「モンゴル統一」も独立承認もモンゴル政府に拒否されて消滅

内モンゴル人民共和国

首都:ソニド右旗 人口:525万4833人(1941年)



1945年9月9日 ソニド右旗で内モンゴル人民共和 国臨時政府が成立
1945年11月26日 臨時政府が張家口へ移転し、内モン ゴル自治運動連合会に改組され消滅

1942年の中国の地図 「蒙 古連合自治政府」が内モンゴル西部で、後の内モンゴル人民共和国
1942年の中国東部の地図 
現 在の内モンゴル自治区の地図 
現 在の内モンゴル自治区の詳細地図 
 

日本人が一番多く住んでいる国は日本だが、モンゴル人が一番多く住んでいる国はモンゴルかといえば、実は中国。モンゴルの人口265万 人(うち9割がモンゴル人)に対して、中国には580万人のモンゴル人がいる(※)。中国の方が多いどころ か、倍以上だ

※他にロシアのブリヤート共和国に住むモンゴル人(ブリヤート人)が46万人。
中国のモンゴル人のうち、400万人は内モンゴル(内蒙古)自治区で暮らしている。一方でモ ンゴルのことをかつては日本でも外蒙古と呼んでいた。あれ、本来ならモンゴル本国が「内」 で、その周りが「外」じゃないの?と思うかも知れないが、これは中国本土から見て近いか遠いかという呼称。モンゴル語では内モンゴルを「南モンゴル」と表 現するらしい。

かつてモンゴルは、内も外も中国が支配していたが(※)、20世紀前半に外モンゴルだけ独立して、内モンゴルは中国領として残った。 じゃあ、モンゴル政府は民族の大義として「内外モンゴルの統一」を掲げ、中国政府に内モンゴルの割譲(または返還)を要求し続けているのかといえば、むし ろ逆。終戦直後、内モンゴルでは、モンゴルへの併合を求める政府がいくつも生まれたが、モンゴル側がことご とく断った。それに内モンゴルの範囲自体、時代によって恣意的に変化しているのだ。

※もちろん、歴史的にはモンゴルが中国を支配していた時代もある。例えば元朝。ま た清朝でもモンゴル人貴族たちは満州族と姻戚関係を結び、モンゴル人は支配層である「旗人」の一員だった。

Nei Mongol または Inner Mongolia が現在の内モンゴル自治区。クリックで全体図に拡大します

さて清朝の頃、モンゴルはチベットや新彊とともに藩部と呼ばれ、中央政府は内政に干渉せず、伝統的な地元の王が統治していた。しかし南 部ではやがて中国本土から漢人の開拓移民が増え、人口のうえで漢人が多数派になった。

1911年の辛亥革命で清朝が倒れたのを契機に、外モンゴルでは独立運動が起こり、かねてからモンゴル進出を狙っていたロシアの支援 で、チベット仏教の活仏ラマを君主とするボグド・ハーン政権が生まれた。清朝に代わって成立した中華民国はモンゴルの独立を認めなかったが、ロシア革命後 はソ連の赤軍が占領して、24年にモンゴル人民共和国として独立を宣言、ソ連の衛星国になっ た(※)。

※ソ連崩壊の影響で、現在ではモンゴル国。
内モンゴルでもモンゴル人の間で、外モンゴルと一緒に独立を求める動きが出るのは当然のこと。特にモンゴルが社会主義国として独立すると、内モンゴルもこ れに合流して社会主義を実現しようという左翼組織が生まれ、25年に内モンゴル人民革命党を 結成した。

一方で、内モンゴルの王族たちの間では、漢人の支配からは脱したいが、モンゴルに併合されて社会主義化されるのはもっと困ると、内モン ゴルの独立や自治を求める動きが盛んになり、その中心的な人物が徳王(デムチュクドンロブ) だった。

しかし、内モンゴルの中でモンゴル人はもはや少数派に過ぎないうえ、モンゴルへの併合か独立か自治かと主張もばらばらだった。中国政府 は内モンゴルをいくつかの省に分割して支配。内モンゴルの運動は30年代に入ると下火になり、内モンゴル人民革命党は分裂し て消滅、徳王ら内モンゴルの有力者たちは、中国政府による支配を受け入れて、各地の知事などに任命された。

「元祖モンゴル政府」を狙ったが、日本軍の縄張 り争いで漢人だらけになった徳王政権

「徳王」ことデム チュクドンロブ
1932年に日本が満州国を成立させると、内モンゴル東部は満州国に組み込まれた。これをチャンスと見たのが徳王で、百霊 廟に内モンゴル西部の王族たちを集め、中国政府に対して内モンゴルの自治権拡大運動を開始。蒋介石はモンゴル人をつなぎ止めるためにこれを認めて、34年 に蒙古地方自治政務委員会(百霊廟蒙政会)が設立された。

