
「住民投票で独立」の罠に、先住民が怒り爆発 カナキー共和国
首都:ヌメア 人口:14万5368人(1983年)
1984年12月1日 FLNKSがカナキー共和国暫定政府 を樹立
1985年6月1日 カナキー共和国の独立を宣言
1987年9月13日 住民投票を実施し、フランス残留が決定
私が学生の頃、ニューカレドニアが舞台の『天国に一番近い島』という映画が流行っていました。ニューカレドニアって南太平洋で楽園みたいな島なのかなと 思っていたら、翌年激しい独立紛争が勃発して死者がたくさん出て、ヲイヲイ本当に「天国に一番近い島」になっちゃったよ、シャレにならないね・・・と友だ ちと言い合った記憶があります。
さて、ニューカレドニアはオーストラリアの東約1500kmくらいの位置にあり、フランスパンのような形をした島。で、実際に今もフランスの植民地だ(※)。そしてフランスからの独立を主張する先 住民が独立を宣言したのが、カナキー共和国だった。
※いちおう、フランスは植民地ではなく「海外領土」だと 言っている。
カレドニアとはスコットランドの古名で、フランス植民地なのになぜイギリスの地名がつけられたかというと、この島を西洋人で最初に発見したのがイギリス人 だったから。1774年にキャプテン・クックが上陸し、その山並みが故郷のスコットランドに似ていると思ったので、ニューカレドニアと命名した。
先住民としてもとから住んでいたのはメラネシア系のカナク人で、 白人たちは白檀の交易や捕鯨で立ち寄っていたが、1840年からイギリスの宣教師、次いでフランスの宣教師が上陸してキリスト教の布教を競うようになっ た。そして1853年、オーストラリアやニュージーランドを領有するイギリスを牽制するために、ナポレオン3世の命令でフランス海軍が島を占領し、ニュー カレドニアはフランスの植民地になった。
フランスはニューカレドニアを流刑地にしたが、やがて一般の移民も増え始めると、総督府はカナク人が農耕に使用していない土地を収用した。農耕で使ってい なくても、狩猟や採集で使っていたりするのだが、これらはフランス人の所有になっていったのだ。さらに1860年代に大規模なニッケル鉱脈が見つかると、 総督府による土地収用はエスカレートしたため、1878年にはカナク人が反乱を起こしたが、多数の戦死者を出して鎮圧された(※)。
※ニッケル鉱山にはアジア各地から鉱山 労働者がやって来たが、1892年から日本人労働者も多数働き、ニューカレドニアには現在8000人近い日系人が存在している。
そして戦後。世界各地で植民地の独立運動が相次ぐと、フランスは56年にニューカレドニアにも議会を設置して選挙を実施。さらに58年 には島民にフランスの市民権を与え、先住民の法的な地位はフランス人と同じになった(※)。
※そしてフランスは、ニューカレドニアなど は植民地ではなく、フランスの「海外県」なので独立させる必要はないと主張した。
カナク人たちも政治的権利を手にすると、土地返還や自治の拡大などの要求が高まったが、60年代から70年代にかけてニッケル輸出の好 調でニューカレドニア経済が発展すると、フランスやアジア各地からの移住者が増え、人口に占めるカナク人の割合は56年の51%から76年には42%へ減 少し、カナク人は「少数派」に転落してしまった。
こうしてカナク人の間では「自分たちの島がヨソ者に乗っ取られてしまう」という危機感が広がり、当初は神父やリベラルなフランス人とと もに「ニューカレドニア人の地位向上」を目指していた政治活動は、「カナク人による独立運動」が主流になった。選挙では独立派のカナク人政党とフランス残 留派のフランス人政党の争いになり、81年にフランスで誕生した社会党のミッテラン政権は自治権の拡大を提案したが、双方から拒否されてしまった。
ミッテランに失望し、武装闘争に突入したカナ ク人たち
「社会党政権なら独立を認めてくれるだろう」と期待していたカナク人は、そ うではなかったことに失望して、武力で独立を勝ち取るしかないという考えが広がっていった。リビアで軍事訓練を受ける急進独立派のグループも現れたが、独 立派の中心となったのは、ジャン・マル・チバウが84年9月に結成したFLNKS (社会主義カナク民族解放戦線)だった。
暫定政府の樹立式典を行うチバウ大統領(右)
チバウは大酋長の息子で神父となり、フランスへ留学して民族学を学んだ後、 「ニュー カレドニア人の地位向上」を掲げる穏健派のUC(ニューカレドニア人連合)に参加。メラニシア文化祭を開催してカナク人の民族文化をアピールするなどの活 動をしていた。そして武力を用いた独立には反対していたが、FLNKSの結成で一転。11月にニッケル鉱山の町・チオを占拠したのに続き、12月にはヌメ ア郊外でカナキー共和国の暫定政府を樹立し、大統領に就任し た。
