
豊富な鉱物資源が国の崩壊を招いた「アフリカの爆弾」
コンゴ動乱で生まれた国々
カタンガ国 北カタンガ国 南カサイ鉱山国 「崩壊国家」という言葉がある。政府が崩壊して機能しなくなり、各地に軍閥が群雄割拠して、まるで『北斗の拳』さながらの社会になった国のことで、最近だ とソマリアが有名だが、かつてはコンゴ。1960年から63年にかけての混乱ぶりは「コンゴ動乱」と呼ばれた(※)。
1960年6月30日 ベルギーからコン ゴが独立
1960年7月11日 カタンガ州が独立
1960年8月8日 南カサイ州が南カサイ鉱山国として独立
1960年9月1日 南カサイ鉱山国が南カサイ自治国に改称
1960年10月20日 カタンガから北カタンガが独立
1961年1月7日 北カタンガがコンゴ政府(ムルンバ派)の傘下に入る
1961年3月31日 カタンガが北カタンガを占領
1961年4月8日 南カサイ自治国が南カサイ連邦に改称(12日から王制に移行)
1961年11月 コンゴ政府が北カタンガを占領
1961年12月30日 コンゴ政府が南カサイを占領
1963年1月21日 コンゴ政府がカタンガを占領
※「コンゴ」と呼ばれる国は2つある が、コンゴ動乱のコンゴは旧ベルギー植民地(60年に独立してコンゴ共和国→67年コンゴ民主共和国→71年ザイール共和国→97年コンゴ民主共和国)。 もう1つのコンゴは旧フランス植民地(58年コンゴ自治共和国→60年に独立してコンゴ共和国→70年コンゴ人民共和国→91年コンゴ共和国)。つまり 60年から67年にかけては「コンゴ共和国」が2つ存在したことになり、当時は首都の名前を付けて俗にコンゴ(キンシャサ)、コンゴ(ブラザビル)と呼ば れた。もっとも、ソマリアは国連軍が軍閥に襲われて撤退し、20年以上も国際社会から「放置プレイ」が続くのに比べて、コンゴ動乱で国連は事務総長が殉死しても 積極的に関与し、旧宗主国のベルギーを始めフランス、ソ連、アメリカ、南アなども介入、さらに外人傭兵部隊も「主役級」の活躍をした。
これはひとえに動乱の舞台となったコンゴ内陸部には、豊富な鉱物資源があっ たから。そしてこれらの地域では、鉱山会社をバックにつけてカタンガ、北カタンガ、南カサイなどの独立国が相次いで誕生した。
国王の「鶴 の一声」で独立認める。気前がよさそうだが…
独立直後のコンゴが混乱したのは、ベルギーは植民地統治を支える現地人エリートを育成しようとせず、準備も整えないまま独立させたからだった。
コンゴは1885年からベルギーに支配されたが、当初は「コンゴ自由国」という名の下に、ベルギー国王の私有植民地で、住民にゴムの採取を義務付け、ノルマに達 しなかった者は容赦なく右手を切り落とす…などの過酷な搾取を行ったほどだった。
1950年代末からアフリカ各地で植民地解放の動きが広がり、58年には隣接するフランス領コンゴがフランス連合内での自治共和国になると、ベルギー領の コンゴでも、黒人たちの間で独立を求める動きが本格化し、いくつかの組織が生まれた。
その1つがジャセフ・カザブブが率いる西側海岸部のバ・コン ゴ族が中心のアバコ党で、57年から始まった地方選挙で圧勝し、コンゴ人による自治を要求した。もう1つがモイゼ・チョンベが率いる南部内陸部のコナカ党で、中央集権よりも地方 分権の連邦制で独立すべきだと主張した。そしてもう1つがパトリス・ムルン バが率いるMNC(コンゴ国民運動)で、地域や部族を超えた全コンゴの中央集権国家の樹立を目指し、ルムンバは58年12月にガーナで開催 されたアフリカ人民連帯会議にコンゴ代表として出席し、汎アフリカ主義のリーダーの1人としての名声を得ていた。
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コンゴ動乱の主役たち。左からカサブブ、チョン ベ、ルムンバ
59年に入ると事態は急変した、1月4日にアバコ党がレオポルド・ビル(現:キンッシャサ)で集会を開こうとしたところ、植民地政府が禁止しため暴動にな り、多数の死傷者が出た。すると4日後に国王はコンゴの独立を認めると声明 を発表したのだ。