一方、日本軍も「第二の満州国」作りを狙って徳王に接近し、後ろ楯を得た徳王は36年に日本人を軍事顧問に迎えて百霊廟で蒙古軍政府を樹立したが、怒った中国政府は討伐軍を送り、百霊廟を占領した。しかし37年7月に盧溝橋 事件が発生すると、日本軍(関 東軍)が内モンゴル西部に侵入して中国軍を追い払い、10月に厚和(現フフホト)で蒙古連盟自治政府が成立した。

徳王は「ジンギスカン30代目の子孫」を名乗り、「ジンギスカン精神でモ ンゴル固有の領土を回復し、モンゴル民族復興の大業を果たす」と宣言。ジンギスカン暦(成吉思汗=ジンギス カンの生まれた年から起算して、1937年は成紀732年)を採用したり、関東軍の援助で壮大なジンギスカン廟を建立したりした。つまりソ連の主導下で社 会主義化が進み、伝統文化が否定されているモンゴル人民共和国に対抗して、徳王の政府こそが本 家かつ元祖のモンゴル政府(ジンギスカンの子孫が作ったから)と主張しようとした。だから、徳王が関わった政府の名称はどれも「蒙古××政 府」で、「内蒙古」ではなかった。

そして徳王は、中国からの独立を宣言しようとしたが、関東軍は決して認めなかった。 なぜなら「モンゴル固有の領土を回復」を掲げた徳王が独立国を作れば、満州国に編入されている内モンゴル東部が不安定になってしまう(モンゴル人は満州国 の方が多かった)。また日本は中国の占領地に、中華民国臨時政府(北平=北京)や中華民国維新政府(南京)など数々の傀儡政権を作り(※)、重慶に逃げ込 んだ蒋介石の国民党政権に対抗させていたが、もし徳王の内モンゴル独立を認めたら、「日本は満州に続いて、中国の領土を次々とむしり取ろうとしている」と 抗日世論を煽りかねない。

※当時、中国の首都は南京で、都でなくなった北京は「北平」に改称していた。ちな みに台湾では現在も公 式には「北平」ということになっている
それに徳王の独立の目的は、内モンゴルだけの独立国を作ることではなかった。自分の「本家かつ元祖モンゴル政府」が、いずれ「ソ連の傀儡モンゴル政府」を 倒し、さらにかつてロシアに併合されたモンゴル人が住むブリヤート地方も取り戻して、大モンゴルの統一を 実現することだと公然と主張していた。そのための支援を日本軍に期待したのだが、日本はソ連と無益な対決をするつもりはなかった(※)。
※1935年にソ連は満州で持っていた最後の権益である北 満鉄道を満州国(実際には日本)へ売却して撤退。日ソ両国は日本が満州、ソ連がモンゴルというお互いの「縄張り」を画定したばかりだった。
  
蒙古地方自治政務委員会に集まった王族たち(左)、ジンギス カン廟(中)、蒙古連合自治政府の成立大会(右)

蒙古連盟自治政府は同じく37年に日本軍の占領下で成立した張家口の察南自治政府や、大同(現:山西省)の晋北自治政府と蒙疆連合委員会を組んだ後、39年9月に正式合併して、蒙 古連合自治政府となり、首都は張家口に移転した。張家口は現在河北省で北平とは目と鼻の先、大同は山西省で、いずれも住民はほとんどが漢人 だ。その結果、統治下の住民のうち95%が漢 人になってしまった(※)。

※1941年の調査では、総人口525万4833人のうち、漢人501万9987 人、モンゴル人15万4203人、回人3万7748人、日本(内地)人3万3017人、満州人(満族)6500人、朝鮮人2769人、外国人421人、台 湾人142人、無国籍(主に白系ロシア人)45人。ただし、このほかに調査し切れなかったモンゴル人遊牧民もいたと思われる。
合併後の蒙古連合自 治政府の地図。クリックすると拡大します
徳王は「これではモンゴルといえない」と合併に猛反対したが、日本側は耳を貸さなかった。張家口は内モンゴルの入 口に位置する要衝で、経済や交通の中心でもある都市、大同は石炭の大産地で、どちらも日本軍にとっては重要な場所だ。

それなら北平の傀儡政権に任せてもいいのにと思うが、同じ日本軍と言っても、北平を占領したのは北支派遣軍で、張家口や大同を占領した のは関東軍。関東軍としてはモンゴル人の遊牧民が暮らす草原地帯ばかりを支配しても面白くもないし、「せっかく自分たちが占領した要衝や炭鉱を、他の軍に 渡してたまるか!」というわけで、日本軍の勝手な都合で内モンゴルの範囲は広げられてしまっ たのだ。

