
セルビアに見捨てられた屯田兵の子孫たち
クライナ・セルビア人共和国
首都:クニン 人口:43万3595人(1993年)
1991年12月19日 クライナ・セルビア人共和国 の独立を宣言
1992年2月26日 西スラボニア、東スラボニアも加わる
1995年5月1日 クロアチア軍が西スラボニアを占領
1995年8月7日 クロアチア軍がクライナを占領し、クライナ・セルビア人共和国は消滅。ブコバルに自治州政府を設置
1996年1月15日 東スラボニアが国連暫定統治に移行。 自治州政府はその監督下に入る
1998年1月15日 デイトン和平協定により、東スラボニ アがクロアチアに復帰。自治州政府は消滅クロアチア(ピンク)とクライナ・セルビア人共和国(赤)。右側の赤は東スラボニア地区。西スラボニ アはPakracの北側
クライナ・セルビア人共和国の支配領域図(1994年) 白線に囲まれた部 分が支配領域。青はセルビア人居住地区、茶色はクロアチア人居住地区
ユーゴスラビア連邦の解体で、ボスニアに次いで紛争が激しかったのがクロアチアだ。1991年6月25日にクロアチアがユーゴから独立 すると、セルビア人や連邦軍(実質的にはセルビア軍)とクロアチア軍との間で4年間にわたって戦闘が続いた(※)。その結果、紛争前にはクロアチ アの人口の12%を占めていたセルビア人は、現在では4・5%足らずになっている。
※同じ日に、スロベニアもユーゴから独立し たが、こちらの戦闘は10日間で終結している。理由はスロベニアには独立に反対するセルビア人がほとんど住んでいなかったことと、スロベニアとセルビアの 間は陸続きではないので、セルビアから連邦軍を増派できなかったため。
紛争の主戦場となったのは、セルビア人が多く住んでいた東部の国境地帯で、これらの地域はクライナ・セルビア人共和国を樹立して、クロ アチアからの独立を図ったこともある。つまりクロアチア紛争は、クロアチア の独立を認めない連邦軍とクロアチアからの独立を求めるセルビア系住民が一体となって、クロアチア軍と戦ったことになる。
18世紀のセルビア人 屯田兵
クロアチアの東部一帯にセルビア人が住み着い たのは、16世紀に遡る。当時クロアチアを支配していたオーストリア=ハンガリー帝国は、 セルビアやボスニアを支配していたオスマントルコとの防衛ラインとして、軍司令部直轄の軍政国境地帯を設定し、トルコ領から移って来たセルビア人を入植さ せ、いわば屯田兵にした(※)。1878年にオーストラリア がボス ニアを占領すると、軍政国境地帯は不要となり、行政的にクロアチアの一部に編入されたが、セルビア人はそのまま住み続けた。
※セルビア人の多くは、もともとセルビアの 中心地だったコ ソボが1389年にトルコに占領された後、ハンガリーなどに住み着いた者の子孫たちだった。
さて、クロアチアでは1990年4月の民主化選挙で、クロアチア民主同盟のトゥジマンが大統領に就任すると、ユーゴスラビアの中で経済 先進地域だったクロアチアの独立を掲げたが、「クロアチア人による純血国 家」も強調。社会主義時代のクロアチア憲法では「クロアチア人とセルビア人が主権民族」とされていたものを、新憲法を制定してクロアチア人 による単一民族国家だと規定し、公用語もクロアチア語だけに限定した。
クロアチアの純血国家化に反発したセルビア人たちは、90年7月にセルビア人が多いクライナ地方で独自の議会を設置していたが、クロア チアで新憲法が制定されると、クライナ・セルビア人自治州の 設立を宣言。91年3月には住民投票を実施して、クロアチアからの独立とセルビア共和国への編入、ユーゴへの残留を宣言した。
そしてクロアチアがユーゴから独立すると激しい戦闘が始まり、連邦軍+セルビア人はクロアチア軍を圧倒した。クライナでは「民族浄 化」が始まり、8万人のクロアチア人が追放されたという。さらに勢いに乗ったセルビア側はセルビア人居住地域を越えてクロアチア全土の3分の1を占領し、クロアチアを海上封鎖をすべく、港 町のザ ダルを激しく攻撃した。
ミラン・ バビッチ大統領
91年11月に停戦が同意されると、セルビ ア人は翌月クライナ・セルビア人共和国の独立を宣言して、クロアチアからの分離を本格化させる。大統領には歯科医で国家主義者セルビア民主党を率いていた ミラン・バビッチが就任した。さらに翌92年2月には、同じくセルビア人が多く住む西スラボニアや、91年6月からスレム・ハラジャ自治州 を発足させていた東スラボニアも加え、飛び地状の領土を形 成した。