85年1月に「FLNKSのチェ・ゲバラ」と言われたマチョロがフランス軍憲兵に射殺されると、FLNKSの武力攻撃は一気にエスカ レート。対抗してフランス残留派も、他島出身のメラネシア人を民兵にしたり、FLNKSの活動家を殺害したり、カナク人への土地返還を進めていた役所を襲 撃するなどして、テロの応酬となった(※)。
※フランス人の中には 英仏共同統治領ニューヘブリデス諸島が80年にバヌアツとして独立した際、 分離独立運動に加担したと追い出されて来た人もいて、独立に対する恐怖感が強かった。
ニューカレドニアの紛争が世界的に注目されたところで、85年6月にチバウはカナキー共和国の独立を宣言し、憲法を発表。翌86年12月の国連総会 で、ニューカレドニアを非自治地域のリストに加える(ようするに「解放されなければならない植民地である」と国連が認定する)ことを議題とすることに成功 した。フランスは猛反対したが、結局賛成89(日本を含む).反対24、棄権34で可決され、フランスは国連公認の「いまだに植民地支配を続けている悪い国」にされてしまっ た。
フランスは87年9月に独立の是非を問う住民投票を実施すると発表したが、困ったのは実はFLNKSだった。ニューカレドニアの人口の うちカナク人は4割で、6割を占めるフランス人やアジア人の大半はフランス残留派だったから、「多数決の民主主義」で決められたら独立実現は難しいのだ。
そこでFLNKSは投票ボイコットを呼びかけたが、住民投票の結果は独立反対が98%(投票率59%)で、フランスは「島民の意思に よって独立させない」と発表。怒った独立派はますます過激になり、フランス軍基地を襲撃して憲兵27人を人質に取って洞窟に立て篭もり、特殊部隊と交戦す る事件も起きた。
一時はニューカレドニアを南北に分割して、北部と離島はカナキー共和国として独立し、フランス人やアジア人が80%を占めるヌメアなど 南部はフランスのまま残すという案も検討されたが、FLNKSは狭い島なの に『分断国家』になると反対し、残留派も北部に居るフランス人を見捨てるのかと反発したため頓挫。88年にフランス政府とFLNKS、残留 派の3者で「自治を拡大したうえで、98年に改めて住民投票を行う」というマティニヨン合意が結ばれた。こうしてニューギニアの武力紛争は収拾したが、チ バウは独立急進派に「安易な妥協をして独立を遠ざけた」と批判され、翌89年に暗殺された。
「4割の壁」を前に、住民投票はさらに延期
しかし、結局1998年にも住民投票は実施されなかった。代わってニューカレドニアの自治権を外交・防衛・司法・通貨発行以外にまで拡 大させ、住民投票を2014〜18年まで延期するヌメア協定が結ばれた(※)。
※住民投票で独立が否決されたら2度目の住 民投票を行い、再度否決されたら3度目の住民投票を行い、それでも否決されたら、どうするか協議する…という内容。また住民投票の有権者は「10年以上居 住した者」に限定。
独立派にとってカナク人が人口の約4割である以上、住民 投票を実施されたら独立できなくなってしまうのだ。またニューカレドニアの1人当たりのGDPのうち7分の1はフランスからの補助金による もので、残留派は「独立したら、バヌアツのように貧しくなる」と 訴えている。04年の選挙でも、残留派の得票率58%に対して、独立派は40%で、相変わらず「4割の壁」が立ちふさがっている。
独立は達成されていないものの、チバウが制定したカナキー共和国の国旗は、2010年からニューカレドニアのアイデンティティを表す旗 として採用され、フランス国旗と並んで掲揚されている。
参考資料
『昭和62年版外交青書』 (外務省 1987)
江戸淳子 「ニューカレドニア脱植民地化の政治過程その将来」 『マタンギ・パシフィカ : 太平洋島嶼国の政治・社会変動 』 (アジア経済研究所 1994)
玉井昇 「島嶼国の対外政策に関する比較研究 ―パラオ共和国とニューカレドニアの事例を中心に― 」 『パシフィック・ウェイ』120号 (太平洋諸島地域研究所 2002)
南野森 「ニューカレドニアに関する特例措置の合憲性と地邦法律の審査」 『フランスの憲法判例』 (信山社出版 2002)
ニューカレドニア観光局 http://www.newcaledonia.jp/
wikipedia http://fr.wikipedia.org/(仏語)
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