国名をどうするかで、「協議離婚」へ至った国

チェコスロバキア

チェコスロバキア→チェコスロバキア共和国→(消滅)→チェコスロバキア共和国→
チェコスロバキア社会主義共和国→チェコスロバキア連邦共和国→チェコ及びスロバキア連邦共和国

 首都:プラハ 人口1573万人(1992年)

 

1918年10月28日 チェコスロバキア国がオーストリアーハンガリー帝国から独立
1918年11月14日 チェコスロバキア共和国に改称
1919年3月8日 ルテニア地方を編入
1938年10月1日 ドイツがズデーテン地方を併合
1939年3月15日 スロバキアが独立し、チェコ(ボヘミア・モラビア)はドイツ保護領に
1945年4月3日 チェコスロバキア共和国再建
1945年6月29日 ルテニア地方をソ連へ割譲(現在はウクライナ領)
1960年7月11日 チェコスロバキア社会主義共和国に改称
1990年3月29日 チェコスロバキア連邦共和国(チェコースロバキア連邦共和国)に改称
1990年4月20日 チェコ及びスロバキア連邦共和国に改称
1993年1月1日 チェコ共和国とスロバキア共和国に分離し、消滅

第一次世界大戦前のヨーロッパの地図 チェコスロバキアという国はまだ存在していません
第一次世界大戦後のヨーロッパの地図(1919年) チェコスロバキアが登場
第二次世界大戦中のスロバキアの地図(1942年) チェコはドイツに併合されて、なんとなく輪郭だけが・・・
第二次世界大戦後のチェコスロバキアの地図(1985年) 
現在のチェコの地図 現在のスロバキアの地図 

チェコとスロバキアがいつの間にか分離してしまったのには驚きました。それまで「チェコスロバキア」で1つの地名だと思っていたし、チェコスロバキアを略して「チェコ」だと思っていたんで・・・って書くと、なんだか無知丸出しみたいですが、チェコスロバキアの解体は案外この問題が発端だったらしい。

チェコ人とスロバキア人はどちらもスラブ系で、言語もほとんど同じ。「一卵性双生児の兄弟民族」とまで言われる由縁だが、歴史的に見れば大モラビア王国(833〜906)の滅亡以来、約1000年にわたって両者は別々の歴史を歩んできた。

スロバキアは大モラビア王国を倒したマジャール族(後のハンガリー人)によって支配され、その後はずっとハンガリー王国の一部に。一方チェコでは、10世紀にプシェミスル家がボヘミア王国を建てたが、マジャール族の侵入に対抗して神聖ローマ帝国の枠に入り、ドイツからの移民が増えた。14世紀にはドイツ系のルクセンブルグ家がボヘミア国王を継ぎ、1346年にボヘミア国王となったカレル1世は、9年後に神聖ローマ皇帝に即位してカレル4世(ドイツ語ではカール4世)となり、プラハを拠点にドイツに君臨する。1526年からボヘミアとハンガリーはハプスブルク家によって支配されたが、カトリックによる統一を目指したハプスブルク家によってプロテスタントが多かったチェコ人領主たちは追放され、戦乱によって人口は半減。かわってドイツ人領主が入植し、ドイツ語が公用語となった。

つまり兄弟のような民族でありながら、チェコはドイツの一部として歴史を歩み、スロバキアはハンガリーの一部として長年歴史を重ねてきたのだ。

19世紀にフランス革命が起きると、チェコやスロバキアでも民族意識が高まり、チェコではチェコ語とドイツ語の地位平等や、オーストリア=ハンガリー=ボヘミア三重帝国の実現によるチェコの地位向上を要求、一方でスロバキアではハンガリー内部での自治権獲得の動きが高まった。

第一次世界大戦ではチェコ人やスロバキア人はオーストリア=ハンガリー帝国軍の一員として参加したが、プラハ大学教授のマサリクはチェコとスロバキアの共同国家による独立を唱えてパリに亡命政権を樹立した。この「チェコスロバキア構想」は大きな反響を呼び、前線にいたチェコ兵たちは同じスラブ系のロシア軍に続々と投降。5万人のチェコ軍団となって東部戦線でドイツ軍やオーストリア軍と戦った(※)。マサリクは米英仏にチェコ軍団を同盟軍と認めさせて、戦勝後のチェコスロバキア独立を約束させた。マサリクはチェコとスロバキアの中間地点に位置するモラビア生まれで、スロバキア人の父とドイツ語を話すチェコ人の母を持つ人物。「スラブ系民族の団結によるチェコスロバキアの実現」は自然な発想だった。
 

