今も復活求める動きがある「中クロアチア主義」の実現を目指した国

ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国
 
首都:モスタル(実際にはグルデ) 人口:16万9000人(1996年)

1991年11月18日 ヘルツェグ・ボスナにクロアチア人共同体が成立
1992年3月3日 ユーゴスラビアから
ボ スニア・ヘルツェゴビナが独立
1993年8月28日 ボスニアのクロアチア人議会がヘル ツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国の独立を宣言
1994年5月31日 ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共 和国がムスリム人勢力とボスニア・ヘルツェゴビナ連邦を結成
1995年12月 デイトン和平協定により、ボスニア・ヘル ツェゴビナ連邦とセルビア人のスルプスカ共和国でボスニア・ヘルツェゴビナを構成することに
1996年12月17日 
ヘルツェグ・ボス ナ・クロアチア人共和国が正式に解散

スルブスカ共和国(ピンク)とボスニア・ヘルツェゴビナ連邦(赤)
連邦は旧ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国とムスリム人勢力支配地区

旧ユーゴスラビアの分割図 薄紫色がヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和 国の支配地域
ボスニア・ヘルツェゴビナの民族勢力図 黄色の部分がクロアチア人地区。緑 (ムスリム人地区)と合わせてボスニア・ヘルツェゴビナ連邦

 1990年代の国際紛争で、もっとも凄絶な様相を呈していたのがボスニア紛争だ。ユーゴスラビア連邦からの独立をめぐる戦いに加え、各 民族同士の主導権争いや領土分割を目論む内戦となり、92年にボスニア・ヘルツェゴビナ共和国が独立した時の人口430万人のうち、20万人が死亡、 200万人が難民になったと言われている。

ボスニアの民族構成は、ボシュニャク人(ムスリム人)44%、セルビア人33%、クロアチア人17%で、それなりに拮抗していた (※)。じゃあ、3民族で領土を分割して仲良く別々の国になれば良いのにと思うが、ボスニアの場合、民族ごとに居住地域がはっきり分かれていたわけではな く、混住している部分が多かったから複雑だ。

※ボシュニャク人はイスラム教徒で、ユーゴ 時代には「ムスリム人」と呼ばれた。セルビア人は正教徒、クロアチア人はカトリックだが、人種はいずれもスラブ系で、言語もほとんど同じ。

それでも分割を求める争いは続いた。セルビア人はボスニアの独立に反対し、セルビア人が主導権を握るユーゴスラビアのままでいたかった が、それが無理となったらセルビア人の多い地域だけで独立国を作ろうとスルプスカ共和国(※)の独立を宣言した。クロアチア人はボスニアの独立に賛成し、 さらにクロアチア人だけの国を作ろうとヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国の独立を宣言した。人口で優位に立つボスニャク人はボスニアの独立に賛成 し、セルビア人と対抗するためクロアチア人と共闘したが、クロアチア人地域の独立には激しく抵抗した。

※「スルプスカ」とはセルビア人の意味だ が、「セルビア人共和国」と訳すとセルビア共和国と混同されがちなので、最近は日本の外務省やメディア等でもスルプスカ共和国と呼ぶようになった。

結局ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国は、アメリカが主導した95年のデイトン合意(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ和平一般枠組み合意)に 基づいて、ボシュニャク人+クロアチア人主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連 邦と、セルビア人主体のスルプスカ共和国の2 つの国で構成される連邦制国家となって、現在に至っている(※)。

※面積比では連邦が51%、スルプスカが49%。両者が交わる ブルチコは独自の行政区とされ、EUによる国際監視活動が行われている。

ヘルツェル・ボスナ・クロアチア人共和国を設立したのは、ク ロアチア民主同盟だ。この政党はクロアチア共和国の政権与党で、ボスニアのクロアチア人の間でも支部を組織していた。

91年6月にクロアチア共和国がユーゴスラビア連邦から独立すると、連邦軍は「クロアチア内に住むセルビア人の保護」を理由にクロアチ アへ侵攻し、4年間にわたる戦争となるが、ボスニアでもボシュニャク人やクロアチア人はユーゴからの独立を主張し始め、危機感を持ったセルビア人は10月 24日に独自のセルビア人議会を設置(※)。11月18日にクロアチア人も対抗してクロアチア人共同体を設置した。

※92年1月には「あくまでユーゴ内の共和 国」と規定したスルプスカ共和国の成立を宣言。連邦軍は5月にボスニアから撤退し、その兵力や武器の一部はス ルプスカ軍のものになった。

セルビア人の反対にも関わらず、92年3月にボスニアがユーゴからの独立を宣言し、4月にEUがボスニア独立を承認すると、ユーゴ連邦 軍がボスニアへ侵攻し、ボシュニャク人やクロアチア人を攻撃し始めた、するとクロアチア軍も「クロアチア人住民の保護」を理由に介入して、ボスニア紛争が 本格化した。

