料理屋 を経営 しながら、自由レバノン亡命政府を運営し、レバノン政府を 「シ リアの手先」と批判し続けているとか。


参考資料
小山茂樹 『レバノン アラブ世界を映す鏡』 (中公新書 1977)
外務省 レバノン共和国 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/lebanon/
パックス ジャパニカーナ http://www.reocities.com/inazuma_jp/index.html
Music Movie Memo http://www.smilefilm.com/3m/kite_southle_banon01.html
wikipedia http://en.wikipedia.org/
Bienvenue sur A.L.S. Miniature http://als.miniature.perso.neuf.fr/(仏語)


●関連リンク
The Government of Lebanon in Exile 自由レバノン亡命政府(英語)

 

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