徳王政権の閣僚は、満州国と同じように大臣にはたいてい現地人を据えたが、日本人の次官が実権を握っていた。その大臣の顔ぶれも、合併 前はモンゴル人が中心だったが、合併後は経済、交通、司法、内政など主要ポストには漢人が据えられ、モンゴル人は宗教や渉外、モンゴル人行政などあまり重 要でない分野に限られていった。

憤慨した徳王は、蒋介石と連絡を取るようになり、39年末には中国軍の反撃に合わせて内モンゴルから逃げ出す計画を進めたが失敗。蒋介 石が送った連絡員が日本軍に捕まって、徳王の裏切りは日本側にも露呈した。進退窮まった徳王は日本軍に「自首」したが、日本側も徳王に代わる傀儡は見つか らないため、結局ウヤムヤにされた。

1940年に日本が南京で汪兆銘政権(中華民国南京政府)を樹立すると、蒙古連合自治政府はその一部とされ、徳王の独立の夢は完全に破 れた。それでも関東軍は41年8月に蒙古自治邦と改称することを認めた。「邦」は国じゃない けどクニなわけで、この曖昧さはモンゴル語や中国語でも同じ。これで徳王をなだめすかそうとしたようだ。

 
蒙古連盟自治政府と蒙古連合自治政府の旗(左)、蒙古自治邦 の旗(右)

満州国による特権廃止と土地改革で漢人の入植が 進んだ内モンゴル東部

一方、満州国の一部になった内モンゴル東部は、興安東・西・南・北省の4つに分けられた。建国にあたってモンゴル人たちは自治の実現を 求めて日本軍に協力的だったため、満州国では興安局や蒙政局を設置してモンゴル社会の慣習に基づいたある程度の自治を認めた。モンゴル人の騎兵部隊は満州 国軍に編入されたが、興安軍として独立編成された。

しかし、興安4省はソ連やモンゴルと国境を接する戦略地帯なので、ここに満州国(というか関東軍)の統治が十分行き届かないのは困る と、「特権奉上」「蒙地奉上」をスローガンに、モンゴル人の特権は廃止されていった。

「特権奉上」は旗行政の改革のこと。清朝時代、モンゴル人は部族ごとに旗 (ホジョー)と呼ばれる軍団に所属し、旗には清朝から放牧地が与えられていた。つまりモンゴル人の行政機関は部族の王族が率いる旗で、旗に住んでいても旗 人(モンゴル人)でなければ住民としての権利は認められなかった。そこで満州国は「旗に住んでいる者はすべて旗民」だとして漢人入植者らにも住民として平 等の権利を認め、モンゴル人の王族が世襲していた旗長を、満州国が任命する官吏に替えた。つまり名称として「旗」を残したが、県と同じ行政機関に過ぎなく なった(※)。

※この満州国が進めた旗行政の改革は、現在の中国政府に受け継がれていて、内モン ゴル自治区の行政単位は今も県ではなく旗。「×××左旗」とか「×××右翼前旗」等のキテレツ地名が多いのは、軍団時代の名残り。
「蒙地奉上」はモンゴル人が清朝から与えられた土地所有権を否定し、実際にその 土地を耕している漢人入植者の土地所有権を認めるというもので、反発するモンゴル人に対しては補償が行われた。こうしてそれまで未開の草原が広がっていた 内モンゴル東部は、満州国になって開拓が進み漢人の人口が急増。興安4省の人口は満州国建国 当時は77万人で6割がモンゴル人だったが、終戦時には230万人に増えモンゴル人は55万人を占めるにすぎなくなった(※)。
※もちろん日本人の満蒙開拓団も入植した。国境沿いの興安4省には終戦時にはソ連 軍がまっ先に侵攻したため、多くの犠牲者が出た。


内モンゴル人民共和国 〜見捨てられた傀儡政権の高官が親ソ派と手を組み独立〜

1945年8月、日本の敗戦によって、日本軍に支えられていた蒙古自治邦は満州国と共に瓦解した。蒙古自治邦にもソ連の対日宣戦と同時 にモンゴルからソ連軍がなだれ込み、日本軍は邦人引き揚げのために終戦後も応戦して時間を稼ぎながら、8月末までに撤退。首都・張家口はソ連軍が占領し、 やがてやって来るであろう国民党軍に引き渡されることが決まった。