※1917年にロシア革命が起きると、新政府はドイツと講和を結んで停戦してしまう。そこでチェコ軍団はシベリア鉄道で沿海州に至り、日本、アメリカ経由でフランスへ向かい、地球をほぼ一周して西部戦線で戦おうとするが、シベリア鉄道の運行が混乱したため足止めを食らったシベリア各地や遠く満州のハルビンでも反乱を起こした。日本やアメリカがシベリア出兵した当初は、「チェコ軍団の救援」が目的とされた。


こうしてチェコスロバキアは1つの国家として独立したが、内部には複雑な民族問題を抱えていた。チェコ人(46%)+スロバキア人(13%)は合わせて総人口の59%を占めるにすぎず、チェコ西部のズデーテン地方を中心にドイツ人が300万人いて、スロバキア人の倍以上である人口の28%を占めていた。彼らは支配層としての地位を奪われた不満があるうえ、数百年にわたって住み着き、「ドイツの東南地方」だと信じて疑わなかった土地が「スラブ系主導の国家」になることは容認できなかった。ドイツ人はスデーテン地方のオーストリア編入を強く求め、それが弾圧されるとスデーテン・ドイツ党を組織して団結した。他にも国内にはハンガリー人(8%)やルテニア地方に住むウクライナ人(3%)、さらにユダヤ人(多くはドイツ系)やロマ人(ジプシー)も多く、多民族国家としてのスタートだった。スロバキア人の間にも、中欧随一の工業地帯だったチェコとの経済格差やプラハへの中央集権化に不満を抱き、自治権を求める動きが強まった。

ドイツでナチスが政権を握ると、ドイツ人の諸政党はスデーテン・ドイツ党に合流して、「スデーテン地方のドイツへの併合」を強く求めた。それに目をつけたヒトラーは、38年にオーストリアを併合したのに続き、チェコスロバキア政府に対してスデーテン地方の割譲を再三要求する。チェコスロバキアは国民に総動員令を出しあくまでドイツに抵抗する構えを見せたが、英仏独伊の4カ国はミュンヘン協定を結んでズデーテン地方のドイツへの併合を決めてしまった。この協定を結んだ会議にチェコスロバキアは招かれもせず、頼りにしていた英仏両国は第一次世界大戦が終わってようやく訪れた平和と安定を壊されたくないという思いから、ナチスドイツに対する宥和政策を採っていた。マサリクの後を継いだ2代目大統領のベネシュは、列強の決定に従うほかなかった。

こうしてチェコスロバキアはスデーテン地方を失ったが、ヒトラーの狙いはスデーテンだけではなかった。「ボヘミアとラトビア(つまりチェコ)は、かつては神聖ローマ帝国、ドイツ同盟の一部であり、昔から大ドイツ帝国の領土だった」と主張して、チェコを保護領にして編入してしまう。スロバキアでは自治要求を煽って独立を宣言させ、こちらも衛星国にした。同時にハンガリー人が多かったスロバキア南部はハンガリーへ編入され、民族問題につけこまれたチェコスロバキアは20年足らずで解体されてしまった。

第二次世界大戦が終わって復活したチェコスロバキアでは、ロンドンで亡命政権を率いていたベネシュが再び政権に就き、ドイツ人や一部ハンガリー人の財産を没収して追放した。ルテニア地方はソ連(現在はウクライナ)に割譲され、ユダヤ人やロマ人の多くは戦時中にナチスによって強制収容所へ送られたまま戻らず、人口はチェコ人(64%)+スロバキア人(31%)で95%を占めるようになった。東欧がソ連主導の社会主義体制に組み込まれる中で、ベネシュは「西側と東側の架け橋」を目指したが、46年の総選挙では共産党が36%の得票を得て第一党となり、その後も勢力を拡大。48年には非共産党の閣僚が辞任して共産党による独裁体制が確立した。共産党が政権を握った背景には、国民の間にかつてチェコスロバキア解体に手を貸した英仏など西側諸国への不信感もあったためだった。

