
独立協議に呼ばれなかった独立ゲリラが、産油地帯で単独独立
カビンダ
首都:カビンダ 人口:8万1000人(1971年)

1984年以降の旗はこれ(三角形の向きが逆です)
1967年1月10日 ザイール(現:コンゴ民主共和国)内 にカビンダ亡命政府を樹立。
1975年8月1日 ポルトガルからカビンダ共和国が独立宣 言
1975年11月11日 アンゴラ人民共和国がポルトガルか ら独立。アンゴラ民主共和国がカビンダを占領
1976年1月 アンゴラ人民共和国軍がカビンダを占領カビンダの地図(1977年)
ア ンゴラの地図(1990年) コンゴ民主共和国が「ザイール」だった頃。その国境に接してアンゴラのザイール州 があります
アフリカ南西部のアンゴラには、北側にカビンダという飛び地がある。面積はアンゴラ全土 の5・8%、人口は42万1329人(2008年)で3・4%に過ぎないのに、アンゴラの経済を支える屋台骨だ。なにしろカビンダには豊富な石油が埋 蔵されていて、その石油生産はアンゴラのGDP(国内総生産)の52%、輸出の86%を占めるほど。
それならば、「自分たちの地域の富は、自分たちの地域のために使いたい」と独立を求めるのは当然で、カビンダではポルトガル植民地だっ た1960年から、半世紀以上にわたり一貫して独立運動が続いている。そしてアンゴラがポルトガルが撤退した1975年に、カビンダ共和国として独立を宣 言したこともあるのだ。
カビンダは植民地時代にはコンゴ州と呼ばれ、旧フランス領のコンゴ共和国と旧ベルギー領のコンゴ民主共和国(一時はザイールと改称して いた)に挟まれている。さらにその南側にあるアンゴラ本土はザイール州で、州都はンバンザ・コンゴ。コンゴが3つも4つもあってややこしいが、白人がやって来る前、一帯に はコンゴ族が住み、コンゴ王国が栄えていたからだ。
まだ自動車や飛行機がなかった時代、アフリカ内陸部に進出するための手段は、川を遡るしかなかった。そこで南西アフリカ随一の大河・コ ンゴ川の河口は、列強による激しい争奪戦の対象となった。大航海時代の15世紀からこの地に貿易拠点の砦を築き、1665年にコンゴ王国を滅ぼしたポルト ガルに加え、19世紀後半にはフランスとベルギーが進出し、さらに「ポルトガルのパトロン」を自称するイギリスも介入して、コンゴ川の河口一帯は細分化さ れてしまい、それが今日の国境線に至っている次第。
つまりカビンダ側に言わせれば、カビンダがポルトガルの植民地になった経緯は、フランスやベルギーとの勢力分割に基づいて、1885年 にカビンダの酋長と結んだ条約がもとになっていて、そもそもアンゴラ本土とは別。ポルトガルは当初ポルトガル領コンゴとして独自に統治していたが、1956年に「行政効 率化」と称してアンゴラ総督の下へ移したに過ぎない。1964年にアフリカ統一機構(OAU)が作成した「アフリカ諸国解放リスト」にも、カビンダはアン ゴラとは別の地域として掲載されているから、別々に独立すべきなのは「アフリカの常識」だ・・・ということ。
そして実際に、ポルトガルからの独立運動も、アンゴラ本 土とは別に始まった。1960年にルイス・ランコ・フランコがMLEC(カビンダ飛び地解放運動)を結成し、63年に他の2つの独立組織と 合同してFLEC(カビンダ飛び地解放戦線)を結成。67年にはコンゴ民主共和国に亡命政府を樹立して、アフリカ諸国の支援を集めようとした。
1974年に相次ぐ植民地での反乱鎮圧に辟易した軍部が、ポルトガル本国でクーデターを起こし(カーネーション革命)、ポルトガルが植 民地からの撤退を決めると、アンゴラでは75年1月に、それまで本土で独立闘争を続けていたMPLA(アンゴラ解放人民運動=ソ連・キューバが支援)と FNLA(アンゴラ国民解放戦線=米・南アが支援)、UNITA(アンゴラ全面独立民族同盟=仏・ザイールが支援)がポルトガル政府と協議し、75年11 月11日に独立することで合意した。