慌てたのが蒙古自治邦の高官やモンゴル族の王族たち。国民党政権は汪兆銘政権の対日協力者たちを漢奸と呼んで、片っ端から逮捕し処刑していた。「漢奸」とは漢民族の裏切り者の意味で、モンゴル人なら あてはまらないかと思いきや、その場合は蒙奸となるらしい(※)。かねてから蒋介石と連絡を 取り合っていた徳王は、さっさと北平へ行ってしまい、日本軍や徳王に見捨てられた高官や王族たちは、国民党軍が進駐して来れば「祖国を裏切り、日本軍の手 先となって中国の分裂を招いた罪」で処刑されるに違いないと脅え、日本軍に代わってソ連軍に保護してもらお うと、張家口を逃げ出しモンゴル国境へと向かった。

※実際には国民党政権は、徳王の懇願もあって「蒙奸」はかなり寛大に扱った。満州 国についても同様。
他にも国民党政権による支配に危機感を抱いていたグループがいた。それは44年6月に秘密裏に結成されたモ ンゴル青年革命党で、モンゴル人民共和国に併合されることによって社会主義の実現を目指し、終戦時にはソニド右旗付近(蘇尼特右旗)に集ま り抗日蜂起の準備をしていた。しかし、内モンゴルが国民党に支配されたら漢民族優先の政策が進められると危惧し、モンゴル統一が実現できるチャンスは今し かないとあせった。
ポインタライ

蒙古自治邦の高官たちやモンゴル青年革命党の代表は、モンゴル政府に「内モンゴルを併合してくれ」と懇願したが、拒絶された。そしてソ 連軍のアドバイスに従って両者は手を組むことになり、ソニド右旗に各地の部族のリーダー達を集めて人民代表大会を開催、9月に内モンゴル人民共和国臨時政府を旗揚げした。代表には蒙古自治邦で最高法院(最高裁)院長だったポインタライ(補英達頼) が就き、内モンゴルの独立を宣言して臨時憲法を発表した。なぜ「臨時政府」なのかというと、 本音ではモンゴルに併合(統一)してもらいたかったのに断られたので、とりあえず独立はしたけど、いずれ折を見て併合してもらおうと考えていたから (※)。

※国名が「地域限定型」になったり、臨時政府になったりしたのは、サイゴン陥落後 の南 ベトナム政府と同じ論理。
内モンゴル人民共和国は蒙古自治邦のほか、満州国のうち興安各省と熱河省のモンゴル人地域(モンゴル諸旗)の領有権も主張し、さっそくソ連軍とモンゴル政 府が独立を承認して、経済援助や軍事支援を行ってくれるよう要請。さらにモンゴルの放送局から全世界に向けて内モンゴル独立のニュースを流して欲しいと頼 んだが、ソ連軍とモンゴル政府はこれらの要求も断った。

モンゴルは一体なぜまた「モンゴル民族の悲願」であるはずの内外モンゴルの統一を拒否 し、内モンゴルの独立すら認めなかったのか。実はヤルタ会談に基づいて、8月に中ソ友好同盟条約が締結され、中国政府(国民党政権)はモン ゴルの独立を認め、ソ連に満州の権益を与える代わりに、ソ連政府は東トルキスタンなど中国国内の独立問題に干渉しないことが決められていた。それまで中国 はモンゴルの独立を認めず、ソ連を除く世界各国も承認していなかった。モンゴルはこれで晴れて世界公認の独立国になれるというのに、内モンゴルを併合した ら、中国は激怒し承認を止めるのは明らかだった。
 

ウランフ
そして当時、モンゴルは人口80万人のほぼすべてがモンゴル人だったが、漢人が95%を占める旧蒙古自治邦を併合すると、モンゴル人100万人に対して漢人500万人となり、モンゴルはせっかく中国から独立したのに、再び中 国人に国を乗っ取られてしまいかねない。またモンゴルを切り離して衛星国を作ったソ連にしても、モンゴルが拡大することによって中国人主体の国家に変身す ることは望まなかった。

モンゴルから併合も独立承認も拒否されて困り果てた内モンゴル人民共和国に、ソ連軍は「中国共産党に連絡を取って解決してもらうよう に」とアドバイスした。中国共産党から単身乗り込んだモンゴル人幹部のウランフ(烏蘭夫)は、「共産党は国民党と違って、民族自治を認めますよ」とオルグしてまわり、モンゴル青年革 命党のメンバーには、ポインタライら蒙古自治邦の高官たちが日本軍の占領下でいかに反動的だったかを吹脹した。

こうして10月に閣僚を選び直し、モンゴル青年革命党を味方につけたウランフが代表兼国防相に就任した。ウランフは「食糧も足りない し、宿舎も狭いし、物資の補給にも不便だ」と張家口への遷都を主張した。閣僚や職員たちが張家口に着いたところで、ウランフは突然「政府はこれにて解散。今後どうするかは共産党中央に聞いてきます」と言い残して立ち去った。モンゴルへ の併合も独立も望みが絶たれた以上、内モンゴル人民共和国の解散に高官たちも異議を唱えなかった(※)。