当時アルジェリア独立戦争では、大国フランスが追い込まれ、混乱が本国へも波及しつつあった。コンゴで暴動が拡大し、本格的な独立戦争に発展したら、小国 ベルギーが遠く離れたコンゴを軍事制圧し続けることは不可能なのは明らかだった。国王の声明を受けて、へメルリック植民地相は4年間かけて地方自治体から 中央政府へ段階的にコンゴ人を登用し、独立を与えるプランを発表したが、コンゴ在住の白人たちが猛反発して更迭された。代わって植民地相に就いたシュリ ベールは1年以内に独立を認めるプランを発表した。
なぜまたベルギーは急いで独立させることにしたのかと言えば、当時コンゴの公務員や軍の幹部はすべてベルギー人で占められていたので、コンゴ人幹部を育成 しないまますぐに独立すれば、引き続き政府高官や軍将校はベルギー人に任せざるを得なくなり、ベルギー人が独立後のコンゴを支配し続けることができると考えたから。
こうして60年1月末から2月にかけてブリュッセルで開かれたベルギー政府とコンゴ人各派との円卓会議では、コンゴ独立のスケジュールはさらに早まって6 月30日と決まった。5月に実施された総選挙ではMNCが第一党となって、アバコ党やコナカ党と連立を組み、カサブブが大統領、ルムンバが首相に就任して コンゴは独立した。
相次ぐ独立 に加えて、中央政府も分裂
しかし動乱は1週間後に始まった。せっかく独立したのに軍の将校はベルギー人ばかりで、コンゴ人兵士はその命令に従うのでは何も変わらないじゃないかと兵 士らが反乱を起こした。ルムンバ首相は慌ててコンゴ人兵士を全員一階級昇進させたり、白人将軍を解任して、コンゴ人を将校に据えたりしたが(※)、コンゴ 人兵士は次々と白人を襲い、白人はパニックとなって国外脱出を図った。
※この時、参謀本部長に据えられたのが、後にザイールの独 裁者となるモブツ。
こうしてベルギー軍は「自国民保護」を理由にコンゴへ舞い戻り、 7月10日には銅山の都市として白人住民が多かったカタンガ州のエリザベス・ビル(現:ルブンバシ)を占領した。すると翌日、カタンガ州知事に就いていた チョンベは、カタンガの独立を宣言した。続けて8月8日にはダイヤモンド鉱山のある南カサイも独立を宣言した。
チョンベは連邦国家を主張していたが、実は豊かな鉱物資源を持つカタンガを単独で独立させたいのが本音だったが、それは内陸部の鉱山地帯だけでも影響力を残したいベルギーの意図とも合致して いた。ルムンバとカサブブの中央政府はさっそく「ベルギーによる侵略行為」を国連に提訴し、国連軍の派遣を要請した。
こうして国連軍がコンゴへ派遣されたものの、チョンベはベルギー軍の進駐を「カタンガ政府の要請に基づいた軍事支援要員だ」と正当化し、国連軍のカタンガ 進出には全力で闘うと宣言。またルムンバを共産主義者だとも非難した。国際的な圧力で、9月1日にベルギー軍は撤退したが、そのうち600人はカタンガ憲 兵隊の指揮官に「転職」した。
一方で、国連もアテにならないと感じたルムンバ首相は、ソ連の支援を要請して国内統一に乗り出し、8月末にとりあえず南カサイ鉱山国を攻撃して、いったん 独立を断念させた。しかしソ連の支援は政権内部でも批判が強かった。9月5日には、大統領と首相がお互いを解任し合うという泥仕合に発展したあげく、14 日にはモブツ参謀本部長がクーデターを起こし、カサブブ大統 領はそれに従ったが、ルムンバ首相は逃亡し、逮捕された。すると12月には東部のスタンリービル(現:キサンガニ)でルムンバ支持の新たな中央政府が樹立された。
カタンガでもチョンベの独裁に対して北部のルバ族が反乱をおこし、60年10月に北カタンガが独立した。かくしてコンゴは独立から半年足らずで、モブツの 軍事政権とルムンバ派の2つの中央政府、カタンガと北カタンガ、南カサイの3つの独立政権に分かれてしまい、さらに各地に群雄割拠する勢力も相次いで、四 分五裂の状態になってしまった。
英雄の死で 実現した挙国一致体制。四面楚歌に陥ったカタンガ
61年に入り、ルムンバの氏によって事態は急転した。ルムンバを逮捕したモブツの軍事政権は、その扱いに苦慮していた。国民に絶大な人気があるルムンバは 政権を脅かす存在だが、牢獄に入れ続けているわけにもいかない。モブツを支えるCIAの意向は「ソ連と手を組むルムンバを抹殺すること」だったと言うが、 アフリカ諸国の間でも名声が轟いているルムンバを、モブツ政権の手で葬り去るわけにもいかない。
