
歴代大統領は全員殺され、最後の大統領は首長国に衣替え
チェチェン共和国
チェチェン・イングーシ共和国→チェチェン共和国→イチェケリア・
チェチェン共和国
首都:グロズヌイ 人口:79万人(2000年)
1990年10月27日 チェチェン・イングーシ自治ソビエト社会主義共和国 がチェチェン・イングーシ共和国へ改称し、 主権を宣言
1991年11月1日 チェチェン・イングーシ共和国 がソ連からの独立を宣言
1991年12月1日 イングーシがチェチェン・イングーシ 共和国からの分離独立と、ロシア共和国への復帰を宣言
1992年12月10日 ロシアがチェチェン共和国とイングーシ共和国への分割を承認
1994年1月16日 チェチェン共和国がイチェケリア・ チェチェン共和国に改称
1994年12月〜1996年8月 第一次 チェチェン紛争
1999年10月〜 第二次チェチェン紛争
2003年3月27日ロシアが反独立派のチェチェン共和国政 府を樹立
2007年10月11日 独立派がカフカス首長国の樹立を宣言し、チェチェンを含む北カフカス全体の領有権を主張
ソ連が崩壊した時、あちこちで独立紛争が勃発したが、20年経った現在でも独立を求めて凄惨なテロや戦闘が続いているのがチェチェン だ。
チェチェンはなぜ独立を認められないのか。ソ連が解体して独立を果たし、国際的にも承認された国は15あるが、これらの国はもともとソ ビエト連邦を構成する15の共和国だった。一方で、チェチェンはソ連時代、ロシア共和国内の自治共和国。ソ連は崩壊したのでそれを構成する国はそれぞれ独 立国になったが、ロシアは崩壊していないのでロシア内の国は独立を認めるわ けにはいかないということ。
もしチェチェンの独立を認めたら、15の共和国内の自治共和国や自治州もあちこちで独立を要求し始め、収拾がつかなくなってしまう。現 にロシアではタター ルスタン、ウクライナではクリミヤ、 グルジアではア ブハジアや南 オセチア、モルドバでは沿 ドニエストルとガガウズ、 アゼルバイジャンではナ ゴルノカラバフとタリ シュ・ムガン、タジキスタンからはパミー ル・パダクシャンが独立を宣言したり、紛争になったり、現在に至る まで独立状態が続いている地域もあったりするが、正式に独立が認められた国は1つもない。
それにチェチェンにはカリブ海沿岸から産出される石油のパイプラインが通っていて、ロシアにとっては戦略的 に重要な場所だった。またロシアでもチェチェンでも「戦争を続けたい人たち」の思惑も絡んで、紛争が長期化しているのだ。
ロシアへ抵抗続けたチェチェン人に、巻き添え嫌うイングーシ人
チェチェン人はコーカサス系の言葉を話すスンニ派イスラム教徒で、西隣りのイングーシ人とは言語や宗教はほぼ同じなうえ、同じ民族だと も見 られて来た。彼ら13世紀にモンゴル人のキプチャク汗国、15世紀からはクリミア汗国の支配下にあった。19世紀初頭にロシア帝国が征服したが、チェ チェン人はその後も激しい抵抗を続けた。ソ連の下ではそれぞれロシアの自治州となり、1934年に合併してチェチェン・イングーシ自治州に、36年には自 治共和国に昇格した。
第二次世界大戦で独ソ戦が始まると、スターリンはロシアへの抵抗の歴史を持つチェチェン人がナチスドイツと結託することを恐れて、44 年にチェチェン人とイングーシ人を民族もろとも中央アジアのカザフスタンへ 強制移住させた。スターリン死後の57年に、チェチェン人とイングーシ人は名誉が回復されて帰郷を許されたが、移住させられた50万人のう ち、半数(一説には4分の3)が過酷な生活で命を落としたと言われている。
さて、ソ連末期になるとチェチェン人の間では再び独立を求める声が沸き起こった。1991年10月にソ連からの独立を問う住民投票が行 われて、ドゥダエフ将軍が大統領に就任し、11月にソ連からの独立を宣言した。しかしイングーシ人たちは独立するつもりはなく、住 民投票や大統領選をボイコットして、チェチェンからの分離独立を主張。ロシア軍が派遣され、チェチェンとイングーシは別々の共和国に分 けられた。