※代表を解任されたポインタライは、張 家口に着くと共産党から指名手配され、故郷へ逃げ帰る途中、「偽八路軍」の土匪に殺害されたとも、暗殺されたとも言われている。

やがて戻って来たウランフは、政府に代わって内モンゴル自治運動連合会と いう組織を結成すると発表。モンゴル青年革命党は共産党に吸収されて消滅し、蒙古自治邦の元高官たちは、ある者は張家口から去り、ある者は「日本軍への協 力という悔いを改めて、今後はモンゴル人民のために奉仕します」と自己批判してウランフに従ったのでした。


内モンゴル自治運動連合会の成立大会。スターリンや毛沢東の 肖像が・・・

東モンゴル自治政府 〜表と裏の顔を持つ満州国高官が樹立した親ソ政権〜

1942年の満州国の地図 興 安東・西・南・北の各省が内モンゴル東部で、後の東モンゴル自治政府の範囲はおおよそ興安南省と興安西省

一方、満州国の一部になっていた内モンゴルの東部では、日本の敗戦とともに反乱を起こした満州国軍の蒙古兵騎馬部隊(興安軍)や興安各 省の幹部たちが王爺廟(現ウランホト)に集まって協議し、8月18日に興安総省の省長だったボヤンマンダフ(博彦満都)が 代表となって「内モンゴル人民解放委員会」を結成した。

なぜまたこんなに対応が素早いのかというと、ボヤンマンダフは満州国でモンゴル人高官のトップに就きながら、1920年代から内モンゴル人民革命党のメンバーで、来るべき日本の敗戦に備えて内外モンゴル統一運動の準備を進めてい たから。

ボヤンマンダフ
ボヤンマンダフは同時にソ連留学経験者たちを中心に、内モンゴル人民革命党を再建した。そして新しく制定した綱領で、マル クス・ レーニン主義思想に基づき、ソ連とモンゴル政府の指導の下で内モンゴル人民を解放すること や、中国共産党やコミュンテルンなどと連携しながら、モンゴルへの編入を目指すことなどを掲 げた。博彦満都は内外モンゴル統一嘆願署名を集めて10月にモンゴルを訪問したが、やはり併合を拒否された。

そこで46年1月に東モンゴル自治政府を成立して主席に就任。内 モンゴル東部での「高度な民族自治」を掲げ、興安軍を改組して東モンゴル人民自治軍を組織した。

東モンゴル自治政府は博彦満都の下で、満州国時代の行政機関を引き継いで支配を固め、国民党政権に自治政府の公認と高度な自治権の承認 を求めた。やがて内モンゴル東部にも共産党軍(後の人民解放軍)が進出し、自治軍と衝突する事件が起きると、共産党はウランフを派遣して東モンゴル自治政 府との交渉に当たらせた。ウランフは海千山千の実力者であるボヤンマンダフと接触するよりも、まず周りから攻めたほうが得策だと、ソ連留学経験者たちをオ ルグし てまわり、「マルクス・レーニン主義ならこっちも同じ」と、中国共産党に入党させた(※)。

※ウランフ自身もソ連留学経験者だったので、意気投合しやすかった。
そして4月に承徳で内モンゴル自治運動連合会と東モンゴル自治政府の会談が行われ、「内外モンゴルの統一」 に代わって「東西内モンゴルの統一」の新たな方針を確認した。また目指すのは独立による自治ではなく民族平等自治(つまりモンゴル人だけの 自治でなく漢人も平等ということ)であり、自治が実現しても王族などの封建支配者が権力を握ったら民衆にとってメリットはなく、中国共産党の指導の下でな ければモンゴル人は決して解放されないこと・・・などを決めた。ボヤンマンダフは頼りにしていた内モンゴル人民革命党の主要メンバーが共産党に入ってし まったの で、ウランフの「指導」に従うしかなかった。

かくして東モンゴル自治政府は「発展的解消」をして、ウランフが率いる内モンゴル自治運 動連合会の東モンゴル支部となり、東モンゴル人民自治軍も共産党の軍隊に編入された。そして内モンゴル人民革命党も解散して、党員たちは中 国共産党に入党することになった。

ボヤンマンダフは共産党への入党を認めてもらえなかったが、59年から80年に死去するまで、中国人民政治協商会議の委員に任命されて いる。

ホロンバイル自治省政府 〜モンゴル併合を拒否されソ連軍を後ろ楯に自治を要求〜

1933年の満州国北部の地図 興安省の興安北分省がホロンバイル(呼倫貝爾)