産業国有化と農地集団化を実施したチェコスロバキアは、オーストリア帝国時代からの先進的な産業基盤に支えられて順調に経済発展し、60年には社会主義化の成果を内外に誇るべく「チェコスロバキア社会主義共和国」と改称したが、60年代に入ると経済の伸びは鈍化し、知識人などからは政治体制への不満が増大。68年に共産党第一書記に就任したドゥプチェクは、「人間の顔をした社会主義」を掲げて言論の自由化や市場経済原理の導入など一連の改革を実施して、「プラハの春」と呼ばれた。「プラハの春」は他の東欧諸国への波及を恐れたソ連の介入に遭い、チェコスロバキアはソ連軍を先頭としたワルシャワ条約機構軍によって占領されて改革は振り出しに戻ったが、一連の改革の中でスロバキアからの自治権要求に応えた連邦制の導入は、「社会主義政策に害がない」と見なされたのか69年から実施に移された。もっとも当時はチェコ政府もスロバキア政府も共産党の指導の下による独裁体制に変わりがなく、連邦制は実質的な意味を持たなかったが、これが後にチェコスロバキア解体の伏線となる。

1980年代末から90年代初頭にかけて、ソ連や東欧諸国が民主化と国家分裂で混乱する中で、チェコスロバキアでも89年に民主化を求める大規模なデモが起きたが、共産党はあっさり政権の座から降り、スムーズな民主化(ビロード革命)が実現した。そこで「チェコスロバキア社会主義共和国」に代わる新しい国名をどうするかが論議されたが、これが思わぬ波乱を巻き起こした。連邦制を基本にした国づくりでは一致していたものの、チェコ側は「チェコスロバキア」を1つの国名とみなしてチェコ語ではチェコスロバキア連邦共和国と定め、スロバキア側は「チェコスロバキアとは、チェコ+スロバキアのことだ」と主張して、スロバキア語ではチェコ−スロバキア連邦共和国と定める。結局スロバキア側の言い分が通って、国名はすぐにチェコ及びスロバキア連邦共和国に改称されたが、これを契機にスロバキア側では独立を求めるナショナリズムが台頭。92年6月の総選挙では民族派の民主スロバキア擁護運動(HZDS)が政権を握り、メチアル首相は強引な形で主権宣言を推し進めたが、8月にはチェコ側首相とのトップ会談で両国の分離を決定。「協議離婚」に例えられるほど平和裏にチェコスロバキアは解体した。

チェコがスロバキアの独立を容認したのは、「どうせ別れたがっている相手なら、すんなり別れて流血の惨事を避けたほうが賢明」という判断から。また市場経済への移行で経済不安が増大する中で、後進地域のスロバキアはお荷物視されていたから、「これから大変だという時期に、スロバキアの面倒を見なくて済むのはありがたい」と思われたため。一方、スロバキアはメチアル首相が失脚するなど政治的には混乱が続いたが、経済的には「チェコ依存が崩れて急激に悪化する」という予想に反してプラス成長が続いた。そういうわけで、分離後もチェコとスロバキアは仲の良い関係が続いています。東京にあるスロバキア大使館も、2004年まではチェコ大使館と同居していました。

ちなみにチェコ(CZECHO)のOは、その後にスロバキア(SLOVAKIA)に続くための接続助詞で、単独なら(CZECH)でチェックとなる。「チェコ」はあくまでチェコスロバキアの略で、独立した以上はチェック共和国のはずなんだけど、外務省も含めてそう呼んでいる日本人はいないわけで、ま、どうでもいい問題ですね。

参考資料:
『世界大百科事典』 (平凡社 1971)
大鷹節子 『チェコとドイツ』 (読売新聞社 1998)
薩摩秀登 編 『チェコとスロヴァキアを知るための56章』 (明石書店 2003)
チェコスロバキア史 http://www5b.biglobe.ne.jp/~tasai/cz_dejny/000mokuji.htm
チェコスロバキア動乱のケース・スタディ http://homepage2.nifty.com/kamitaku/RESU0006.HTM
チェコ現代史 http://sy.vis.ne.jp/cz/mail_05.html
第一次大戦 http://ww1.m78.com/
 
 

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