そこで出たアイデアが、「チョンベに処分してもらう」こと だった。ルムンバは飛行機に乗せられてカタンガへ送られ、ただちに殺害されてしまった(※)。
※殺害を実行したのはベルギー人の顧問で、2002年にベ ルギー政府は「政府と軍がムルンバの死とその経緯に関与した」ことを公式に認め、ルムンバの遺族とコンゴ国民に謝罪した。
ルムンバの死は世界的に大きな反響を呼びこした。ルムンバ派の政権には同情が集まり、カタンガは非難された。モブツの軍事政権でも、2月に民政移管されカ サブブ大統領が復権した。アフリカ諸国の調停で、国内各勢力を集めた円卓会議が繰り返し開かれ、一時はチョンベが提唱した中央政府にほとんど権限のない連 邦制でまとまりかけたが、結局7月にカタンガを除く挙国一致内閣のアドゥラ 政権が誕生した。
カタンガは相変わらず独立したままだったが、8月に国連軍はカタンガに進攻して「白人傭兵の排除」を実施。チョンベやベルギーも同意せざるを得なかった。 しかしカタンガ憲兵隊の抵抗は激しく、9月に国連のハマーショルド事務総長がチョンベと会談しようと飛行機で向かったところ墜落して(撃墜されて?)殉死 するという事件が起きた。
国連軍は態勢を強化して11月から12月にかけて改めて作戦に乗り出し、南カサイや北カタンガを完全に制圧したが、カタンガでは傭兵たちはいったん姿をく らましたてもまた舞い戻る状況だった。
その後もチョンベは独立を断念すると発表しながら、時間の引き延ばしを図っていたが、国連の査察を誤魔化すために、国際的に「悪名」が高かった傭兵隊長を 解任したりしたため、カタンガ憲兵隊は徐々に弱体化。63年1月にカタンガはコンゴ軍に制圧され、チョンベはスペインへ亡命、カタンガ憲兵隊はアンゴラへ逃げ込んだ。
困った時の チョンベ頼み。解決したら即失脚
こうしてコンゴ動乱は収束したのかと思いきや、まだ終わらなかった。63年末に旧ルムンバ派の流れをくむゲリラが登場し、急速に勢力を拡大した。彼らを率 いたムレレは旧ルムンバ派政権の高官で、その過激な主張に よって解任されてから中国へ渡り、ゲリラ戦の訓練を受けて秘かに帰国。シンバ(ライオン)と呼ばれる革命ゲリラを組織した。
独立してから混乱が続き、生活が良くなるどころかかえって悪くなった民衆の間に、革命ゲリラはたちまち広がった。シンバ達の党員証にはムルンバの血を意味 する赤い斑点が描かれ、兵士たちは「ムレレ、マイ!ムレレ、マイ!」と叫んで突撃すれば弾に当っても死なないと信じていた。こうして呪術で強化された兵士 たちの攻撃に、コンゴ政府軍は蹴散らされ、たちまち国土の東半分を占領。64年8月にはスタンレービルを占領し、「コンゴ人民共和国」の樹立を宣言した。
絶体絶命の危機に陥ったコンゴ政府が採った奥の手は、「困った時のチョンベ頼み」だった。スペインに亡命していたチョンベを首相として呼び戻し、政府軍に代わっ て追放したはずの白人傭兵やカタンガ憲兵隊にシンバを掃討させるという作戦だ。
「戦争のプロ」たちが投入されると、さしものシンバも総崩れとなり、11月にはベルギー軍や亡命キューバ人が中心の米CIA部隊も協力してスタンレービル を制圧(※)。65年にチェ・ゲバラが率いるキューバ兵がシンバ支援に介入したが、さしたる成果を上げられずに撤退した。
※この時、シンバによって人質になっていた白人200人が 殺害されたと言われる。
こうしてシンバの反乱が終わると、用済みになったチョンベは65年10月に罷免されて再びスペインへ亡命。翌月にはモブツがクーデターを起こし、権力を失っ たカサブブ大統領は故郷に隠遁した。そしてコンゴにとって再び邪魔者になった白人傭兵やカタンガ憲兵隊は、67年にチョンベを担いでクーデターを起こそう としたものの、チョンベは何者か(おそらくCIA)によって誘拐されてアルジェリアへ連行されてしまい(2年後にそのまま獄死)、クーデターに失敗した傭 兵部隊は解散させられ、カタンガ憲兵隊は再度アンゴラへ逃げ込んだ。