イルキン・バトル
ホロンバイル(呼倫貝爾)とは満州国時代の興安北省一帯のこと。モンゴル高 原の東端に位置するが、中国の史書によればモンゴル人の発祥の地でもある。

終戦時には人口13万人の人煙稀な地域だったが、満ソ国境の町・満州里や日ソ両軍が衝突 したノモンハンを抱える戦略的には重要な場所。そのため清朝が倒れた後、ロシア軍の後押しで1912年1月にホロンバイルが1日だけ独立を宣言したり、32年には日本軍の満州占領に抗議して張学良軍の守備兵が満州里で日本人を人質に取り独 立を宣言した事件(ホロンバイル事件)も起きたが、日本の敗戦後にもソ連軍の進駐下でホロンバイル自治省政府が生まれた。

ソ連軍が満州へなだれ込むと、ハイラルでは満州国軍のダフール人部隊が反乱を起こして、 日本人上官らを殺害し、現地のモンゴル人やオロチョン人とともに臨時政府を組織。内外モンゴル統一運動を始め、8月23日には代表団をウランバートルへ派 遣して、モンゴル政府にホロンバイルの併合を要請したが拒否された。

そこで10月にハイラルでホ ロンバイル(呼倫貝爾)自治省政府を樹立し、モンゴル人医師(※)で満州国では興安北省の省長もしていたイルキン・バトル(額爾欽巴図)が 主席に就任した。フロンベイル政府は高度な自治権を主張して国民党政権の進出を拒み通した。ソ連軍は満州を占領した後、国民党軍に引き継ぐことになってい たが、国境の重要拠点であるホロンバイルは国民党軍に渡したくなかったので、ホロンバイル政府を支持した。

※北京語で蒙古大夫(モンゴル人医師)とは「ヤブ医者」の意味。ついでに広東語で 蒙古仔(モンゴル人の子供)とは「知的障害者」の意味。「なんとなく顔がそれっぽいから・・・」だとか。
しかし46年春にソ連軍が撤退すると、後ろ楯を失ったホロンバイル政府は共産党に接近せざるを得なくなった。イルキン・バトルは共産主義とは無縁の人物 だったが、地元では医師として名声が高く、共産党は「説得と教育」を続けて「内外モンゴルの統一よりも東西内モンゴルの統一」「ホロンバイルだけの自治よ りも内モンゴル全体の自治」などの方針を理解させ、フロンベイル政府は48年1月にウランフの内モンゴル自治政府(後述)に吸収されて消滅。イルキン・バ トルはその後毛沢東に謁見し、51年に逝去するまでホロンバイルの地方責任者を務めたとか。

モンゴル版「ラストエンペラー」の結末

共産党が臨時政府や自治政府を解散して、「自治運動連合会」という政府らしくないネーミ ングの政府を作ったのは、毛沢東の指示だった。当時、国共内戦の再開を前にして、共産党は「国民党は中国をアメリカに売り渡そうとしてい る」と盛んに宣伝していたが、蒋介石は「共産主義者が内モンゴルや新彊で新たな政府を作り、領土をソ連へ渡そうとしている」と反論し、世論の巻き起しを図 ろうとしていた。そこで共産党は綏遠省や察哈爾省といった国民党政権の既存の行政区分をいちおう尊重して、共産党の支配地区に「内モンゴル」と冠した政府 を作るのを見合わせた。

内モンゴル自治政府の地図。いちおう当時は「中華民 国」。クリックすると拡大します
46年7月に国共内戦が本格化すると、装備で優った国民党軍は共産党軍を圧倒し、10月に は張家口も国民党軍に占領された。こうなれば国民党政権に気兼ねをすることはないと毛沢東は方針を変更し、ウランフに内モンゴルで正式な政府を樹立するよ う指示。47年5月に王爺廟で内モンゴル自治政府が成立した。

漢人が住民のほとんどを占めた張家口一帯が外れたことで、内モンゴルのモンゴル人比率は相対的に高くなったが、それでもモンゴル人1: 漢人7だった。しかし、「モンゴル」の名を冠した政府を作ることで、モンゴル人による民族自治をアピールし、モンゴル人を味方につけることを狙った。かつ ての日本軍と同じ発想だが、国民党軍のモンゴル人騎兵部隊が寝返ってくるなどの効果があった(※)。