しかし、この頃からセルビア人が求めていたクロアチアか らの分離とセルビアへの編入は怪しくなる。クロアチアのトゥジマン大統領とセルビアのミロシェビッチ大統領は、ボ スニアの分割に向けて秘か に話し合いを始め、クライナにはPKOの国連保護軍(UNPROFOR)が派遣されて、連邦軍は撤退。撤退に強く反対したバビッチは、ミロシェ ビッチによって辞任に追い込まれた。さらにクロアチアの独立を世界各国が承認し始め、5月には国連に加盟した。
一方で、EU諸国の経済制裁で超インフレに襲われたセルビアにとっても、たいして豊かでもないクライナ地方(もともと屯田兵が入植したような場所)を獲得しても重荷になるだけで、 それならボ スニアでセルビア人地域を広げた方が得策だと考えた。
こうしてクライナなどのセルビア人にはそれなりの自治を与えておけばいいということになり、92年12月にクロアチアはクライナなどを 自治区にすると提案したが、すでに実質的独立していたクライナ・セルビア人共和国は、自治が不十分だと拒否。この間、クライナの経済は低迷して住民はセル ビアなどへ移住し始め、一方でクロアチアは軍備を拡張して来るべき戦いに備えていた。
94年に国連とEU、アメリカ、ロシアは「セルビア人に一定の自治を認める和平案」を提示するが、クロアチアとクライナの双方が拒否。 逆にクロアチアは「国連保護軍の存在が、クライナ・セルビア人共和国独立の既成事実化につながっている」とPKO本来の中立性が保たれていないと批判し、 国連保護軍の撤退や削減を要求。国連保護軍は95年3月に撤退し、停戦監視に専念した国連クロアチア信頼回復活動(UNCRO)に代わった。
すると満を持してクロアチア軍は停戦ラインを突破し、クライナ・セルビア人共和国に総攻撃を開始。5月1日にたった1日の戦闘で西スラ ボニアを占領し、8月4日からは4日間の戦いでクライナを制圧し、クライナ・セルビア人共和国は消滅した。この時、連邦軍は介入せず、セルビアは実質的にクライナを見捨てた。それまでに30万人と言われる セルビア人が逃げ出し、クライナに残ったセルビア人は5000〜6000人だけだった。
残った東スラボニアでは、ブコバルを首都にしたスレム・バラジャ自治州政府が復活したが、11月に和平協定が結ばれて、東スラボニアも 2年以内にクロアチアへ統合されることが決まり、96年1月から国連東スラボニア、バ ラニャおよび西スレム暫定機構(UNTAES)による暫定統治がスタート。自治州政府はその監督下に入った。
UNTAESはクロアチア政府による行政の回復をサポートしたほか、非武装化の難民(主にクロアチア人)の自発的帰還、さらに97年に 行われた総選挙などを監視した。この間、クロアチアとユーゴスラビア(=セルビア)との関係回復も進み、両国は96年9月に国交を樹立。98年1月に UNTAES による暫定統治は終了したが、東スラボニアではまだ多くのセルビア人が残っていたにも関わらず、クロアチアは92年に発表した自治区の設置案を撤回してしまい、自治州 政府は消滅して、かつて のセルビア人居住地域はクロアチアの他の地域と変わらないことになった。
初代大統領のミラン・バビッチは東スラボニアに留まっていたが、2002年にミロシェビッチを裁く旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷に証人 と して出廷し、ミロシェビッチがいかにクロアチア紛争に関与していたかを証言した。自らが訴追を逃れるための司法取引があったのではと思われたが、結 局バビッチ自身もクライナでの民族浄化の罪を問われて、懲役13年の判決を受けてしまい、06年に獄中で自殺した。
クライナ・セルビア人共和国 の滅亡(95年8月)
参考資料
材木和雄 『クロアチアにおける民族問題とセルビア人の地位―その歴史的変遷と内戦終結後の問題状況―』 http://home.hiroshima- u.ac.jp/heiwa/Pub/42/8Zaiki.pdf
内戦 国際紛争 テロリズム http: //sekitori.web.infoseek.co.jp/war/war.html
旅人と中欧旅行 http://www.tabibito.de/balkan/jmostar.shtml
ウィキペディア http://ja.wikipedia.org/wiki/
Worldstateman http://www.worldstatesmen.org/
●関連リンク
旅人の クロアチア旅行記
クロアチア内戦末期のザグレブと自称独立国クライナ・セルビア共和国 96年7月のクライナ地方の様子