その後モブツは97年に反乱によってモロッコへ亡命するまで、30年間にわたって独裁政権を築いたのでした。
カタンガ国 首都:エリザベス・ビル 人口:220万(1960年)
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カタンガの独立式典と、チョ ンベ大統領と踊って祝う白人たち
コンゴ南部のカタンガからザンビア中部にかけては、カッターベルトと呼ばれる世界有数の銅山地帯で推定埋蔵量は2000万トン。近年は 紛争の影響による政治・経済の混乱やインフラの荒廃によって、銅産出量の世界シェアは2%程度だが、1950年代から60年代にかけては20%を占めてい た。銅の採掘は19世紀から始められ、1938年のベルギー領コンゴの貿易収支は、豊富な銅の輸出のおかげで、輸入102万フランに対して輸出は190万 フランという大黒字だった(※)。
※この他、カタンガではコバルトやウランも 豊富にあり、日本に落とされた原爆のウランも、コンゴで採掘したものが使用された。
カタンガでの銅鉱山を経営していたのが、1906年にベルギーとイギリスの合弁で設立されたユニオン・ミニエール社だった。同社は銀行のほかカタンガで鉄道、発電 所、化学工場や病院、学校も運営し、政府よりも大きな力を持っていた、そしてコンゴ独立の前年である1959年には、コンゴ政庁への納税額は35億ベル ギー・フランに達し、植民地政府の歳入の50%を占めていた。
つまりカタンガの独立は、ユニオン・ミニエール社の意向だったと言える。カタンガ独立とともに、ユニオン・ミニエール社はコンゴに納税 しなくなり、税収や配当金はカタンガ政府の懐に入った(※)。カタンガの独立を支えたのは、カタンガ憲兵隊とその白人傭兵たちだが、カタンガが政府軍を上 回る装備を揃え、金に糸目をつけずに多くの白人傭兵を雇えたのは、ユニオン・ミニエール社があってこそだった。
※独立期間中の総額は、780億ベルギー・ フラン(当時のレートで16億米ドル)だったと言われる。
それにしても、海岸から遠く離れたカタンガが独立したら銅の輸出はどうなるのかと思えば、ユニオン・ミニエール社は1929年に南側の アンゴラを通って海に出るベンゲラ鉄道を建設していた。コンゴ国内を通って銅を海へ運ぶなると、まず鉄道で1800km北上してコンゴ川岸のイレボまで出 て船に積み替え、800km下ってキンシャサで再び鉄道に積み替え(キンシャサ下流に滝があるため)、360km先の港町・マタディでようやく外洋の大型 船に積み込めると、順調にいっても大西洋まで1ヵ月以上かかることになる。
一方で、ベンゲラ鉄道を使えば銅山から大西洋まで2200kmを積み替えなしで運ぶことができ、こちらが輸出のメインルート。コンゴ動 乱当時、アンゴラはまだポルトガル植民地だったので、安定した輸送が確保できた(※)。
※後 に1975年にアンゴラが独立すると、たちまち反政府ゲリラ(UNITA)がベンゲラ鉄道を破壊してしまい、現在に至るまで運行不能に。カタンガの銅は積 み替えだらけの国内ルートで輸送しなければならなくなり、コンゴ経済に大きな打撃を与えた。
ムルンバ殺害で国内外から非難を浴びても、カタンガが独 立を続けていられたのは、ユニオン・ミニエール社のおかげだったが、62年になると国連は「独立を解消させるには、元から断たなきゃダメ」 とばかりに、ユニオン・ミニエール社へ圧力をかけた。具体的にはカタンガ政府への納税や配当金支払いを封じ、さらにカタンガ産(=ユニオン・ミニエール 社)の銅やコバルトをボイコットする姿勢を見せた。
こうして翌63年1月、ユニオン・ミニエール社は「今後はコンゴ政府に納税する」と発表。スポンサーを失ったチョンベは亡命し、カタン ガはコンゴ政府の支配下に入ることになった。
1966年末になって、コンゴ政府はユニオン・ミニエール社の銅山などを接収し、国有化したが、その後25年間にわたって技術協力量や 販売代理費などとして同社に売り上げの一部が支払われる条件で、ユニオン・ミニエール社側も合意した。こうして「もう1つの政府」とまで呼ばれたカタンガ 独立の資金源を根絶したことで、モブツ政権はカタンガ憲兵隊や白人傭兵たちを最終的に放逐することができたと言える。