91年12月末にソ連が解体し、ロシアはロシア内の共和国や州などに連邦条約(共和国や自治州、、自治管区、州、辺区などの管轄・権限 を決める条約)を締結するよう求めたが、ロシアからの独立を主張しているチェチェンは調印を拒否した。そこでロシアは経済封鎖を実施。20万人いたロシア 人は逃げてしまい、チェチェンはたちまち困窮した。また大統領と議会が対立したり、軍の一部が反乱を起こすなど内部抗争も激しくなり、北側の平野部ではロ シアへの復帰を求める組織が作られるなど「南北対立」が顕在化したため、ドゥダエフ大統領らは南部の山岳地帯を拠点にして、イチェケリア・チェチェン共和国と改称した。イチェケリアとは「山岳」 という意味だ(※)。
※チェチェン人の社会では、もともと南の平野部と北の山岳部と で、伝統的に対立があったという。
94年2月にチェチェンがロシアと権限分割条約を結ぶとこを拒むと、12月にロシア軍が侵攻し、第一次チェチェン紛争が始まった。当時チェチェンはすでに自滅状態だっ たが、ロシアでも市場経済への移行の失敗で超インフレになり、エリツィン大統領は求心力を失い、議会では共産党が勢力を復活させていた。チェチェンへの侵 攻は96年の大統領選を控えたエリツィンが、「国難」によって権威を取り戻 す狙いもあったと言える。
平和条約を結んだマスハドフ
緒戦ではロシア軍が圧倒し、 首都グロズヌイ を占領したが、96年にドゥダエフ大統領が戦死すると、チェチェン側が攻勢をかけて首都を奪 還。8月にチェチェン独立は5年間凍結して再度検討するという合意がロシアと結ばれて、紛争はいったん終結。97年に3代目大統領に就任したマスハドフ はエリツィンとの間で平和条約を結んだ(※)。この間にチェチェン人10万人とロシア軍2万人が死亡し、20万人以上が難民になったと言われている。
※落選した2代目大統領のヤンダルビエフは カタールに亡命していたが、03年にロシアのスパイによって暗殺された。
戦争を続けたいから起きた(?)第二次紛争ではテロの嵐に
しかし、99年8月にバサエフが率いるチェチェン人ゲリラが東隣りのダゲスタン共和国に侵攻した。バサエフはダゲスタン人にロシアから の解放を呼び掛け、さらにチェチェンでの紛争を再燃させて、周辺の北カフカ ス地域全体をロシアから独立させることを目論んだが、ダゲスタン人はほとんど同調せずに失敗。モスクワなどでも爆弾テロが起きて約300人 が犠牲となり、10月からロシア軍は再びチェチェンへ侵攻、第二次チェチェ ン紛争になった。
ロシア軍は再び首都グロズヌイに爆撃を加えて占領し、さらにチェチェンの大半を制圧したが、チェチェン側はゲリラ戦を続けて抵抗。さらに02年のモスクワ 劇場占拠事件(死者130人)、04年にはモスクワ地下鉄爆破事件(死者240人)、ロシア旅客機同時墜落事件(死者90人)、北オセチア学校占拠事件 (死者386人)など、一般市民や子どもまで多数の犠牲を出すテロ事件を次々と起こしている(※)。
※チェチェン紛争では女性による自爆テロが多いのが特徴的 だが、夫をロシア軍に殺された女性たちによる、その名も「黒い未亡人」と いう組織があると言う。
チェチェン側には、アルカイダなどイスラム原理主義の過激派が支援し、アラ ブ人義勇兵も加わっている。バサエフのダゲスタン侵攻作戦にはオサマ・ビンラディンが資金援助し、成功した暁には、ビンラディンはアフガニ スタンやパキスタンから、米軍がやって来れないダゲスタンへ拠点を移すつもりだったという話もある。
独立強硬派のハザエフ
一方で、ソ連解体後に急速にのし上がった新 興財閥もチェチェン側に資金援助していたことが明るみになった。新聞社やテレビ局を次々と買収し「メディア王」 と言われたベレゾフスキーは、エリツィン政権を支える黒幕で、ロシア政府の安全保障会議でチェチェン問題を担当していたが、ダゲスタン侵攻直前にバサエフ へ100万ドルの資金提供をしたことを明らかにしている。エリツィンが引退する翌年の大統領選挙で、自分の息がかかった「強い大統領」を誕生させるため に、敢えて再び「国難」を起こす狙いがあったようだ。実際にベレ ゾフスキーが応援した強硬派のプーチンが大統領に就くが、プーチンは新興財閥の影響力排除に乗り出したため、ベレゾフスキーはイギリスへ亡命。さらにバサ エフを支援してプーチン政権を揺るがそうとしているのでは、と言われている。