ルボタ首相
しかしFLECはこの協議に呼ばれず、8月 1日に単独でカビンダ共和国の独立を宣言して、ルイス・ラン コ・フランコが大統領に、フランシスコ・ザビエル・ルボタが首相に就任した。
アンゴラでは独立を前に、MPLAとFNLA、UNITAの勢力争いが熾烈となり、11月11日に首都ルアンダでMPLAが主導するア ンゴラ人民共和国が独立すると、劣勢のFNLAとUNITAは内陸のノア・リスボア(現:ウアンボ)で「アンゴラ民主共和国」としての独立を宣言し、全面 的な内戦となった。
カビンダはコンゴ族主体のFNLA(=アンゴラ民主共和国)に占領されたが、76年に入るとMPLA(=アンゴラ人民共和国)やキュー バ人義勇兵が進攻して制圧。FLECは再びザイールへ逃げ込んで亡命政府を作り、農村部でゲリラ戦を続けた。外国人労働者を襲撃する事件も繰り返し、カビ ンダの油田はキューバ兵が守る中で、アメリカの石油会社が採掘を続けたと 言われるほど(※)。
※カビンダの海底油田は1954年に発見され、アメリカの石油 資本が開発を進めた。
もっとも、もともと3つの組織が合同して発足したFLECは分派抗争が激しく、カビンダ共和国の独立当時からフランコ大統領派とルボタ 首相派、もう1人の実力者であるンジタ派に分裂していたが、亡命後はさらに新しい派閥がいくつも誕生して四分五裂の状態になった。さらに80年代に入るとUNITA や南アの援助を受けたり、カビンダ共産党委員会を名乗る派閥も現れた。
2002年にUNITAのサビンビ議長が戦死すると、UNITAはアンゴラ政府と休戦協定を結び、アンゴラ本土での内戦が終結した (※)。そしてアンゴラ政府軍がFLECの征伐に全力を挙げられるようになると、さっそく政府軍と停戦協定を結んでアンゴラ政府の要職に就く派閥も現れ た。
※FNLAは80年代にすでに衰退。
ルボタ首相は2006年に、フランコ大統領は07年に相次いで死去し、FLECによる紛争も沈静化すると思いきや、2010年にはカビ ンダで開催されたアフリカ・ネイションズカップに出場するため、サッカー場へ向かっていたトーゴ選手団のバスがゲリラに銃撃され、死傷者12人を出す事件 が発生。襲撃したFLECの派閥はパリに本部があり、フランスが支援しているとも言われ、カビンダの独立紛争は石油利権が絡んでまだまだ続きそうだ。
こち らも参照して下さいね。
参考資料
有水博『地域紛争解決のケース・スタディ”その2”』 (「文学・芸術・文化」第16巻第1・2合併号」 近畿大学文芸学部 2005)
REPUBLIC OF CABINDA http://www.cabinda.net/indice.html
Flags of the World http://flagspot.net/flags/ao%7Dflec.html
wikipedia http://en.wikipedia.org/wiki/Republic_of_Cabinda
●関連リンク
外務省−アンゴラ共和国
フィオティとアンゴラ カビンダの住民はアンゴラ本土の住民から差別されているとか(復元サイト)
アンゴラ内戦 アンゴラの内戦についてとってもわかりやすくまとめています
REPUBLIC OF CABINDA カビンダ独立派のサイト(英語)
L'appel de NZITA TIAGO Henriques, Président du FLEC, 大統領を名乗るンジタ氏のメッセージ動画
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