※共産党は「地主の土地を没収して農民に分け与える」などの政策をアピールして大 衆の支持を集めようとしていたが、遊牧民であるモンゴル人の反応はさっぱりだった。そこでモンゴル人の民族感情に訴える作戦を採ったのだが、調子に乗った ウランフは「ジンギスカンの子孫たちよ、立ち上がれ!」と演説し、後に文化大革命で批判されることに・・・。
やがて人民解放軍と名を変えた共産党軍が攻勢に転じ、49年初に北平(北京)に迫ると、それまで北平で蟄居していた徳王は再びチャンスが回って来たと俄然 張り切りだした。内モンゴル西側の寧夏省アラシャン旗(※)へ向かい、かつての蒙古自治邦の高官や国民党政権のモンゴル人幹部らを集めて、8月に蒙古自治政府を旗揚げした。徳王は広州に移った国民党政権に対して蒙古自治政府の承認と資金援助を求め たが、台湾へ逃げる準備に忙しい国民党はそれどころではなかった。
※アラシャン地方は1956年に内モンゴル自治区に編入。
間もなく人民解放軍が接近してくると、蒙古自治政府の高官たちは浮き足立ち、ある者は台湾へ逃げ、ある者は共産党に寝返り、徳王もモンゴル国境に近い拐子 湖へ避難した。するとアラシャン旗で留守を預かった高官たちは9月にクーデターを起こし、西蒙自治政府と 名を変えて共産党に寝返りを打診し始めた。徳王は拐子湖で蒙古自治政府を再建しようとするが、年末に人民解放軍に追われてモンゴルへ逃げたところを逮捕さ れ、中国政府(共産党政権)に引き渡された(※)。
※徳王は60年に釈放され、史料館で働きながら自伝を執筆し、63年に逝去し た・・・というわけで、晩年はだいたい溥儀と同じ道を辿ったようだ。
面積が倍になったかと思えば、消滅もした内モンゴル自 治区

1949年10月に中華人民共和国が成立すると、12月に内モンゴル自治区が 誕生して、ウランフは主席に就任した。

毛沢東は1931年に、共産党が政権を取った暁には連邦制を導入し、少数民族にはそれぞれ自治権と自決権があって、連邦から離脱するのも自由だと発表していた。いわばソ連をモデルにした発想だが、実際に共産党が政権を 取って設置されたのは、自治共和国ではなく自治区にすぎず、共産党政権の中国は、離脱自由な連邦制どころか強力な中央集権国家になった。

結局のところ、毛沢東が18年間で学んだのは、満州国や蒙古自治邦、東 トルキスタン共和国のように、外国勢力が民族問題に付け入って傀儡政権を作り、さらなる中国侵略を図るという実例だった。また終戦直後の内モンゴルで生まれたいくつかの政府の ように、少数民族が自ら外国への併合を求める危険性すらあった。そこで少数民族に「国」を作 らせるのは止めて、自治体レベルのものに留め、区域自治だと称した。
 

現在の内モンゴル自 治区。黄色=内モンゴル西部(旧内モンゴル人民共和国) 
灰色=内モンゴル東部(旧東モンゴル自治政府、ホロンバイ ル)、緑色=1949年以降、内モンゴル自治区へ編入された地域
こうして、中国では内モンゴル自治区を皮切りに、各地で少数民族の自治区(省と同じ)、自治州、自治県、自治郷(村レベ ル)などが作られた。これらの地域では主体民族、つまり「主人公となるべき民族」が決められ て、その民族には進学、就職や幹部登用などでの優遇措置が与えられ、民族語による学校教育や新聞、放送などが行われた(※)。
※モンゴルではキリル文字が採用されてモンゴル文字は廃れたが、中国の内モンゴル 自治区では出版物や民族教育で今もモンゴル文字が使われ、モンゴル文字の看板や標識が溢れている。
ただし、「主人公となるべき民族」は人口では少数派なことも多く、内モンゴル自治区は設置当時、人口608万人のうちモンゴル人は83万人だった(現在で は2377万人のうち400万人)。一見、少数民族が優遇されているようだが、人口では漢人が多数を占める ということは少数民族による独立を難しくすることになる。だから自治地域の面積は広い方が良く(少数民族の人口比率が下がる)、内モンゴル 自治区の面積も成立当初の54万平方kmから、60年代までに118万平方kmへ拡大した (※)。
※現在、内モンゴル自治区の区都であるフフホトも、内モンゴルへ編入されたのは 54年で、市名はその時にモンゴル風に変えられた。現在でもモンゴル人の人口比率は1割程度。
もっとも、少数民族に自治を認める認めないは共産党の都合次第。1960年代半ばから中ソ対立が 深刻化すると、「内外モンゴルの統一」を口実にソ連から介入されやすそうな内モンゴルの自治は、徹底的に破壊された。