当初、クロアチア人はボシュニャク人と共闘して、連邦軍やセルビア人勢力と戦っていたが、クロアチア民主同盟の本当の狙いは「大クロアチア主義」、つまりボスニアをすべてクロアチアの支配下に置 くことだった。

歴史を遡ると、第一次世界大戦でユーゴが誕生する前は、セルビアはオスマントルコ領で、クロアチアとボスニアはオーストリアーハンガ リー帝国領だった(※)。そしてナチスドイツによってユーゴが解体され、傀儡国家のクロアチア独立国が成立した時も、ボスニアはその領土とされた。だからボスニアはクロアチアに併合されて当然・・・ということになるらしい。

※もっとも、ボスニアはもともとオスマント ルコ領で、1878年にオーストリアが奪ったのだが、ナショナリズムにそんな突っ込みを入れるのは野暮というもの。

しかし現実的にボスニアからセルビア人勢力を一掃するのは不可能なので、実際に目指したのは「中クロアチア主義」、つまりセルビア人との間でボスニアを2分割して しまおうと狙った。

93年4月に、クロアチア政府とセルビア政 府(=ユーゴ)がボスニアの2分割について密談を続けていたことが明るみになると、ボスニアではそれまで共闘していたクロアチア人とボシュニャク人との争 いが一気に本格化。クロアチア民主同盟は8月にヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国の独立を宣言して、ボスニア支部党首のマテ・ホバンが大統領に就任し、クロアチアへの併合や国家連合を公然と 唱え、異民族の排除や虐殺など「民族浄化」の凄惨な戦いが激化した。

さすがに国際社会の介入で、94年3月にクロアチア人地域とボシュニャク人地域を連邦として統一するワシントン合意が締結されると、あ くまでクロアチア人だけの国とクロアチアへの併合にこだわったマテ・ホバンは、クロアチアによって更迭され、95年のデイトン合意でとりあえずボスニ ア紛争は終結。ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国の指導者らは、民族浄化の罪を問われて旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷で裁かれることになったが、マ テ・ホバンは97年に脳梗塞で急死していた。

戦いが終わったボスニアは、再建に向けて軌道に乗っているようだが、ボスニア連邦内のクロアチア人の間では、「人口が多いボシュニャク 人が連邦を主導し、クロアチア人の同化を進めようとしている」と不満が多く、旧ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国を復活させて、ボスニア連邦やスル プスカと並ぶ地位にしようという動きもあるようだ。

政府が置けなかった首都・モスタル

ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共 和国の首都はモスタルと規定されたが、ここはボスニアでも激戦地だったので、実際の政府は西に 19km離れた町グルデに置かれた。グルデは紛争前から住民の99・8%が クロアチア人だったので、安定していた。

モスタルはネレトバ川の両岸に広がる古い都市で、オスマントルコ時代の16世紀半ばに架けられたスタリ・モスト(古い橋の意)が町の象 徴で、名前の由来にもなっている。ユーゴ時代の人口は約10万人で、クロアチア人3割、ボシュニャク人3割、セルビア人2割と各民族がほぼ拮抗していた (他にユーゴの他民族と少数のユダヤ人)。

92年春に紛争が本格化すると、ユーゴ連邦軍がモスタルを包囲する一方で、街からセルビア人は放逐された。その後のクロアチア人とボ シュリュク人との戦いで、街は徹底的に破壊され、民族浄化の嵐の中で、川を挟んで西側はクロアチア人、東側はボシュニャク人に分割された。民族浄化といっ てもモスタルの場合、他所からやって来た見知らぬ兵士が殺害しただけでなく、それまで隣り合って住んでいた住民同士が虐殺や略奪、レイプを繰り広げたの で、「自分の家族を殺したのは誰か」を知っているというのが一層の悲劇だ。

21世紀に入ってから、モスタルは観光地として復興が進み、紛争で破壊されたスタリ・モストも04年に再建され、翌年には世界遺産に登 録された。日本の援助で市内循環バスが走り始め、東西の行き来は自由だが、今でもインフラ運営や学校教育は東西別々。ボスニアの法定通貨は兌換マルク(旧 ドイツ・マルクと同じレート)だが、西側ではクロアチア・クーナも流通していると言う。


参考資料
在ボスニア・ヘルツェゴビナ日本国大使館 http://www.bosnia.emb- japan.go.jp/Ja/Bosnia_Info/index.html
(旧)ユーゴ便り http://www.pluto.dti.ne.jp/katu- jun/yugo/backnumb/yugo0029/index.html
内戦 国際紛争 テロリズム http://sekitori.web.infoseek.co.jp/war/war.html
旅人と中欧旅行 http://www.tabibito.de/balkan/jmostar.shtml
ウィキペディア http://ja.wikipedia.org/wiki/
Worldstateman http://www.worldstatesmen.org/

●関連リンク

Herceg Bosna ヘルツェグ・ボスナのクロアチア人総合サイト(英語)
 

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