
独立した国の元首が、独立された国の大統領を兼任
パミール・バダクシャン自治国
首都:ホローグ 人口:20万7000(1998年)
1992年4月 独立を宣言
1993年 消滅
タジキスタンの地図 Gorno-Badakshanがパミール・バダク シャン
タジキスタンの民族分布図
1922年の世界地図 現在のタジキスタンのあたりは「ヒヴァ国」、パミー ル高原はロシア領になっています
パミール高原といえば、「世界の屋根」とも言われる標高3500〜4500メートルの秘境の地で、かつては中国とヨーロッ パを結ぶシルクロードのルートにあたる場所。19世紀後半からロシアが支配し、その後ソ連領になっていたが、ソ連が崩壊してタジキスタンが独立すると、タ ジキスタン東部のパミール高原はパミール・バダクシャン自治国として独立を宣言したことがあります。
西部に住むタジク人もパミール高原のパミール人もペルシャ語系の言葉を話すイスラム教徒だが、タジク人がスンニ派なのに対して、パミー ル人はシーア派だ。全体に山が多いとはいえ緑豊かな平野もあり都市が発展した西部に対して、パミール高原はほとんどが山で、タジク人とパミール人は生活様 式が異なる(※)。
※タジキスタンの公式統計では、「パミール人」という民族は存在せず、タジク人に 含まれ、パミール語もタジク語の方言とされている。また中国の新疆ウイグル自治区に住むタジク族はシーア派で、パミール人とほぼ同じ人たち。近代史でも、西部はウズベキスタンのブハラを中心としたブハラ汗国(またはボハラ汗国)の一 部で、19世紀後半にロシアの保護国になり、ロシア革命後の1924年まで存続していたが、パミール高原はアフガニスタン領が盲腸のように伸びるワ ハン回廊とともに18世紀から清朝に支配され、1891年にロシア軍に占領された後、ロシアによって直接統治されていた。1920年代までタジク 人とパミール人は異なった歴史を歩んでいたのだ(※)。※「かつて清朝が支配していた」ということで、台湾政府(中華民国)は現在でもパ ミール高原とワハン回廊の領有権を主張していて、台湾の全国地図では自国領土ということになっている。そういう経緯から、ソ連時代に両地域を合わせてタジク共和国が設置された際、パミール高原はゴルノ・バダク シャン自治州(山岳バダクシャン自治州)となって自治が認められたが、地理的に隔絶されたうえ、中ソ対立の最前線に位置したパミール高原は 開発政策から取り残され、経済的にソ連で最も貧しい地域の1つになっていた。ではパミール・バダクシャンの独立は、タジク人の支配に対するパミール人の民族独立運動かといえば、そういうわけではなく、タジキスタ ン国内の政争の一過程だった。タジク共和国ではスターリンの時代にロシア化が進められ、ソ連末期には人口の40%をロシア人やウズベク人が占めていた。こ のためソ連が崩壊し始めた1980年代後半からタジク民族主義が台頭して、89年にはタジク語を公用語とする言語法を制定。ウズベク(現ウズベキスタン) 領のブハラやサマルカンドをタジク領へ移すようにソ連政府に要求するなどした。
そして1991年にタジキスタンとして独立すると、政権を握り続ける旧共産党系の保守派に対して、民主派(民族派)やイスラム勢力が台 頭。8月にモスクワで起きた保守派のクーデター事件(※)をマフカモフ大統領が支持したことに対して、首都ドゥシャンベでは民主派やイスラム勢力による抗 議集会が盛んになり、混乱を恐れた政府は大統領選挙を実施。保守派のナビエフが当選したものの、民主派とイスラム勢力はゴルノ・バダクシャン出身のフドナ ザロフを統一候補に立て、「保守派打倒」を目標に両者の連携が深まった。
※クリミヤ半島で休暇中だったソ連のゴルバチョフ大統領を保守派が軟禁して辞任さ せようとしたが、ロシアのエリツィン大統領がモスクワ市民に抵抗を呼びかけ、鎮圧に向かった軍の兵士らも同調。クーデターは3日間で破綻し保守派の首謀者 らは逃亡。解放されたゴルバチョフはソ連共産党の解散を決め、年末にはソ連も解体した。大統領に就任したナビエフは野党の弾圧に乗り出し、首都では野党による抗議集会が続いたが、1992年になると野党は民兵を組織して武力闘争を開始。この 間、野党勢力の拠点となったゴルノ・バダクシャンでは自治州の最高会議議長(※)だったイスカンダロフが元首になって、パミール・バダクシャン自治国の独立を宣言した。※最高会議とはソ連式の最高権力機関のこと。ソ連の政治権力は、プロレタリアート の代表たる労農兵評議会(ソビエト)で、その国政レベルの最高ソビエトが別名・最高会議。イスカンドロフ
こうして保守派と野党との内戦はタジキスタン 全土に広がったが、パミール・バダクシャンが本気で独立を目指したのかといえばかなり怪しく、やがて政権内部 でもナビエフ大統領の指導力の欠如が批判されて失脚すると、9月にイスカンダロフはタジキスタンの大統領代行にも就任した(※)。独立したはずの国の元首が独立された国の大統領を兼ねてしまったのだ。イスカンダロフはロシアなど CIS諸国に多国籍軍の派兵を求め、内戦収拾を図ろうとしたが、今度は保守派の民兵が西部の各地を拠点に巻き返しを図り、イスラム勢力の台頭を懸念するロ シアやウズベキスタンの後押しでイスカンダロフは11月に失脚。保守派のラフモノフがタジキスタンの最高会議議長に就いた(94年から大統領)。
※イスカンダロフ自身はソ連時代からゴルノ・バダクシャン自治州の最高会議議長 で、野党ではなかったが、イスラム勢力に同情的だった。91年のタジキスタン大統領選挙の期間にも、大統領代行を務めたことがある。その後、ラフモノフは92年から93年にかけて野党、特にイスラム勢力の拠点になっていたゴルノ・バダクシャンで攻勢に出て、多数のパミール人が殺害され たと言われている。パミール・バダクシャン自治国も霧消してしまい、ゴルノ・バダクシャン自治州に戻った。イスラム勢力はアフガニスタンへ逃れて抵抗を続 けたが、97年に停戦が成立。タジキスタンの内戦は5万人の死者と120万人の難民を出して収拾した。現在ではゴルノ・バダクシャンの治安は改善されたものの、内戦でインフラなどはすっかり荒れ果ててしまい、多くの地雷が残っている。ア フガニスタンからキルギスタン、ロシアへの麻薬密輸の中継ルートにもなっているようだが、タジキスタン政府はゴルノ・バダクシャンの60%を国立公園に指 定して、将来的に観光地として整備するとともに、中国との間にハイウェイを建設中。パミール高原からは山脈で隔てられたドゥシャンベよりも、中国の新疆ウ イグル自治区の方が地理的に結びつきが深く、現代版「シルクロード」が完成すれば、中国と中央アジアとの交易拠点になりそうだ。
●関連リンク
パミールの旅 岩下明裕氏の現地報告
タジキスタン内戦:発生と激化の背景 中村友一氏の論文(PDFファイル)
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