もっとも国有化後の銅山は、設備更新がほとんど行われず、80年代には年間50万トンだった採掘量は90年代末には数万トンになり、国 家経済は破綻。モブツ政権の崩壊を招いた原因の1つにもなった。
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カタンガ政府はコンゴ政府より安定していたとはいえ、住民がみんな独立を支持していたわけではなかった。ユニオン・ミニエール社から豊富な資金がカタンガ 政府に入るようになったと言っても、軍事費に消えてしまい、住民の暮らしが良くなるわけではなかった。
特にカサイ州からカタンガ北部へ移住してきたルバ族は、コナカ党から分裂したバルバカ党に率いられ、すぐに反乱を起こし、チョンベ支持 派の族長たちを襲撃した。9月には北部をほとんど制圧し、10月に北カタンガの独立を宣言した。
実はカタンガ北部には目ぼしい鉱物資源はなかったので、カタンガ政府にとってもかえって好都合だったのだが、北カタンガがコンゴ政府と 手を結ぶと厄介なので、国連軍と話して北カタンガの2ヵ所に中立地帯を設定してもらい、国連軍に警備させた(実際には守られず)。
そしてスタンレービルにムルンバ派の中央政府が誕生し、北カタンガへ進攻して来ると、北カタンガ政府はさっそく手を結び、独立を解消し てムルンバ派傘下のルアラバ州政府と名を変えた。
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カタンガ州が銅の産地なら、カサイ州の南部は世界最大のダイヤモンドの産地だ。カタンガが独立すると続けとばかりに南カサイ鉱山国の独立を宣言した。大統 領にはアルバート・カロンジが就任した。カロンジはルバ族の 実業家で、コンゴ独立前はMNCのカサイ州委員長をしていたが、MNCの州支部をルバ族で固めようとしたためカサイ州の他の部族と対立。ムルンバと袂を分 かってMNCの分派を結成していた。
南カサイはカタンガ憲兵隊の支援を受けて2000人の軍を組織したが、8月末にコンゴ軍に攻め込まれると、ほとんど抵抗できずに制圧さ れ、いったんカタンガへ逃げ込んだカロンジは、南カサイの独立を撤回して自治政府に改めた。
南カサイの切手に描かれたカロンジ皇帝陛下
しかし、61年に入りムルンバの死で挙国一 致体制に向けた円卓会議が開かれると、カロンジは4月に南カサイを連邦政府に改組して、自分の父を皇帝に即位させた(そして即日退位させて、自分が皇帝に即位)。
その後、61年末のコンゴ軍と国連軍の攻勢で、南カサイは占領され、カロンジは逮捕されたが、翌年脱走に成功。64年にスペインから呼 び戻されたチョンベがコンゴ政府の首相になると、農相に就任したりもしている。
その後、モブツの独裁体制の下で、南カサイの独立の芽を摘むべく、カサイ州は東西に分割されている。カロンジは他のリーダーたちとは 違って長生きし、2005年に南カサイ鉱山国についての自伝を出版している。
参考資料
『世界年鑑 昭和17年版』 (日本国際問題調査会 1942)
井上信一 『モブツ・セセ・セコ物語』 (新風舎 2007)
武内進一 『1960年代のコンゴ東部反乱とルワンダ系住民』 (「アジア・アフリカの武力紛争―共同研究会中間成果報告」アジア経済研究所 2002)
溝畑靖雄・秋山芳弘・高橋永次 『ザイール(後)』 (鉄道 ジャーナル 1984年6月号)
吉田敦 鉱物資源問題と世界経済―コンゴ民主共和国の「紛争ダイヤモンド問題」を例証として http: //www.africanewsletter.com/Documents/congo.pdf
元老院議員私設資料展示館 http://www.kaho.biz
wikipedia http://en.wikipedia.org/wiki/South_Kasai●関連リンク
外務省ーコンゴ民主共和国
Republic of Great Kasai 大カサイ共和国の独立を訴えるサイト(仏語)
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