 時あたかも文化大革命の真っ最中で、68年に文革最大の冤罪と言われる「内 モンゴル人民革命党事件」が起きた。これは46年に東モンゴル自治政府の消滅とともに解散したはずの内モンゴル人民革命党(内人党)が、実 は秘かに地下活動を続けていて、内外モンゴルを統一させてソ連に売り渡そうと狙っている・・・と、康生や江青などの文革指導者たちが言い出したもの。

内モンゴルに送り込まれた屯田兵の少女たち
ある日突然、ラジオから「内人党関係者は3日以内に自首せよ!」と繰り返し放送が流れ、自首しようがしまいが片っ端から逮捕 されて、34万6000人(うち4分の3がモンゴル人)が取り調べを受けた結果、中国政府の統計でも拷問などで死者1万6222人、障害者になった者8万 7180人を出したとされているが、実際の犠牲者はもっと多かったと言われている。

 やがて内モンゴル人民革命党の黒幕はウランフということになり、「蒙古王」といわれたウランフは失脚。「ウランフの黒いコネクションをほじくり出 せ!」「ウランフの流した毒を粛清せよ!」のスローガンの下、多くのモンゴル人幹部が自己批判を迫られて追放された。そして69年には軍政が敷かれるとと もに、内モンゴル生産建設兵団という屯田兵が送り込まれ(※)、70年には内モンゴル自治区は廃止されて、周辺の各省に分割されてしまった。

※71年までに14万4600人の屯田兵が送り込まれたが、うち現役軍人は 5600人で、7万5000人は北京や天津などの都市部から「下放」された知識青年たちだった。内モンゴル生産建設兵団は75年に廃止されて国営農場に変 わると、知識青年の多くは病気を理由に都市へ逃げ帰った。
 
「ウランフ反共産党グループ」の徹底打倒を呼びかけるポス ター(左)と、それを画策した「中国のゲッペルス」こと康生(右)

文革が終了した後、内モンゴル自治区は79年に復活し、ウランフも名誉回復して、83年には中国の国家副主席にまで登りつめた。文革期 には否定された民族教育も復権し、小学校から大学までモンゴル語で教育を受けられるようになっている。しかし90年代以降、子供を中国語で教育する学校に 入学させようとするモンゴル人の親が急増しているようだ。

昔ながらの遊牧生活ならモンゴル語だけ話せれば十分だし、国有企業しか存在しなかった社会主義経済の時代なら、少数民族の優先枠で就職 できた。しかし市場経済の導入でグローバル化が進んだ結果、北京や上海、広東と商談するためには、中国語の能力は必須だ。経済発展と引き換えにモンゴル語 が話せないモンゴル人が増えつつある。

ジンギスカンを「民族の英雄」だと誇りに思うアイデンティティは、「内と外」のモンゴル人に共通だが、80年以上にわたる分断で両者の 溝も生まれている。内モンゴルのモンゴル人はモンゴルのモンゴル人を「ロシア化が進んで、モンゴル文字が書けない」と見下し、モンゴルのモンゴル人は内モ ンゴルのモンゴル人を「中国化が進んで、モンゴル語を話せない奴までいる」と見下しているそうな。

「独立国家」のモンゴルが社会主義体制崩壊後の経済不振からなかなか立ち直れない一方で、内モンゴルは中国の一部として成長が続き、両 者の経済格差はどんどん拡大。1人あたりのGDPで4倍もの差がついてしまったことも感情を より複雑にさせているようだ。

ちなみに台湾政府(=中華民国)は、現在でも内モンゴル自治区の存在を認めておらず、それどころかモンゴルの独立も認めていない(中ソ 友好同盟条約で46年にいったん認めたが、ソ連が共産党を応援したので激怒し、国民党政権は台湾に逃げてから取り消した)。だから台湾の地図では、モンゴルは自国領ということになっています。
 

●関連リンク

内モンゴル人民共和国臨時政府樹立宣言及び憲法 
内モンゴ ルの現況 内モンゴルに留学していた人によるレポート。東と西の言葉の違いなど
「モンゴル」から「モンゴル」へ 内モンゴルとモンゴルでのアイデンティティの違いについて
盛 島角房翁伝 対蒙古工作に関わった日本人「大陸浪人」の伝記
内蒙古軍 日本の傀儡政権時代の写真がいろいろあります
南 モンゴル観察 現在の内モンゴル自治区の人権問題など
偽蒙古連合自治政府紀要命 日本の傀儡政権時代の政府機構や高官人事など(中国語)
蒙古族通史 中国政府による公式のモンゴル史。ただし1949年以降はいろいろ問題がありそうなのでまだ書い ていないようです(中国語)
反革命修正 主義分子烏蘭夫十五大罪状 文革時代に暴かれた(?)ウランフの犯した悪事いろいろ(中国語)
数字地図 内モンゴル自治区の各種地図(中国語)
 
 

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