東西冷戦が終わり国内各地の紛争も収束するなかで、ロシア軍にとってもチェチェン紛争は「軍の重要性」を示し、予算を確保できるアピール材料だ。劇場や学 校の占拠事件では、ロシア軍の強行突入が多くの人質の犠牲を招いたとも指摘されている。またチェチェンを占領したロシア軍がチェチェン人からさまざまな理 由をつけて金品を強奪している実態を、つぶさに現地取材し告発した女性ジャーナリストが06年に暗殺される事件も発生されている。
親ロシア派の大統領も暗殺、独立派は四分五裂・・・それでもテロは続く
親露派に転じたアマフド・カディロフ
首都グロズヌイを占領したロシア軍は、イス ラム聖職者のアマフド・カディロフを行政長官に任命した。カディロフは第一次紛争では独立派で、ロシア軍との戦 いをジハード(聖戦)だと呼びかけていたが、マスハドフ政権の下で強硬派のバサエフと対立。またイスラム原理主義をチェチェン人に押し付けるアラブ人義勇 兵たちにも嫌気がさして(※)、第二次紛争ではロシアと手を結んだ。
※チェチェン人などカフカスのイスラム 教徒は、もとからあった民間信仰も取り入れたスーフィズム(神秘主義)が主流で、原理主義の義勇兵たちからすれば異端に映った。またチェチェン女性に 「ベールで顔を覆え」と強要したりした。
03年3月にロシアは独立反対派のチェチェン共和国政府を樹立し て大統領選が行われたが、キリがない戦争に厭戦ムードが漂って来たチェチェン人に支持されて、カディロフが当選(独立派は選挙をボイコット)。カディロフ は恩赦を掲げて独立派に投降を呼びかけていたが、04年に暗殺されてしまい、07年に息子のラムザン・カディロフが大統領になっている。
一方、ゲリラ戦を続けていた独立派のチェチェン共和国政府では、プーチンとの話し合いでの紛争解決を呼び掛けていたマスハドフ大統領が05年にロシアの特 殊部隊に暗殺され、強硬派のバサエフもサイドゥラエフ4代目大統領とともに06年に戦死。5代目大統領に就いたウマノフは、07年に北カフカス全域を領土 だと主張するカスカス首長国の樹立を宣言して、その首長(エ ミール)に即位してしまった(※)。
※エミールとは、イスラム世界でもとも と総督や司令官のこと。転じて現在では王族など。
独立派でもウマノフに反発する勢力は引き続きチェチェン共和国を継続し て、穏健派でロンドン亡命中のアフメド・ザカエフが首相に就任したり、カスカス首長国でも10年8月には「ウマノフは退位して、後継者のバダロフ司令官が 首長に即位した」という発表があったかと思えば、ウマノフは「俺は退位して いない」と否定。組織はバラバラになりながらも、09年に列車爆破、10年にモスクワで地下鉄爆破、11年にはモスクワで空港爆破など、テ ロ活動は続いている。
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カフカス首長国のウマノフ首長(右)と、 後継首長を自称した(?)のハダロフ(中)、独立派の共和国を続けるザカエフ(右)
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独立反対派のチェチェン共和 国の旗(左)と、カフカス首長国の旗(右)
参考資料
徳永晴美 『ロシア・CIS南部の動乱』 (清水弘文堂 2003)
チェチェン総合情報 http://chechennews.org/index.htm
田中宇の国際ニュース解説 http://tanakanews.com/
wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/